ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

寸倍石(ズンバイシ)

2006-09-30 17:48:35 |  ・加古川市野口町

_174  北野新田(加古川市野口町)の公民館の庭に、「寸倍石」(写真)と呼ばれている不思議な石がある。

  「ズンバイシ」と読む。この石には、こんな話がある。

  「・・・弁慶が高御座(たまみくら)で弁当を食べていたら、飯の中に小石が混じっていた。

 ポイと投げたら鳥が岡の林の中に落ちた・・・」と云うものである。

  そのうちの一個が北野新田の公民館に置かれ、もう一個は、村人が水足の墓地に運こび、ズンバイシの台の部分を石碑の土台に利用したという。ズンバイシそのものは、美乃利(加古川市加古川町)の田の中にある。

  この石は、北条郷(神野村)との境界を示す境界石(膀示石-ぼうじいし)である。

  石見完治氏も、「これをスエイシと呼び、境界点に据えられた石であろう」と考証されている。

  播磨鑑(宝暦12年-1762)に、次の説明がある。

   俗に「ずんばい石」と云う。これ北条の郷の堺也。形鞠の如し・・・

*写真は北野新田公民館の寸倍石

 今月のブログでは、野口を中心にした話題をとりあげた。野口については、後日も続ける。10月は尾上(加古川市尾上町)の話題を中心に書いてみたい。

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賀古の駅(かこのうまや)

2006-09-29 08:22:20 |  ・加古川市野口町

952e2b5b   7世紀、大和政権(奈良を中心とする政権)は、天皇を中心に勢力を強め、その勢力を更に拡大するために道を整備した。

  とりわけ、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道は重要な道であった。

  街道の途中には駅(うまや)を設けて、官人の旅・租税の運搬にあたった。

  野口(加古川市野口町)に、山陽道最大の駅、賀古の駅(かこのうまや)がおかれた。

  山陽道最大ということは、日本で最大の駅が野口にあったのである。

  他の駅では、多くて20頭ほどの馬が置かれていたが、賀古の駅は、40頭を数えた。

  奈良から野口まできた山陽道は、加古川の流れにゆく手を妨げられ、野口から日岡山の方へ向かい、升田・大国・岸・魚橋というコースをとった。

  賀古の駅のあった場所は、確定していないが、古大内(ふろうち・野口町)に「駅が池(うまやがいけ)」があり、大歳神社あたりから多数の古瓦が多く出土している。

  この大歳神社あたりに「賀古の駅」があったと想像されている。また、古大内(ふろうち)は、「古大路(ふるおおじ)」が訛ったものであるという。

  (蛇足)・・・駅に「馬へん」が使われているのは、駅はもともと電車ではなく馬がその役割をはたしていたためである。(あまりにも蛇足!)

*地図は、「兵庫探検(歴史風土編)」(神戸新聞)より

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第11回兵庫国体・加古川市の財政は火の車

2006-09-28 08:39:18 |  ・加古川市野口町

_172   9月30日、兵庫国体がやってくる。今日は、前回の兵庫国体の話題を取り上げたい。

  第11回国体が、昭和31年に兵庫県で開催されることが決まった。

  県下の各市町村は、昭和28年6月ごろから開催種目の誘致運動が始まった。

  加古川市では、体育協会が中心に①体育館建設による室内競技、②軟式野球、③軟式庭球などを目標に誘致運動がはじまった。

  ①の体育館建設は、財政的理由により、あっさり拒否、②の軟式野球も人員が多く設備が大きなものが必要であると却下された。

  そこで、体育協会は、③の軟式テニスに絞って誘致運動をすることになった。

  しかし、庭球も12面のコートがいる。そのために1.500万円ほど経費がかかる。寄付金等いろいろ考えられたが、無理があった。

  それに、体育協会の一部から「台風で被害を受け、なんら対策もされず・・・」また「失業者を見殺しにしてまでして開催する必要があるのか・・・・」等の意見まで出された。

  県からの補助金を要望することになったが、それもかなわなかった。

  昭和29年11月29日の体育協会理事会で、軟式庭球誘致運動も最終的に終止符をうった。

  諦めきれない加古川市は、あまり設備費用のかからないハンドボールの誘致を決めた。

  それでもなお開催反対の声があったが、ニッケグラウンドと加古川東校のグラウンドを会場として行われた。

  当時、加古川市の財政は火の車だった。

*今、ブログでは、「野口」の話題を中心に取り上げているが、今日は急遽変更して、「国体」をとりあげた。写真は、今回の兵庫国体のバナー(市役所付近で)。

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富田 雅次(とみたまさじ)

