ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

白旗観音寺探訪(6):中濱要太郎の墓碑

2009-11-01 21:12:38 |  ・加古川市尾上町

 中濱要太郎の墓碑

005  池田村、口里村は観音寺の檀家であるが、観音寺の境内には数基の墓があるのみである。

観音寺の住職と池田村の人は池田字出林、口里村は口里字御幸を墓所としている。

数少ない墓碑のうち中濱要太郎の墓碑がひときわ目につく。

中濱要太郎は、宮城の守護にあたり天皇の親兵である近衛兵で、日清戦争に従軍して戦死した。

尾上村最初の戦死者であった。

碑文は陸軍少将男爵・川村景明が書いている。

川村は後、陸軍大将を勤めた。

 中濱要太郎にいては、それ以上の詳細は分からない。

 ここから、全く私の想像を書いてみたい。

   

  ある想像

中濱家は、江戸時代池田村の庄屋であった。中濱家にも山岡鉄舟の書があるという。これは何を物語るのだろう。

 鉄舟の年譜を書いておきたい。

天保七年(1863) 江戸本所御蔵奉行小野朝衛門の四男として生まれる。

安政二年(1855) 千葉周作について剣を学び、山岡静山に槍述を学んだ。静山急死のあと、望まれて山岡家の養子となり静山の妹と結婚。

文久三年(1863) 浪士隊(新撰組の前身)の取締役となり、将軍家茂に頼まれ京都へ行く。

明治元年(1868) 鉄舟は慶喜(徳川15代将軍)の命を受け、静岡の駿府に行き、西郷隆盛と会見。徳川家の安泰を約束したと言われる。

勝海舟と西郷隆盛との無血開城の露払いをした。

このことが、鉄舟のハイライトであるが、広く紹介されることは少ない。

この経歴からも鉄舟は幕府側の人物である。

後に、鉄舟は明治政府の要人として活躍している。

鉄舟は時代の正確な情報を収集していたに違いない。それも、自らの足と目で確かめたようである。

播磨へも肢を運んだ。

播磨は、畿内と西国の接点で、確かな情報の集まる場所である。

そして、高砂港には多くの情報が集まった。

高砂港に近い、情報収集のためであろう、鉄舟は池田の中濱家にしばしば逗留したようである。

そのお礼か、木賃代わりか鉄舟は、中濱家に書を残したと想像される。

中濱家は、池田観音寺の有力な檀家である。訪れた鉄舟に寺は書を求めたのだろうか・・・

鉄舟は、明治天皇の教育係を勤めた。

鉄舟は、明治二十一年に胃癌でなくなった。五十三歳であった。

中濱要太郎が亡くなるのは、明治二十七年であるが、中濱家は鉄舟につながる縁故があったのではないだろうか。

中濱要太郎が、近衛兵に選ばれたのもその延長のように思える。

*上記の想像は、山岡鉄舟の研究に基づいたものではない。単なる、想像である。さらに調べてみたい。

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白旗観音寺探訪(5):観音寺の石幢

2009-10-30 09:35:20 |  ・加古川市尾上町

石幢(せきとう)

