ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町探訪:西河原の名称

2006-12-31 08:17:35 |  ・加古川市加古川町

  682e4d32きのうのブログの復習をしたい。

  明治のはじめ、加古川町は印南郡加古川町(かこがわまち)でした。明治10年6月30日、西河原は加古川町から独立し、鳩里村に編入され西河原村が誕生しました。

  他の村に編入するのですから、何らかの理由があったと思えるのですが、記録がないため分かりません。

  「西河原」の名称は、加古川町の一部であった当時、加古川町の西方の川沿いに位置したところから付けられた名称です。

  私は、加古川の東側にあるのに「西河原」と言うのは、てっきり「加古川の流路が変わったためだろう」と思いこんでいました。

  確かに、加古川は洪水のため、幾度となく流路を変えましたが、「西河原」は明治10年の村名で、加古川町の方向から見て付けられた名称です。

  私の思いこみであれば、たいしたことはないのですが、加古川市中学校社会科の副読本『私たちの郷土・加古川』に次のような記述があります。

   「加古川市・高砂市全図」で「西河原」や「岸」「中津」と言う地名をさがしてみて・・・

  これらの地名からも分かるように、かつて加古川は固定した流路をもたずに、今とは全然違う場所を流れていたのよ・・・

  私たち、加古川市住民としては、川を中心にして考えてしまいがちです。しかし「西河原」は加古川町(かこがわまち)、つまり東の方向からみた名称です。次回の改定で訂正して欲しい。

  なお、加古川町が「本町」の名称に改称したのは、昭和26年1月1日のことです。地図をご覧ください。たしかに、「西河原」は「本町」の西にある。

*地図の太い線(寺家町商店街を通る道)は旧山陽道

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加古川町探訪:加古川町誕生

2006-12-30 09:06:05 |  ・加古川市加古川町

5a05411  明治22年4月1日、全国的に市町村の再編が行われました。兵庫県では神戸市・姫路市が誕生したのもこの時です。

  加古川地域でも加古川町(現:本町-地図では「本」と記している)・寺家村・篠原村が合併して、新しく加古川町が誕生し、備後村・植田村・小安村・北在家村・粟津村・木村・西河原村・友沢村・稲屋村が合併して鳩里村(きゅうりむら)が、そして河原村・中津村・大野村・溝口村・美乃利村(明治9年、間形村と大野新村が合併して誕生)・平野村が合併して氷丘村が誕生しました。

  当時の村の位置については、昨日のブログの地図をご覧ください。

  さらに、鳩里村は昭和4年に、氷丘村は昭和12年に、それぞれ加古川町と合併し、現在の加古川町の原形ができたことは昨日のブログでも書いたとおりです。

  少し、付け加えなければなりません。

  まず、備後村の件です。備後村は鳩里村誕生以前の明治11年、北備後と南備後に分離し独立した村になりました。

  そして、西河原は明治10年に加古川町から分離し、鳩里村に編入され独立しました。記録がなく、分離の理由は分かりません。

  なお、鳩里村の名称は、鶴林寺(加古川市加古川町北在家)が「班鳩寺(はんきゅうじ)」とも呼ばれたことから、その「鳩」の一字をもって村名にしたと『加古郡史』は説明しています。

  氷丘村の名称については、7月8日のブログ「日岡 VS 氷丘」をご覧ください。

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加古川町探訪:もとは印南郡

2006-12-29 09:07:45 |  ・加古川市加古川町

C2a796a6_1  右の地図は。「元禄播磨絵図(部分)解読図」から、さらに現在の加古川市加古川町の部分だけを残したものです。

  地図の加古川村・木村・友沢村・稲屋村とその他の村との間に境界線があります。

  これは郡境を表し、左側(西)は印南郡、右側(東)は加古郡です。

  その昔、郡境が決められた時、ここを加古川が流れ、両郡の境になっていたのでしょうが、なにせ加古川は暴れ川です。幾度となく大洪水をおこし流路を変えました。

  流路が現在のように定まってからも、加古川村・木村・友沢村・稲屋村は印南郡のまま残されました。

  しかし、これらの村々は印南郡に属しているとは言うものの地理的な関係から、加古川東岸の村々との結びつきを強めていきました。

  そして、明治22年4月1日、新しく町村合併が行われ、加古川村、鳩里村(友沢村・木村・稲屋村を含む)、氷丘村が誕生しましたが、その時、加古川村・友沢・木村・稲屋村は加古郡に編入されたのです。

