古代山陽道(1)
7世紀、大和政権(奈良を中心とする政権)は、天皇を中心に勢力を強め、その勢力を、さらに拡大するために道を整備しました。
とりわけ、奈良と九州の大宰府(だざいふ)を結ぶ山陽道は重要な道でした。
街道の途中には駅(うまや)を設けて、官人の旅・租税の運搬にあたりました。
野口(加古川市野口町)に、山陽道最大の駅、賀古の駅(かこのうまや)がおかれていました。
山陽道最大ということは、日本で最大の駅(うまや)が野口にあったということです。
ふつう駅では、多くて20頭ほどの馬が置かれていたのですが、賀古の駅は、40頭を数えていました。
賀古の駅のあった場所は、古大内(ふろうち・野口町)に「駅が池(うまやがいけ)」があり、賀古駅のあったといわれている大歳神社あたりの調査が行われ駅跡であることが確かめられました。
(蛇足)・・・駅に「馬へん」が使われているのは、駅はもともと電車ではなく馬がその役割をはたしていたためです。
「賀古の駅」については後にさらに紹介することにします。
奈良から野口まできた山陽道は、加古川の流れにゆく手を妨げられ、多くの場合、野口から日岡山の方へ向かい、升田・大国・岸・魚橋というコースをとっています。
古大内(ふろうち)は、「古大路(ふるおおじ)」が訛ったものではないかとも想像されています。(no4781)
*地図:「兵庫探検(歴史風土編)」(神戸新聞)より