ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(80) 奈良時代(4) 古代山陽道(1)

2019-10-31 09:17:10 | 大河・かこがわ

            古代山陽道(1)

 7世紀、大和政権(奈良を中心とする政権)は、天皇を中心に勢力を強め、その勢力を、さらに拡大するために道を整備しました。

 とりわけ、奈良と九州の大宰府(だざいふ)を結ぶ山陽道は重要な道でした。

 街道の途中には駅(うまや)を設けて、官人の旅・租税の運搬にあたりました。

 野口(加古川市野口町)に、山陽道最大の駅、賀古の駅(かこのうまや)がおかれていました。

 山陽道最大ということは、日本で最大の駅(うまや)が野口にあったということです。

 ふつう駅では、多くて20頭ほどの馬が置かれていたのですが、賀古の駅は、40頭を数えていました。

 賀古の駅のあった場所は、古大内(ふろうち・野口町)に「駅が池(うまやがいけ)」があり、賀古駅のあったといわれている大歳神社あたりの調査が行われ駅跡であることが確かめられました。

 (蛇足)・・・駅に「馬へん」が使われているのは、駅はもともと電車ではなく馬がその役割をはたしていたためです。

 「賀古の駅」については後にさらに紹介することにします。

 奈良から野口まできた山陽道は、加古川の流れにゆく手を妨げられ、多くの場合、野口から日岡山の方へ向かい、升田・大国・岸・魚橋というコースをとっています。

 古大内(ふろうち)は、「古大路(ふるおおじ)」が訛ったものではないかとも想像されています。(no4781)

 *地図:「兵庫探検(歴史風土編)」(神戸新聞)より

 

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大河・かこがわ(79) 奈良時代(3) 五ヶ井用水の溝筋 

2019-10-30 08:12:57 | 大河・かこがわ

 条理制の田畑を潤した旧加古川流路は、この用水が「五ヶ井用水」として確立したと想像される室町時代のところで説明すべきなのですが、条里制を理解するために、ここで簡単に説明しておきましょう。(五ヶ井用水については、後に詳しくみることにします)

        五ヶ井用水の溝筋

 加古川は、丹波市青垣の遠坂(とうさか)付近を源流に、播磨灘に注ぐ兵庫県一の河川です。

 その幹線流路は96kmであり、兵庫県に降った雨の約4分の1は加古川に流れ込んでいます。

 その流域面積は1.732平方キロメートルで県下最大です。

 また、加古川は暴れ川であり、古代より幾度となく洪水をひきおこし、流路を変えました。

 五ヶ井郷の人々は、そんな大河と闘い、加古川から田畑に用水として水を引いたのです。

 五ヶ井用水は、近世の村で言うと20ヵ村で、1.1900石ほどの田地を灌漑するとてつもない大きな規模の用水です。

 きょうは、五ヶ井用水の溝筋の概略を確認しておきます。

 条里制を潤した用水路と重なっていることがお分かりになると思います。

 この図は『五ヶ井土地改良区誌』(五ヶ井土地改良区誌編さん委員会・昭和62年)からお借りしました。

 なお、いま加古川の左岸(東岸)の五ヶ井用水を見ていますが、右岸(西岸)の条里制の田畑もおなじように旧加古川流路を利用しています。(no4780)

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大河・かこがわ(78) 奈良時代(2) 条里制(2)・旧加古川流路が条里制の土地を潤す 