  そして、昭和4年に鳩里村(きゅうりむら)が、昭和12年に氷丘村がそれぞれ加古川村と合併し、現在の加古川町が誕生しました。

*加古川町誕生の経過については、明日のブログで取り上げます。

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加古川町探訪:式内社(日岡神社)

2006-12-28 09:27:50 |  ・加古川市加古川町

_055_1  「加古川町探訪(氷丘地区を含む )」をはじめたい。

  日岡神社(写真)からはじめましょう。

  日岡神社は、式内社です。「式内社(しきないしゃ)」、聞きなれない言葉です。

  これは10世紀のはじめ、醍醐(だいご)天皇の時代に作られた規則である延喜式(えんぎしき)に、その名が見られる神社のことです。

  古代人にとって、森や山は神々の宿る場所であり、ある時は、そこに集まり神々に感謝し、あるときは政(まつりごと)を神々と共に行った場所でした。

  時はたち、やがて社殿が造られるようになり、7世紀の後半には全国的に神社の形が完成したようです。

  中央政府は、地方の豪族と結びつきを強め、勢力をさらに強めるため、全国の有力な神社をその統制下におき、「式内社」として権威づけたのです。

  加古川市付近(加古川市・高砂市・播磨町・稲美町)で「式内社」は日岡神社だけです。

  多くの神社がそうであるように、式内社に選ばれた理由は分かりません。

  きっと、日岡神社は、当時このあたりで大きな勢力をもっていたため式内社に選ばれたのでしょう。

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平岡探訪:新在家の五輪塔

2006-12-27 08:50:46 |  ・加古川市平岡町

_280   五輪塔については9月22日、10月26日のブログでも紹介した。ご覧ください。

  ここでは、平岡町新在家にある五輪塔を紹介したい。

  教信寺(加古川市野口町)から旧山陽道に沿って東に行くとサティーに突き当たり、道はいったん消える。そして、そこをこえて道は再び東に続いている。

  その道が始まるところ(サティーの東)の北側の地蔵堂に大型の五輪塔(写真)がある。

  旧山陽道は、サティーが出来る前に「日本製麻工場」がここに進出したが、この時に分断された。

  この五輪塔は、古くからよく知られていたようで、江戸時代の観光書『播州名所巡覧図絵』にも、足利左馬頭義氏の墓と伝えているが疑問である。

  境内整備のため数メートル東に移動された。その際、向も変えられた。

  銘はないが、岩本恒美氏(故人)は『加古川市の文化財』で「火輪が横に対して高いから室町時代中期をくだらない頃の作であろう」と指摘されている。

  サティーに立ち寄った時に、一度見学してはいかがだろうか。

  なお、江戸時代、この五輪塔の前の旧山陽道は、西は長崎に通じ、東は神戸の元町センター街から大丸のある交差点に出て、さらに京都・江戸に通じた大動脈であった。

  多くの大名行列もこの道を利用した。伊能忠敬もシーボルトも通った。旅人の賑わいを詰め込んだ道であった。

*「平岡探訪」を書いているが、いったんお休みをして、明日から「加古川町探訪」に出かけたい。史料、面白い話題などがありましたらお知らせください。

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平岡探訪:西谷

2006-12-26 08:34:35 |  ・加古川市平岡町

_277  西谷新村(西谷)は延宝七年(1679)、高畑村の庄屋・彦左衛門が開発して、新しくできた村である。

  高畑村から独立した村であることは、名前からも容易に想像できる。

  『加古郡史』に面白い話がある。

   ・・・・この地を高畑村と新在家が争ったとき、加古新村の加古才兵衛が、西谷と言うからには高畑の土地に相違ない。新在家の地なら「東谷」と称したであろうと決済した・・・

