ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(74) 山片蟠桃物語(9)・夢の代

2014-11-29 00:00:56 |  ・高砂市米田町

      少し復習
 少し復習をしておきたい。

 蟠桃は、寛延元年(1748)現在の高砂市米田町神爪(かづめ)に生れた。
 父は、農業を営むかたわら「糸屋」という屋号で糸(木綿)の取引に従事していた。
 蟠桃は、後年大坂で米の仲買をしている「升屋」で働くことになった。
 23才の時、「升屋」を継いだ山片重芳(しげよし)は、当時6才であったため、蟠桃は重芳を助け「升屋」の経営にもたずさわった。
 当時、升屋の経営は火の車だった。
 その間10年、懸命の努力がみのり「升屋」は、大いに繁盛することになり、後に主人から「山片」の姓を名のることを許され、ここに山片蟠桃が誕生した。

     『夢の代(ゆめのしろ)』
 彼は、忙しい商の傍ら勉学への情熱は抑えきれず、「懐徳堂 (かいとくどう)」に入門し、天文学、その他を学習し、55才の時に、自分の考え、知識をまとめようと、大作『夢の代』に取りかかり、苦労すること20年、やっと完成させた。
 その内容は当時としては驚くほど、先を見越したものであった。2・3あげてみたい。
 ・人間の精神は、死とともに活動を停止し、霊魂の不滅ということは絶対にありえない。
 ・西洋人が、世界の海を駈けめぐっているのは、天文学と地理学の豊かな知議に基くものであリ、従って知識から勇気が生まれる。
 彼の学んだ懐徳堂の規則には「学問は、貴賎貧富を認めず、四民平等であるべし」とあった。

 こんな雰囲気の中でこそ、蟠桃の考え方はつくられたのであろう。
  文化7年(1810)に妻・のぶを失い、彼にも老いの悲しみが押し寄せ、文化10年、ついに失明に至った。
 功なり、故郷神爪村に開かぬ目で錦を飾った彼は、2年後の文政4年(1821)2月26日、静かに息を引き取った。

 蟠桃は、科学的にものをみつめた。

 *写真:神爪共同墓地にあった時の蟠桃顕彰墓(現在:正覚寺の境内に移されている)

 

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高砂市を歩く(73) 山片蟠桃物語(8)、蟠桃の天文学・宗教論

2014-11-28 07:46:11 |  ・高砂市米田町

 升屋の経営をとして、現実の経済(流通)を合理的に考えるようになった。

 蟠桃の知識欲は、天文学へも発展した

     蟠桃の天文学

 寛政五年(1793)九月、蟠桃は天文暦学の論稿「昼夜長短図並解」を書きあげた。

 ここで蟠桃は、季節や緯度のちがいによって、一年間の昼と夜の長さがどう異なるかを計測している。

 地球が丸いとする日常感覚としては信じられなかった時代のことである。

 蟠桃が、天文に興味をいだいたのは、直接には師の中井履軒(りけん)の影響が大きかった。

 履軒は儒者ではあるが、西洋流の天文学や解剖学も学んでいる。そして、その履軒の友人が、麻田剛立(あさだごうりゆう)だった。

 麻田剛立は、なにせ暦にない日食の起こる日時を正確に予言した天才である。

    宗教論争

 また、寛政六年(1794)、 蟠桃は故郷神爪(現、高砂市米田町神爪)村の正覚寺住職に仏教問答めいた書簡を送っている。

 十項目ほどのか条にまとめているが、彼の考え方がよく分かって面白い。

 その内、一つだけであるが読んでおきたい。

 ・・・ある(仏教の)経典によると、西方十万億土の地には極楽と呼ばれる別世界があって、阿弥陀と呼ばれる仏がおられるとのことです。

 しかしと地球の周囲は、日本里で計るとおよそ一万里(約四万キロ)で、西方十万億土という場所は、まったく見当がつきません。

十万億里というのは、地球を一万回ぐるぐる回る距離のことでしょうか。

 インド、中国、日本はともにアジア州に属しています。その西はアフリカで、さらにその西は海を越えてアメリカ、さらに海を越えると日本に戻ってきます。

 つまり、いくら西に向かっても極楽には到着できないのです。

 蟠桃は、いくら西に向かってみても地球をぐるぐる回るだけで、極楽などにはぶつからないと断言する。

彼の合理(科学的)主義が読み取れる。

 *『蟠桃の夢(木村剛立著)』(トランスビュ)参照

 *写真:現在の正覚寺(高砂市米田町神爪)

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高砂市を歩く(72) 山片蟠桃物語(7)・貨幣の改鋳は悪政