2006-09-27 09:14:24 |  ・加古川市野口町

64ebe1fb_1  加古川市野口町水足から偉大な人物が誕生している。

  富田雅次(とみたまさじ)である。彼の略歴を紹介したい。

 明治22年  野口村水足に生まれる。

 大正 3年  京都帝国大学(現:京都大学)医学部卒業

 〃  9年   ドイツ・アメリカ等に留学

 〃  12年   長崎医科大学教授

 昭和10年  ドイツ自然科学々士院会員

 〃 11年  胎生科学の研究

 〃 16年  台北帝国大学医学部長 

 〃 19年  山口県立医専校長

 〃 33年  日本学士院会員

  雅次は、生命とは何かを探求しつづけた。彼は、大学での講義中の口癖は、「Morgen, Morgen, nichit Heute. (今日だけではない、また明日があるじゃないか)」で、学生をはげました。

  彼は、戦後まもない頃、当時無医村であった野口村に、村立診療所を創設し、自ら院長として2年間勤めた。

  その後、診療所は発展的に解消して加古川市民病院となった。

  昭和42年12月20日、逝去。72歳。

*写真は富田雅次(「水足史誌」より

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曼珠紗華

2006-09-26 21:17:35 |  ・加古川市野口町

_029_1  秋を彩る花の話題です。

《曼珠紗華》

  都市化の広がっている野口でもそうであるが、いま、曼珠紗華が、畑のあぜ等で秋の彼岸を悟るかのように、真っ赤な炎を燃え上がらせている。

  この花は、ヒガンバナ・手くされ等、身近な人里の植物のため、呼び名は各地でさまざまである。

  加古川地方では、もっぱら「ヒガンバナ・手くされ」と呼ばれ、子供達は首飾りなどを作り遊んだものである。最近は、そんな遊びも、めっきり少なくなった。

  墓地に咲いていたり、華の燃えるような花びらの赤が、火事を連想し、嫌われこともあり、花瓶で飾られることは少なかった。

  根には毒が含まれているが、水に晒せば無毒になり、飢饉の時に多くの人命を救ってきた。

《コスモス》

  コスモスも曼珠紗華とともに、秋の代表的な花であるが、日本の秋を彩ってまだ100年あまりである。

  コスモスは、古い日本の住人のようであるが、江戸時代の人はコスモスを知らなかった。

*写真の曼珠紗華は、昨日(9月25日)磯病院(加古川市八幡町)付近で撮影。

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日岡豪族は野口へ行った?

2006-09-25 07:58:38 |  ・加古川市野口町

80ccedfa  今日は、無責任な推理をしたい。

  日岡山には多くの古墳がある。古墳時代、溝口(加古川市加古川町)に大きな古代の村があった。支配者は日岡山に古墳を築いた。

  ここでは、彼らを「日岡豪族」と呼んでおきたい。そして、「日岡豪族」は大和の政権とも同盟を結んでいた。

  日本の歴史は大きく転回した。大陸から仏教が伝わり、比較的早い時期に加古川の地にも仏教が伝えられた。

  この地方の豪族は大和にならって仏教を取り入れ、多くの寺院をつくった。

  時代は、古墳文化から仏教文化へ代わった。

  白鳳時代(645~710)の寺院跡が西条・石守(ともに神野町)・野口(野口町)・中西(西神吉町)等に残っている。

  ここまでは、学問的にもほぼ確かめられている。推論は、ここからである。

  日岡山豪族は、どこに消えたか記録がない。「日岡山豪族」が、敗れ去るほどの事件があれば、文字のない時代とはいえ、伝説など何らかの形で現在にメッセージを残こしていてもよさそうである。

  「日岡豪族」は、水害の影響もない、そして交通の要所である野口で寺院をつくったのではないだろうか。野口廃寺が、彼らの氏寺跡であると想像するのだが、いかがだろうか・・・

*6月にブログをはじめて、今日で100回になった。今しばらく、野口の話題を中心にして続けたい。

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関東武士

2006-09-24 10:44:53 |  ・加古川市野口町

_003_1  平清盛の時代である。

  平氏は、播磨、とくに東播磨に勢力を伸ばしていた。

  姫路地方は、以外に平氏の力は伸びていなかったようである。(注)