  そして、西谷の八幡社(写真下)は、その才兵衛が自分の村から勧請した社であるという。八幡社の東の溝が高畑村と西谷新村の村界である。

_278

  この溝(写真上)の部分の辺りが若干低くなっている。

  この溝は用水で、寺田用水の高畑分水が源太池(日本ハム工場は源太池の一部を埋め立てて建設された)に流れ込み、ここから、さらに二俣へ流れている。

  西谷新村は、昭和25年加古川市との合併に伴い「西谷」と改めた。

  *『古地名新解・加古川おもしろ誌』(石見完次著)参照

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平岡探訪:善良庵

2006-12-25 10:15:50 |  ・加古川市平岡町

C0a94d2e  加古川バイパスの南、「乾角」のすぐ近くに、小さな森がある。そこに善良庵(ぜんりょうあん)があった。

  善良庵について『加古郡史』は次のように書いている。

   曹洞宗  善良庵   本尊十一面観音仏

   加古郡平岡村の内高畑村

  明室玄珠尼、寛永五年(1625)本庄村(播磨町に)に当庵を開創す。後、宝暦二年(1752)これを本村(西谷村)に移し・・・ 

  善良庵については、野口町北野の岸本為次氏(故人)の研究もある。内容の一部を見ておきたい。

   「・・・寺家町組西谷村の加古源右衛門秀信は、粟津(加古川市加古川町)在であったが、西谷村に分家して酒造業を始めた。加古家は信心深く源右衛門秀信は善良庵を建立した・・・」

   若干、『加古郡史』と食い違いがあるが、西谷へ善良庵を移動し建立したのは加古源右衛門らしい。

  今は朽ち果てて善良庵はないが、善良庵跡には源右衛門を記念する碑が立建てられている。

  この碑は源右衛門の後を継いだ秀麻の25回忌に、その子の源兵衛が功績を碑文にして後世に残したものである。

  なお、加古家の子孫は、明治のはじめ木下家に籍を移し、木下姓と改め今日にいたっている。そのため、当時を偲ぶ大厨子・仏像・位牌などは西谷の木下家に移され供養されている。

 *お詫び:今日のブログで「村方困窮」についてとりあげたが、この記事は11月14のブログで、すでに紹介している。そのため「善良庵」ついて急遽とりあげた。

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平岡探訪:村方困窮

2006-12-25 09:07:06 |  ・加古川市平岡町

C4ff9878   天保3年(1832)は、日照つづきで不作。同4年は長雨で、またまた不作。さらに、6年、7年13年と凶作がつづいた。

  とりわけ、7年から8年にかけては、全国的な大飢饉になった。

  平岡地域も例外ではなく、生活は困窮を極めた。一枚の文書(加古川市所蔵)がある。

  「村方困窮につき御見聞くだされたき願書」

   乍恐奉差上願書之事(おそれながら、差し上げ奉る願書のこと)

          寺家町組

                  高畑村

  この訴えの結末はわからない。「天保15年(1844)には村の困窮はひどくなり、特に耕作者のいなくなった田畑が100石にもおよび、それを村の惣作田(そうさくでん)として維持しているが、それもうまく行かない。

  そのため年貢に差し障り、貧しい農民は年貢が納められず、村では借金をして何とか間に合わせている状態である・・・」と領主に救いを願い出た。

  「惣作田」とは田畑が荒廃した場合、その田畑を村中で耕作し、年貢を納入する田のことである。

  きっと、生活が苦しく奉公に出たり、年貢が納めきれず逃亡し、多くの家が絶えてしまったのであろう。

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平岡探訪:土山荘

2006-12-24 09:25:11 |  ・加古川市平岡町

C1c5b885  「土山」(加古川市)について、。『荘園志料(上巻)』(角川書店・清水正健編)は、次のように解説している。

  土山荘・・・延元四年の文章にみえて、亦(また)薬師荘とも号す。・・・・野口荘内に土山村存す。

  また、『ひょうごの地名』(神戸新聞出帆センター・吉田茂樹著)では「(土山は)市の東部にある地名で、『広峰文書』延元四年(1339)の「土山荘」に由来する。おそらく元は『土山(ハニヤマ)」と称され、良質の埴土を産出した所と思われる」と説明している。

  土山は、広峰社(姫路市)の支配下の荘園であったと言う。

  『荘園志料』の「・・・亦、薬師荘とも号す、・・・」について、元神戸大学の石田善人先生(故人)は『兵庫史学(26)』で、「・・・播磨の国、土山荘地頭職(じとうしき)(領家は奈良の薬師寺であり、薬師寺を支配した興福寺がこれに関係する)も広峰社にあった」と述べておられる。

*地頭職・・・荘園・公領の管理権・租税徴収権などをもつ職務・権利のこと

  話が、ややこしくなってきた。つまり、土山荘を支配する広峰社は、奈良の薬師寺・興福寺とも関係があったというのである。

  そして、広峰社の支配下にあると言うことは、同時に薬師寺の支配下の荘園でもあったと言うことで、そのため土山荘は、薬師荘ともよばれていた。

*図は「加古川周辺の荘園分布図」(竹内理三『荘園の分布』-吉川弘文館より)

