ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

工楽松右衛門物語(77):往来手形

2013-10-12 06:34:13 | 工楽松右衛門

 「往来手形」
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このあたりで、「工楽松右衛門物語」を一度おわります。松右衛門については、まだまだ広く知られていないのが実情です。
 
司馬遼太郎氏が『菜の花の沖』で、高田屋嘉兵衛ともに松右衛門とその功績を広く紹介しました。地元としては幸運でした。
 
高砂市としても、歴史(史実)としての松右衛門の実像をもうすこし明らかにし、松右衛門を全国に売り出しはいかがだろうか。
 
先日、「ひろかずのブログ」の読者から、古文書(往来手形)を送っていただきました。
 
紹介しておきます。





  摂州八部郡兵庫津
 往来手形            佐比江新地
                        御影屋 
                         松右衛門船<o:p></o:p>

 
 
摂州八部郡兵庫津佐比江新地御影屋松右衛門船
 
拾五反帆沖船頭吉兵衛水主共十八人乗為
 
商売諸国致渡海候津々浦々無異儀
 
御通可被候為其往来手形如件 
 
兵庫津岡方名主
  享和元酉      正直屋弥右衛門

         同  常見藤左衛門
 津々浦々
  御関所<o:p></o:p>

  この「往来手形」の享和元年(1801)の時、松右衛門59才でした。
 
このころの松右衛門の年譜を紹介しておきます。
 
・寛政7年(1795) このころエトロフ島のシャナの港が完成。
 
・享和2年(1802) 択捉島築港の功により幕府から「工楽」の姓をたまわる
 
・文化元年(1804) 箱館湊と「船たで場(ドック)」を構築 
 
「往来手形」の頃、松右衛門は、高田屋嘉兵衛とともに蝦夷地での大活躍の時期で、兵庫湊の御影屋の仕事は、店の者に任せていたのでしょう。
 
「工楽松右衛門物語(77)」を書いて、ますます松右衛門が、ますます魅力的な人物に思えてきました。
 
後日、新たに分かったことを加え、工楽松右衛門を書きなおそうと思っています。
 
お読みいただきましてありがとうございました。
 
*文書:「往来手形」(享和元年・1801
 
                             (完)

 

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工楽松右衛門物語(76):兵庫港散策

2013-10-11 07:00:45 | 工楽松右衛門

 

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   兵庫湊散策

925日(水)は、朝から暑かった。
でも、「高田屋嘉兵衛・工楽松右衛門・北風家」のことを紹介しているので、彼らが活躍した兵庫湊の右図の①~④の場所を歩いてみたかった。
 (①工楽松右衛門の店、②高田屋嘉兵衛の店、③北風家、④喜多二平家
赤丸、七宮神社 *喜多二平家は北風家の分家)
 地図によると山電湊川駅から南へ少し歩けばよい。あまかった。歩き始めると、まさに暑さの襲撃である。それに、完治していない「腰痛」が、少しいたみだした。自販機で「水」を買って、休みをとりながらの写真撮影となった。
 まず、七宮神社(しちみやじんじゃ)の歩道橋のそばに「菜の花ロード」の石碑を見つけた。
 さっそく『菜の花の沖』が、現れ嬉しくなった。地図の説明通りに南へ行くと「高田屋嘉兵衛本店跡」に着く。
 「ここで、嘉兵衛は働いていたんだ」とおもうと、腰痛も暑さも少しは忘れる。
「道橋橋」を渡るとお宮がある。
 少し、拍子抜けするような小さな「七宮神社」(写真下)である。
 この場所に嘉兵衛・北風壮右衛門、そして松右衛門がしばしば来たのかと思うといろいろ想像がわく。
 この近くに北風家や北風家の風呂があったはずである。
 湯けむりと、船頭の大きな声が聞こえてきそうである。
 休みたかったがベンチがない。
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 七宮神社から北風家のあったあたりを歩いてみたが、もちろん何もない。ビルばかりである。
 近所の人に聞いても、何も分からない。かつての「兵庫湊」は、すっかり昔話のようである。
 こうなると、暑さと腰痛が急に気になりだす。
 北風家は、地図から判断してこの辺りだろうと写真をたくさん撮り、浜にでた。現代の兵庫湊である。
 休む場所を探したら、近くに小さな喫茶店があった。
 店には、近所のおばちゃん達が、話をしておられたようだが、ちょうど出て行かれた。
 店の主人は、80才ぐらいの腰のまがったおばあちゃん。
「むかし、このあたりに、北風家があったことを知りませんか・・・」と尋ねてみた。「ありました」「私の小さい頃は、まだ北風さんの倉庫が残っていました。
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薬局の裏で、今は大けなアパートのあるところです・・・」と教えていただいた。おそらく、おばあさんの小さなころは北風家の建物の一部が残っていたのだろう。
最後に、肝心の松右衛門の店の跡を探すために佐比江町を歩いた。
それらしい場所で聞いたがわからなかった。
後日、確かめることにしたい。
その日は、これが限界で、昼食を忘れていた。でも、この暑さである。腹はすいているが食べる気にならなかった。
 駅の地下で、焼き鳥でビールを飲んだ。腹にしみこんだ。
 1000円で釣りがきた。