004 仏様で、もっとも親しみを感じるのは地蔵菩薩ではないだろうか。この仏は、大地の恵を表している。

 世の中が乱れはじめた末法(まっぽう)の時代に入ったとされた平安時代の末頃から広く庶民の間に広がった。

 また、墓地で六体の地蔵をよく見かける。六地蔵である。

 仏教では、人間は死後「生前のおこない」により、六つの世界に生まれかわるとされている。

 その六つの世界とは、地獄・餓鬼(がき)・畜生・修羅(しゅら)・人間・天上であるという。

 そして死後、「地蔵菩薩がそれぞれの世界に現れ、悔い改めた人には救いの手を差し伸べてくださる」というのである。

 この六地蔵の考えは、鎌倉時代から広がった。六地蔵は、普通六体の石仏の姿で墓地にある。

 写真のように六角形の石柱の、それぞれの面に刻まれた六地蔵が、池田の観音寺の境内にある。六地蔵が彫られた六角の石柱は、石幢(せきとう)と呼ばれ、珍しいものである。

 今福、泉福寺の墓地にもある。

 観音寺の石幢は、花崗岩製で製作年を示す銘文はないが、室町時代の初期のものといわれている。今福の泉福寺の石幢は江戸時代初期のものである。

    写真は、池田(加古川市尾上町池田)観音寺の境内にある石幢。

この記事は再録です。

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白旗観音寺探訪(4):絵馬と魚藍観音

2009-10-29 20:41:44 |  ・加古川市尾上町

   絵 馬

018_2 「幾千代かけて植えにし池田山たもとにかかる笹の露」のご詠歌でも知られている白旗観音寺には多くの信者が絶えない。

姫路、岡山、小豆島等の船乗りの信者が特に多い。

山門を抜けると観音堂に向かって左側に、絵馬(写真)を奉納した建物がある。

寺院に絵馬はめずらしい。

海につながる絵馬が多数奉納されている。

  魚藍観音

045 山門をくぐるとすぐ左に、新しい観音様であるが魚藍観音がある。

S家が祖先の供養のために奉納したとある。

それにしても、あまり聞きなれない観音様である。

HPに、魚藍観音の説明があったので掲載しておきたい。

・・・・

我々は、日々の食膳に魚介類をいただいています。

間接的に我々は殺生をしていることになります。

昔から魚は食われて成仏すると申しますが、これは人間が勝手につけた理屈です。

そこで魚介類の霊を慰めるため、また、供養のためにの観音様が魚藍観音です。

魚藍(ぎょらん)とは、魚を入れるかご(びく)のことです。

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白旗観音寺探訪(3):山岡鉄舟と山号(生竹山)の書

2009-10-28 22:02:21 |  ・加古川市尾上町

山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)

白旗観音寺と一見関係がないような話からはじめる。

『日本大百科全書(小学館)』から、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)の紹介をしたい。

鉄舟は幕末・明治前期の剣客、政治家それに書道家である。

天保7年(1836)、旗本小野朝右衛門の長男としてうまれ、安政2年(1855)槍の師である山岡家を継いだ。

また、千葉周作に剣を学び自らも門弟を教えた。

文久2年(18683月、戊辰戦争の際、勝海舟の使者として駿府に行き、西郷隆盛と会見して、江戸開城について勝・西郷会談の道を開いている。

明治5年(1872)、明治天皇の侍従に就任した。

明治21年(1888)7月21日没。53才の若さであった。

   山岡鉄舟の書の額

012 観音寺の山門に生竹山(しょうちくさん)の書(写真)が掛けられている。

この山号の書は、山岡鉄舟の筆による。

木戸正氏は、『ふるさとの文化遺産(第3巻)』に「・・・“剣禅一如”の哲人といわれ、当代随一の剣聖たる山岡鉄舟が観音寺の山号を書かれた謂れは禅を通じてか・・・」とだけ書かれている。

観音寺と鉄舟の関係は、はっきりしない。

このシリーズ(白旗観音寺探訪)で、改めて考えてみたい。

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白旗観音寺探訪(2):播磨西国二十八番・郡西国一番札所

2009-10-28 11:09:59 |  ・加古川市尾上町

西国三十三観音めぐりは、平安時代中期ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねるようになりました。

人々は病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えると、お礼のために、また亡き人の供養のために、罪を犯した者は滅罪のために、さらには自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音めぐりにでかけました。

第一番の札所、那智山西岸渡寺(和歌山県)から最後の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの旅は、現在と違い苦行そのものでした。

江戸時代になり治安も確立し、交通機関も整備され、三十三か所めぐりも比較的やりやすくなり、かつての苦行巡礼は、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになりました。