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平岡探訪:国鉄電化・東加古川駅新設

2006-12-23 09:28:34 |  ・加古川市平岡町

5f779fb3 《国鉄(JR)の電化》

  国鉄(JR)の電化は市民の願いであった。

  昭和26年9月30日、「加古川勤労通勤者の会」が市長・市会議員・加古川市駅長等が参加し、市役所(現:加古川公民館で集まり、次のような決議をした。

  ・・・西明石~姫路間の鉄道乗車の激増により、通勤時の混乱は、終戦当時に近似。産業能率の低下は、甚大なるものがあり、我らは国鉄電車化により一日も早く解決されるように実現を要望する・・・

  その後も猛烈な運動が展開され、昭和31年、ようやく電化工事が始まった。そして、昭和33年2月27日待望の試運転車が走った。

F3d47e90   《東加古川駅》

  この時、まだ東加古川駅はなかった。東加古川駅が新設されるのは、昭和36年10月1日である。

  東加古川の新設以後、平岡町の人口はまさに「うなりのぼり」の状態で増加し、辺りの風景は一変した。

写真上は、電化完成を祝う加古川駅、下は開業した国鉄(JR)東加古川駅。共に『加古川市議会史』より。

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平岡探訪:シーボルト

2006-12-22 09:00:19 |  ・加古川市平岡町

873d1b8c_1   「平岡探訪」を再開したい。今日は、歴史教科書でおなじみのシーボルトの話です。

  ドイツの医学者で博物学者であったシーボルトは、文政6年(1823)、長崎の出島の商館医師として日本に赴任した。

  文政9年、出島商館長に随行して、江戸参府の旅行をしている。143日間の旅行であった。その時、シーボルトは、日記『江戸参府紀行』を書いている。

  一行が下関から船で出発したのは3月1日で、室津には、7日に入港した。

  一行は姫路で宿泊し、10日、朝9時に姫路を出発し、高砂・曽根を見学し、その日は加古川町で宿泊した。*この時のようすは後日、「加古川探訪」で、後日紹介の予定。

  『江戸参府紀行』の一部を読んでみたい。

  「・・・三月十一日、好天に恵まれ、われわれは六時に加古川をあとにした。我々の眼前には広々とした平野がつづき、皆米が作られていた。ただ若干の畑には、小麦や大麦などのほかの穀物が植えてあった。・・・・

  われわれは西谷(現:加古川市平岡町西谷)で休む。ここから先へ行く道々、いくつかの池を見た。それは水田の灌漑のために、人力をもって自然に挑戦で作ったものであって心地よい松の森をめぐらしてある。・・・・」

*写真は晩年のシーボルト

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加古川の戦争(31)・血染めのワッペン

2006-12-21 10:20:45 |  ・加古川の戦争

D62cecaf  昭和6年(1931)、「満州」で始まった戦争は、その後中国全土に広がった。

  平野(加古川市加古川町)のSさんのお宅に、血のあとの残る縦6.5センチ、横10センチの一枚の布がある。

  昭和12年9月14日、場所は黄河が大きく北へ向きを変える山西省だった。17・8のまだ童顔の残る中国兵は震え、その顔は引きつっていた。

  部隊長は、その兵隊から「敵側」(中国)の兵力を聞き出した後、Sさんに命じた。

    「お前やれ(殺せ)・・・」

  当時「上官の命令は朕(天皇)の命令と心得よ」と教えられており、反対することは出来なかった。

    「最後の望みは・・・」

  少年は、5センチぐらいの木の枝をグッと噛み、目隠しを払いのけ、Sさん等をにらみつけた。

  少年の左胸に銃剣を突き刺した。その日、9月14日は、お父さんの4回目の命日だった。

  遺体を埋める時、少年の袖からワッペンをはずした。ワッペンには「打倒侵略的日本人」と白く染め抜いてあった。

  当時Sさんは21才。復員後毎月14日には父の位牌と一緒に、この血染めのワッペンを並べて、読経をされている。

  思い出したくない、昭和の一こまを新聞に投書された。

*「加古川の戦争」はしばらくやすみます。

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加古川の戦争(30)・高田さんの日記(日中戦争)

