ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(503):蛸草を歩く(44)・史料はどこに?

2011-05-19 22:34:54 |  ・稲美町加古

  蛸草新村の史料(古文書等)はどこに?

8741f1e6蛸草新村は元禄10年(1697)、中村大庄屋・小山五郎右衛門、上西条(現:加古川市八幡町)の大庄屋・沼田与次太夫の両人よるもので、村名は、はじめはその面積から「六十丁」と呼ばれました。

以上の蛸草新村の歴史は、いろいろなところで紹介されています。

シリーズ「蛸草を歩く」では、何とかなるだろうと書き始めた蛸草の歴史ですが、史料がなく村の創設から一挙に明治の地租改正・疏水づくりに話題が飛んでしまいました。

元禄10年に蛸草新村ができてから幕末までの歴史がすっぽり抜けています。

 でも、手がかりが、ないわけではありません。

『稲美町史』(p995)には、次のようにかいています。

・・・『宝暦十四年(1764)明細帳』によると、家数107軒、人数610人、田方65反一畝五歩、畑方42321歩とあり、この頃には48町余の耕地を作り上げている。

しかし、一軒当たり耕地面積は4反5畝に過ぎず零細百姓が多かった・・・」

『稲美町史』によれば、確かに蛸草(新村)には宝暦十四年の明細帳等の史料が有りました。

「ありました」と書いたのは、現在、蛸草新村明細帳等の古文書のありかを探していますが、わかりません。

その手掛かりがありません。

どなたかご存知の方は一報ください。

   稲美町探訪は,しばらくGWとします

『稲美町探訪』をしばらくお休みとします。『稲美町探訪』も少し遅いゴールデンウィークをとります。

5月末から再開させます。その間に、蛸草関係の史料をあさってみます。

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稲美町探訪(502):コーヒーブレイク・いま練部屋分水所がおもしろい

2011-05-19 13:49:26 |  ・稲美町加古

 

 いま「練部屋分水所」を見学ください

A72af62f練部屋(ねりべや)分水所は淡河川と山田川から導かれた水が下流の6つの地域(加古・天満・蛸草・森安・手中・印南)に分けられる施設として明治24年(1891)につくられました。

しかし、長年の傷みのために、現在の分水所は昭和34(1959)に新しく造られたものです。

分水所の構造は挿絵のように上流からの水を下部にもぐらせて、流れと水位を安定させて分水所の中央から吹き上げ、各所に水を分けるよう造られています。

きのう(518日・水)分水所に出かけました。

よく見学に行くところですが、この時期に行くのは初めてでした。

028 今、上流から勢いよく分水所に流れこみ、中央部から水が噴き出しています。

他の季節に見学に行くと「コンクリートの近代の歴史遺跡」のようですが、この時期は違います。バリバリの現役で、とにかく迫力があります。

ぜひお出かけください。

そして、先人の思いを想像してください。

なお、前号で紹介した岩本須三郎等の頌徳碑が改修記念碑と共に設立されていますのでご覧ください。

なお、危険ですので柵には、くれぐれも入らないように・・・

*挿絵・文章とも『水をもとめて』(兵庫県東播磨県民局)参照

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稲美町探訪(501):蛸草を歩く(43)・岩本須三郎⑥

2011-05-18 22:40:28 |  ・稲美町加古

021淡河川疏水は、明治211月に起工されました。

それに先立つ10年間は、疏水の準備と地租滞納対策に費やされた苦難の年月でした。

疏水の全線は、明治27年6月に完成しました。

そして、淡河川疎水により母里地区の農業は劇的に変身を遂げました。

その後、疏水は老朽化が目立つようになり、昭和24年改修の着工、そして昭和36年完成と12年にわたる大改修工事が行われました。

その工事の完成を祝って、分水場の空き地に記念碑と頒徳碑(写真)が建てられました。

頒徳碑には、次のように刻まれています。(読みやすい文章に変えています)

