ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(328):柏尾村(現:広尾東)の百姓が別当の開拓

2012-07-10 11:46:47 |  ・加古川市東志方

下記の別当の説明は『志方町誌』からの引用です。

太字のか所に注目してお読みください。

<別当(べっとう)>

「ここ(別当:東志方野尻)は城山の東北の擁で、城山から尾根づたいに下りて来たところである。

城があった頃は、常時ここに馬を置いて、事ある時には急使を走らすようにしてあったという。

別当の名もその故であろう。

ここはまた城山の麓づたいに柏尾(現:広尾東)に出る道でもあるので、その後柏尾から移り住む人があって、現在三軒(昭和44年現在)、みな久保田姓である。」

   

  柏尾村(広尾東)の百姓が開発を!

Fb790e26右の明治26年測量の地図で別当(當)をお探しください。

地図の右上に別當(以下別当とする)があります。

確かに、広尾東から城山の尾根づたいに別当へ山道が伸びています。

前回、江戸時代の柏尾村(現:広尾東)を説明しましたが、柏尾村は決して裕福な村とはいえません。

絶えず、日照りで悩まされた地域のようです。

そのため、農業を補うため商をしていた人も多くおり、記録では見つけていませんが、出稼ぎに出かけた人も多かったのではないかと想像しています。

また、柏尾村の人は新たな新田の開発地を捜したことでしょう。

 その一つが別当でした。

現在、野尻には玉田・坂田姓がほとんどですが、その中にあって、野尻の本村から少し南の別当では、三軒すべて(『志方町誌』が制作された昭和44年時点)が久保田姓です。

現在も、広尾東(旧柏尾村)では久保田姓が数軒あります。

広尾東から別当まで歩いてみたいのですが、先日、近所でヘビに出会いました。

私はヘビが大の苦手です。

ヘビが姿を消す冬にでも探検することにします。

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志方町を歩く(327):古い集落の風景を残す広尾周辺

2012-07-09 11:58:19 |  ・加古川市東志方

   

  古い集落の風景が残る

Cd47be0c 右の地図を見ています。

明治26年(1893)大日本陸軍陸地測量部測量(明治38年第一回修正)の地図です。

最近、この地図に描かれた場所を、度々ドライブしたり、歩きまわります。

地図を持って。

もちろん持っている地図は最近作成されたものです。

右の地図を見ていて、気づくことは最近の地図とほとんど同じことです。

大きく違うのは、「細工所」を通る北条線が、現在高畑のところで集落の西を通っているのが、東を通っていることぐらいです。

その外では、この地図でわかりにくいのですが、水田の圃場整備はできていないことぐらいです。

ということは、明治の中ごろから広尾村あたりの集落の風景はあまり変化がなかったようです。

江戸時代の村絵図がないので詳細は分かりませんが、江戸時代もあまり変わっていないようです。

明治14年の人口と集落の戸数あげておきます。

  広尾村  家数 185戸 人口875

  高畑村  戸数 107戸 人口435

  岡村   戸数  44戸 人口194

地図・人口・戸数等から江戸・明治時代の村の様子を想像ください。

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志方町を歩く(326):柏尾村(現・広尾東)②・雄村か?

2012-07-08 08:21:39 |  ・加古川市東志方

  両村を比べてください

先に紹介した、吉広村と柏尾村の明細帳を比べてください。

<吉広村(現:広尾西)明細帳より>

一 高、332336

一 用水、7割ため池掛、3割谷川の水

一 家数、83軒 人口 301人 (男158人・女143人)

 <柏尾村明細帳より>

一 高332128

一 用水、ため池掛のため旱魃がちな村

一 家数、122軒 人口478人 (男261人・女 214人)

*男女の人数と合計は合わないが明細帳の数字のまま

 江戸時代の柏尾村(現:広尾東)

