ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(119):城山物語(22)・安楽寺

2011-10-07 07:18:50 |  ・加古川市東志方

「中道子」について書いておきます。

中道子ののなまった呼び方であることは多くの方が認めておられます。

では、「中道寺」はどんなお寺でしょうか。

  安楽寺の由来史より◇

    もとは、山上の無量寿院(真言宗)

     そして、安楽寺(浄土宗)へ

Shikata_040志方町細工所の安楽寺の縁起は次のように語っています。

「・・・弘仁二年(811)、弘法太師の弟氏子が詔勅を受け、大日如来を彫刻し、中道子山上に真言宗無量寿院を建立しました。

時は移り、赤松円心の四男の赤松氏則(「範」とも書く)が志方庄の領主となって、中道寺を山麓に移し中道子山城を築きました。

永徳三年(1383)、氏則は南朝方につき、敗れて一族郎と共に加東市清水寺で自害し、中道子山城も草木に埋もれて行きました。

文安元年(1444)赤松の一族の孝橋新五郎繁広がこの地に来て山城を修築して修築しこの城の城主となり中道寺もよみがえりました。

しかし、弘治元年(1555)、三好長慶に攻められ炎上しました。

その後、志方城の城主・櫛橋秀則は寺を再建しました。

(再建時に元あった場所から少し西の現在地に移動したとも言われています)

櫛橋は、浄土宗への信仰心があつく、浄土宗に改修し、寺名も中道山安楽寺としました。

安楽寺は櫛橋則伊の持念仏の阿弥陀如来を本尊としました・・・」以上が、安楽寺の由来史の概略です。

筋がとおり、歴史を語っているようなのですが、やはり発掘調査の結果と赤松氏則・孝橋新五郎繁広の時代が離れすぎています。

でも、古くから山上に山岳寺院があったのは確かなようです。

このブログでは、赤松晴政がその築城者ではないかと提起しましたが、中道子山城の謎はまだまだ続きそうです。

安楽寺の由来史も今後の研究で改められるかもしれません。

*写真:安楽寺(志方町細工所)

コメント
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