<o:p></o:p>

 

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工楽松右衛門物語(75):鞆の湊づくり

2013-10-10 07:00:59 | 工楽松右衛門

 

「工楽松右衛門物語」は、詳細を知りたかった工楽松右衛門を、手じかにあるご研究や小説でまとめている。おわりに、近くなった。<o:p></o:p>

 

松右衛門の最後の仕事となった「鞆の湊づくり」を紹介しておかねばならない。<o:p></o:p>

 

吉田登氏の「帆布の発明者・工楽松右衛門」の研究をおかりした。<o:p></o:p>

 

後日、もう少し調べて、まとまった読み物にまとめ紹介したい。<o:p></o:p>

 

今年は夏が頑張っているが、10月中にでも松右衛門の最後の仕事場「鞆」行ってみたい。<o:p></o:p>

 

そして、余話として「鞆散策」を書いてみたい。<o:p></o:p>

 

 「鞆」の湊づくり・松右衛門の最後の仕事<o:p></o:p>

 

Photo
 松右衛門は、高砂湊をあらかた終えた。<o:p></o:p>

 

体調を崩したが、文化八年(1811)、松右衛門69才のとき、福山藩主阿部候から姫路藩主酒井候を通じて、鞆の浦の防波堤の修築と延伸の依頼があった。<o:p></o:p>

 

松右衛門は、体調を押して現地に赴き、実態調査し築提計画をたてた。<o:p></o:p>

 

そして、工事に使用する花崗岩の巨石を遠近の島々から集めた。<o:p></o:p>

 

彼が開発した「石釣船」を駆使し、工事は10カ月ほどかかった。文化九年(1812)に竣工した。<o:p></o:p>

 

  備後の漢詩人・菅茶山(17481827)は、詩集等で、当時の鞆浦のようすと、阿部候と工楽松右衛門の、その功績を後世に伝えている。<o:p></o:p>

 

 松右衛門逝く<o:p></o:p>

 


 文化八年(1811)の「中村家日記」には、藩主の許可を得て、「私儀此度、工楽松右衛門為迎播州高砂江罷登船中之外五日逗留仕度奉願上候」とある。<o:p></o:p>

 

(私はこの度、松右衛門へ湊の工事依頼のため播州高砂へ5日間ほどまいります。よろしくお願いします・・)<o:p></o:p>

 

中村家が、播州高砂までわざわざ迎えに行っているが、このことは鞆の浦のさらなる発展のGanngiため豪商中村家が、港普請の先頭に立ったことを示している。<o:p></o:p>

 

「輔の浦歴史民俗資料館」の企画部長をされ、また「中村家古文審」の解明に関わっておられる池田一彦氏は、松右衛門が改修した施設は、大可島波止場・、中央船着場雁木(がんぎ)、焚場(たでば)のほか川口(土砂崩れ防止)など全域に関与しているという。<o:p></o:p>

 

鞆港の工事は、松右衛門は老齢で病躯ながら頼まれた公益のために、全エネルギーの投入と自ら開発した多種の作業船を駆使した「港づくり」の集大成の事業であった。<o:p></o:p>