   嗚呼、偉なる哉

「この地は高く乾燥にして、水利に乏しく、田穀がよくなかったのです。

憐れにも、人々はいつも疲れ、離村する者が続出する状態でした。

ここにおいて、明治中期、魚住完治、魚住逸治、岩本須三郎氏等先覚者の辛苦と為政者の協力により、淡河川と山田川の主な疏水は、実に三十キロ㍍に及び、こんこんとして尽きない水利で、農業の基礎ができ、どの家も豊かになり、生活が安定するようになりました。

嗚呼、偉なる哉

我等子孫に至るまで深く先人のおかげ肝にめいじて、ここにその功徳をほめたたえます」

    岩本須三郎の顕彰碑がない

この碑には、魚住完治・魚住逸治と共に岩本須三郎の功績が刻まれています。

在職中、須三郎は、村人から感謝されることが少なく、嘲笑罵倒の中にあったことも少なくありませんでした。

疏水完成のために、重税の上に疎水費が農民を苦しめたことも事実でした。

民衆の中には「水が来たら村中逆立ちして歩き回ってやる」とか「首をやるわい」と毒づいたものもあったようです。

しかし、須三郎は、疏水以外に村民の救済はないとの信念と使命感で疎水完成を目指しました。

魚住逸次氏が、県立神戸病院で他界される直前、須三郎の手を握り「君の頒徳碑を建てられなかったことが只一の心残り」と述懐されたそうです。

その後、幾度となく須三郎の顕彰碑の事が話題に上りましたが、須三郎の仕事を支持しない者もおり、実現には至っていません。

 *「ある歴史-淡山疏水事業裏面史」(岩本泰三)参照

 なお、岩本須三郎氏は岩本泰三氏の曾祖父に当たられます。

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稲美町探訪(500):コーヒーブレイク・「稲美探訪」が500号になりました

2011-05-17 10:53:24 |  ・稲美町加古

「稲美町探訪」が500号に

 A9369e0c「稲美町探訪」が100号になった時の文章を一部引用します。

 ・・・・・

200号になったら、おそらく他人に稲美町のことを話たくなっているだろう」と想像します。

300号になったら、いっぱしの専門家面をして稲美町についての話をだれかに押し付けている」かもしれません。

400号になったら、もう忘れてしまいましたが恋人のように稲美町が愛おしくなっている」かもしれません。

「もし、500号になったら、きっと分からない古文書等と格闘しながら、誰も知らない稲美町を調べている」と確信します。 ・・・・

 

  「稲美町探訪」は、もう少し続きます

 400号までは、書いたとおりでした。

 500号では「もし」と書いています。「500号までは続かないだろう・・」という気持ちがありました。

 でも、今日で内容の重なりはあるものの500号になりました。

 もう少し続きそうです。とりあえず600号を目標に「稲美町探訪」を続けますのでいましばらくお付き合いください。

 また、「500号になったら分からない古文書と格闘しながら・・」とも書きました。

 67歳の手習いです。最近、腰を入れて古文書の勉強を始めています。

 こちらの方も、けっこう楽しいものです。

 先日、眼科で「視力が衰えていますよ」と言われましたが、幸い、古文書の文字は大きいんです。助かります。

 今、蛸草を歩いています。蛸草の古文書を探しています。ご存じの方は一報ください。

*挿絵:取材中の私

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稲美町探訪(499):蛸草を歩く(42)・松尾嘉一郎

2011-05-16 13:04:35 |  ・稲美町加古

020「広谷池増設記念碑を読む①」でも紹介したように北条直正は、碑文に松尾嘉一郎を次のように記しています。

「委員は、朝家を出て、夕方に帰るというありさまで、松尾嘉一郎が最もこの事に専心しました。

松尾は、堤防の作り方、水の調整のための水門、溝の新設など細大漏らさず関係しました」

松尾のこうした働きにより、淡河川疎水完成後、広谷池は一番に水を受けました。

池は工事の完成しなく段階でも、できたところから使いました。

広谷池・広沢池が完全に出来上がった明治30年には、広谷池・広沢池は今まであった池の約3倍で、母里村一番の広い池となりました。

 そんな松尾嘉一郎の活躍を記念するため、北条直正は記念碑に一文を寄せています。

  