2019-10-29 10:38:03 | 大河・かこがわ

      旧加古川流路が条里制の土地を潤す

 「加古川の近くですから、加古川から水を引いたのだろう」と考えられますが、そう簡単な話ではありません。

 加古川からの水が条里制の全ての田畑を潤したとも思えません。

 加古川は暴れ川でした。加古川に堰をつくり、勾配をつくり加古川の水を引いたとも考えられません。

 この時代に大規模な用水作る土木技術はまだ発達していません。

 加古川は、太古よりその幾度となく流路を変えた暴れ川です。

 加古川の旧流路をご覧ください。

 不思議なことがわかります。

 これらの流路と条里制の遺構がたぶんに重なっているのです。

 つまり、条里制の土地は加古川の旧流路を用水路として利用して開墾されたと考えられます。

 これらの流路は後の「五ヶ井用水」と呼ばれている流路です。

 ですから、現在の「五ヶ井用水」の始まりは条里制の時代まで、さかのぼることができると想像されます。

 「五ヶ井用水」については、後に詳しく紹介しましょう。

 ここでは、加古川下流部の条里制は、加古川の旧流路跡を利用したものとしておいてください。(no4779)

 *図:黒く塗りつぶしたか所が加古川の旧流路(『五ヶ井土地改良区誌』より)

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大河・かこがわ(77) 奈良時代(1) 条里制(1)

2019-10-28 08:01:15 | 大河・かこがわ

 西条廃寺中西廃寺を紹介しました。この他にも同時代(白鳳時代)の野口廃寺(加古川市尾上町)・石守廃寺(加古川市神の町)を訪ねたいのですが、先を急ぎ奈良時代の歴史探索に出かけましょう。

      条 里 制(じょうりせい)

 奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。

 地方には国司・里長等の地方官が置かれました。

これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることでした。

 政府は、税を確実にするために、まず土地制度を整えます。

これが条里制です。

 条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。 

 その仕組みは、六町四方(43.2ヘクタール)の大区画を縦横六等分、つまり36の小区画に分けました。

 そして、その一つをさらに36等分し、その一つひとつに一の坪・二の坪・三の坪・・・のような番号をつけ所有者をはっきりさせました。

 条里制の遺構(図)をご覧ください。

 加古川市域では、五の坪(加古川町西河原)、九の坪(加古川町溝ノ口)、一の坪(尾上町長田)、十二の坪(尾上町口里)、三の坪(尾上町今福)等がその例です。

 この他にも多くの坪名と思われる小字がたくさん残っています。

       池がない

 条里制の土地があったことは確かめられました。

 が、土地だけでは田畑になりません。水がなくては田畑になりません。

 どのようにして水を得たのでしょう。

 池から得たとも考えられますが、池の遺構が見つからないのです。

 埋もれてしまったとも考えられますが、これだけ発達した条里制です。

 どこかで池の遺構が見つかってもよさそうなものです。(no4778)

 *図:条里制遺構(番号は、字名に残る坪番号)

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オマーン国王物語(20)  オマーン王族 稲美町訪問 ・元国王夫人が眠る墓地へ

2019-10-27 08:29:49 | 江戸時代、高砂の商業活動

 26日の神戸新聞は、オマーンの副首相兼国王特別代理のアスファイドらが稲美町への墓参について報じました。『オマーン夫人物語』の続きとして、転載させていただきます

    神戸生まれの王女に代わって

       オマーン王族 稲美町訪問

          元国王夫人が眠る墓地へ

 天皇陛下が即位を宣言する「即位礼正殿の儀」に出席するため来日した、中東・オマーンのアスファイド副首相兼国王特別代理らが25日、王族ゆかりの地である稲美町を訪問した。