 

翌年、松右衛門の病状は悪化し、文化九年(1822)なくなった。八月の暑い日であった。<o:p></o:p>

 

 *「帆布の発明者・工楽松右衛門」(吉田登)参照<o:p></o:p>

 

 *写真上:松右衛門が修築・伸延した大可島波止場<o:p></o:p>

 

  写真下:中央船着場<o:p></o:p>

 

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工楽松右衛門物語(74):膨大な改築費用

2013-10-09 07:39:57 | 工楽松右衛門

 

 高砂湊の膨大な修築費<o:p></o:p>

 

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 高砂湊の修築は、すべてが順調に進んだわけではない。第一の問題は、費用の捻出にあった。<o:p></o:p>

 

湊の浚渫と築港にたいへんな費用がかかったのである。<o:p></o:p>

 

藩からの援助があったものの、松右衛門家の支出は膨大なものになった。<o:p></o:p>

 

姫路藩の大庄屋・内海氏の文化六年(1809)五月の日記には、「文化五年中だけで450貫目の費用がかかっており、今後どのくらいかかるか見当もつかない」と記録している。<o:p></o:p>

 

結局、総工費は、銀350貫目となり、当初の見積もりより銀100貫目ほど超過し、不足分は高砂町中全体へ割り付けられた。<o:p></o:p>

 

また、文化五年(1808)からは高砂入津の廻船から帆一端に16(元治元年より20)の帆別銭を取ることになり、九月七日に帆別会所が設置された。<o:p></o:p>

 

これに対して、高砂に入津する機会の多い周辺の船主は反発した。<o:p></o:p>

 

特に、当時高砂に塩座が置かれていたために高砂に塩船を差し向けざるをえなかった浜人たちにとって、塩座運上銀や蔵敷に加えて、帆別銀(船の大きさに伴う税金)がかかるのははなはだ迷惑だった。<o:p></o:p>

 

曽根村は、文化六年十二月に領主である一橋家の川口役所に対し、今市村(いまいちむら)に塩座を取立て、上流の姫路藩領米田村の塩座出漲所は廃止させるようにしてほしいと願い出ている。<o:p></o:p>

 

これは実現されなかったが、高砂に荷物を下す村々の反発は相当強かった。<o:p></o:p>

 

     工楽家の衰え<o:p></o:p>

 

工楽家のその後を先に書いておきたい。<o:p></o:p>

 

初代松右衛門が亡くなった後も、工楽家による高砂湊修築は続いた。<o:p></o:p>

 

幕末の動乱期、三代にわたって築港事業にたずさわって来た工楽家は、世が明治と代った時、すっかり私財を使いはたしてしまっていたようである。<o:p></o:p>

 

築港を命じた姫路藩はすでになく、完成した高砂港の価値も鉄道開通によって低下してしまい、副産物として造成された工楽新田は、地租改正時のごたごたの中で、だまし取られたような形で他人名義になってしまった。<o:p></o:p>

 

*『高砂市史(第五巻)通史編近世』<o:p></o:p>

 

 『渚と日本人・入浜権の背景(高崎祐士)』NHKブック参照<o:p></o:p>

 

*写真:現在の工楽家<o:p></o:p>

 

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工楽松右衛門物語(73):天下の益なることを

2013-10-08 08:45:16 | 工楽松右衛門

 

 天下の益なることを計る<o:p></o:p>

 

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 江戸時代の農学者・大蔵永常(おおくらながつね)が『農具便利論』で、松右衛門のことば
)を引用している。<o:p></o:p>

 

・・・・・<o:p></o:p>

 

「人として天下の益ならん事を計(はから)ず、碌々(ろくろく)として一生を過さんは禽獣にもおとるべし。<o:p></o:p>

 

凡(およそ)其利を窮(きわむる)るに、などか発明せざらん事のあるべきやはと。<o:p></o:p>

 

金銭を費し工夫せられし事少なからず」<o:p></o:p>

 

・・・・・<o:p></o:p>

 

この言葉にふれて、司馬遼太郎氏は次のように述べている。<o:p></o:p>

 