  平氏は、やがて源氏に破れ滅ぶ。

  その時、平氏と強く結びついていた東播磨の武士は、平氏と一緒に滅ぶか、著しく勢力を弱めた。

  そこへ、関東から源氏方の御家人が大量に流入し、播磨の中世が始まった。

  長砂(加古川市野口町)に「長砂構居址」(写真)が残っている。越生有高(おごせありたか)の住居跡である。

  彼は、何時から地頭職を持ったか、わらないが鎌倉時代の初期からと思われる。彼の出身地は、武蔵国(埼玉県)入間(いるま)郡、越生村であったという。

  戦国時代、加古川を支配した糟谷氏は、相模の出身であり、このように東国武士が播磨に多く進出している。

(注)鎌倉幕府は、守護所(現代の県庁)を姫路におきたかったが、姫路は平家の領地が少なく、守護所を加古川(現代、称名寺の場所)に置いた。

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鶴林寺に残る禁制

2006-09-23 10:06:20 |  ・加古川市野口町

97f3512d   時代は戦国時代の終わりの頃、天正6年(1578)である。

  東播磨地方が、信長・秀吉の支配に入るか、それとも中国地方に勢力を持つ毛利の勢力下に入るかを決する戦が、加古川地域で展開された。

  当時、東播磨の領主は、三木・別所氏の支配下にあった。

  加古川城(加古川市加古川町)の糟谷氏のみが、秀吉方に味方した。

  しかし、野口・神吉・高砂・志方城の結束は強く、三木方に味方した。

  秀吉は、勢力を持つ寺院等も調略した。

  ここに一枚の書状「禁制」(写真)が鶴林寺にある。内容は、次のようである。

    鶴林寺のうちでは次のことを禁ずる

     軍勢が一般人に乱暴を働くこと

     陣を構えたり、放火したり、竹や木を伐採すること

     田畑を荒らすこと

    これらに違反するものは速やかに厳罰に処す

         天正六年三月二五日  筑前守(*秀吉のこと) 

  秀吉は、鶴林寺の調略に成功し、鶴林寺に攻撃しないことを約束した。この禁制の日にち(三月二五日)に注目したい。そして、四月・三木攻は野口城の戦闘から始まった。

  結果、野口城、そして共に戦った教信寺は全焼し、寺そして宝物等のほとんどは焼失し、略奪にあった。

  一方、鶴林寺は攻撃から守られ寺院および多くの宝物を今日に伝えている。

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教信の死(今昔物語より)

2006-09-22 10:17:42 |  ・加古川市野口町

_164   「今昔物語」に、こんな話があります。

  大阪の箕面市に、今も勝尾寺があります。

  勝如(しょうにょ)は来る日も、くる日も一心に念仏を唱えていました。

  ある夜、誰かが訪ねて来ました。しかし、勝如は無言の行の最中です。返事が出来ないので「ゴホン」と咳払いをしました。

  すると、訪問者は「私は、加古の野口の里の教信と申します。私も念仏を唱えてまいりましたが、今日願いのとおり、極楽浄土へ参ることができました。

  あなた様も、来年の今月今夜(8月15日)に、お迎えがございます」

  訪問者の声は、すっと消えた。

  ビックリした勝如は次の朝、弟子の勝鑑(しょうかん)を野口の里へやりました。

  すると、庵の前に死人が横たわり、犬や鳥が争って食っているのでした。

  横にいる老婆に聞くと、「この死人は、私の夫の教信で、昨夜なくなりました。遺言で、自分の遺骸を鳥獣に施しているのでございます」と答えるのでした。

  この話を聞いた勝如は、念仏ばかりでなく教信のように実践にも一層はげみました。

  そして、教信が告げた日(貞観9年8月15日)、勝如は亡くなりました。

  「勝如様も野口の教信のところへ行かれた」と人々は、囁きあったということです。

*写真は、教信の墓「五輪塔」(教信寺-加古川市野口町‐境内)

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教信(3)・A Priest who Lived to the Prayer(3)

2006-09-21 08:08:14 |  ・加古川市野口町

_064_1 Kyoshin-A Priest who Lived to the Prayer (3)

  While Kyoshin advanced Buddhism to the farmers, he also labored in engineering works and he constructed ponds in the Inamino Plateau.

