中濱要太郎の墓碑
池田村、口里村は観音寺の檀家であるが、観音寺の境内には数基の墓があるのみである。
観音寺の住職と池田村の人は池田字出林、口里村は口里字御幸を墓所としている。
数少ない墓碑のうち中濱要太郎の墓碑がひときわ目につく。
中濱要太郎は、宮城の守護にあたり天皇の親兵である近衛兵で、日清戦争に従軍して戦死した。
尾上村最初の戦死者であった。
碑文は陸軍少将男爵・川村景明が書いている。
川村は後、陸軍大将を勤めた。
中濱要太郎にいては、それ以上の詳細は分からない。
ここから、全く私の想像を書いてみたい。
ある想像
中濱家は、江戸時代池田村の庄屋であった。中濱家にも山岡鉄舟の書があるという。これは何を物語るのだろう。
鉄舟の年譜を書いておきたい。
天保七年(1863) 江戸本所御蔵奉行小野朝衛門の四男として生まれる。
安政二年(1855) 千葉周作について剣を学び、山岡静山に槍述を学んだ。静山急死のあと、望まれて山岡家の養子となり静山の妹と結婚。
文久三年(1863) 浪士隊(新撰組の前身)の取締役となり、将軍家茂に頼まれ京都へ行く。
明治元年(1868) 鉄舟は慶喜(徳川15代将軍)の命を受け、静岡の駿府に行き、西郷隆盛と会見。徳川家の安泰を約束したと言われる。
勝海舟と西郷隆盛との無血開城の露払いをした。
このことが、鉄舟のハイライトであるが、広く紹介されることは少ない。
この経歴からも鉄舟は幕府側の人物である。
後に、鉄舟は明治政府の要人として活躍している。
鉄舟は時代の正確な情報を収集していたに違いない。それも、自らの足と目で確かめたようである。
播磨へも肢を運んだ。
播磨は、畿内と西国の接点で、確かな情報の集まる場所である。
そして、高砂港には多くの情報が集まった。
高砂港に近い、情報収集のためであろう、鉄舟は池田の中濱家にしばしば逗留したようである。
そのお礼か、木賃代わりか鉄舟は、中濱家に書を残したと想像される。
中濱家は、池田観音寺の有力な檀家である。訪れた鉄舟に寺は書を求めたのだろうか・・・
鉄舟は、明治天皇の教育係を勤めた。
鉄舟は、明治二十一年に胃癌でなくなった。五十三歳であった。
中濱要太郎が亡くなるのは、明治二十七年であるが、中濱家は鉄舟につながる縁故があったのではないだろうか。
中濱要太郎が、近衛兵に選ばれたのもその延長のように思える。
*上記の想像は、山岡鉄舟の研究に基づいたものではない。単なる、想像である。さらに調べてみたい。