この言葉は、江戸中期以後、商人の一部に芽生えはじめた公共思想を考える上でおもしろい。<o:p></o:p>

 

この種の公共思想は、主君への忠誠心という絶対的なものが精神を拘束している諸藩の藩士層からは、容易に出なかった。<o:p></o:p>

 

「人として天下に益することを考えずに、為すことなしに一生をすごすのは禽獣よりも劣る」 という松右衛門のことばは、まことに激しい思想で、この理屈を一歩押しすすめれば、俸禄階級の武士のほとんどが禽獣より劣るということになる。<o:p></o:p>

 

江戸期は、武士の世というが松右衛門のような自分と社会という明快な倫理感覚を持つ者があらわれている以上、町人の世ともいえるかもしれない。<o:p></o:p>

 

 松右衛門の発明<o:p></o:p>

 

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 松右衛門は、エトロフ、箱館、そして高砂湊の修築で、彼の発明による機械をあますところなく使っている。
<o:p></o:p>

 

『高砂市史(第五巻)・史料編近世』で「大蔵永常『農具便利論』より工楽松右衛門の湊普請などに関する発明」として、『農具便利論』を詳細に紹介しているので、詳しくはそれをご覧いただきたい。<o:p></o:p>

 

ここでは、12の発明品を紹介しておきたい。<o:p></o:p>

 

なお、松右衛門の発明の「石釣船」については、「工楽松右衛門物語(54)」の挿絵をご覧ください。<o:p></o:p>

 

*絵上:ろくろ板・ジョレン<o:p></o:p>

 

 絵下:杭打船・杭打ち<o:p></o:p>

 

*『菜の花の沖(二)』(文春文庫)<o:p></o:p>

 

 『高砂市史(第五巻)』(高砂市)参照<o:p></o:p>

 

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工楽松右衛門物語(72):加古川に橋を架ける

2013-10-07 11:09:16 | 工楽松右衛門

 

  高砂湊の修築(5)・加古川に橋を架ける<o:p></o:p>

 

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 松右衛門は、文化七年(1810)に、加古川に石橋を架けた。<o:p></o:p>

 

加古川河口にできていた中州二つを利用して、姫路藩の南蔵の南東部分から西側の中州に橋をかけ、弧を描く石組で造った道により東側の中州に行けるようにし、さらに石組の道を北につけて対岸につないだ。<o:p></o:p>

 

その様子は「十二景詩歌」の「高砂宝蔵」の図(上図)と「五ヶ井・新井掛り村々溝手絵図(部分)」(文化13年、下図)から想像してほしい。

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 州と中州をつないでいる石組の道は屈曲させて水の勢いで壊れにくくしており、また川の水を下流に逃がす水の通り道を作り、加古川の水流になるべく逆らわない工夫をしている。<o:p></o:p>

 

築港工事は文化八年(1811)に完成した。<o:p></o:p>

 

こうした川浚えや築港には、「農具便利論」にあるロクロ板・ジョレンや杭打船など松右衛門が工夫した道具や船が活躍したことだろう。<o:p></o:p>

 

次号では、松衛門の発明による工事用の道具・船を紹介しよう。<o:p></o:p>

 

*『高砂市史(第二巻)・通史近世編』参照<o:p></o:p>

 

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工楽松右衛門物語(71):広がるか高砂湊

2013-10-07 08:15:59 | 工楽松右衛門

 

 高砂湊の修築(4)・広がる湊<o:p></o:p>

 

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 松右衛門は、川口番所から浜新田の東側沿いに580間
(1050メートル)の波戸道(はとみち)を築き、その先端部分の川口に「東風請(こちうけ)」波戸と「一文字」波戸を、巨石を台形に整形した磐礫(いしがき)で築いて波除けとした。<o:p></o:p>

 

なお、波戸とは海岸から海中につきださせて、石で築いた構築物をいう。<o:p></o:p>

 

そして、波戸道と波除けの間を、船を係留する湊として整えたのである。<o:p></o:p>

 

また波戸道の突端には台場を作り、灯籠を設けて船の出入の便をはかった。<o:p></o:p>

 

 波戸道等を図で確かめてほしい。<o:p></o:p>

 