 播磨西国二十八番札所・生竹山観音寺

040 しかし、誰でも気軽に巡礼の旅に出ることはできません。

生活の苦しい庶民にとっては、現在の外国旅行よりもずっと縁の遠いものでした。

そこで考えられたのが播磨の国の中に、三十三か寺を定めて、それらの寺を巡礼すれば「西国三十三所めぐり」と同じ功徳があるとする「播磨西国三十三所めぐり」です。

このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めの頃です。

播磨西国にとして、近辺では次の寺々が選ばれています。

<msnctyst w:st="on" address="稲美町野寺" addresslist="28:稲美町野寺;"></msnctyst>

 稲美町野寺高薗寺(二十四番)、二見町東二見観音寺(二十七番)、平岡町新在家横蔵寺(二十九番)そして尾上町池田観音寺(二十八番)、番外として神野町神野常光寺です。

 郡西国一番札所

さらに、巡礼しやすいものとして、加古郡内に三十三か寺の巡礼のための寺が決められました。

これが「郡西国三十三札所(郡西国とも言う)」です。

郡西国の一番札所は、池田の観音寺です。

    写真は、白旗観音寺の三十三体の観音像。

観音堂の本尊は聖観音(秘仏)で、写真の観音像は観音堂の内陣の向かって左に祀られています。 

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白旗観音寺探訪(1):白旗観音寺の伝承

2009-10-27 10:05:18 |  ・加古川市尾上町

白旗観音寺の伝承

002  池田(尾上町)の白旗観音寺(生竹山観音寺)に伝わる伝説である。 

  ・・・むかし、阿蘇の宮の神主、友成が京へのぼっていた。

 途中、池田の浜に船を止めて、尾上の鐘・尾上の松などを見学し終え、船に乗り再び京へ出発しようとした時のことであった。

 友成が港につきたてた竹が、みるみる間に根を張り、抜けなくなった。しかたなく、そこで一泊した。

 その夜のことである。夢に友成の持仏の観音様が現れ「このあたりの浜は波風が荒く、往来の船は難渋している。私は、ここに鎮座して諸人の願いを叶えん・・」と告げた。

 友成は、地元の信心深い藤内に観音様をたくし京へたった。船は飛ぶように進んだ。藤内は、ここに堂を建て、観音様をおまつりした。以後、この地の浜は穏やかになった。

 またある時、藤内の夢に観音様があらわれ、「白き布を与える。これを船印にせよ・・」と告げた。

 船にこの白い布をつけたところ、船は荒海といえど遭難することはなく、近在の信仰を集めた。そのため池田の観音様は、白旗観音(しらはたかんのん)と呼ばれるようになった。

 生竹山観音寺(しょうちくさん・かんのんじ)は元、イケタケサン観音寺と呼ばれ、池田は、このイケタケが訛ったものという。

  *写真は、池田(加古川市尾上町池田)の白旗観音寺(生竹山観音寺)

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尾上町今福探訪(39):永田耕衣(4)・耕衣の書

2009-10-26 12:58:26 |  ・加古川市尾上町

  耕衣の書

耕衣の「書」について若干紹介しておきます。

耕衣は自らの「書」について、次のように語っています。

・・・・「書は人である」にすぎない。「人は書である」にすぎない。

己の「拙さ」を剥ぎ出しに、自分の字を書けばよいというのが、私の強い思いであった。

ただ書は人である限り、面白い書を出来するには、まず己の「人間」が十方無礙に面白く、成長不断である必要がある・・・「田荷軒書談」(1971)より

  アカンベをしている書

73b62e39 耕衣は多くの書を残した。

昭和44年には、東京三越本店美術サロンで「書と絵による永田耕衣展」が開かれたが、その折、棟方志巧は祝辞をよせている。

ヨロコンダリ、ワラッタリ。

ベソヲカイタリ。

アカンベヲ、シタリ。

ナキヤマナイヨウ、ダッタリ。

ダダヲコネタリ。

終には、スヤスヤねむって仕舞って、ひとり笑いしている様な書を生むのを得意としているこの人の書は、滅多に無いようだ。

羨ましい。

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尾上町今福探訪(38):永田耕衣(3)・あるがままの人生

2009-10-25 21:59:44 |  ・加古川市尾上町

    あるがままの人生

F4abe76f 人生を精一杯生きていた耕衣に突然の事件がおそった。

95才の1月17日のことです。阪神・淡路大震災が耕衣を直撃しました。

その瞬間、耕衣は2階のトイレに入っていました。

家ごと揺さぶられて立っていられなかった。

やがて、家はつぶされ閉じこまれてしまった。

助けを求めた声も、95才の体力のせいか叫び声にはならなかった。

こんな時の耕衣の態度もおもしろい。

後のインタビューで次のように答えています。

いかにも耕衣らしい。

「・・・銅製の器を手元に見つけ、それで洗面台をカランカランと打ち鳴らしたんです。

「ここだ!ここだ!」とね。

・・・

怖いと言うよりも僕流にいえば「悲傷(ひしょう)」ですね。

悲惨だけれども、変な快感があった。

だから、南無妙法蓮華経の念仏に合わせながら、カランカランと叩いたんだね。

自分が大変だというより、人ごみみたいな気分だったな・・・・喜劇やね。そんな感じ・・・」

耕衣らしい句を詠んでおきたい。

   踏み切りの スベリヒユまで 歩かれへん

平成6年、左大腿骨を骨折しています。

手術を受けました。この時「大腿骨まる折れの秋深きかな」です。

手術後、体力の衰えか、散歩の足は伸びませんでした。

こんな状況での句が「踏み切りの スベリヒユまで 歩かれへん」です。

どこまでも、あるがままの人生を楽しもうとする耕衣の姿が、そこにありました。

    耕衣逝く

平成8年8月25日、まさに耕衣は、大往生をとげました。

城山三郎氏は『部長の大晩年』で「・・・耕衣は清潔な枯れ草のように97才の6ヶ月にわたる生涯を終えた」と書いています。

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尾上町今福探訪(37):永田耕衣(2)・棟方志功との出会い