2014-11-27 06:51:33 |  ・高砂市米田町

   松平定信からの下問

 寛政八年(1796)夏、蟠桃のもとに、中井竹山を通じて一通の「下問」が舞いこんだ。

 依頼主は、松平越中守定信である。

 すでに、老中を辞任しているが、まだ幕府の政策決定に隠然たる勢力を保っている。

 今回、定信から蟠桃に書き上げるよう「下問」がなされたのは、「金銀の歴史を簡略に述べよ」いう、漠然としているように見えて、幕府の根本政策にかかわる一件だった。

 もちろん、ここにいう金銀とは、貨幣のことである。

 日本における貨幣発達史を論じるとなれば、単に昔の出来事を並べるだけでは収まらない。

 慢性的な財政危機に見舞われている幕府が、これからどのような貨幣政策をとればよいかを下問されている。

 定信からの依頼をありがたいと思う反面、さすがに緊張を覚えた。

 定信が蟠桃に貨幣の変遷史を書きあげるよう「下問」した理由は、デフレの続くなかで、なんらかの打開策を打ち出さねばならなかったからである。

 おそらく、勘定奉行や金座・銀座の町人からは、通貨改鋳の提言がなされたにちがいない。

 そこで、これからの貨幣政策を決めるにあたって、通貨政策の下問の白羽の矢が、懐徳堂の蟠桃にあてられたのである。

      貨幣の改鋳は悪政である

 蟠桃は、即座に改鋳に「ノー」の答えを出した。金銀貨の品位を劣化させる改鋳はおこなうべきではない。

 改鋳を増やせばインフレをまねき、民を苦しめると説いた。

 蟠桃は、元来、金・銀の吹き替えは「悪政」で、金座・銀座の職人や商人を喜ばせるだけで、天下に混乱を招くと答えた。

 その後、幕府では、どんな話がなされたのかは知ることはできないが、蟠桃への下問が生かされたのかもしれない。

 幕府は、寛政後期から享和・文化期にかけて貨幣改鋳の誘惑にじっと耐えた。

 *『蟠桃の夢(木村剛久著)』(トランスビュー)参照

 *写真:これ等の貨幣の改鋳差益(出目)により幕府は収入を得たが、物価の上昇をもたらした。

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高砂市を歩く(71) 山片蟠桃物語(6)・経済学の芽生え

2014-11-26 07:11:09 |  ・高砂市米田町

   寛政の改革・松平定信の登場

 幕府は、深刻な財政難であった。

 この財政を解決するために松平定信(1758-1829)が登場した。

 彼は、極端な「緊縮政策」をとった。

 蟠桃(1748-1821)と定信は、ほとんど同時代の人である。

 蟠桃と懐徳堂の教師・中井竹山は、ある時こんな話をしていた。

 (竹山)この度の松平定信様の改革は、水際だっておらるわ。並みの老中は、あないにはでけんことや」(蟠桃は、まゆをくもらせた)。

 (竹山)「どないしたんや」

    経済学の芽生え

 蟠桃は、意を決したように口を開いた。

 (蟠桃)思いきって申し上げますが、この度の定信様のご改革は、このままではうまくいかぬのではないかと懸念しております。

 人のからだにたとえると、お金ちゅうもんは血液と同じや、とわたしは考えております。定信様は、すべてお金が奢りのもとやとお考えのようでございますが、いまの世の中、お金がなかったら動かぬようになってしまいます。

 たしかに、元禄の(お金の)改鋳で、お上は多額の利益を得られました。それ以来も度重なる改鋳をおこなってこられました。

 そのため、慶長の一両が一両半に、さらにそれが二両半にとふくれあがったわけで、お上はボロもうけをされました。

 損をするのは民ばかりでござりました。

 貨幣の値打ちが下がるにつれて、ものの値段も上がりました。

 (竹山)少し言葉がすぎるぞ・・・

 松平定信様は、田沼殿が推し進められてきた野放図な政策を改められて、商人に命じて物価を引き下げられるにちがいないとわしは思うとる。

 (蟠桃)わたしが心配しているのは、そのことでござります。

 金の流れは、たとえてみれば血液の流れと同じで、悪い血がものすごい勢いで流れたら、からだを壊してしまいます。

 が、逆に血が止まってしもうたら、人は生きていくことができません。

 経済には経済なりの「理」というものがございます。

 この「理」を無視して、上から無理やり抑えつけようとしても、かえって経済全体の体力は低下してしまいます。高いときには、その理由がございます。

 たとえば、凶作の年には米の値段が上がりますが、これは商人が米を買い占めたからではなく、その作柄によるのです。

 高いからといって、商人に安い値段で放出するよう命じられて、たとえそれが一時的にうまくいったとしても、端境期にはどういうことが起きましょう。

 米はどこの蔵にも残っておらず、そうなると庶民は飢え死にするしか道はありません。

 凶作の年に米の値段が上がるのは、かえって節約を促し、長い目では民の命を守ることにつながるのでございます。

 米の例ひとつをとっただけでも、ものの値段をお上の力で引き下げるのは、賢明なようにみえますが、かえって別の大きな弊害を生みだすことになります。

 *『蟠桃の夢(木村剛久著)』(トランスビュー)参照

 *挿絵:松平定信自画像(鎮護守国神社蔵)

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高砂市を歩く(70) 山片蟠桃物語(5)・銭の社会

2014-11-25 10:02:43 |  ・高砂市米田町

   升屋ピンチ

 升屋の話に戻したい。以下は『十六の話』(司馬遼太郎から)お借りした。

 ・・・

 奉公先は、当時、大坂を代表する五人の米年寄の一人だった升屋平右衛門重賢の店だった。升屋は、もともと米の仲買人の家だったが、重賢の代になって、大名貸しのほうもやっていたらしい。