 松尾嘉一郎氏の頌徳碑

 松尾嘉一郎の頌徳碑(写真)を読んでおきましょう。

 頌徳碑は、広谷池の南西隅の「広谷池増設記念碑(「亀の碑」といっている)の右横にあります。

(略解)

淡河川疎水が通ずると、松尾嘉一郎君は率先し主唱して組合村のどこよりも早く広谷いけを増築し、さらに広沢池を増築しました。

それらの工事に当たっては細大洩らさず自ら担当し、苦辛数カ月でようやく完成しました。

おかげで、この村には永遠に旱害の心配がなくなりました。

 *『稲美町史』参照               

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稲美町探訪(498):蛸草を歩く(41)・広谷池増設記念碑を読む②

2011-05-15 08:31:38 |  ・稲美町加古

(広谷池記念碑・その2)

*前号の続きです。

    はやい着工

025池の周囲1.015間、新築の堤防345間、このため潰れた池1町2反6畝25歩で、旧堤防の修築は670間、池の反別は14町1反9畝、容水積79.885坪でした。

そして、池の深さは平均185勺、隣接の広沢池容水積は19.567坪余で、合計99.452坪余であり、工費は10.250円。

広沢池の修築費が400円、合計10.650円となりました。

また疏水の延長は、水源から練部屋配水所まで約4里、配水所から広沢池まで1.340間。

開拓した新田の総反別は73町3反4畝3歩で、その内畑田71町4反4畝3歩、宅地田1町6反4畝、山林原野田2反6畝、旧本田40町2反3畝10歩です。

以上、新旧田総計113町5反711歩で、新田は旧田のほとんど2倍になりました。

旧田は、この池のできるまでのもので淡河川疎水事業の完成しないうちのものです。

当時、疏水連合組合村の中でも疏水の成功を危ぶむ者も多く、人々の躊躇していることから、この池の関係者たちは率先して工事にかかり、(明治)24年5月疏水の初めての水は先ず広沢池に注入されました。

この池のお蔭で疏水開通以来9年間で1.670石の収穫を得たことになりました。

工費は起工がはやかったので、民有地の買収は毎年平均10円で足り、官地も無料で貸与の得点を得ました。

    首唱者の達見

その上、関係者は節約につとめた結果、1反の賦課金も新田で1139銭、旧田で5円69銭ですみました。

工費の軽かったことは他村にその例をみません。

もし、工事を今行うとするとすれば、恐らく倍以上かけもできなかったでしょう。

お蔭で当村は無尽の富の源泉を得たことになり、荒れ地が変じて肥沃の田となり、旧田もまた水利を得てますます収穫を増すことができました。

それまでの村の状況を一変させるほどの利益がもたらされたのです。

この基礎は、首唱者の画策によるものです・・・以下略・・・

明治33510

         加古郡母里村村長 北条直正謹んでこの文を記す

*写真:現在の広谷池

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稲美町探訪(497):蛸草を歩く(40)・広谷池増設記念碑文を読む①

2011-05-14 10:10:55 |  ・稲美町加古

広谷池は、蛸草(新村)にとってはまさに命そのものでした。

広谷池増築記念碑が広谷池の西南隅にあります。

その碑文を2回に分け読んでみます。『稲美町史』に原文(漢文)と読み下し文がありますのでご覧ください。

   広谷池は蛸草の命 

019  (広谷池記念碑・その1)