 元国王夫人で、神戸でブサイナ王女を生んだ清子・アルサイド(旧姓大山)さんの墓に、同国関係者10人が花を供えた。

 約40年前には同王女が来町しており今回は副首相が墓参した。

 清子さんは1935年(昭和10)、カーブース現国王の祖父であるタイムール元国王と神戸で出会った。

 恋に落ちた2人は翌年結婚式挙げ、ブサイナ女王(日本名は節子)が誕生したが、39年(昭和14)清子さんが病没。

 元国王は清子さんの母の出身地である稲美町に墓を建て、王女を連れて日本を離れた。王女は、オマーンで王族の一員としてそだてられたという。

 この日、午後12時半ごろ、アスファド副首相らが、古谷博町長らと同町中村の大沢公園墓地を訪れた。

 ハンチング帽姿のアスファイド副首相は、清子さんの親戚で墓の世話を続ける同町の杉本浜子さん(74)とともに線香をあげるなどした。

 帰る際に、惜しんで同副首相らと抱擁した杉本さんは「遠くからわざわざ来てもらいうれしかった。お墓に『清子さん、良かったね』と心の中で呼びかけた。

 約40年前には、ブサイナ王女とも会っており、「(当時)『もう一度来たい』といわれ、再開を待ち望んでいたが、かなわないのは残念」と語った。

 オマーン国大使館によれば、ブサイナ王女は同国で健在。

 次期国王候補の一人とみられているアスファイド副首相は現国王のいとこで、王女のおいにあたる。(切貫滋巨)(no.4777)

 *写真:墓参りをするアスファイド副首相(左から4人目と杉本浜子さん(同2人目)=稲美町中村墓地

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大河・かこがわ(76) 飛鳥・奈良時代 中西廃寺(加古川市西神吉町中西) 

2019-10-19 08:35:14 | 大河・かこがわ

          中西廃寺(加古川市西神吉町中西)

 日本に仏教が伝えられました。

 まばゆい仏を見て、その教えは、はっきりと分からないものの人々は畏れ、尊崇しました。

 その後、仏教は日本各地に広がり、やがて加古川の地にも伝えられました。

 それも、比較的早い白鳳時代(645~710)のことです。

 加古川市西神吉町中西にあった寺院(中西廃寺)もそのひとつです。

 『加古川市史(第一巻)』は、次のように述べています。

 ・・・この寺院(中西廃寺)は、正式な発掘調査が行われていないため、詳細は明らかでない。

 ・・・現在、薬師堂境内の西南隅にある塔心礎(写真)は、1919年(大正8)に元の位置より50センチばかり 移動したという話があるが、伽藍配置を復元する有力な手がかりとなる。

 法隆寺式伽藍を備えていたようで、創建は白鳳時代である・・・

 白鳳時代、各地に寺院が多く建られていますが、その創建者は、どんな人物だったのでしょう。

 7世紀になると古墳を造る風習は次第に衰え、消えてゆきます。

 これは、かつて、古墳を建設した有力な豪族がやがて、仏教の影響を受け、古墳に代わって寺院を建設したのでしょう。

 平荘湖の周辺に、たくさんの古墳があります。

 これらの古墳の主が、中西の寺院を建設したのでしょうか。そうでなかったとしてもこの辺りの古墳の有力者が中西廃寺の建設に関係したのでしょう。(no4776)

 *『加古川市史(第一巻)』参照、写真:中西廃寺の塔の心礎

 *《お詫び》

 「大河・かこがわ」をお読みいただきありがとうございます。いつもは「毎日が日曜日」の、のんきな生活ですが、大変な仕事が飛び込んできました。そのため、10月20日(日)から10月27日(日)まで、お休みをさせていただきます。ご了承ください。

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大河・かこがわ(75) (余話)東播磨は 、「ボーダーの地域」

