少し復習
少し復習をしておきたい。
蟠桃は、寛延元年(1748)現在の高砂市米田町神爪(かづめ)に生れた。
父は、農業を営むかたわら「糸屋」という屋号で糸(木綿)の取引に従事していた。
蟠桃は、後年大坂で米の仲買をしている「升屋」で働くことになった。
23才の時、「升屋」を継いだ山片重芳(しげよし)は、当時6才であったため、蟠桃は重芳を助け「升屋」の経営にもたずさわった。
当時、升屋の経営は火の車だった。
その間10年、懸命の努力がみのり「升屋」は、大いに繁盛することになり、後に主人から「山片」の姓を名のることを許され、ここに山片蟠桃が誕生した。
『夢の代(ゆめのしろ)』
彼は、忙しい商の傍ら勉学への情熱は抑えきれず、「懐徳堂 (かいとくどう)」に入門し、天文学、その他を学習し、55才の時に、自分の考え、知識をまとめようと、大作『夢の代』に取りかかり、苦労すること20年、やっと完成させた。
その内容は当時としては驚くほど、先を見越したものであった。2・3あげてみたい。
・人間の精神は、死とともに活動を停止し、霊魂の不滅ということは絶対にありえない。
・西洋人が、世界の海を駈けめぐっているのは、天文学と地理学の豊かな知議に基くものであリ、従って知識から勇気が生まれる。
彼の学んだ懐徳堂の規則には「学問は、貴賎貧富を認めず、四民平等であるべし」とあった。
こんな雰囲気の中でこそ、蟠桃の考え方はつくられたのであろう。
文化7年(1810)に妻・のぶを失い、彼にも老いの悲しみが押し寄せ、文化10年、ついに失明に至った。
功なり、故郷神爪村に開かぬ目で錦を飾った彼は、2年後の文政4年(1821)2月26日、静かに息を引き取った。
蟠桃は、科学的にものをみつめた。
*写真:神爪共同墓地にあった時の蟠桃顕彰墓(現在:正覚寺の境内に移されている)