現在の稲美町母里地区は、土地が高くて水に乏しいところです。

とくに、この蛸草新村はそれが顕著でした。

明治維新前の頃、旱害がしばしばおこり、田畑は荒れ果てました。

それに、明治9年の地租改正は甚だしい重税となって、土地を売って地租を払うという事も多く、村は衰え果てました。

村の先輩たちは、深くこれを心配し、手を尽くして水源を求めました。

初め、山田川疏水の企てを起こしましたが、工事が難しく、後に淡河川疎水の計画井変更され、明治2111日以来、蛸草4ヶ村連合会でそのことが議決されました。

その頃、岩本須三郎、松尾嘉一郎氏等が指導して広谷池を拡大し、疏水を引いて荒れ地を開墾し水田にしようと相談し、一同が賛同しました。

ただちに広谷池増築の計画が立てられ、委員として松尾嘉一郎、吉岡岩蔵氏が選ばれ、戸長(村長)岩本須三郎氏と両委員がもっぱら池敷地の準備にかかりました。

ところが、その広谷池の敷地になる所は、村社、官林、県道、学校、村庁舎、墓地、民有地等が入り混じり、建物の移転、官有地の買入れ、あるいは借入、民有地の買収など困難が多い作業となりました。

責任者は、苦労をして、しばしば政庁に請願するなどして池増築に奔走しました。

公正に処理しても絶えず紛議が起きました。

ついに、やむを得ず土地収用法を適用するなどで、三年かかってようやく落着しました。

この反別は156反6畝6歩で、その内訳は官地の下げ渡し43畝11歩、同じく貸し下げ、32926歩。そして、民有地買収61920歩、元溜池57反3畝9歩となりました。

      明治241月起工

明治24123日、水利組合会を組織し、村長・岩本須三郎が管理者となり、助役・伏川熊次郎がこれを補佐し、松尾嘉一郎・吉岡岩蔵が工事委員となり、数回の予算審議の結果、41日に起工することになりました。

工事は、農閑期に行うのですが、委員はこの施行中、朝家を出て夕方に帰るというありさまで、松尾嘉一郎が最もこの事に専心しました。

松尾は、堤防の作り方、水の調整のための水門、溝の新設など工事には細大もらさず関係しました。

議員もまた代わる代わる出て委員を助け、工事を監督し、工事に働く人々を激励し、村をあげて老いも若きも池の増築に取り組みました。

堤防の新築、地盤の数尺の掘り下げ、粘土を塞ぎ地盤を槌で打って固めるなど、少しの手抜きもなく仕上げて、堅牢無比の出来上がりとなりました。

配水口3ヶ所、揚水場1ヵ所も、整然と整えられました。

こうして、広谷池は(明治)3021日に全ての工事が竣工し、水利組合も320日、解散しました。

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稲美町探訪(496):蛸草を歩く(39)・岩本須三郎⑤

2011-05-13 08:41:59 |  ・稲美町加古

   

   土地を手放した農民

7ce7b9e2  印南野の百姓たちは、苦しい生活を強いられました。そして人々はうめきながら台地を水田に変えていきました。

 小説『赤い土』の作者の小野晴彦さんは練部屋に水が流れてきたときのようすを、次のよう書いておられます。

「・・・一人の男が喜びのあまり、とびこむと人々も堰が切れたようになだれ、大声をあげてとびはねる者、流れをけ立てて走る者、水を打ち涙する者、しぶきは人々を濡らし、人々は歓喜に狂った。