2019-10-18 13:26:20 | 大河・かこがわ

   (余話) 東播磨は 、「ボーダーの地域」

 次の話題の前に移ります。

 その前に、コーヒー・ブレイクです。

 律令制度下で、直接に都(中央)の勢力が及ぶ範囲を畿内といいました。

 大和(奈良)・河内・和泉・山城(京都)・摂津がそれです。

 播磨は摂津に接していますが、畿内ではありません。でも、畿内の強い影響を受けた畿外でした。

 つまり、東播磨は、畿内と畿外のボーダー(狭間)に位置していました。

 律令制度に先立つ古墳時時代、播磨の石棺や古墳からの出土品は畿内と似ており、明らかに西日本のものとは異なっています。

 古代の播磨は畿内の勢力下にあったのですが、地理的には周辺部でした。

 この周辺部は、常に緊張した政治的状況にさらされていたのです。自らを維持するためには、湧き上がるエネルギーを必要としました。

 加古川・高砂地方は、古代より都の勢力と結びつきの強い地域でありながら、四国・吉備(岡山)の勢力と対峙する場所にありました。

 都(中央)にとっても加古川地方は、自らの安全を守るための最前線でした。

 一方、加古川地方の有力者は、自らの権威を高めておくために、また、戦闘の場合は援助を求めるために、中央との結びつきを求める必要があったのです。

 東播磨地方は、鄙(ひな)の地域では決してなかったのです。

 そのため中央の豪族たちは、東播磨地方を重要な地域とし、煌びやかな中央の文化も、いち早くこの地域に伝えられたのです。

 このことを念頭に置き今後の歴史をお読みください。(no4775)

 *写真:加古川のながれ。古代より加古川あたりがボーダーの地域となった。

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大河・かこがわ(74) 古墳時代(42) 石の宝殿(11)・一の華表(鳥居)

2019-10-17 08:14:09 | 大河・かこがわ

               一の華表(鳥居)

               *華表:神社の鳥居のこと

 宝殿駅に近い西国街道筋・神爪(かづめ・高砂市米田町)に社殿もないのに大きな鳥居と灯籠があります。

 延宝年間(1673~81)、この地の庄屋・神吉久太夫が姫路の殿様のいかりにふれ、一家断絶になろうとしていた時でした。

 生石神社に祈願して、その難を逃れたといわれています。

 この鳥居は、そのお礼に奉建されたものだといいます。

 知らない人が見れば、神社の跡地に残る鳥居としか見えません。

 最近、付近は、猛烈な宅地化が進みました。

 鳥居の彼方に石の宝殿がのぞまれるはずなのですが、今は全く見えません。

 この鳥居は、生石神社から遠く離れてはいるものの生石神社の「一の鳥居」といわれ石の宝殿の「一の華表」とも呼ばれています。

 *上記の文章は、『画文集・高砂の史情(森村勇著)』からお借りしました。

(文章は、若干変えさせていただいています)

    神爪は、山片蟠桃のふるさと

 なお、鳥居の横に江戸時代が生んだ大学者・山片蟠桃(やまがたばんとう)が寄贈した灯籠があります。

 山片蟠桃は神爪に生まれています。

 最近は、山片蟠桃も、生石神社とともにあまり広く知られていないようです。

 山片蟠桃は、高校の日本史の教科書には必ず登場する江戸時代、日本を代表する人物なんですが。(no4774)

 

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大河・かこがわ(73) 古墳時代(41) 石の宝殿(10)・「石の宝殿」は、永遠に語り継がれる謎(ロマン)

2019-10-16 09:08:07 | 大河・かこがわ

       石の宝殿の伝承がない理由

 石切り場の工人たちの多くは、蘇我氏の命令であったとしても、単に中央からの命令として、黙々と作業を続けるだけで「何を何のためにつくっていること」など考えなかったのでしょう。

    「石の宝殿」は、永遠に語り継がれる謎(ロマン)

 時は過ぎます。

 伝承がないだけに、よけいに人々は石の宝殿に「不思議さ」を感じたのではないでしょうか。

 後の人は「こんなでっかい石塊は、人が作ることは不可能である。きっと神様がつくられたものであろう」と考えたのかもしれません。

 記録によれば、平安時代にはこの「石の宝殿(大石)」は神となり、社殿「生石神社」が作られたようです。

 歴史学者・真壁ご夫妻は、この不思議な石の宝殿を学問的に研究されています。

 『石の宝殿‐古代史の謎を解く』(神戸新聞総合出版センター)で詳細を述べておられます。

 詳しくは、その著書をお読みください。

 でも、まだ「誰が・何のため」につくられたのかには、確実なことはわかっていません。

 「石の宝殿」は、おそらく永遠の謎(ロマン)として語り続けられることでしょう。(no4773)

 *写真:石の宝殿「西遊旅譚(司馬江漢)」より

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大河・かこがわ(72) 古墳時代(40) 石の宝殿(9)・「石の宝殿」は蘇我氏が作ろうとしたものか