A4c6bdff 両村の収穫高はほとんど同じ規模の村ですが、家数を見てください。

吉広村(現:広尾西)の家数は83軒で、柏尾村(現:広尾東)の家数は122軒です。

単純に一軒当たりの平均収量を出しておきます。

吉広村は約4石で、柏尾村は2.7石です。

吉広村もため池にたよる生産の不安定な村でしたが、柏尾村は更に経済的な基盤が弱い村のようです。

『志方町誌』の「柏尾」の項には次のように書いています。

「この村は、かなりの雄村であったらしく、池を築き溝手を整備して水利にカを入れている。奥の池が古く、その下に上の池がある。

この池の中央あたりに古い堤防のあるのは拡張した跡である。

耕作面積24.5町歩で一戸平均約3.5反、昔から商売がさかんであった。

呉服屋、表具屋、豆腐屋、こんにゃく屋、大工、左官、ブリキ屋、一通りの店が揃っている。

綿をつむぐ車の製造をしていた車屋、傘屋、煙草屋、桶屋、こう屋、その他、西木戸、柳町、等の屋号が残っている。・・・」

以上のようです。一戸当たり平均3.5反の村では、町誌が言うように雄村とはいえません。

それに、確かに屋号から見る限り、多くの商人がいるようです。

柏尾村の商は農業だけでは生活できないために補助手段としての商売であったと考えられます。

なお、町誌には、村の有力者の存在があったことを紹介しています。

これら有力者は、貧しい農民から土地を買い集め大地主に成長し、なお醤油などの生産に携わるのが一般的でした。

柏尾村(現:広尾東)もその例に当たると思うのですが、史料にもとづく紹介ではありません。後日さらに、詳細に調べてみます。

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志方町を歩く(325):柏尾村(現:広尾東)①・干損の村

2012-07-07 00:13:32 |  ・加古川市東志方

広尾東を少し歩いてみまそう。今日の「柏尾村(かしおむら)探訪」は、文章・内容ともに「志方町を歩く(320):江戸時代の吉広村探訪

」とほとんど同じです。ご了解ください。

復習を兼ねてお読みください。

  江戸時代の柏尾村(現・広尾東)探訪

9fb4f90e広尾村は、明治9年(1876)印南郡吉弘村(よしひろむら:現・広尾西)と同郡柏尾村(かしおむら:現・広尾東)の合併により誕生した集落です。

広尾村は、それぞれの村名の一字ずつをもって新しい村名としました。

したがって、江戸時代現在の広尾東は独立した「柏尾村」でした。

柏尾村は、どんな村だったのでしょう。

『加古川市史(第五巻)』に「一橋徳川家領村々様子大概書」(明細帳)が紹介されています。

それに、柏尾村の様子が少し紹介されていますので読んでおきます。

明細帳の年代はありませんが、柏尾村の明細帳に天明五年(1785)の検地の記録があるので、この明細帳は、それ以後の江戸時代の後半の文書です。

主な、内容を拾っておきます。

それでは、江戸時代の柏尾村(現:広尾東)の探訪に出かけましょう。

この明細帳から、江戸時代の後半の柏尾村のようすを想像ください。

   

   柏尾(現:広尾東)も旱損の村

  <柏尾村明細帳より>

一 高332128

一 用水、ため池掛のため旱魃がちな村

一 家数、122軒 人口478人 男 261

               女 214人(男女の人数と合計は合わないが明細帳の数字のまま)

一 農業の合間に男は薪を取り、女は木綿を織る。

一小物成として成山年貢銀あり。

一 年貢等は、加古川右岸(東岸)芝村:元、平荘町養老)より高砂・大坂・江戸へ積み出す。

一 小川三筋あり。

一 この村は、元大久保出羽守領。

次号で、柏尾村(広尾東)の明細帳から少し考えます。

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志方町を歩く(324):旧吉広村の移動②・困窮の村

2012-07-06 07:43:37 |  ・加古川市東志方

   旧吉弘村困窮す!