  Umayaga Pond which is the east of Noguchi Agricultural Cooperative Association  is said to be the one of these ponds.

  Umayaga Pond was more than 12ha. originally.

  But, now due to residential land development, it has decreased largely.

  Kyoshin was respected by many people and his name was widely known.

  Many anecdotes about him are left behind. In Konjaku Monogatarii, there are stories about him.

(直訳) 教信 祈りに生きた僧(3)

  教信は農民に仏教を説く一方、土木事業にも力を注ぎ、印南野台地に池を築いた。

  野口農協(加古川市野口町)の東の駅ヶ池(うまやがいけ)は、これらの池の一つであるといわれている。駅ヶ池はもともと12ヘクタール以上の大きな池だった。

  しかし現在、宅地開発のため大きく減少した。

  教信は、多くの人に尊敬され、彼の名前は広く知られていた。

  彼については多くの逸話がある。今昔物語に彼についての物語がある。

.

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教信(2)・A priest who lived to the prayer(2)

2006-09-20 09:37:40 |  ・加古川市野口町

D29b4b A Priest who Lived to the Prayer (2)

  Kyoshin arrived at Noguchi at the west corner of the Inamino Plateau.

  This was the place of Kakono Umaya (the stataion of the Sanyo Road).

  Noguchi was near the shore and beautiful place. Abvoe all, the people there were warmhearted.

  Kyoshin was pleased with Noguchi and decided it was the best place for him to practice Buddhism. He bult a hermitage here.

  Kyoshin taught many people, help with agricultural activities and carried burdens for neighboring farmers.

  When there was spare time, he recited the Namuamidabutsu (the sutra) heartily.

*Kakono Umaya - The station  in  Kakogawa which was placed on the ancient Sanyo Road was called Kakono Umaya. It played a role in the traffic and lodging for government officials. Kakono Umaya took charge the transportation  between  Akashi and HImeji.

(直訳) 祈りに生きた僧(2)

  教信は、印南野の西の端、野口に着いた。

  ここは加古の駅(うまや)のあった場所だった。

  野口は海岸に近く景色の良い場所だった。なかんずく、野口の人々は心はあたたかかった。

  教信は野口が気にいり、仏教寺実践のもっとも良い場所であると決めた。彼は、一軒の粗末な家を建てた。

  教信は人々に仏を説き、農作業を手伝った。

  時間ができると彼は一心に「ナムアミダブツ」を唱えた。

  古代山陽道の駅(うまや)は「かこのうまや」と呼ばれた。加古の駅は交通や官人の宿の役割を果した。加古の駅は明石と姫路の間の輸送の任務を負った。

*写真の点線が古代山陽道で、図のNoguchi(現代の加古川市野口町)に加古の駅が置かれていた。古代山陽道は海抜10メートルの等高線にほぼ沿ってつくられた。

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教信(1)・Priest Living in Play the Budda(1)

2006-09-19 07:52:25 |  ・加古川市野口町

_087_2   シリーズで教信を英文で取り上げてみたい。対訳(直訳)しておきましたので、あわせておよみください。

Kyoshin - Priest Living in Play the Buddha

  This is Kofuku-ji temple in Nara and this temple was for the Fujiwara family. This temple was the most influential in the Heian and Nara periods.

  The priests of  Kofuku-ji temple came to think that they were superior to others.

  Kyoshin was among those priests. Somehow, he retainded unresolved troubles in his hereat.

  Kyoshin noticed that Buddha taught us to be content living among poor persons.

  When Kyoshin considered such things, he did not hesitate to leave Kofuku-ji temple.

  After he left Kofuku-ji temple,  he learned of the stern realities of life. Farmers were troubled by much land tax and worked under sever conditions.

(直訳)  教信 祈りに生きた僧

  ここは奈良の興福寺です。そしてこの寺は、藤原氏の氏寺でした。

  この寺は、平安・奈良時代、大きな影響力を持つ寺でした。興福寺の僧たちは他の者(僧)よりも優れていると考えるようになった。

  教信もそれらの僧の中にいた。教信は、「仏さまは、貧しい人々の中で生活して満足をすることを教えている」とさとった。

  教信は、そのように考えると、興福寺を離れることに躊躇(ちゅうちょ)しなかった。

  興福寺を離れた後、彼は生活の厳しい厳実を知った。農民たちは高い年貢に苦しみ、厳しい生活をしていた。

*写真 桜の中の教信寺(加古川市野口町) Kyoshin-ji temple which is covered in chery blossoms in spring.