2019-10-15 09:52:10 | 大河・かこがわ

 石の宝殿(大石)ですが、途中で放棄されています。

 このことに関して前回の青木説で「石の宝殿は、蘇我氏との争いに敗れた物部氏のモニュメント」とする説を紹介しました。

   「石の宝殿」は蘇我氏が作ろうとしたものか

 今回は、『石の宝殿・古代史の謎を解く(真壁忠彦・葭子共著)』から、反対に石の宝殿は蘇我氏がつくろうとしたモニュメントであるとする説を紹介します。

 

 ・・・・石の宝殿は、ほとんど完成品にちかい段階で放棄されています。

 よほどのことがあったと考えられます。

 石の宝殿が「飛鳥時代のもの」で、これだけの石造物の製造を命令することのできるのは、中央の最高権力者です。

 その権力者とは「蘇我氏」以外に考えられません。

 それでは、なぜ蘇我氏がこのモニュメントづくりを中止したのでしょうか。

 よほどの理由があったはずです。

   蘇我氏は大化の改新で滅び、事業は中止されたのか

 その理由を探すなら、「大化の改新で蘇我氏が急に滅亡した」と考える以外に理由はみつかりません。

 当時、蘇我氏は、大王家(天皇家)をしのぐ権力を持っていました。

 蘇我氏が「石の宝殿」のようなものをつくろうと命令することは、なんの造作のもないことです。

 「大化の改新により蘇我氏がほろぼされ、急に勢力がなくなり、石の宝殿の製作を中止してしまった」とする推理です。

 いかがでしょうか。

 それにしても、蘇我氏が何のためにこの石の宝殿をつくろうとしたのでしょうね。

 何らかの、伝承があってもよさそうなものですが、何も語られていません。(no4772)

 *写真:蘇我氏のつもり

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大河・かこがわ(71) 古墳時代(39) 石の宝殿(8)・「石の宝殿」は敗者のモニュメント

2019-10-14 08:02:33 | 大河・かこがわ

    「石の宝殿」は敗者のモニュメント

 青木一夫氏は、物部氏が大石を作ろうとした目的を「・・・物部氏は、日本古来の信仰である大きな岩などに霊力がやどるとする自然信仰もっていた。

 とにかく、この東播磨の地で大石をつくり、その霊力で仏教の大和への侵入を防ごうとしたのではないか。つまり、大和に仏教が入る手前の東播磨の地でこの大石をつくろうとした」という説です。

 少しだけ、つけ加えます。

 物部氏と蘇我氏の戦いの結果は蘇我氏の勝利で終わりました。

 この争いの中でつくられていた大石(石の宝殿)は、その後「敗者のモニュメント」として(未完成のまま)打ち捨てられたのです。

 敗者のモニュメントは、その存在さえなにも許されないもので、それらは、ふつうは打ち壊されます。しかし石の宝殿は未完成品であり、打ち崩すには大きすぎ、頑丈すぎました。

 蘇我氏の支配する社会では、大石については語られることも許されず、ひっそりとその姿を横たえているだけの存在になっていたのではないかと思われます。

 これだけ大きな、モニュメントが語りつかれなく作られてから100年ぐらいでそのつくられた目的がわからなくなったのには作為を感じます。

   「生石神社」は平安時代初期の記録に登場

 石の宝殿をご神体とする生石神社は、やっと平安時代(養和元年・1185)の『播磨国内神明帳』に登場しますが、大きな神社ではなさそうです。

 10世紀のはじめ、醍醐(だいご)天皇の時代に作られた規則である延喜式(えんぎしき)に、その名が見られる神社のことを「式内社(しきないしゃ)」といいますが、生石神社は「式内社」でもありません。

 ということは、奈良時代から平安時代の初期のころは、まだ、ここには神社がなかったとも考えられるのです。(no4771)

 *写真:石の宝殿(部分)とその回廊

 

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大河・かこがわ(70) 古墳時代(38) 石の宝殿(7)・大石は、仏教侵入をふせぐためにつくられたのか?