そして、次のように続きます。

「・・・とうとうきたか。でも遅すぎた。なんでもっと早よこなんだんや。わしらはもうたがやす土地なんかあらへん。

それは、声にならないうめきだった。不当な地租と疏水の分担金に耐えられず、土地を失った人たちだった」

   地主と小作に分解

淡山疎水完成後の話を駆け足でしておきます。

地租改正による重税、疎水建設費、そして天災などで、多くの百姓は土地を手放さざるを得なかったことを説明しました。

事実、土地を手放し、小作化する農民も多数にのぼりました。

彼らに代わって土地を所有した不在地主や農民は大きな収益を得ることになりました。

農民を守ろうとしました。しかし、疎水事業は「農民の救済」を目的としていたにかかわらず、結果的には小農から土地をとりあげるという一面も併せ持ちました。

つまり、不在地主の侵入、村民を地主と小作への分解という新たな問題を表面化させたいちめんがありました。

須三郎の悩みは、そんな農民の姿を見る時でした。

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稲美町探訪(495):蛸草を歩く(38)・岩本須三郎④

2011-05-12 07:47:42 |  ・稲美町加古

     逸治はん、国会議員にならへんか

420d7c47話を少し前にもどします。

(岩本)須三郎は、はかどらぬ疎水工事に政治力の不足を感じていました。

(岩本)「(魚住)逸治はん(写真)、あんた国会議員に立候補せいへんか・・・」

(魚住)「やぶからぼうに、何いうねん」

(岩本)「立派な疎水つくらなあかん。そのためには政治力が必要や。わし等に欠けているのは政治力なんや」「さいわい、こっちには疎水組合がある。それだけ有利や・・・」

逸治は迷いましたが、逸治も政治のことを考えないことはなかった。

そして、立候補を決断しました。

逸治はみごと当選し、県では12名の衆議院議員の一人となりました。

    逸治はん大変や、疎水が潰れた・・・

 疎水が、大雨でこわれたという一報が須三郎から入りました。

逸治は東京で、方法は河川復旧工事に準じる方法しかないと考えました。

まず県会で地方補助費を決議し、ついで国庫補助を仰ぐ方法です。

知事は、この案を県会に提出しました。

県会では、「85,000円で造ったものを完全なものとは言いながら180,000円もの金を得て修理するとは合点がいかぬ・・・」

県会はじまって以来のさわぎとなりました。

時間切れの寸前に、やっと2票差で可決されました。

舞台は、国会にうつりました。

衆議院では、逸治が開会前から政府関係者への陳情・議員への説得にまわり、何とか可決されました。

国庫および地方補助金は65,015円で、組合負担金は324,714円でした。

借金は組合負担として残りましたが、疎水の修理もでき、台地の農業は大きく変貌しました。

以後、水の恵は大きく、村人は多くの畑や山林を水田に変えました。

    山田川疎水

しかし、水はたちまちに不足するようになりました。

そして、山田川からの疎水計画が再燃しました。

明治41年山田川疎水工事の起工を知事に願い出、用地買収や起工準備にかかり、28万円の借り入れを決め内務・大蔵大臣へ申請しました。

明治44年(1911)に着工し、大正4年(1915)に完成させました。

人々は、うめきながら印南野の台地を水田へ変えたのです。

印南野台地は、まさに稲の美しく育つ大地、稲美と大変貌をとげました。

 *小説『赤い土』(小野晴彦作)

写真:魚住逸治(『兵庫県淡河川・山田川疎水百年史』より)