右の地図の説明であるが、赤い部分は松右衛門の工事による。<o:p></o:p>

 

青い部分は、二代目・三代目の松右衛門の工事による高砂湊の施設である。<o:p></o:p>

 

なお、波戸道の先端に灯籠であるが、「工楽松右衛門物語(65)」で紹介した灯籠である。<o:p></o:p>

 

*地図:『高砂市史(第二巻)・通史近世編』(p440)より作成<o:p></o:p>

 

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工楽松右衛門物語(70):湊は浜から遠ざかる

2013-10-06 08:04:33 | 工楽松右衛門

 

高砂湊の修築(3)・湊は浜から遠ざかる<o:p></o:p>

 

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 高砂湊の浚渫は、文化五年(1808)冬から開始され、文化七年(1810)に終了した。<o:p></o:p>

 

松右衛門は、川口を浚渫するだけでなく、加古川下流の所々を磐礫(いしがき)で修理し、杭を打ち、堰を増設して土砂留を施した。<o:p></o:p>

 

また、松右衛門が「百間蔵まで大船つけ可申」と語っていたとおり、大船が着岸できる築港工事も行われた。<o:p></o:p>

 

右の「播州高砂図」(市史五-47)を見ればわかるように、高砂接の南端は「川口番所」から東戎社を結ぶ線であったが、その後その南側が州となり、宝暦十一年(1761)には新田に造成された。<o:p></o:p>

 

「川口番所」近くの本来の湊の部分は、海から遠くなってしまっていたのである。<o:p></o:p>

 

松右衛門は、沖に新湊を造成することで、これに対処しようとした。<o:p></o:p>

 

松右衛門が造成した新湊については、次号で調べることにしたい。<o:p></o:p>

 

*図:播州高砂図(赤く彩色した所が高砂神社、青く彩色したところが川口番所)<o:p></o:p>

 

*『高砂市史(第二巻)・通史近世編』参照<o:p></o:p>

 

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工楽松右衛門物語(69):高砂湊修築は松右衛門仕法で

2013-10-05 07:46:02 | 工楽松右衛門

 

 高砂湊の修築(2) <o:p></o:p>

 

松右衛門仕法で<o:p></o:p>

 

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 湊の水深の浅い飾万湊(しかまみなと)でも川浚えが行われ、大型船の入津をはかっており、これは干鰯(ほしか)の取引を活発化する意図があったと指摘されている。<o:p></o:p>

 

高砂が、飾万津や室津と競合するためには、湊の保全・改修は緊急の課題であった。<o:p></o:p>

 

また、姫路藩も当時積極的な国産振興策をとっており、客船入津は、好ましく積極的に対応する姿勢をとった。<o:p></o:p>

 

翌、文化五年(1808)閏六月頃には川浚えの実施がほぼ内定し、同八月には家老・河合隼之助(後に隠居して河合寸翁を名のる)以下が高砂に検分に訪れ、藩の財政で行う御手普請(おてぶしん)に準じた取り扱いで、川浚えを行うことが許可された。<o:p></o:p>

 

この時の工法は、「松右衛門仕法」といわれており、工楽松右衛門が重要な役割を果たした。<o:p></o:p>

 

高砂からは入用銀250貫目の拝借が藩に願い出られたが、これは叶わなかった。<o:p></o:p>

 

そのかわり高砂の諸運上銀年32貫目が三年間下げ渡され、つまり減税となり普請(工事)に必要な砂・石は領内から調達することが許された(「姫陽秘鑑」)。<o:p></o:p>

 

また、高砂に移住して普請世話人・棟梁となった松右衛門は、月々二俵の米を藩から与えられたが、文化七年(1810)には、御廻船船頭として召し抱えられ、五人扶持に直されて金10両が給付された。<o:p></o:p>

 

 *絵:高砂神社付近<o:p></o:p>

 

 *『高砂市史(第二巻)・通史近世編』参照<o:p></o:p>

 

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工楽松右衛門物語(68):高砂湊埋まる

2013-10-04 06:55:32 | 工楽松右衛門

 

927日(金)以後、「ひろかずのブログ」は、急停止してしまいました。パソコンが壊れたためです。<o:p></o:p>

 