 その重賢が、明和六年(1769)に死ぬ。

 蟠桃21歳のときで、主家はにわかにかたむいた。

 その上、取引先の仙台藩などの財政が逼迫しきっていたときでもあり、さらには、升屋に相続問題がおこって、家業どころでなくなった。

 そういう不振のなかで蟠桃は、大名の正体やコメとゼニを中心とした経済社会をナマ身で学びとったにちがいない。

 さらには、相続問題をめぐっていやなことも見聞したはずで、これは想像だが、古参の番頭や手代なども去り、升屋の親類縁者も、窮状を見て手を退きはじめたに相違ない。

 蟠桃は若すぎたが、ようやく24歳のとき、蟠桃は決意して6歳の重芳を擁し、升屋をたてなおすことにした。

     銭(ぜに)の社会

 このとき、升屋の金庫にはわずか60貫の銀しかのこされていなかったという。

 その後、升屋の芽が出るまで、かれは11年苦闘した。

 11年後の天明三年(1783)、仙台藩との信頼関係が確立し、藩のたのみで一万五千両を貸し、以後、藩財政のたてなおしの相談をうけるまでになった。

 かれは、コメを根底からカネとして見ることによって仙台藩の財政のむだをのぞいた。つまり、コメから“貴穀"という迷信をとりのけた点、蟠桃の思想性が経済に生かされたといっていい。

 やったのは、農民の年貢をとりたてたあとの“残米"を藩が現金で買いとるということだった。

 つまり、“残米"のぶんにかぎって、藩と農民は商取引の関係になった。

 藩は買いあげた残米を、日本最大の消費地である江戸へまわした。

 藩が、米屋になった。このあたらしい機構のおかげで、以後、江戸市民のたべる米のほとんどは仙台米になった。

 買米と、それを江戸へはこぶ米のためには、仙台と、港の銚子と受け手の江戸に役所を新設せねばならなかった。その役所の設立・維持と人件費は升屋が肩代りすることにし、その費用として、蟠桃は“サシ"というものを申し出て、ゆるされた。

 ふつう米俵の検査をするとき、竹ベラで俵を刺して米の品質をみる。サシに、一合ほどの米がのこる。

 その残った米を升屋がもらうことで、三ヵ所の役所の経費を支出した。

 これが意外に大きく、支出をさしひいても年に数千両が升屋のふところに入った。

 藩も、大いにうるおった。農民から買米する場合、蟠桃の考案により、藩は“米札"という幣でもって支払った。

 藩は江戸で売った米をもって現金を得、その現金を、藩は両替商に貸して、利息を得る。その利息は、藩にとって莫大なもので、これよって仙台藩は財政のたてなおしをした。

 ゼニ経済になることによって、仙台藩は、すっきりした財政をもつことができた。

 仙台藩の財政たてなおしの成功によって升屋の評判が高くなった。

 当時、仙台藩は、町人の蟠桃を遇するにあたかも一藩の家老のようであった。

 *写真:山片蟠桃像(高砂市米田町神爪の公園)

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高砂市を歩く(69) 山片蟠桃物語(4)・懐徳堂の教育

2014-11-24 08:08:29 |  ・高砂市米田町

   懐徳堂

  懐徳堂の学問は、朱子学である。

 江戸時代の武家や商家は、幕府教学である朱子学を敬いながらも、内心「堅苦しくてやってられない」と考えていたふしがある。

 特に商人は、朱子学風を吹かせ、小君子ぶっていたのでは客が寄りつかない。

 朱子学を民間にはやらせるには、何らかの「仕掛け」が必要になってくる。

 懐徳堂は、朱子学を、商人道徳の域に還元するからくり仕掛けた。

   懐徳堂の朱子学

 享保十一年(1726)六月、懐徳堂は幕府公認の学問所となった。

 教えるのは『論語』や『孟子』などが中心で商人道徳を説くのが本筋であった。

 三宅石庵・中井甃庵の講義を聴けば、これまでなりわいになんとなく後ろめたさを感じていた商人も、勇気が湧いてきた。

 「あしたから頑張ってもうけまっせ」ということになれた。

 懐徳堂で教えられていたテキストは、もちろん四書五経が柱になっているが、訓読と解釈中心の他に仕掛けをし、面白く語ったこともあったようである。

 たとえば、懐徳堂の教師・中井甃庵(しゅうあん)の書いたエッセイ『とはずがたり』などからは、懐徳堂での講義の雰囲気の一部が伝わってくる。

 ・・・・・

 「商人は、利を目的とする者であるから、ものを学んだところで、きれいな心は得られるか」という論がござります。

 しかし、それは浅はかな意見というものでございましょう。暮らしに必要な物資が滞らぬように人に便宜をはかる、それで得られるのが利というもので、これを非難する人はまさかおられないでしょう。

 そうはいうても、儲からんというで、やるべき仕事をやらんのはどうかと思います。

 反対に儲かるからというて、どんな仕事でもしてええかというと、それは浅ましいことやとわきまえておくべきでしょう。

 つまり、やるべき仕事をして、それで自然と儲けをちょうだいする。これが、定めというものでござります。

 みかどや公方さん、それにお武家さんにいたるまで、その禄はけっきょく百姓、庶民におんぶしておられる。

 この民を、はたして卑しい者と言えるのでございましょうか。士が世を治め、農が田を耕し、工がものをつくり、商がものの流れを守る。

 みんながそれぞれに仕事をし、そういうふうに仕事をしさえすれば、自然と利が生まれることになっておるのです。(『とはずかたり』より)

 ここでは身分が厳然たる階級的区別としてではなく、どちらかといえば、社会的役割の違いとてとらえられている。

 「商人だけが利を得ているわけではない。士農工商はそれぞれの働きに応じ利を得ている」と説いた。

 *写真:懐徳堂の模型(HPより)