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稲美町探訪(494):蛸草を歩く(37)・岩本須三郎③

2011-05-11 09:11:37 |  ・稲美町加古

水がきた・・・・

7d17d55b須三郎の村長としての働きは激務を越えていました。

それだけに、疏水の水が練部屋にきたときの喜びは、すべての苦しみが喜びに変わった一瞬でした。

明治2447日ケシ山トンネルは貫通し、411日、検査のために水門が開かれました。

淡河川の水は、勢いよく疎水に流れ出ました。

練部屋の配水所の周りは、水を迎える多くの人々の熱気があふれていました。

水は、ゆっくりと力強く練部屋に流れてきました。

うれしさのあまり、水路に跳びこむ者も大勢でした。

喜びは、練部屋からの支線水路やため池工事に大きな励みをあたえました。

須三郎の蛸草では早くから水路・広谷池の工事を始めました。

野寺の穴沢池の工事もさっそくはじまりました。

こうして各村々で相次いで工事にかかり、明治40年には印南17、下草谷6、草谷5、野寺4、野谷3の新池が築かれました。

     淡河疏水崩壊

その喜びもつかの間でした。 

明治25723日、降りだした雨は雨あしを強めました。 

次の日も雨粒は凄まじい音を立てながら台地をたたきつけました。 

村長の岩本は「疎水は、だいじょうぶか」「ケシ山のトンネルは・・」と不安になり見回りにでました。 

心配は的中でした。 

途中で野谷の(松尾)要蔵にあいました。 

「どないや・・・」 

「須三郎はんか・・えらいこっちゃ・・水路もケシ山のトンネルも、ぐちゃぐちゃにつぶれとてしもうて・・・」 

須三郎は、その風景に呆然と立ちつくすばかりでした。まるで、白いヘビがのたうっているみたいでした。 

被害は、サイフォンを除く全線で全滅でした。 

・・・・ 

須三郎はへこたれるわけにはいきません。 

「なんとかなるやろ・・・」 

 *小説『赤い土』(小野晴彦著)・『稲美町史』参照 

  挿絵:『赤い土』より

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稲美町探訪(493):蛸草を歩く(36)・岩本須三郎②

2011-05-10 10:40:49 |  ・稲美町加古

*内容は一部「岩本須三郎①」と重なります。

  

三大難(旱魃・重税・綿作の衰え)の中の村長

F564ba2a岩本須三郎は、弘化二年(1845)蛸草新村の庄屋・岩本家に生まれました。

安政四年(1857)、父の死去により、13才で庄屋を継ぎました。

印南野東部6ヶ村(蛸草新村・野谷新村・印南新村・草谷村・下草谷村・野寺村)は、明治の地租改正によりべらぼうな地租(税金)となりました。

蛸草新村の祖額は、旧祖額の4.96倍となり、明治11年には明治9年にさかのぼっての納税となったため、蛸草新村の祖額は、なんと旧祖額の11.23倍となりました。

当時の印南東部6ヶ村(現:母里地区)は、水に恵まれず、その上に連年の旱魃により収穫はほとんどありませんでした。それも綿作が中心でした。

その綿は、開国により外国から安い、良質の綿が輸入され致命的な打撃を受けました。

それに、この重税です。村民は空前の悲劇に直面しました。

須三郎は村長として、陳情・請願・異議申し立ての交渉に専念しますが新政府を笠に着た税吏には理解するところとはなりませんでした。

解決のためには、夢物語であった山田川からの引水し、米の増収以外に方法がありませんでした。

印南地区の村々の幹部たちは村民を説得しつつ、明治11年、岩本須三郎・魚住寛治などが中心になり疏水掘割願を県に提出しました。

これが、疏水工事の始まりです。

     

母里村初代村長・岩本須三郎

明治8年頃から10余年に及ぶ納税苦、明治11年から疏水完成までの13年間、洪水復旧を兼ねると16年間の疏水の難工事期間となりました。

須三郎は、最も苦しい時代の蛸草新村の村長でした。

そして、母里地区の中心として、貧しい農民から罵声を受けながらも矢面に立ち働きました。

ある時は、竹槍のガードマンを要する異常さであったといいます。

しかし、須三郎の指導により6ヶ村は連携を保ち、この難局を切り開きることができました。

苦難の期間が長かったため各村の指導者の交代は余儀なくされましたが、須三郎だけは変ることなく地区の中止となり活動しました。

そのため、明治22年、町村制度実施により、母里村が誕生し須三郎は初代・母里村村長に選ばれ、明治27年まで勤めました。

 *『稲美町史』参照

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稲美町探訪(492):蛸草を歩く(35)・岩本須三郎①

2011-05-09 08:19:02 |  ・稲美町加古

明治2241日、蛸草新村・草谷村・下草谷村・野谷新村・印南新村・野寺村の6ヵ村が合併して母里村が誕生しました。

その時、江戸時代の新田をあらわす「新村」の名称はなくなり、それぞれ母里村蛸草・下草谷・野谷・印南となりました。

初代母里村村長として蛸草の岩本須三郎が選ばれました。

   