Ff7c5fda前回の続きです。

正念寺の石碑から、遅くとも延宝二年(1674)まで吉広西の南の山麓に真言宗「正念寺」が存在していたことがわかりました。

とするなら、江戸時代の初めの頃正念寺があり、旧吉広村は正念寺を中心にしてあったと想像されます。

でも、旧吉広村はずいぶん困窮した村のようです。

『印南郡誌』には、次のように書いています。

「昔時、大福寺と称し現今の地より正南五町余りの山麓にありしが、中頃、追々貧窮に迫るを嘆き、村民協議の末全村をあげて現今の地に移住し縁起を祝いて吉広と改めたりという」そして、「いつの頃かは分からないが、荒蕪地である中央の平地に進出したものであろう」と記しています。

印南郡誌にある「大福寺」は、正念寺のことであろうと思われます。

しかし、移住の時期や理由を明らかにしていません。

旧吉広村が現在場所に移ったのは、次の理由などから江戸時代の最初の頃と想像します。

   旧吉弘村の移住は江戸時代初期のころか

 少し、余話をしておきます。

「・・・天下分け目といわれた関が原の戦いを中心として、その前後6070年ほどの間、つまり戦国初期頭から4代・綱吉の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史をとおしても、他の時代に類例がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代である。

・・・

戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、すぐれた武人であると同時にまたすぐれた治水土木家でもあった・・・」

以上は『江戸時代(大石慎三郎著)』(中公新書)からの引用です。

つまり、戦国時代に発達した築城・鉱山の開発・土木などの技術が、平和になった江戸時代に農業に転用され、江戸の初期は一大開発時代をむかえたのです。

日本の農村の原風景が完成するのは、江戸時代の初めの頃です。

   大干ばつ

それに、江戸時代の初め大干ばつに見舞われました。

特に、承応三年(1654)の大干ばつでは、飢で死ぬ人が多くでました。

この年の旱魃はすごいものでした。田畑を潤す水はありません。当然、秋の収穫は、ほとんどありませんでした。

この時の干ばつは、もともと水の得にくい旧吉広村を直撃したことと想像されます。

旧吉広村の百姓たちは、全村の意思として村を棄てたのでしょう。それは、大干ばつの後、少し時期をおいた江戸時代の早いころであったと思われます。

その頃は先に紹介したように農業技術が発達し、近隣でも新田が開かれた時代です。この頃に移住を決めていなければ、他地区の百姓の開発が始まり、開発できる土地はなくなっていたと考えられます。

ですから、百姓の命である長池・徳池・枝池等・後ノ池等をつくり、現在の吉広村づくりをしたのは江戸時代初期のことと推測されます。

きょうの報告も確かな史料に基づくものではありません。当時の状況からの推測にすぎません。

ご批判ください。

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志方町を歩く(323):旧吉広村の移動①

2012-07-05 08:37:44 |  ・加古川市東志方

   村の移動

 「志方町を歩く(314)・円照寺(7)、まぼろしの正念寺」の復習から始めます。

旧吉広村(現:広尾西)に、むかし「正念寺」という寺院があり、「正念寺は、真言宗の寺院で、嘉吉元年(1480)の戦禍で消失した」という伝承があります。

広尾西集落南の山麓に「正念寺池」があり、地元では古くから、正念寺池が正念寺跡であるとの伝承があります。

しかし、寺院に関連する建物跡や、瓦などの出土もなく、その実体は不明のままでしたが、最近近くの山中から板碑(石製碑)が発見され、「正念寺」に関すものであることがわかりました。

その石碑から、遅くとも延宝二年(1674)まで真言宗「正念寺」が存在していたことがわかりました。

   旧吉広村は正念寺のあたりに

189639feもうひとつ伝承があります。

吉広村(旧吉広村と呼んでおきます)は、もと正念寺のあたりにあり、いつの頃か、今の場所に移ったという伝承です。

正念寺の場所が証明されました。

どうやら、正念寺のあたりに集落があったと考えられます。

寺の周りに何軒かの集落(旧吉弘村)があったのでしょう。

広尾西のKさんは、「旧吉広村で病気がはやり今の場所に移転した・・・」と話されましたが、村全体に広がるほどの病気の流行であるなら当然旧吉広村だけではなく、他の村でも同じ病気の流行があったと想像します。