2019-10-13 10:32:14 | 大河・かこがわ

   青木説にみる「石の宝殿」②

    大石は、仏教侵入をふせぐためにつくられたのか?

     『風土記』は、蘇我と物部の争いを語る 

 「石の宝殿」のつくられた時期の日本社会のようすを中学歴史教科書にみてみます・

 6世紀の日本では、地方の豪族が反乱を起こし、大和王権でも豪族同士の争いが続くなかで、豪族の蘇我氏が渡来人と強い結びつきを持ち、力を伸ばしました。

 外国の宗教である仏教を取り入れようとして、これに反対する物部氏を滅ぼし、大きな勢力をふるいました。・・・・(中学歴史教科書:大阪書籍より)

 つまり、聖徳太子の時代外国の勢力と結んだ蘇我氏と物部氏の勢力が激しい争いをしていました。

 蘇我氏は、仏教を取り入れ百済の力を借りようとしました。

 それに対して、物部氏は「仏教は、我が国を亡ぼす邪教である」として反対しました。

 結論は、蘇我氏を中心とする勢力がこの戦いに勝利しています。

 この争いの前から物部氏は、大石(石の宝殿)を作り始めたようです。

 でも、この大石が完成する直前の頃、物部が敗れ。ほとんど完成していた大石の工事は中止になり、そのままに打ち捨てられた状態になってしまったようです。

    大石は、何のために

 それでは、物部氏は、何のためにこの大石を作ろうとしたのでしょうか。

 青木氏は、次のように説明しておられます。

 ・・・・物部氏は、大石が持つ神聖を信じていました。

 日本古来の信仰は大きな岩などに霊力があるとする自然信仰です。

 物部氏は、「大きな石を置くことにより、その霊力で仏教が日本に入ることを防ぐことができる」と考えたようです。

 とにかく、「この東播磨の地で大石をつくり、その霊力で仏教の侵入を防ごうとしたのではないか」と想像されるのです。

 つまり、大和に仏教が入る手前の東播磨の地でこの大石をつくろうとしたのではないでしょうか。

いかがですか。(no4770)

 *写真:石の宝殿頭頂部

 

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大河・かこがわ(69) 古墳時代(37) 石の宝殿(6)・石の宝殿は、移動させるにはデカすぎる!

2019-10-11 09:35:09 | 大河・かこがわ

  石の宝殿は、移動させるにはデカすぎる!

 石の宝殿(大石)は、「高さ5.7㍍、幅6.5メール、奥行きは屋根形の突起をいれて7㍍、重さが500トン」ととてつもない大きな石造物です。

 巨石という以外に表現がありません。

 この大石を完成後他の場所に移動するという考えは無理があるのではないでしょうか。ましてや、山の中腹につくられています。

 ど素人(私)ですが、「松本清張や歴史学者の真壁氏ご夫妻の考えの完成後大和に移動予定であった」とする説に同意できかねます。

 そんなことを考えていた時、『兵庫史の謎(青木一夫著)』(神戸新聞総合出版センター)で「石の宝殿は石棺にあらず‐仏教の東進はばむ境界に‐」の記述を読みました。

 青木氏は、石の宝殿の移動させる予定であったという説はとっておられません。

 青木説を紹介しましょう。結論は次回になります。

    青木説にみる「石の宝殿」

 『風土記』の記述を引用して、次のような説明をしておられます。

  〈大石〉

・・・原の南に作り石があります。形は家のようです。

 長さは二丈(約6㍍)、広さは一丈5尺、高さもそれぐらいです。

 名は大石といいます。

 伝えられていることは、聖徳太子の時代に弓削大連(ゆげのおおむらじ・物部の守屋)作らせた石です。・・・・

 青木氏は、上記の風土記の「聖徳太子の時代に弓削大連(ゆげのおおむらじ・物部の守屋)作らせた石です」の記述に注目されています。

 次回を楽しみにしてください。(no4769)

 *図:石の宝殿付近の地図(『石の宝殿』:真壁ご夫妻著より)

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大河・かこがわ(68) 古墳時代(36) 石の宝殿(5)・竜山1号墳の被葬者は、「石の宝殿」の製作の事情を知っていた? 