初代母里村村長・岩本須三郎

92cd42a9 蛸草新村の庄屋の家に生まれた須三郎は、父を早く亡くし13才で庄屋の家をついでいます。

戸長(村長)になってからは、納税の問題・疎水事業にと、おいたてられ続けの毎日でした。

あるとき、郡長が気の毒そうに、「岩本さんもえらいときに村長になってでしたな」となぐさめたほどです。

(岩本)「ほんまですな・・・でも、苦労が大きいほど、喜びも大きますし・・・」

静かに答える須三郎の声には重みがありました。

まさに、須三郎の人生観でした。

しかし、「村長はんの言うことよう分かるが、借金だけがぎょうさんできた。

なんでこんな時に疎水つくるんや、もうちょっと時期待てへんのかいな・・・わしら、土地売るしかしょうない・・・」と不満をもらすものも多くいました。

(岩本)「土地売ったらあかん、もうじき水が来る。疎水の仕事や鉄道の仕事で日銭かせいで、もうちょっとがんばらなあかん」

こういうのが精一杯でした。

明治22年は、雨が多い年になりました。そして、秋には台風にも見舞われ、できたばかりの水路の一部も崩れました。

金が足りない。それだけではなかったのです。工事が始まると山陽鉄道の工事もはじまったため、人夫の賃金もあがりました。

でも地方の地元資産家は、出資には冷淡でした。

トンネルの工事の目途はついたのですが、工事費の目途がつきません。

21ヵ村の惣代は「淡河川疎水工事費拝借」を国に願い出でました。

工費拝借願いは認められなかったのですが、借り入れ金の返済の延納は認められました。

*小説『赤い土』(小野晴彦)参照

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稲美町探訪(491):蛸草を歩く(34)・淡河川疏水完成

2011-05-08 08:46:23 |  ・稲美町加古

難工事のケシ山隋道

Photo幾多の試練をのりこえて、ついに夢が実現する日が来ました。 

明治21127日、淡河川疎水工事の起工式が播磨葡萄園で行われました。 

 たやすく思われた淡河川の平地の工事は、岩は崩れやすく難工事となりました。

また、皮肉なことに工事は、しばしば雨にたたられました。 

御坂では、水管(サイフォン)の工事が始まりました。 

人々の疑いと心配の中を工事は予定通り進み2年間で見事に完成しました。 

御坂を越えた疎水は、御坂の少し南のケシ山へと流れ下ります。 

この部分の疎水の一部は、山を貫く隋道(682m)工事となりました。 

ケシ山の隋道工事は、土地が軟弱で、湧水がおびただしく県の直営工事となったのですが、それでも一日60mを進めるのがやっとの難工事でした。 

212月に取りかかり、貫通するまで34ヶ月を要しました。 

ケシ山を越えた水は、ついに紫合村練部屋(ゆうだむらねりべや)の配水所に水は流下りました。 

そして、配水所の噴水口から吹き上がり、5つの排水口からそれぞれのため池へ向かうのです。 

工事費は、トンネルなどの難工事などのために大幅に増えました。 

工事もさることながら地元負担金の徴収は難航しました。 

長年の日照と重税のため、疲れきった村人とから集めることは限界に達していました。

     余話・蛸草は母里村に

     

「蛸草を歩く(16)・蛸草は現在、稲美町天満にあらず」で、次のように書きました。

「蛸草荘(郷)の村々は、蛸草を除き現在稲美町天満に属しています。

現在の蛸草の祖先の多くが、そのルーツを蛸草荘(郷)に持ちながら、現在稲美町天満ではなく、稲美町母里(もり)に属しています。

なぜ?・・・」

 もお、お分かりだと思います。「地租改正」以来、現在の母里地域の人々は共に強い結びつきで地租軽減の闘いを続けてきました。そして疏水の完成を目指しました。

 明治2241日、新しい町村制度では、共に戦ったこの地域の6ヵ村は当然のように母里村となりました。

 蛸草新村は、「新村」の名称がなくなり、加古郡母里村蛸草となりました。

 *写真:現在の練部屋の配水所。写真中央部(配水所から東)の山は雌岡山

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稲美町探訪(490):蛸草を歩く(33)・疏水は淡河川から