病気説ではなく、別の理由を想像しました。

正念寺のあった場所(旧吉広村)の背後の山はあまり大きくはありません。したがって水田を潤す十分な水がありません。

また、旧吉広村も水田の水はため池にたよっていたと想像されるのですが、大きな池をつくる場所もあまりなさそうです。

旧吉広村は、水の確保が困難な土地だったようです。

そのために、旧吉広村はあまり多くの人を養うことができなく、比較的小規模な村であったと考えます。

その上に、旱魃の年には農民を塗炭の苦しみに追いやりました。

どうやら、旧吉広村が今の場所に移ったのは、水を求めての異動ではなかったかとも想像します。

史料があっての推量ではありません。

次回でも、もう少し村の移動について続けます。

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志方町を歩く(322):円照寺⑩・ノウゼンカズラ

2012-07-04 08:07:51 |  ・加古川市東志方

   

    ノウゼンカズラ 

007もし、ノウゼンカズラが一輪だけ咲く花であるなら、名前を知らない花かもしれません。

ノウゼンカズラは、一面に咲きます。

もし、ノウゼンカズラが野原に咲く花なら、「美しい花だ」と思うだけかもしれません。

ほとんどの場合、ノウゼンカズラは、民家の庭先や玄関に咲いています。

そして、華麗に飾っています。

この花はいつの頃からあったのだろう。

私の記憶には、子どものころはなかったような気がしています。

HPで調べると「平安時代の9世紀に中国より渡来」とあります。

正岡子規の俳句にも詠まれているそうですから、私の周囲で見かけなかっただけのようです。

   

   円照寺が一番輝く時

昨日、大雨警報が出ていました。

でも、円照寺の住職から、「7月の初め、ノウゼンカズラが見事です」と聞いていました。

昼から雨は小やみになりました

テレビは、九州の大雨のニュースを伝えています。

明日あたりは、大荒れの天気になるかもしれません。

そう思うと、急に円照寺へ出かけたくなりました。

・・・・・・・

咲いていました。見事に咲いていました。

落ちついたお寺を背景にしたノウゼンカズラの華やかさは、民家のそれよりも数倍見事です。

境内で偶然に住職とお会いしました。

撮影ポイント教えていただきました。このブログの写真は、そこから撮影したものです。

境内の広がりの中でのノウゼンカズラをご覧ください。

このブログでは円照寺について紹介しましたが、最後の紹介は見事なノウゼンカズラです。

いまが見頃です。お出かけください。

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志方町を歩く(321):江戸時代の吉弘村探訪②

2012-07-03 08:01:27 |  ・加古川市東志方

   

   吉弘は旱損の村

  <吉弘村(現:広尾西)明細帳より>

Fd58cb38一 高、332336合   吉広村

一 用水、7割ため池掛、3割谷川の水

一 家数、83軒 人口 301人 (男158人・女143人)

一 農業の合間に、男は薪を取り草を刈り、女は木綿を織る

一 小物成 小松山年貢銀あり

一 年貢等は、加古川右岸(東岸)芝村(芝村:現、平荘町養老)より高砂・大坂・江戸へ積み出す

一 小川二筋あり

一 威鉄砲一挺

一 この村は元大久保出羽守領。

以上は前号で紹介した吉弘村の明細帳の主な内容の復習です。

吉弘村の周辺には水田が広がっています。

水田にとって最も大切なものは、なんといっても水です。

集落の南の一番低い所を西川が流れています。

でも、西川はふだん水がなく、それに低い所を流れており、集落周辺の高い土地を潤してはくれません。

そのため、吉弘村は332336合の収穫のある村ですが、用水のほとんどは城山から流れ出る水をいったん「ため池」に溜め、それを水を必要な時に使いました。

谷川の水も利用しました。

しかし、毎年決まって雨があるわけではありません。しばしば、雨の少ない年もありました。

そんな時は、七分植えや五分植えの方法が取られました。

ひどい場合は、旱魃となり収穫はなく百姓を苦しめました。

記録にはないのですが、明細帳から江戸時代の広尾村の様子が想像できます。

しかし、百姓はよく働きました。

農業の合間には、男は薪を取りに山へ出かけました。

そして女の人は、木綿で布を織りました。

   