停車中も「アクセス」してくださった方が、一日に300を超えていました。ありがとうございました。<o:p></o:p>

 

昨日(3日・木)、やっと使える状態に回復しました。これからも、拙文の押し付けを続けますが、よろしくお願いします。<o:p></o:p>

 

さて、話は一挙に現代の高砂まで飛んだので、ここで、松右衛門の活躍した江戸末期の高砂湊の話に戻します。<o:p></o:p>

 

しばらくは『高砂市史』をお借りしたい。<o:p></o:p>

 

  高砂湊の修築(1) 高砂湊埋まる<o:p></o:p>

 

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高砂湊の修築は、松右衛門の生涯の大事業である。<o:p></o:p>

 

高砂湊は、正保国絵図でも浅いとされていた が、その後も加古川上流から流れくる土砂で川底が高くなり遠浅化が進んだ。<o:p></o:p>

 

寛政期(17891801)には、毎年高砂の渡海船仲間が川内の浅瀬の浚(さらえ)を行い、願により姫路藩から扶持米を下付されることもあったが、根本的な解決にはいたらなかった。<o:p></o:p>

 

そのため、江戸後期には大船の接岸ができず、沖に碇泊する船と陸の間は、「はしけ」「上荷」「ひらた」などといわれる小船を使って荷を運んでいた。<o:p></o:p>

 

ところが、享和元年(1801)秋頃から、幕府代官所から姫路藩に対して、昔どおり川内で御城米の積み込みができるように高砂州口を浚えるようにという要請が度々あった。<o:p></o:p>

 

翌二年六月に、姫路藩は江戸御勘定所に対して、それが困難であることの事情説明を行っている。<o:p></o:p>

 

すなわち川浚は、年々藩が手当をつけて行わせているが、川口から沖手への土砂の堆積は1400(2.5キロメートル)にも及び、人力で浚うことは不可能であること、川下の水落口や川筋に杭柵を設置して洩水を防ぎ、川勢を増して土砂を流すように普請させており、満潮時には、「ひらた舟」が通行できることを述べている。<o:p></o:p>

 

ただ、「干潮の際の通船は不可能で、川内での積込みは80年このかた聞いていない」と、主張した。<o:p></o:p>

 

高砂湊の浚渫は、姫路藩が費用を負担する「御手普請」では不可能と説明したのである。「姫陽秘鑑」)。<o:p></o:p>

 

*『高砂市史(第二巻)・通史編近世』参照<o:p></o:p>

 

*絵:高砂湊(高砂湊海門あたり)<o:p></o:p>

 

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お詫び

2013-10-02 22:07:29 | 工楽松右衛門

 

  <お詫び><o:p></o:p>

 

 9月27日にブログ(2222号)を書いて、以後「ひろかずのブログ」は急停止しています。<o:p></o:p>

 

 原因は、PCが壊れたためです。<o:p></o:p>

 

 今日の夕方、ほとんど復旧しましたが、一部の機能がまだ復旧していません。<o:p></o:p>

 

 土曜日には完全復活できると思います。<o:p></o:p>

 

 5日(土)か6日(日)には2223号をお届けします。<o:p></o:p>

 

 押し売りになりますが、引き続き拙文をお読みください。<o:p></o:p>

 

 よろしくお願いします。<o:p></o:p>

 

                        (いいぬま ひろかず)<o:p></o:p>

 