2009-10-25 10:45:07 |  ・加古川市尾上町

耕衣は、38年間勤めた三菱製紙高砂工場を満55才で定年を迎えました。

退職後は在職中の趣味であった俳句の世界に没入します。

在職中のことについて、一つだけ『部長の大晩年』(朝日新聞社)から引用しておきます。

棟方志功との出会い

Ee6266d9 「・・・耕衣が棟方志功を知ったのはまだ37才、平社員のころであった。

志功は耕衣より3才年少だが、既にその当時でも国画会の名物会員であり、その「大和し美わし(うるわし)」により、柳宗悦(やなぎむねよし)等に認められ・・・さらに倉敷紡績社長で大原美術館の創設者である大原孫三郎に招かれて、大原邸の襖絵などを描きに時々倉敷へ出かけていた。

そして、時には加古川駅で下車した。

柳らと一緒に、あるいは単身で、高砂工楽長三郎邸に立ち寄るためである。

・・・(工楽)長三郎は、芸術や文化への感心が強く、若手の技術家や学者を招いて、土地の同期の人々と共に話を聞く集を持つようになった。

会の名は「白泥会」。

・・・耕衣は、この会に参加するというより、会を作った発起人の一人であった。

耕衣は、この白泥会に志巧の話を聞くだけでなく、会がない日でも志巧が工樂邸に泊まる時には、欠かさず訪ねて話しこんでいる。

また、別のところで、耕衣は志巧について「・・・(あう度に)意気投合した芸術談義が常に交はされたが、驚くべきことに、棟方志巧は会うたびに、その芸術論のテーマが進展していた。・・・

私には、この人あるによって生きがいを痛感する習性さえできあがってしまった。

この人に会う毎に、私の芸術心はデモニッシュに燃え上がった。

生の歓喜を全身的に恣(ほしい)ままにした・・・」

*写真:棟方志功(右)と耕衣(左)、工樂邸にて昭和28年6月29日撮影

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尾上町今福探訪(36):永田耕衣(1)・夢のような世界、今福

2009-10-24 17:06:36 |  ・加古川市尾上町

日本人の平均寿命は男:79.00才、女85.81才(平成18年)とある。

高齢者問題は、いよいよ緊急な課題になっています。

特に、老後の人生をいかに有意義に生きるかと言う問題はとりわけ重要な視点になった。

    

耕衣のみた今福村の風景

8bba5b60 ここに、見事に人生を終えた俳人がおられる。

その人は永田耕衣(ながたこうい)氏で、彼は、明治33221日、今福で誕生した。

もちろん、耕衣は俳句の世界で、すばらしい業績を残されているが、彼の生き方はユニークで、現代の高齢者社会において、「老後をいかに生きるべきか」という問題提起をしているようです。