  威鉄砲

威鉄砲(おどしてっぽう)一挺というのは、イノシシなどの動物が畑を荒らしに山里に降りてきます。

そんな時のために許可をもらって農村に備えている鉄砲のことです。

威鉄砲でイノシシ等を威し、山へ退散させたのでしょう。

時には撃ち殺し肉は農家の食卓にあがったこともあったことでしょう。

・・・・・

そして、吉弘村の特徴は、多くの東志方の村々がそうであったように天領(幕府領)でした。

そのいきさつについては「志方町を歩く(4852)」をご覧ください。

なお、吉弘村は、加古川の河岸(かし・川の港)・芝(加古川市平荘町養老)と結びつきが強かった集落であったことは「志方町を歩く(309)・加西道」をご覧ください。

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志方町を歩く(320):江戸時代の吉広村探訪①

2012-07-02 10:36:57 |  ・加古川市東志方

   江戸時代の吉弘村(現・広尾西)探訪

Eccb34e8広尾村は、明治9年(1876)印南郡吉弘村(よしひろむら:現・広尾西)と同郡柏尾村(かしおむら:現・広尾東)の合併により誕生した集落です。

広尾村は、それぞれの村名の一字づつをもって新しい村名としました。

したがって、江戸時代現在の広尾西は独立した「吉広村」でした。

吉弘村は、どんな村だったのでしょう。

『加古川市史(第五巻)』に「一橋徳川家領村々様子大概書」(明細帳)が紹介されています。

それに、吉広・柏尾村の様子が少し紹介されていますので読んでおきます。

明細帳の年代はありませんが、同時に記録された柏尾村の明細帳に天明五年(1785)の検地の記録があるので、この明細帳は、それ以後の江戸時代の後半の文書です。

主な、内容を拾っておきます。

江戸時代の吉弘村(現:広尾西)へタイム・スリップしてみます。

この記録から、江戸時代の後半の吉弘村想像ください。

   水はため池にたよる

  吉弘村明細帳より

一 高、332336合   吉広村

一 用水、7割ため池掛、3割谷川の水

一 家数、83軒 人口 301人 (男 158人・女143人)

一 農業の合間に、男は薪を取り草を刈り、女は木綿を織る

一 小物成 小松山年貢銀あり

一 年貢等は、加古川右岸(東岸)芝村(芝村:現、平荘町養老)より高砂・大坂・江戸へ積み出す

一 小川二筋あり

一 威鉄砲一挺

一 この村は元大久保出羽守領。

今回は、明細帳の紹介のみです。次回は、この「明細帳」を、一緒に分析することにしましょう。

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志方町を歩く(319):広尾村の地租

2012-07-01 09:21:28 |  ・加古川市東志方

広尾村の地租改正

1_002『播磨地種便覧』から明治時代の広尾村の税をみておきます。

同書の前書きに「一、戸数人口は明治14年1月御調ヲ以載ク」とあるので、明治14年の数字です。

 明治新政府は、明治6年(1873)から「地租改正」を行い、米を納める年貢をあらため、土地の所有者から貨幣で定額の地租を取ることにしました。

地租改正では、耕地の面積をはかりなおし、新たに地価を定め、その3%を地租としました。

一般的に、新政府の収入が減らないように高めに設定されたため、農民の負担は江戸時代と比べても軽くなりませんでした。

そのため、各地で「地租改正」に反対する激しい一揆がおこり、これに押された政府は、地租を地価の2.5%(明治10年)に切り下げました。

『地種便覧』は、各村の人口、家数、田、畑の面積ならびに地租の額等を記録した本です。

今日の報告は数字ばかりです。史料としてご覧ください。

広尾村の地租・地価(明治14年)

<広尾村>

  戸数 185

  人口 875

田 71町1反69

         *地価  6481060

          地租  163040

(畑か~山は地租が少ないので数字は省略)