2006-12-20 08:29:39 |  ・加古川の戦争

_029_2  1937年(昭和12)7月7日、日本軍は北京郊外で中国軍と衝突事件をおこした。これをきっかけに華北一体に戦線を広げた。

  中国の中心部でのこの戦争は、満州事変とは全く違ったものになった。中国人の激しい抵抗があった。

  この時、共産党と国民党は、お互いに意見をことにしていたが、両党は日本に対して共に戦うことで一致した。

  日中戦争に従軍した高田実さん(加古川市加古川町大野)の日記が残っている。昭和13年10月6日の日記を読んでみたい。

  「・・・昨夜どうも寝れない。暑いし、蚊はでるし・・・・11時頃ウトウトする。

  ようやく寝につき、故郷の夢の真っ最中、出発の声に起こされる(午前3時)。

  またも高い山に登る。雲が山の中腹にかかって、ちょうど内地の瀬戸内海のように見える。オオ太陽が出だした。絶景だ。これで、東洋が平和ならどんなに幸福だろう・・・・

  さて、朝食にかかる。三小隊の者の飯がない。皆、分けあって食べる。我も浜上と一つの飯を仲良く食う・・・・」

  日記は、この日で終わっている。この日の午後戦死。場所は、湖北省新陽県。行年21才。

  日記に「・・・ようやく寝につき、故郷の夢の真っ最中・・・」とある。夢には、日岡山・播磨平野、そしてゆったりと流れる加古川の風景があったのだろう。

*写真は高田実さんの墓(日岡公園墓地)

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加古川の戦争(29)・南京陥落(昭和12年)

2006-12-19 09:04:12 |  ・加古川の戦争

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  写真(右)は、『加古川・高砂の100年(加古川市・高砂市・稲美町・播磨町)』(郷土出版社)に掲載の写真である。

  南京陥落の旗行列で、「加古川尋常高等小学校(現:加古川小学校)の生徒たちが加古川の町を旗行列で歩き、祝った」と説明がある。

  日本軍は、日中戦争で戦線を拡大し、中国軍は、南京に撤退をはじめた。

  中支方面軍(司令官は陸軍大将松井石根)は、これを追撃。12月13日南京を占領した。

  日本軍は、南京で中国民衆にたいする恐ろしい大虐殺事件をおこした。この南京大虐殺は世界中に大きなショックをあたえた。

  当時、「ナンキン・アトロシティ(Nankin Atrocity)」として世界中に知られたこの虐殺も、日本国民には知らされなかった。

  国民には、「中国の首都・南京を陥落させた」とのみ知らされ、祝賀一色で、写真のような祝賀行事が全国で行われた。

  日本国民が、南京事件の事実を知るのは、敗戦後の「東京裁判」によってであり、そこでは、耳をふさぎ、目をそむけたくなるような大虐殺の証言・証拠が提出された。

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加古川の戦争(28)・「復員」した梵鐘

2006-12-18 09:59:39 |  ・加古川の戦争

_026_2  今日は加古川市の話題ではなく、高砂市曾根町の「復員」した梵鐘(写真)を紹介したい。

  曾根天満宮の西の道を隔てた南西に、観音堂がある。十一面観音を祀っいる。

  もとは、天満宮の北東部にあったが、神仏分離により、今の場所に移された。

  鐘には、元禄十年(1697)の銘がある。

  鐘をよく見てほしい。鐘に5つの直径1センチほどの穴があけられている。

  この穴こそ、かつての戦争の名残である。

  戦争の末期、金属不足のため、寺社の金属類も供出を命じられた。この鐘も、お国のに「出征」した。

  これら5つの穴は、その時材質検査のためにあけられた。

  幸か不幸か、鋳潰される前に終戦になり、集積地に放置されていたものを、かつての住職が「復員」させた。

  鐘楼には撞木はなく、地元でこの鐘の音を聞いた人はほとんどいないのではないか。そのため、梵鐘について知る人も少ない。

  梵鐘の出征は、全国各地で行われた。中には、これに抵抗した住職や檀徒もあったというが、ほとんどは進んで名誉の応召に応えたようである。

  平和のシンボルである梵鐘までを人殺しの武器にした。

  水田さんは、このような日本の仏教の転落を指摘し、「過去の過ちを再び繰り返さないための戒めとして、観音堂の梵鐘に開けられた穴は記憶されるべきである」と主張されている。

*『靖国の真実-玉砕・飢餓・刑死(兵庫人権問題研究所)』(水田全一著)参照

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