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高砂市を歩く(68) 山片蟠桃物語(3)・升屋

2014-11-23 08:13:39 |  ・高砂市米田町

    升屋

 蟠桃は、米仲買を商売としている「升屋」に奉公した。升屋といっても、町の米屋を想像しないほうが賢明である。

 升屋のことを知る必要がある。

 司馬遼太郎は『十六の話』(中央公論社)で、升屋について、次のように書いている。

 ・・・・

 (江戸時代)貴いも賤しいもなく、コメはすなわちゼニだった。

 にべもなくいえば、藩は、産地における巨大なコメ屋だったともいえる。

 しかし、藩は貴であるいう建前があるがために、そのコメをゼニにする機関にじかに触れることができない。触れる機能は、大坂の町人がやる。

 町人は、いやしい。建前でいえばゼニは賤しく、従って町人は賤しく、だからかれらにあつかわせる。

大坂にあって、そのような機能をうけもっていた金融業者の一つが、升屋だった。

 ・・・・

 すなわち、江戸時代における幕府や藩の財政(日本経済)は、年貢として徴収された米を販売することによって成りたっていた。

 全国の金融センターとして大坂が発展するのは、17世紀後半かだといわれる。

 大坂は元禄(1690年代)から天保(1830年代)のころまで約150年間、国の米市場の中心地としての地位を保っていた。

 蟠桃が暮らした時期は、近世大坂の絶頂期といってよい。

     思想家のめばえ

 丁稚奉公に入った蟠桃の毎日はつらかった。甘える親もない。

 暗いうちから店の拭き掃除や道路の水まき、たばこ盆の片づけをし、台所から声がかかれば使いに走らねばならない。

 店の仕事が終わると、夕方からは手習いと算盤の修業が待っていた。

 だが、主人の平右門は驚いた。播州の田舎からやってきた子どもが、いい年をしたまわりの手代よりよく字を知っているし、算盤も群を抜いてできた。

 『論語』を空で言えた。

 55歳の平右衛門は早くに嫡男を亡くし、いま次女しか、残っていなかった。

 いずれ、婿養子をと考えているのだが、升屋をしっかりと支えていくためには、できのいい番頭の存在がかせない。

 そこで平右衛門は、新しく丁稚に入ったばかりの蟠桃に目をつけた。

 平右衛門は、新入りの丁稚を懐徳堂(かいとくどう)で学ばせることにした。

 蟠桃の運は、ここから開けていった。

 *『蟠桃の夢(木村剛久著)』(トランスビュー)、『十六の話(司馬遼太郎著)』(中央公論社)参照

 *絵:堂島の蔵屋敷

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高砂市を歩く(67) 山片蟠桃物語(2) 大坂へ

2014-11-22 07:40:50 |  ・高砂市米田町

 *「蟠桃(ばんとう)」は後の呼称であるが、混乱をさけるため、しばらくは「蟠桃」をつかいたい。

   蟠桃、米田町(高砂市)神爪で誕生

  蟠桃の生まれは、現在の高砂市米田町神爪(かづめ)である。

 神爪の中ほどに「山片蟠桃幼少時、父と酒屋を営んでいた家跡」の石碑(右写真)がある。

 蟠桃の育った時代の神爪村は、澄んだ水が集落の中央をとうとうと流れていた。この用水路の水は、加古川につながっている。

 生家のすぐ西に覚正寺という浄土真宗の寺がある。

 集落の辺りには水田が広がっているだけのごく普通の集落であった。

ただ、村中の道は西国街道である。

   長谷川家は「糸屋」

 蟠桃は、寛延元年(1748)に、神爪村の百姓、長谷川小兵衛の次男として生まれ、三人兄弟の真ん中で、生家・長谷川家は後に「糸屋」という屋号で呼ばれた。

 父親の小兵衛は、神爪村でそれなりの田畑を所持していたようである。

 屋号・「糸屋」でもわかるように、蟠桃が生まれた時代は、村は稲作だけではなく、綿作も取り入れようとする時期にあたっていた。

 農村地帯であったとはいえ、子ども心にもどこかに「商売」という空気が漂っていた。

 殊に、蟠桃の実家、長谷川家は、のちに綿の売買や酒屋の経営に携わることからみても、農家というより半ば企業家の意識が強かったようである。

   大坂へ

 大坂では父、小兵衛の兄がふたり、米問屋二代目・升屋平右衛門に仕えている。

 小兵衛のすぐ上の兄は、二代目升屋久兵衛を名乗って升屋の番頭役をしていた。初代の升屋久兵衛は小兵衛の伯父にあたるから、兄は伯父のところへ養子に入って久兵衛の名を継ぎ、升屋に奉公したことになる。

 その兄が、蟠桃が生まれた年に突然、大坂で亡くなった。

 そのあとを急きょ継いだのが小兵衛の長兄で、三代目久兵衛を襲名して、升屋に引き続き番頭として勤めることになった。

 つまり、長谷川家は代々、升屋の番頭筋を務めていたのである。

 蟠桃も大坂へ出て行くのは自然の流れであった。

 そのため、蟠桃も子供のころから村の覚正寺で、読み書きを習った。その後、村から一里ほど離れた高砂の塾で、論語を素読し、簡単な解釈を教わったようである。

 蟠桃が高砂の塾に通っていた宝暦十年(1760)ごろ、高砂の町は、大坂や灘方面への播州米の積み出し港として、もっともにぎわっていた。

 高砂の堀川あたりでは、秋から冬にかけて米俵を積んだ船がひっきりなしに行き来していた。

 蟠桃は、いま播州の商業地、高砂を経て、江戸時代の商業の中心地、大坂に向かおうとしている。

 *『蟠桃の夢(木村剛久著)』(トランスビュー)参照

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高砂市を歩く(66) 山片蟠桃物語(1)・ 山片蟠桃って誰?