耕衣氏の業績と、生き方に感銘した城山三郎氏は小説『部長の大晩年』(朝日新聞社)で耕衣氏を紹介されている。

内容は、小説をお読みください。

城山氏は、おそらく小説を書くにあたり今福を取材されたのでしょう。

耕衣の小学生の頃(明治時代の終わり頃)の今福(村)を次のように描いている。

「・・・(今福は)加古川の豊かな水を引き込んだ水路には、鮒、泥鰌(どじょう)、鯰(なまず)などが多く、林蔵(父)が鯰を好むので耕衣は特に鯰を狙った。

岸辺の水草や藻をつついて追いかけたのを、タモですくったり、小さな蛙を縛りつけて針でつりあげたり。

・・・

初夏には蛍が特に多いところで、無数の蛍が群れて、いくつもの光の玉、光の雲のようになり、輪を描きながら、夜空を低く舞う。・・・・」

明治の終わりのころの今福を「蛍の里」として描いておられる。

このか所は、『尾上町今福探訪①』で引用したが、再度掲載させていただきました。

D3f6386e また、自身は子供のころの今福の風景を『火の記憶』で、次のようにも語っている。

これは耕衣、81才の文章です。

「・・・私の生家は、印南の只中に存在する50戸ばかりの寒村の、はしっぽにあった。

門先からは、いつも鶴林寺の森と塔が眺められた。

二千メートルも南へ行けば瀬戸内海の浜辺に出られるのだが、少年時代もその海に親しむこともなかった。

山は遠くただダダっ広い田圃と畦道が遊び場であった。

わずかに荷車の通ることのできる程度の農道が幹線道路で、その他は各農家の所有の田を、お互いに区切りあった畦ばかり。

そのアゼに、春はレンゲやタンポポが無数に咲いた。

ことに田植前までの田圃は、たいていレンゲを茂らせていた。

まったくの「春の野」といえる豪華な夢の世界であった。

村童たちも夢のように、村を離れて、ソコら中を自由に駆け巡った。

そうした「野遊び」に「孤独感」はなかった。

両親をも忘却しきって、さながら舞い遊んだ。

遊び暮らした。

一切の「世苦」等は身に覚えぬ別天地であった。

*写真上:永田耕衣、写真下:耕衣の生家(尾上町今福)

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尾上町今福探訪(35):今福村の旧道

2009-10-23 20:47:50 |  ・加古川市尾上町

明治26年測量の地図(大日本帝国測量部)に、今福を見ましょう。

明治26年の道は、おそらく江戸時代と同じではなかったかと想像されます。

ひょっとすると、それよりずっと遠く古代まで遡れるのでないかとさえ想像します。

ここ数年、町の風景は大きく変わりました。

それも、他の時代と比べることのできない大きな変わりようです。

   長田へ・南備後への道

D42ddee5 話がちょっと横道にそれてしまいました。話を地図にもどしましょう。

明治26年当時のメイン道路、つまり今福の生活道路を太く塗りつぶしてみました。

現在と大きく異なっていることに気づかれたと思います。

今福の東から、昭和住宅にぬける道は重要な生活道路でしたが、現在ではよほど気をつけなければ分からない「忘れ去られた道」になっています。

以前に、この原稿を『歴史探訪・今福』に書いたのは199010月ですが、その時は「でも、埋もれながらもかつての名残をとどめています」書きました。

この間19年に、この道はかつて、長田と今福を結んだメイン道路だったことが分からなくなっています。

また、南備後へぬける道も裏道になっています。

江戸時代以前の今福の人々は、この道を通り長田へ・そして南備後へと出かけました。

多くのドラマがあったはずです。

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尾上町今福探訪(34):今福に電灯がついた

2009-10-22 21:32:22 |  ・加古川市尾上町

  電灯がついた(大正96月)