2019-10-10 08:27:02 | 大河・かこがわ

         竜山1号墳の被葬者は、

         「石の宝殿」の製作の事情を知っていた?

  石の宝殿は謎の大石です。でも、その謎を知っている人物がいるとすれば、竜山1号墳(写真)の被葬者です。

 山腹斜面にずり落ちるばかりに置かれていた石棺の身の部分のすぐ上部に小型の石室が確認されます。

 石棺の大きさは、蓋の大きさで、幅0.6メートル、長さ1.18メートル、蓋と身の高さをあわせると0.62メートルです。

 この古墳は、生石神社の境内にあり、石の宝殿と無縁とは思えない位置にあります。

 この古墳の時期について、棺形から7世紀中頃までとされていますが、長さが1メートル少々の小形棺で、場合によっては火葬骨が納められていても不思議のない大きさです。

 この種の棺で、子供を納めた事例は知られていません。大人を納めた石棺です。

 場合によると8世紀に入っている可能性もある古墳とも言われています。

 とすると、すでに奈良時代です。

 ともかく、この棺に納められ、人物は、とのような生涯を送ったのでしょう。

 小さくとも、竜山の伝統的な石棺に納められたこの人物は、この地方では中心的な人物の一族であろうと想像されます。

 この人物は、石の宝殿製作時を記憶している人かもしれません。

 この人物の親か祖父があの「石宝殿(大石)」製作工人の中心的人物であり、製作の事情を知っていた可能性は強と想像するのです。(no4768)

 *『高砂史(第一巻通史編)』参照

 *写真:竜山一号墳の石棺と蓋

 

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大河・かこがわ(68) 古墳時代(35) 石の宝殿(4)・ゾロアスター教(祆教)の拝火壇か?

2019-10-09 09:18:21 | 大河・かこがわ

     ゾロアスター教(祆教)の拝火壇か?

 今回の話題は、余話としてお読みください。

 石の宝殿つくられた7世紀、日本は新しい国づくりの真最中でした。

 新しい文化が中国からどんどん取り入れました。

 その最大の文化は、なんといっても仏教です。

 でも、ちょっと考えください。

 日本に入ったのは仏教のみだったのでしょうか。熱心さにおいて温度差(公私の差)はあるものの、仏教だけでなく道教、当時中国に伝わっていたキリスト教、その他の宗教も同時に日本に入ったと考えるのが自然です。

 宗教だけではないはずです。

      ペルシャから日本へ

 古代中国では、ハイカラな風習としてイランを源流とするものが大いに流行しています。

 胡桃(くるみ)・胡麻(ごま)・葫(にんにく)など「胡」のつく植物・野菜は、たいていイランを原産地とするもの又はイラン経由のものです。

 柘榴(ざくろ)・葡萄(ぶどう)もイランから輸入されています。

 獅子や駱駝(らくだ)動物もそうです。

 そうであれば、日本へイランやイラン経由で中国へ伝えられた文化が、こんどは、中国経由で日本へ伝えられたのは当然のことと想像されます。

 松本清張氏は、飛鳥に残る不思議な石造物をヒントに、ソロアスター教(祆教・けんきょう)も日本入っていたと想像されました。

 そして、NHK取材班と一緒にイランへその証明のために取材に出かけられ、まとめられたのが『ペルセポリスから飛鳥へ』(日本放送協会)です。

 

 石の宝殿はゾロアスター教の拝火壇で、上面は樹木が生えていますが、ここは、穴が開いていて火を焚いた場所ではないかと想像されています。(no4767)

 *写真:ゾロアスター(祆教)でたかれる神聖な火(『ペルセポリスから飛鳥へ』より)

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