2014-11-21 08:31:32 |  ・高砂市米田町

    山片蟠桃って誰?

 若干ボヤキ節からはじめたい。
 宝殿駅の北側の入り口には「山片蟠桃(やまがたばんとう)生誕の地 神爪」の標柱(写真)がある。
 宝殿駅は、現代の地名では米田町神爪一丁目であるが、蟠桃は、少し西の五丁目に生まれた。
 通勤時には賑わう宝殿駅でも、蟠桃の標柱に目を留める人も少ない。
 「山片蟠桃(やまがたばんとう)ってだれ」というのが実情である。
 これが、宝殿駅界隈での反応であるが、宝殿駅あたりから離れるにつれ、この傾向は更に大きくなる。

 山片蟠桃のすごさの一端を紹介したい。
      山片蟠桃賞
 大阪府には「山片蟠桃賞」がある。

 インターネットでは、次のように説明している。
  「大阪府では、大阪が生んだ世界的町人学者である山片蟠桃の名にちなむ国際文化賞として“山片蟠桃賞”を設け、日本文化を海外に紹介し国際理解を深めた著作及びその著者を顕彰しています。
 大阪府文化問題懇話会委員を務めていた作家の司馬遼太郎さんの提唱により、昭和57年度に設けられました」
    蟠桃は日本史上の大人物
 神爪は高砂市米田町神爪にうまれている。
 「山片蟠桃の生まれは、高砂市米田町神爪(かづめ)なんですよ・・・」と全国に発信したい。
 黒田官兵衛のように盛り上がらないものだろうか。
 蟠桃は、大河ドラマになじむような人物ではないが、なんらかの仕掛けをして燃え上がらせたい。

    『蟠桃の夢』が出版された 
 「山片蟠桃はだれ?」と言わしめた責任の一端は、彼の偉大な功績をやさしく紹介する書籍等が無かったことにあった。
 しかし、最近、地元出身の木村剛久(きむらごうきゅう)氏が『蟠桃の夢』という素晴らしい本を出版された。
 この本を参考にして蟠桃を紹介したい。
*写真:「山片蟠桃生誕の地 神爪」の標柱(宝殿駅北側のロータリー)

 

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高砂市を歩く(65) いま、入浜権を(13)・入浜権宣言

2014-11-20 08:06:39 | 高砂市

   夢のような世界

 『100人証言集』で、松田正己さんは、小学校時代(昭和30年頃以前)の汐見町を次のように書いておられます。

 ・・・・「私は物心ついてから小学校5年生の時まで汐見町(荒井浜沿いの一地区)で育ちました。

 それは、今の三菱重工のあたり約60世帯の国鉄官舎の町でした。

 今、汐見町といっても知らない人が多いと思います。というのは埋立て工事で美しい自然と共に完全に姿を消した町だからです。

 大木曽水路をはさんで、町の東は広大なアシ、ヨシの湿地でカモ、ヨシキリ、ヒバリ、サギといった野鳥の宝庫でした。

 ・・・この湿地と海をへだてる土手には形のよい松が生えており、汐見町のすぐ前の土手にはドクダミ、ハマユウガオ、ノバ。ラ、ハコベ、クローバー、月見草が群落をなしていて昆虫がたくさんいました。

 そんなところで私たちはオニヤンマ釣り、芦ぶえ、竹とんぼつくり、へびのぬけがら集め、無数にあったアリジゴクの観察など自然そのもので創造的に遊んだものです。

 汐見町の前の砂浜は途方もなく広くて、台風のあとに波が打ち寄せてできた潮だまりで、タコや魚を手づかみでとりましたしアカ貝は一時間でバケツに山もりとれました。・・・とにかく二階の窓のすぐ前に土手ごしに海がありますし、夜、その上に出る月や星の美しかったこと。

 あまりにも自然が豊かで、その有難さに気がつかなかったのです。

 三菱製紙の悪水が目立ちはじめたのは昭和33年頃からで、小学校5年の時埋立てのため汐見町がなくなるというので松波町へもどりました。

 中学を出て六年ほど高槻の方へ行っていましたが、帰って来てみると高砂はもう昔の姿をとどめていませんでした。

 私にとって、あの汐見町はかけがえのない「ふるさと」でした。それは文字通り町の名まで消し去られたのです。

 高砂は、こんな夢のような町だったんです。

 入浜権運動について、『渚と日本人』で高崎裕士さんは、多くのことを語っておられます。ここでは、そのほんの一部を紹介させていただきました。

 入浜権運動は、高砂から全国に発信されました。最後に、「入浜権宣言」を読んでおきます。詳しくは高浜さんの著書をお読みください。

    入浜権宣言

 古来、海は万民のものであり、海浜に出て散策し、景観を楽しみ、魚を釣り、泳ぎ、あるいは汐を汲み、流木を集め、貝を掘り、のりを摘むなど生活の糧を得ることは、地域住民の保有する法以前の権利であった。