畑    9町 6421

宅地   5 -->

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志方町を歩く(318):堂前の地蔵さん(広尾)

2012-06-30 08:02:50 |  ・加古川市東志方

いま広尾付近を散策していますので、この記事は三度目の紹介になりますが、掲載しておきます。

堂前の地蔵さん(東志方広尾東:旧柏尾)

Shikata_045この六地蔵さん(写真)は、志方町広尾東のバス停のそばのお堂の前にあります。

六地蔵さんは、ふつう墓地の入り口に並んでいるのですが、ここは墓地ではありません。

もともとは、墓地にあったものがここに移動したのかもしれません。

ここの六地蔵さん、石棺の蓋に三体ずつ上下二段に分けて、舟形光背の中に浮き彫りされています。

室町時代の作と推定される古いものです。

不思議なことがあります。よくご覧になってください。

六地蔵さんの左下にもう一体、小さな像があります。

この一体は、何をあらわしているのでしょうか。

供養される人物の像とも推測できるのですが、説明板(加古川市教育委員会)は、願主の像としています。

他の例から私も願主の像と思います。

そして、写真右横に小さな、享保二年(1,717)と「念仏講」と刻んだ石柱があります。

この「念仏講」と彫られた石柱が作られた頃は、きっと地蔵さんをお守りする念仏講がさかんだったのでしょう。

風のざわめきの中に念仏講の響きが聞こえてきそうです。

*「連載・郷土の石彫⑨」(神戸新聞・昭和56219日)参照

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志方町を歩く(317):広尾種子(梵字)石棺仏

2012-06-29 11:18:46 |  ・加古川市東志方

今日の話題・「広尾の種子石棺仏」は、「志方郷(27)」で藤原良夫氏が報告された研究を参照させていただきました。

    

  広尾種子石棺仏

026 志方町広尾の広尾西共同墓地は、きれいに区画整理されました。

墓地の中央部分に石造遺品(写真上)があります。

この石造物は、高さ193センチ、(埋設部の掘り出しからの高さ232センチ)、上側の幅62センチ、下側の幅76.5センチ、厚さ14.521センチです。

これは、古墳時代の石棺(石の枢)に種子(梵字)を彫った石棺仏です。

凝灰岩製の組み合わせ式石棺の底石を再利用したものです。

石棺底石材の右側部分を縦に割り、上部の左右を円弧状に加工し、板碑(いたび)のように造られています。

石棺仏の最上部中央にオン、一段下がってキリーク、その下右側にサ、左側にサクの各種子をヤゲン彫りしています。(写真下)

  

   志方町内最古の在銘石造仏

57b03004左側に銘文があり、現在は鎌倉時代後期の紀年名「正和三年(1314)と敬白」のみが解読できています。

種子(梵字)のオンは「心から仏の教えに従う」ことを意味し、キリークは「阿弥陀仏」、サは「観世音菩薩」、サクは「勢至菩薩」となり、キリーク・サ・サクの三種子で阿弥陀三尊を表しています。

広尾の円照寺・上月住職は「二十数年前まで、この石棺仏の前で土葬前の棺桶を置き読経をしていた」と語っておられます。

円照寺の前身は、真言宗正念寺と伝えています。

通称吉広山の北東山麓(円照寺の南約450メートル)に所在し、嘉吉元年(1449)の戦火で焼失と伝えられており、この石棺仏は正念寺と関係があるのではないかと想像されていますが、確かなことは分かっていません。

*「正念寺」については「志方町を歩く(314)・まぼろしの正念寺」をご覧ください。

この石造物は志方町で、在銘石造遺品としては、町内で最古のものです。

<志方町内の古い在銘石造遺品ベスト3>

  広尾・墓地  種子石棺仏   正和三年(1314)

  高畑・円福寺 宝篋印塔    康暦元年(1379)

  原・仏性寺  笠塔婆     永徳四年(1384)