2011-05-07 11:30:19 |  ・稲美町加古

 北条郡長辞任

次の話題に入る前に、書いておかなければならないことがあります。それは、つねに農民の味方であった北条郡長の辞任の事です。

(明治)154月。突然郡長に勧業課への転任が決まりました。 

役人として好ましくない人物として、閑職へ追われたのは明らかでした。 

北条は、自分の力のなさを骨身にしみて感じるのでした。 

しかたなく、北条は、役人を辞任しました。

取水口、山田川から淡河川に変更

39315311 疎水に対する国の動きに、近隣の村々も参加を願い出ました。母里6ヵ村としても仲間が増えれば負担も軽くなります。

双方の利害が一致して水利組合の組織は大きくなりました。

19年には関係6ヵ村に加古新村、天満地区の10ヵ村、それに平岡の高畑村・土山村そして二見の東二見村・福里村が加わり21ヵ村となり、名前も「印南新村外20ヶ村水利組合」となりました。

内海県令(森岡県令は明治18年に中央へ転出)は、この疎水事業に意欲的でした。

県令みずから加古川まで出向き、21ヵ村の戸長(村長)と請願委員を郡役所に集めました。

新しく組合に加わった村々の代表は、どのくらいの工事費になるのか不安でしたが、何とか各村々の負担も決めることができました。

内海県知事(明治19年度より県令から県知事に改称)は、水利土工費を国に申請しました。

   サイフォンって何?

内務省に、より精密な調査を依頼しました。

内務大臣の山県有朋(やまがたありとも)は、洋式土木を学んだ新進気鋭の田辺儀三郎技師を派遣してきました。

調査の結果は、人々を困惑させるものでした。

「山田川線は、シブレ山が険しく岩がもろく、はじめに見積もった工事費ではとてもおぼつかないため、淡河村木津で取水すれば、平地を楽に掘り進めることができる」と言うものでした。

 地図をご覧ください。

でも、この路線は志染村御坂(しじみむらみさか)で、いったん低地(志染川)をこえなければならないので、いままで誰も注目した者はありませんでした。

田辺技師は、ここを鋼鉄のサイフォンで水を通すというのです。

人々は、「なんぼ世の中が変わったかて、いっぺん下ろした水が上がるやなんて、そんなええかげんな話聞いたことがないわ・・・」と不思議がるばかりでした。

新しい路線の工事が認められました。

*地図は『兵庫のため池』(兵庫県農林水産部)参照

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稲美町探訪(489):蛸草を歩く(32)・疏水計画が動く

2011-05-06 07:00:12 |  ・稲美町加古

印南地域の悲願である疏水計画が突如動きはじめました。

  品川農商務省大輔(次官)来る

Photo(明治16年)1219日、農商務省大輔(次官)の品川弥二郎が、葡萄園の視察に訪れました。この視察に県から租税課長が同行しました。

葡萄園の園長は、苗の植え付けや生育のようすのほか、地域の百姓の生活のようすも話しました。

丸尾茂平次(印南新村戸長)は、地租を納めるために土地を売ったことを話しました。

品川は、さらに村の生活ぶりを聞きただすのでした。

(品川)「租税課長。人民が租税を納めるために土地を売ったと言っているが、知っているのか」

(租税課長)「はい、知っております」

(品川)「知っていてなぜすぐに止めさせなかったのだ。第一に、土地を売って納めなければならないほどの地租を課すとはなにごとだ」

租税課長への叱責はするどかった。 

そして、品川弥二郎からこんな発言が続きました。

(品川)「これからは、なるべく土地を売らないように。土地さえあれば、その内によいことがあるであろう」

戸長たちは、顔を見合わせるのでした。

「よいこと?・・・、ひょっとしたら国のほうで疎水計画が具体化しているのではないのだろうか・・」

     疎水計画が動く・・・

「国が、疎水を具体化させるのではないか」というウワサは、百姓の間で大きな波紋をよびました。

ウワサだけではなかったのです。

年が改まった(明治)16年、県は疎水線の実測を始めました。

突然、疎水計画をめぐる状況が変わってきました。

7月10日には大蔵卿(大臣)の松方正義(まつかたまさよし)の巡視があり、続いて農商務卿の西郷従道(さいごうつぐみち)の視察がありました。

疎水計画は、にわかに動き出しました。

 *写真:農商務大輔・品川弥二郎

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