 また、海岸の防風林には入会権も存在していたと思われる。

 われわれは、これらを含め『入浜権』と名づけよう。

 今日でも、憲法が保障するよい環境のもとで生活できる国民の権利の重要な部分として、住民の『入浜権』は侵されてならないものと考える。

  しかるに近年、高度成長政策のもとにコンビナート化が進められ、日本各地の海岸は埋め立てられ、自然が大きく破壊されるとともに、埋立地の水ぎわに至るまで企業に占拠されて住民の『入浜権』は完全に侵害されるに至った。

 多くの公害もまたここから発している。

 われわれは、公害を絶滅し、自然環境を破壊から守り、あるいは自然を回復させる運動の一環として、「入浜権」を保有することをここに宣言する。

 *『渚と日本人』参照

 *写真:潮干狩・神野尋常小学校の児童がやって来た時のスナップ(昭和15年ごろ)『加古川・高砂の100年(郷土出版社)より

 

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高砂市を歩く(64) いま、入浜権を(12)・渚をうばわれて②

2014-11-19 12:29:32 | 高砂市

   渚をうばわれて②

 高砂の埋立事業は、昭和42年5月の東部埋立地竣工の許可を皮切りに、43年3月伊保埋立地、44年12月中部埋立地、48年12月西部埋立地が完成し、高砂海岸は全く姿を消し去った。

 この間、昭和37年には全国総合開発計画が策定され、39年9月16日にはその施策に沿った工業整備特別法による特別地域に指定を受けるなどして、高砂の海岸消滅が高度成長政策の一環であることがはっきり位置づけられた。

    海がPCBで死んだ

 ところで鐘化はといえば、35年6月から塩ビの生産を開始していた高砂を中心に石油化学原料への転換を進め、43年12月にはアメリカからの技術導入により月産1万トンの塩ビ工場が完成した。

 こうした塩ビの増強に対応して水銀電解法による塩素とカセイソーダの生産が拡大され、「ほうきで掃いて捨てた(元鐘化従業員の話)」というような大量の水銀の使用により、後の高砂本港水銀汚染事件を引き起こした。

 その後、高度成長の流れに乗り、業績もぐんと向上して昭和44年3月期には純利益が5年前の約8倍というほどになった。

 それを可能にした背後には、(1)生産性向上運動による労組の弱体化、(2) PCBの危険性を無視した販路拡大、(3)環境破壊、公害を無視した排水の垂れ流しであった。

 カネクロール(PCB)の生産は、昭和29年4月に月産100トンでスタートし、34年12月、150トン、鐘化が最大の危機に瀕しながら、埋め立ての拡張にふみ切った36年は3月に200トン、9月に300トンと二回も増強を行ない、さらに42年4月450トン、43年5月600トン、44年には750トンと強化し続けている。

 44年7月に、三菱モンサントがアロクロール(PCB)を生産し始めるまでは、国内市場をほとんど独占していた。

 最初PCBの用途は、低圧コンデンサー用絶縁材としてのみで始った。

 それをトランス用絶縁油へとひろげ、32年から高圧コンデンサー用へ進出し、さらに熱媒用にまで用途を拡張した。

 PCBの毒性は戦前から知られており、PCBを熱媒体として用いる場合、熱交換器の腐食の可能性が加わり、PCBが漏洩する危険性が大きい。

 したがって、食品工業においてPCBを使用することは不適当であるにもかかわらず、これを売りまくって、カネミ油症事件のような悲惨な結果を招いている。

 さらに、PCB(カネクロール)は、37年、ノーカーボン紙の生産や印刷インク溶剤としての用途に進出して、全面的な環境汚染を加速させた。

 高砂においては、三菱製紙のNCR紙に用いられ、その廃水等によって高砂西港の底質中最高3.300ppmという高濃度汚染をひきおこした。

 また、「昭和48年までの水銀総使用量は375トン(兵庫県調べ、県全体の50%近い)」を48年に市民の手によって追求され、県の遅ればせの指導でクローズドンステムに切りかえるまでは、全くのたれ流しを続けた。

 その結果は、高砂本港の底質中372ppm(「公害を告発する高砂市民の会」調べ)という洞海湾に次ぐ汚染になって現れた。

 さらに、その他の廃液を流し続け、付近海域を赤だしのみ汁と粕汁を混ぜたようなドロドロの海にしてしまった。

 *『渚と日本人(入浜権の背景)』(NHKブック)参照

 *地図(現在の高砂海岸)(『渚と日本人』より)

 

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高砂市を歩く(63) いま、入浜権を(11)・渚をうばわれて①

2014-11-19 08:45:17 | 高砂市

   PCBの生産(高砂・カネボウ工場)

 明治20年、東京綿商社として発足した鍾紡は、2年後社名を「鐘ケ淵紡績株式会社」とし、三井財閥の助力のもとに日露戦争前後には大手にのし上っていた。

 高砂では、明治38年から操業を開始した。

 昭和11年4月からは海岸沿いに建設された人絹工場によって、高砂町は市街地と海岸との間を巨大な工場でへだてられた。

 この鐘紡人絹工場は、昭和24年、鐘淵化学として独立し、急ピッチの設備投資を続けた。

 25年5月の塩化ビニール(大阪工場)、26年3月のブタノール(高砂)などである。

 このうち、塩ビは、26年には朝鮮戦争にともなう特需景気の中で、全国生産量5.085トンのうち1.376トンを生産してトップの座を占め、鐘化に大きな収益をもたらした。