 

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大庫源次郎(おおくら・げんじろう)

2006-09-18 08:20:53 |  ・加古川市野口町

C4fa4c19_2   今日は、「播州経済人国記(丸投三代吉著)」(毎日新聞姫路支局・昭和50)から「オオクラ輸送機」の創設者、大庫源次郎(おおくら・げんじろう)を紹介したい。

  源次郎は、明治45年2月、高等小学校を卒業すると、加古郡荒井村(現:高砂市)から京都の鉄工所へ奉職した。真っ黒になって働いた。

  19才で大阪砲兵工廠へ、そして夜学にも通った。

  やがて、大正デモクラシーの波に乗って、全国的に労働運動が激化する。源次郎は川崎造船の争議にも巻き込まれた。

  郷里に帰って就職した日本毛織加古川工場でも組合設立運動に参加し、組合幹部として42日間のストを指導した。争議終了とともに解雇された。

  源次郎はくじけなかった。昭和2年、別府町新野辺に大庫鉄工所を創立した。ちっぽけな町工場だった。

  まじめな仕事ぶりで、多木肥料や野田醤油関西工場(キッコウマン醤油高砂工場)などから仕事が舞い込んだ。

  昭和12年現在の加古川市野口町に工場を移転した。

  戦後、源次郎は生きるために、ナベ、カマ、パン焼き器等を製造した。現社長の典雄は「鉄材不足してい時代で、品物は飛ぶように売れた」と語る。

  戦後、大量生産、大量販売の時代になった。コンベアの生産を始めた工場は、更に大きく発展した。

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電灯がついた

2006-09-17 08:00:58 |  ・加古川市野口町

66b42e2c   「大正6年12月10日に、電灯が取り付けられ、12月22日から電灯がついたのであります。

  これで、これ迄のランプの掃除もなく、家の中が明るくなったのであります。

  60ワット二灯、40ワット一灯で月料金が1円50銭・・・・」

  これは、古大内(ふろうち・加古川市野口町)の柴田善次さん(明治25年3月11日生)の「感想と体験録」の一節である。

  古大内に電灯がついたのは、大正6年でした。

  以前、今福(加古川市尾上町)で聞き取りをしたとき、今福に電灯がついた日のことを、Kさんは、「・・・あれはうちの息子の誕生の年でした。子供は大正9年4月の生まれでしたが、この時にはまだ電灯はついていませんでした。その年の田植えも終わった頃、電灯がつきました・・・」と、はっきりと覚えておられた。

  電灯がついたことは、当時よほど大事件であったようで、どこの地域でも多くの人がはっきりと覚えておられる。電気の生活は、それまでの生活を大きく変えた。

《自転車》

  自転車が一般化したのも大正の中ごろで、柴田さんも大正9年2月15日、一台の自転車を購入している。

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野口の小作争議

2006-09-16 08:23:43 |  ・加古川市野口町

C3dd2dc9  1924年(大正13)の調査がある。加古郡の小作率は64.5%で、印南郡のそれは63.9%であった。

ものすごい小作率である。

  大正13年4月2日、加古川公会堂(現:加古川小学校近くの市立図書館)で日本農民組合東播連合会の創立大会が行われた。

   「・・・生存の権利を持って対抗し、団結と組織をもって土地と自由を得るまで努力する・・・」と宣言した。

  団結した農民のエネルギーは地主に小作料の減免を要求した。

  大正13年、野口の鵤(加古川市野口町長砂)では、大規模な小作争議が展開された。

  小作料の引き下げを求めた。これに対して地主は、成育中の稲を差し押さえ、小作人に、稲を刈り取らせないように対抗した。

  小作人は、「稲の刈り取りと運搬をさせて欲しい」と要求したが断られた。

  ある朝、地主側が雇った人夫が稲の刈り取りをしているのを見つけ、こぜりあいとなった。突然多数の警官があらわれ、多くの逮捕者を出した。

  逮捕された人々は、裁判にかけられた。村人の要求は、ほとんど聞き入れられなかった。

*お詫び:昨日のブログ「野口念仏」の中ほどの「・・・明石についた。教信は、野口の教信寺・・・」の教信は、一遍の誤りです。

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