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工楽松衛門物語(67):船から鉄道の時代へ

2013-09-27 10:20:41 | 工楽松右衛門

きょうは「工楽松右衛門物語」とはいいながら全くの「余話」である。

明治21(1888)、山陽鉄道の開通が追い打ちをかけた。これにより高砂の海上輸送は、一挙に後退した。

東播地域の物資集散の中心が高砂町から加古川町に移った。

山陽鉄道の開通について「余話」として書いておきたい。

山陽鉄道(現JR山陽線)開通

E7e02266  明治21年に開通した山陽鉄道(現:JR山陽線)は、最初から加古川を通るように計画されていたものではない。

 当初は、東二見(明石市)・高砂・飾磨(姫路市)・網干(姫路市)の海岸線を通過する予定であった。

 高砂は、当時海運業を中心に発展した町で、彼らを中心に「鉄道敷設」に反対した。理由は、鉄道が敷かれること海運が衰えるというのが主な理由である。

 その結果、海岸に予定されていた鉄道は、加古川の町を走ることになった。

 そして、大正2年(1913)加古川線・高砂線が開通し、今まで高砂に集まっていた物資が、加古川の町に集まるようになった。

 鉄道を拒否した高砂の町の商業の衰退は決定的になった。町は、工場誘致に活路を見つけることになる。

 ここで注目したいのは、「一般的に高砂への工場誘致の条件は企業側に有利に進められた」ということである。

 やがて、高砂の町からの浜は企業のものになっていった。

JR高砂線も廃線になった

私の小学校時代(加古川小学校)は、昭和20年代の最後の頃にあたる。

その頃、夏には学校から高砂の浜へ海水浴に出かけた。高砂線は、子供の声であふれかえっていた。高砂線は、浜に続く思い出がつまった鉄道であった。

高砂は戦前から多くの工場が進出し、高砂線は客だけでなく、貨物も大いに利用されていた。

高砂線は、大正3年播州鉄道高砂線として開通したが、経営難のため大正9年に播丹鉄道に譲渡され、さらに昭和18年、国鉄に買収された。

昭和36年頃から、海岸は埋め立てられ、海水浴場は姿を消した。そして、急速なモータリゼーションによりアッという間に貨物・乗客とも急減した。

その後、膨大な赤字を抱え、高砂線は昭和591030日廃止になった。

*写真:加古川駅(大正8年に大阪の桜島駅舎を移築した建物であったが、平成1610月高架事業に伴い解体された)

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工楽松右衛門物語(66):高砂港③・繁栄の終焉

2013-09-26 06:42:20 | 工楽松右衛門

     高砂繁栄の終焉

Kakogawawoyuku_043高砂海岸の変遷の話である。

工楽家が、何代かにわたり新田を築き、波止、湛保(たんぽ)を完成させようとしている間に、時代はガラガラと音を立てながら動いた。

天保四年(1833)、加古川筋に大規模な百姓一揆が起り、高砂町内の有力な商家や米蔵などが襲われた。

嘉永七年(1854)にはロシアの軍艦が大阪湾に侵入、沿岸の各藩は海岸に砲台を築づいた。

当地方でも加古川の中州、向島の突端に姫路藩は砲台を築いた。

討幕の動きも急雲を告げ、文久三年(1864)には姫路藩の木綿専売業務をひき受けていた特権商人が尊嬢派の藩士に暗殺された。

高砂港の築港工事が完成したのは、そのあくる文久四年(1865)であった。

そして、数年ならずして慶応四年(1868)、兵庫港開港、鳥羽・伏見の戦い、明治維新と歴史は続く。

それらは、姫路藩の年貢米や専売商品の独占的中継港としての高砂の終焉を意味した。『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)は、次のよう書く。

「明治元年(1868)一月十七日、姫路藩の高砂米蔵は長州軍の手によって封印されたが、これは、近世高砂の終末をつげる象徴的なできごとだった。

明治新政府によって、株仲間の解散、金本位制の実施、藩債の処分など、やつぎばやに打ち出された改革により、蔵元を中心とする特権商人の没落は、高砂の経済を内部から崩壊させるものであった。

さらに、明治21(1888)、山陽鉄道の開通が追い打ちをかけた。これにより海上輸送は、一挙に後退した」

東播地域の物資集散の中心が高砂町から加古川町に移った。

山陽鉄道の開通については、次回「余話」として書いておきたい。

*写真:昔の面影を残す町並み(工楽家横の道沿い)

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工楽松右衛門物語(65):高砂港②・港の改修工事

2013-09-25 06:25:44 | 工楽松右衛門

  松右衛門、自費で高砂港浚渫

67才となった松右衛門は、ふるさと高砂港の改修工事にも着手した。

高砂港は、加古川と瀬戸内海の接点として栄えていたが、前回(64号)で述べたように、幕末の頃、高砂港は、土砂がたまり、港内が浅くなり、港として使いにくくなっていた。