 鐘化高砂工業所には従来から、月産320トンの水銀電解法によるカセイソーダ製造設備があったが、これは同時に350トンの塩素を副生した。

 28年1月には、同じ塩素を用いてPCBを生産することが目論まれ、29年4月からカネクレールの生産が開始される。

 32年7月、塩化ビニールの安定需要をめざして合成繊維カネカロンの製造設備を設置、35年には塩化ビニールそのものを高砂でも生産するようになった。

 しかし、この頃になると合成繊維業界の競争等により、鐘化は多額の赤字をかかえこむことになった。

 鐘化は、合理化に最も力をそそぎ、36年1月、「目標利益を絶対に確保するためのあらゆる施策を強行する」などの方針を打ち出した。

   高砂市のすべての海岸に工場が 

 昭和29年7月、高砂町、荒井村、伊保村、曽根町が合併して高砂市が誕生、翌30年7月29日には早速「工場誘致条令」を施行している。

 さらに、高度経済長成政策のもと、32年10月10日、播磨臨海工業地帯に指定され、この頃から高砂市の約5キロメートルの海岸のすべてを埋め立てて工場用地にすることが考えられてきた。

 36年6月21日、東部(高砂町地先)、中部、西部(それぞれ荒井町地先)埋立地免許坂得により県事業として埋め立てが開始された。

 この時、それまでの工場と海岸との間にあった堤を払い下げてしまいながら、県は新しく造成した埋立地についても防波堤まで企業に売ってしまった。

 この時、海岸土地所有者である杉本家(仮名)に7.000が支払われた。

 本当なら高砂町のものであったはずという事情を考えたものか、杉本家は、市に110万円寄付している。

 *『渚と日本人(入浜権の背景)』参照

 *写真:現在のカネボウ

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高砂市を歩く(62) いま、入浜権を(10)・汚れる海②

2014-11-18 12:11:22 | 高砂市

 三菱製紙に来てもらうため結んだ、あまりにも一方的なに関する確約書であった。後々、町民は苦しむことになった。

   そして、渚は死んだ

 ・・・製紙所が操業を開始して間もない明治34年6月15日、一人の農夫が町役場にどなりこんで来た。

 興奮のあまり何を言っているのかわからないのをなだめすかして聞くと、「三菱製紙所の悪水が流れこんで植えたばかりの稲が枯れた」という。

 吏員が行ってみると三反にわたってまっ黄色に枯れていた。

 三菱は、潮の逆流による塩分から枯れたのだと主張したが、農民は排水中止を要求した。

 三菱は、高砂とかわした確約書をたてに、藍屋町と高瀬町の間の溝を通して東浜町の堀川港内へ放出することにした。

 これに対して、今度は漁民がだまっていなかった。

 「堀川の水は彼らの生活用水だ」というので、5・60名の漁師が役場に押しかけた。

 農民と漁民の問に立たされた町当局は困りはて、東農人町裏から荒井村との境の大木曽水路まで、700間の新排水路を町費で構築することにしたが、三菱は費用の負担を申し出た。*地図の赤線が廃水路

 さて、降って湧いた排水路問題に、荒井村は当然拒否の態度を示したが、服部兵庫県知事は強引に工事許可を出し、突貫工事にかかった。

 そのすぐ後、ことごとく三菱の側に立って事をすすめて来た町議・杉本鶴太郎(仮名)と三菱社員一人は、工事現場を見まわり中、荒井村村民に襲撃されて負傷する事件がおこった。

 その夜、(たぶん7月18日)鋤鍬を手にした荒井村民300名が高砂町におしよせ、もはや、町の手には負えぬと見た三菱は神戸から屈強の人夫約50名を連れて来て、警察官70名の護衛のもとに工事を遂行完成させた。

 この時できた三菱製紙排水路は、その後、町の中を開渠(後に暗渠)で貫流した。

 この排水路こそ、昭和39年7月から開始したノーカーボン紙の生産にともなうPCB汚染水を流し続け、高砂の海を汚した原因の一つとなったのである。

 *海岸の流れは西から東に流れており、PCBは高砂の浜に運ばれ沈殿した。

 ところで、悪水を港内に放流されそうになって反対運動に決起した漁民・500名は反対の態度を表明したが、結果的には魚介不漁に対する見舞金として漁業組合に三菱から2.500円寄付を受けるということでけりがついた。

 これは日本における、企業からの漁業補償のおそらく最初のものであろう。

 この時も、例の杉本鶴太郎(仮名)が仲介し立会人となって根回しし、一部の人達だけが利益を得ることになった。

 そして、乱獲のこともあってか、昭和24・5年頃から貝が減少してきた。

 その頃から、貝の養殖場の水ぎわから2・30メートルに及んで砂地がドロドロになって足の指の間からヌルヌルとはみだしてくるし、一種の異臭がただよい始めてきた。

 *『渚と日本人(入浜権の背景)』(NHKブック)参照

 *地図:赤線・三菱製紙の排水路(『渚と日本人』より)