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志方町を歩く(316):円照寺⑨・円照寺跡

2012-06-27 08:40:01 |  ・加古川市東志方

003   円照寺跡

「志方町を歩く(313)」で、円照寺を次のように紹介しました。

・・・月輪山円照寺は、花の寺で知られた浄土真宗本願寺派(広尾西)の寺です。

アジサイが今を盛りと咲いています。

7月の上旬になると、寺をもっとも華やかに彩るノウゼンカズラが咲さきます。

円照寺は、平成五年(1993)に、この地に移転新築されました。

もとは、この地の北方50㍍の丘陵地にある古色蒼然とした寺院でした。

山門前にある数十株の雪柳は、春、葉とともに雪白の小花がみだれ咲く様がみごとでした。

   歩いてみること 

 先日、円照寺跡へ出かけました。

 そこは、空間が広がり、寺の一部の施設や、鐘楼跡も残っていました。

004 「山門前にある雪柳」の紹介は、既に紹介されている文章の一部をお借りしましたため、実感がありませんでした。

 でも、そこに立つと、春の雪柳が見事に咲き乱れている風景が、そして、秋に咲く真っ赤なヒガンバナが想像できます。

 その時に、再度ここへきてみます。

   歴史を確かめる

 旧寺跡の前の道を登ると吉広村(現:広尾西)の庄屋さんの家の前へでます

 庄屋(堀内家)さんは、旧円照寺の隣で、両者の関係の深さが想像できます。

 また、庄屋宅の横()の道は、伊能忠敬の測量隊が通った加西道です。

 測量隊は、庄屋宅で昼食を取っています。

 その日、円照寺も接待の準備のため大忙しだったことでしょう。

伊能隊の方々は、食後ぶらりと旧円照寺を散策されたかもしれません。

 歩いてみると、そんな記録にないことを想像してしまいます。

 旧円照寺跡は、新しくなった円照寺の跡地のためか廃墟の感じはありません。

 住職が、「新しい円照寺で弱った植物をしばらくここに移すと、たちまちに元気がもどります」と言われた言葉が印象的でした。

 ここは、パワーポイントがみなぎる場所かもしれませんよ。

 ただ、不思議な地形の場所なんです。 

 以下全くの素人の想像です。

このあたりを東西に続く坂は、断層のようにも見えるのです。

 近くを、断層が通っていることが確認されているので、そんなことをつい想像してしまいます。

 もし、この文章をお読みの地質の専門家がおられましたらご意見をお願いします。

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志方町を歩く(315):円照寺(8)・原兵庫頭

2012-06-26 07:44:50 |  ・加古川市東志方

020広尾と言いながらほとんど小畑西(平荘町)に近い、広尾字二塚に、「原兵庫頭(はらひょうごのかみ)」の塚があります。

古老によれば、「塚の位置は、昔と変わらないが、もっと広く、頂上は平らで小さな丘であった」といいます。

現在は、東西5m、南北4m、高さ1mの方形区画として残っています。

塚の頂上に「原兵庫頭」の墓標(写真)があります。

表面に、「原兵庫頭之墓」、裏面に「吉廣村 家系一族建立」と記され、側面には「天正六戌寅歳」、「七月二十日卒」とあります。

「原兵庫頭は、天正六年(1578)七月二十日に亡くなり、吉廣村(現在の広尾西)の一族がこの墓標を立てた」ということです。

原兵庫頭は、どのような人物だったのでしょう。

亡くなった天正六年(1578)に注目してください。

   兵庫頭、三木合戦に死す

天正六年の志方地方の状況をみておきます。

この頃、播磨地方は、毛利に味方した三木の別所氏と信長秀吉軍が激突した戦場と化しました。

 加古川地方の城主は、ほとんど毛利に味方した三木方につき、信長・秀吉と戦いました。

まず、野口の城(加古川市野口町)が落城し、ついで、神吉城が7月に信長方の大軍におしつぶされました。

その後、信長軍は志方城へ攻め寄せました。

志方城には1.000余騎が立て籠もり、勇敢に戦い、小城にもかかわらず20日も抵抗したと言う説がありますが、この時(天正6年・8月)の戦いの詳細は分かりません。