Dfebf08a 今福に電灯がついたのは大正9年(1920)の6月の頃です。

Kさんは、次の思い出と一緒に電灯のことを覚えておられました。

「・・・あれは、うちの息子の誕生の年でした。

子どもは、大正9年4月に生まれましたが、この時は、まだ電灯はついていませんでした。

その年の田植えも終わった頃、今福に電灯がつきました・・・」

どの家の電灯も、当時のことで、そう早く工事が進みません。

ですから村全体が一斉についたわけではなく、ついている家、まだの家があり、一日ごとに数が増えていったそうです。

Sさんは「うちは今日ついたよ・・・あんたとこはまだ?・・・」と電灯がついた日、村中を走りまわったそうです。

大正9年には、既に野口村では電灯がついており、今福は少し遅れました。

でも、それまでのランプによる生活に代わり、家の中も、気持も一度に明るくなりました。

記録によると野口町では、一灯に月の料金は1円50銭でした。

野口村に電灯がついたのは、大正6年12月で、料金はこの時のものです。

今福の場合、少し時期が後になるので、野口村の場合よりも少し料金が高かったかもしれませんが、それに近い料金であったと思われます。

それにしても、電灯がついたことは当時の大ニュースでした。 

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尾上町今福探訪(33):今福に山があった

2009-10-22 09:19:12 |  ・加古川市尾上町

 今福に山があった

E6e0b889  ずいぶん時がたちました。

今福の菅野愛治さん(故人)と久保田フクさん(故人)に昔の今福の風景を話してもらったことがありました。

その中から明治・大正時代の今福を少し再現してみましょう。

昔から、今福は起伏の少ない平らな土地ばかりと想像しがちですが、今福にも山がありました。

ここに明治26年測量の地図があります。

それには、現在の公会堂より北西に、一かたまりの集落があります。

時代は少し下りますが、昭和15年の今福の氏子は45戸であったことから想像して、当時もそのくらいの民家があったと思われます。

そして、今福の集落の北の隅(「SKS」の少し東よりの明姫幹線になっているあたり)に神社の記号があります。

どんな神社であったのか思い出してもらいました。

どうやら神社ではなさそうです。

そこには「お薬師さん」のお堂が確かにあったことを思い出してくださいました。

そして、その薬師堂の裏手には二階建てほどもある山があり、よく登って遊んだそうです。

この山も大正5年頃まではあったことは確かめることはできましたが、その後、まもなく削り取られたそうです。

薬師堂は南向きであったと言います。

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尾上町今福探訪(32):今福村の地租

2009-10-21 09:01:36 |  ・加古川市尾上町

 現在(2009年)加古川の中学生がつかっている歴史教科書(大阪書籍)には、地租改正について、次のように説明しています。

Fbed3c5   

  地租改正

・・・(明治新政府は)収入を安定させ、財政の基礎を固めることは、緊急の課題でした。

そこで政府は、まず国民の土地を所有する権利をみとめて、田畑の売買を自由にしました。

次いで、1873(明治6)年から、全国の土地の面積やよしやすを調べ、土地の値段である地価を定めました。

・・・

地価の3%にあたる額を地租として、貨幣で納めさせることにしました。

・・・これを地租改正といいます。

この結果、政府の収入は安定し、財政の基礎が固められました。

しかし、地租の総額は、江戸時代の年貢の総量と同様になるように計画されており、全体として農民の負担は軽くなりませんでした。

以上が教科書からの引用です。

地租は、江戸時代より、むしろ重くなり各地で「地租改正」反対に対する激しい運動が起こりました。

これにおされた政府は1877(明治10)年、地租を地価の2.5%に切り下げました。

   

  今福村の地租

今福村の土地は476反2歩で地価になおすと45104円8銭8厘、地租では1127円60銭7厘です。

この他に無税地、2反7畝29歩が認められていました。

(史料:明治14年1月調べ)

今福村           戸数  65戸

              人口 288人

一 田 40町2反3畝29歩   

        地価 42454円48銭4厘

        地租  1061円36銭3厘

一 畑 2町8畝5歩  

        地価  1921円22銭2厘

        地租    25円53銭1厘

一宅地 2町2反7畝28歩

        地価  1628円38銭2厘

        地租    40円71銭8厘

 合計 反別 47町6反2歩

        地価 45104円 8銭8厘

        地租  1127円60銭7厘

  外に無税地反別2反7畝29歩

この記録は、『播磨地種便覧』(明治15年12月発行)からの数字です。

明治14年1月の今福村の戸数は65戸、人口280人です。

当時の風景が想像できそうです。

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尾上町今福探訪(31):陶成小学校

2009-10-20 14:50:56 |  ・加古川市尾上町

 陶成小学校

Ea577aa0 時代は、江戸時代から明治へとバトンタッチされました。

世界に目を開いた日本は、その遅れを取りもどすために、まず教育に力を注ぎました。

そして、明治5年(1872)8月「・・・・一般の人民は、必ず不学の戸なく、家に不学の人がいないようにする・・・」という大目標をかかげて教育の普及につとめました。

これが「学制」です。

この学制が実施された3年後の明治8年には、全国に24,225の小学校がつくられました。

しかし、実質就学率は3割程度であったといわれています。

  尾上地区に3小学校設立

3c431f6d    陶成小学校(今福村 泉福寺)

   綿里小学校(池田村 観音寺)

   成器小学校(養田村 法音寺)

これらの3小学校は、いずれもお寺を利用しています。

まさに、「明治版・寺子屋」です。

新政府は、火の車でした。施設その建設費は国や県から支給されません。苦肉の策として寺が利用されました。

それに、小学校といえども現在と異なり授業料50銭が必要でした。

ですから、苦しい生活の中で学校制度反対運動も各地で起きています。

今福の陶成小学校の通学範囲は、備後村・安田村そして今福村でした。

なお、尾上小学校の『創立百周年記念誌』に三木たかさんの卒業証書が掲載されています。

その卒業証書は飾磨県となっています。少し説明しておきます。

廃藩置県で加古郡は姫路県(明治4年7月)として出発しましたが姫路藩は最後まで新政府に反対した藩で、姫路県の名称は嫌われ、すぐに飾磨県(明治4年11)と県名を変更しました。

なお、飾磨県は明治98月に今の兵庫県と統合されました。

この明治9年、尾上地区の3小学校は合併して現在の場所に尾上小学校が設立されました。

*写真の寺は、建てかえ前の今福・泉福寺

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