蛸草新村の史料(古文書等)はどこに?
蛸草新村は元禄10年(1697)、中村大庄屋・小山五郎右衛門、上西条(現:加古川市八幡町)の大庄屋・沼田与次太夫の両人よるもので、村名は、はじめはその面積から「六十丁」と呼ばれました。
以上の蛸草新村の歴史は、いろいろなところで紹介されています。
シリーズ「蛸草を歩く」では、何とかなるだろうと書き始めた蛸草の歴史ですが、史料がなく村の創設から一挙に明治の地租改正・疏水づくりに話題が飛んでしまいました。
元禄10年に蛸草新村ができてから幕末までの歴史がすっぽり抜けています。
でも、手がかりが、ないわけではありません。
『稲美町史』(p995)には、次のようにかいています。
・・・『宝暦十四年(1764)明細帳』によると、家数107軒、人数610人、田方6町5反一畝五歩、畑方42町3畝21歩とあり、この頃には48町余の耕地を作り上げている。
しかし、一軒当たり耕地面積は4反5畝に過ぎず零細百姓が多かった・・・」
『稲美町史』によれば、確かに蛸草(新村)には宝暦十四年の明細帳等の史料が有りました。
「ありました」と書いたのは、現在、蛸草新村明細帳等の古文書のありかを探していますが、わかりません。
その手掛かりがありません。
どなたかご存知の方は一報ください。
稲美町探訪は,しばらくGWとします
『稲美町探訪』をしばらくお休みとします。『稲美町探訪』も少し遅いゴールデンウィークをとります。
5月末から再開させます。その間に、蛸草関係の史料をあさってみます。