松右衛門は、箱館港づくりでも使った、彼自身の開発した石船、砂船、ろくろ船、石釣船などを使って改修工事をおこなった。

港全域の土砂をさらい、風や波よけの堤を造ったのである。

   二代目・三代目松右衛門に引き継ぐ

Sikatahigannbana_011なお、工楽松右衛門の港づくりは、彼の死後も二代目・三代目と引き継がれた。

「この工事は、自費を投じて行われ、松右衛門の死後、二代目・三代目松右衛門が引きつがれた。文久三年(1863)に高砂港の改修を藩に願い出て湛保(たんぽ)という防波堤をめぐらした港の施設を築いたのは、三代目・松右衛門である。

着工から55年のさい月をかけて高砂港を完成した」と、工楽家文書「工楽家三世略伝」にある。

*高砂海浜公園に「三代目・工楽松衛門の名が刻まれた祠がある」(写真)

この工事の結果、高砂町の海岸は、昭和36年に埋たて工事の始まる前の姿にほぼ、近いものとなった。

すなわち港や海岸は高砂神杜の南方約50メートルへと遠のき、その間は新田として開発されて、俗に「工楽新田」と呼ばれた。

  <補足>

 以下は補足である。二代目松右衛門は、文化十年(1813)幕府の軍艦の設計をしている。

また、文政二年(1819)には高砂海岸に、「工楽新田」を開拓した。

「工楽新田」は、現在カネカの工場敷地となっている。

*二代目・松右衛門(天明四年・1784~嘉永三年・1850

 三代目・松右衛門(文化十一年・1814~明治十四年・1881

*写真:三代目工楽松右衛門の銘が刻まれている祠(高砂海浜公園)

*『帆布発明者 工楽松右衛門』・『風を編む、海をつなぐ』(高砂市教委員会)

 『渚と日本人(高崎裕士)』(NHKブックス)参照

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工楽松右衛門物語(64):高砂港①

2013-09-24 07:21:17 | 工楽松右衛門

 加古川は猛烈な土砂を流した

江戸時代、高砂港は姫路藩の重要な港として大いに栄えるが、大きな欠点を持っていた。

加古川が運ぶ土砂が多く、すぐに浅くなってしまうことである。

高砂港の話の前に、次の話を紹介しておきたい。

   高砂町今津のルーツは加古川市尾上町「今津」

 Sitennnou_tenple_010中世の頃、加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていた。そこに、今津村という集落があった。

 その今津村に慶長6年(1611)、藩主(池田輝正)から通達があった。

 内容は、「今津村へ移り住み、砂浜の開作をする者は、諸役を免ずる」というものであった。

 中世に栄えた今津村も、この頃になると砂の堆積により、その機能を失ないつつあった。それも、予想を超える砂の堆積であった。

 藩主は、途中で方針をかえ、新たに右岸の高砂に城を築き、町場をつくることにした。その時、今津村の住民は高砂に移住させられたのである。

 結果、尾上町の今津村は慶長・元和の頃に消滅した。代わって、高砂の町に「今津村」が誕生した。

 これは、加古川の堆積の大きさを示すエピソードのひとつである。

   幕末の頃、高砂港は土砂に困る

播州平野を流れて播磨灘にそそぐあたりに洲をつくり、やがてこの白い砂上に浦ができた。これが高砂である。

時が経ち、その河口近くに形成した中洲が成長して、加古川から分離して高砂川という支流をつくった。

その高砂州の河口にある高砂港は、初期には波戸などの特別な施設はなかぅた。そのめ風波の影響も大きかった。

江戸後期になると長年にわたる土砂の堆積で浅くなり、船舶の碇泊に支障をきたす状況になっていた。

そこで、松右衛門は普請棟梁になり、文化七年(1810)に、先の箱館でも使った、彼が開発した石船、砂船、ロクロ船、石釣船などを駆使し、風波対策として、東風請(おちうけ・土堤)と石塘、南口には一文字提、西に西波戸を築造し、あわせて港全域にわたって浚渫を行った。

*写真:現在の高砂川

*『帆布発明者・工楽松右衛門』参照

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