志方城に先立つ神吉城の戦いでは、神吉方2.000の軍勢は、織田方の30.000の軍勢に押しつぶされ、そして城主(神吉頼定)も討たれました。

この時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はありませんでした。

志方城の戦いでも援軍はなかったようです。

天正六年八月、ついに志方城は落城しました。

「原兵庫頭」は、三木合戦で信長の軍勢と激しく戦い亡くなった人物のようです。

   原兵庫頭は円照寺の中興に関わる人物

また、寺記に「原兵庫頭は、嘉吉の乱で焼失した寺の再興を志し、現寺院の西に庵を建て、この時浄土真宗の寺とし、また、織田信長との戦いに参加し、一族郎党ことごとく浄土真宗を死守のために殉じた」とあります。

兵庫頭についての詳細は不明です。

現在も、広尾西に原姓があり、兵庫頭はその祖先であろうと考えられます。

この墓碑の敷地は、圃場整備後も保存され、加古川市教育委員会によって案内板が立てられています。

*「志方郷(第20号)」の「原兵庫頭」(上月輝子)参照

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志方町を歩く(314):円照寺(7)・まぼろしの正念寺

2012-06-25 08:58:17 |  ・加古川市東志方

9142ad7a「志方郷(29)」の「まぼろしの正念寺」を読んで、さっそく碑(写真)の撮影に出かけました。

石碑のありそうなところは、草むらを越えなければ行けません。

突然足元で、「ごそ・・」と動きました。蛇です。

いっぺんに草村へ突入する気持ちが萎えてしまいました。

本文の写真は「志方郷」のもの(上月正信氏撮影)をお借りしました。

蛇が消える冬にでも、再度撮影に出かけます。

   

まぼろしの正念寺

現在の志方町には17ヶ寺がありますが、かつては29ヵ寺以上の寺院があったといわれています。

現在、小字等にその名を残すものもありますが、寺名や所在地が不明になったものがほとんどです。

旧吉広村(現:広尾西)には「正念寺」という寺院があり、「正念寺は、真言宗の寺院で、嘉吉元年(1480)の戦禍で消失した」という伝承がありました。

広尾西集落南の山麓に「正念寺」という小字が残り、また溜池も「正念寺池」(写真下)と呼ばれており、地元では古くから、正念寺池が正念寺跡であると伝承されてきました。

しかし、寺院に関連する建物跡や、瓦などの出土もなく、その実体は不明のままでした。

が、広尾西在住の山本賢一氏が、近くの山中字「大谷」から板碑(石製碑・写真上)を発見されました。

その板碑の銘文は「正念寺」に関すものであることがわかりました。

板碑に書かれた内容

001碑文は、次のような内容でした。

・この寺院(正念寺)の僧の生まれは、紀州国(現和歌山県)那賀郡野上庄亀井村

・僧の名前は勢伝

・位は権大僧都法印

・塔頭(たっちゅう)の名前は利益院(りやくいん)

(勢伝が)亡くなったのは延宝二年(1674)九月九日。

碑文の語ること

碑文に刻まれた内容は、地元の伝承にある真言宗の寺院、正念寺の僧(伝勢)に関する供養の文のようです。

碑文にある「紀州野上庄」は真言宗の本山、高野山金剛峯寺と関係の深い地域で、そこから真言宗の僧が吉広村に布教に来ていたと思われます。

「権大僧都」「利益院」などの呼び名は、真言宗の僧および寺院に関係深いものです。

したがって、遅くとも延宝二年(1674)までに真言宗「正念寺」が存在していたことが想像されます。

しかし、島原の乱以降、幕府による檀家制度が強化されるなかで次第に衰退し、やがて、正念寺は廃寺となり、その跡地は溜池となり、今日にいたったのでしょう。

正念寺(真言宗)が衰え、そして円照寺(浄土真宗)に代わった理由の裏にある原因をもっと知りたいものです。

*「志方郷(第29号)」:「まぼろしの正念寺(上月昭信)」参照

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