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高砂市を歩く(61) いま、入浜権を(9)・汚れる海①

2014-11-18 07:46:35 | 高砂市

    浜辺が消える

 昭和10年代になると、現在高砂市になっている荒井村、伊保村、曽根村にも、海岸線に沿って次々と工場が建てられ、住民の前から海がへだてられていった。

 その中でも、昭和14年、陸軍造兵廠播磨製作所の荒井村への進出は最大のものであった。昭和6年、キッコーマンの工場が建ち、次いで現在の播磨耐火練瓦等が立地し、昭和16年、全面的に造兵廠の巨大工場が建設された。

 戦後、造兵廠は国鉄工場、三菱重工、神戸製鋼等に払い下げられた。

 それでも、昭和36年の埋め立ての開始まで荒井の浜そのものは残っていた。

      汚れる海

 (海の汚染は、)明治34年に、三菱製紙所が誘致され、操業を開始した時から始った。

 そもそも、三菱製紙が従来工場のあった神戸を引きはらって高砂に来た動機は、『三菱製紙六十年史』によれば、つぎのようであった。

 (1)工場用水について絶対安心である。(2)播磨灘を近くひかえているので排水上きわめて便利である。(3)輸送の便がよい。(4)将来必要とする場合、原料藁の確保がしやすい 。(5)砂町周辺は、甚しく疲弊しているので土地も労力も廉価で入手できる、ということであった。

 排水について、この時点ですでに垂れ流しが目論まれていたようである。

 この時の町の状況を、後に町長にもなった有力者の伊藤長平氏は『三菱製紙六十年史』に次のように語っている。

 「加古川町に鉄道がしかれると、皮肉にも荷物は全部加古川駅で扱うようになり、高砂町はにわかに仕事がなくなってしまいました。

 そして、阪鶴線(播州鉄道のこと)ができてからというものは全く貨物が途絶えてしまいました。

 人家は、どんどん減って2.500戸もあったものが1.000戸足らずになってしまい、いたるところに乞食がおり、行倒れがあるという有様でした。(中略)地価は高い所でも一反50円(一坪約17銭)安いところとなると35円くらいで、それでも買手は少なく、宅地は坪30銭くらいで、ところによってはただ同様でありました。町の人々が後悔し嘆いているところへ、日本毛織会社が高砂に工場を建てるそうだといううわさが伝ってきました。(中略)結局、加古川町に工場を建てることに決定してしまいましたので、高砂の町民の落胆は見るも哀れな有様でした。そこへ三菱製紙が来るということになったので、まるで夢のような話です。高砂丸が難船しかかっているところへ観音様があらわれたよう」と書いています。

 つまり、高砂は、一方的に会社に妥協した。

 なお、三菱と鐘紡とで、なんと高砂町の8割の土地を買占めたといわれる。
 *『渚と日本人(入浜権の背景)』(NHKブック)参照

 *写真:かつて、潮干狩が行われた海岸(高砂の浜・昭和30年代)『目で見る加古川・高砂の100年』(郷土出版社)より

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高砂市を歩く(60) いま、入浜権を(8)・海への道がふさがれる(2)

2014-11-17 08:27:03 | 高砂市

(前号「浜への道がふさがれる(1)」より続く)

 <河合義一議員>

 今度の鐘紡の交渉は鐘紡にしてやられておる。

 鐘紡は、最初レイヨン工場を作るので、水が多くいると言ってだまされておる。

 町長は、道を鐘紡に譲ることは決っていると言われたが、いつ決っておるのか。

 助役は、私にうそを言ったのである。

 いつ本町線廃止は決定したか。誘致々々と言うが初めて鐘紡を持って来るのでなく、はじめから10年後には建つことに決っていたのである。

 <戸田亀太郎町長>

 本町線廃止は既定の事実なりと言ったことは、「あの道を(工場の敷地として)使わぬことには人絹界をリードする様な工場は出来ぬ」と言うのでやむをえぬと言うのである。

     「本町線」市民の知らぬ間に消える

 誘致に賛成していた議員たちも、海に出る道路がなくなるとは知らされていなかったらしく、事実を知って大騒ぎになったようで、教育界でも問題になった。

 そうした反対の声に、さすがの鐘紡も抗しきれなかったらしく、小学校前の海水道は廃止をまぬがれた。

 しかし、昭和36年以降の埋立ての中で、この海水道の延長ともいうべき市道が、いったんは海岸までつけられておりながら、昭和46年、市民のほとんど知らぬ間に、市議会の審議にもかけないで鐘紡人絹工場の後身、鐘淵化学に払い下げられてしまった。

 「昭和19年、ときの軍部の至上命令による実施権者の神田勝次町長の手によって実行された家屋強制疎開までは、道幅4メートルそこそこの狭い南、北本町通りは、小規模ではあったが商店街として活況を呈していて、これに続いて、いわゆる「海水道」が渚にまで真直ぐに通じていた。

 この海水道をはさんで両側はフケ田と雑草地で、その中間、海岸に向って右側の小高い場所に鐘紡の療養所の古ぼけた一棟が建っていた。

 鐘化工場が建設されるに及んで、当時の町議会の強い反対決も議も及ばず海水道は鐘化工場敷地の西側に変更移動したが、それでも新しい海水道として住民に親しまれ、現在の武田薬品工場前から西へ通ずる堤防上は、10数本の松が、青い空にそびえていた。

 現在は、その道もなくなった。

 *『渚と日本人(入浜権の背景)』(NHKブック)参照

 *図(高砂町の海へ出る道・昭和36年まで)(『渚と日本人』より)

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