ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(99):国岡新村の開発⑥・前例、文書主義

2010-01-31 12:18:41 |  ・稲美町国岡

すでに述べたように、新田村が用水を獲得するには、旧来からの水利権に割りこむことになります。

用水権の再調整が必要となります。

   解決は「内済」が原則

579b1ae6 これには、すでに述べたように藩権力が大きな役割をはたしました。

新しい水利秩序ができあがると、その運営には藩は原則的には介入せず、基本的には「自らの用水は、自らの力で守りなさい」という方針をとりました。

藩がその後も指導をするとなると膨大な事務になるし、また間違った判断をした場合、農民の不満を藩が背負うことになります。

それに何よりも、当事者の納得の解決が一番良い方法であることを藩は、知っていました。

とはいうものの、用水の争いはしばしば発生しました。

その全てを、問題のおきた集落間で解決できたわけではありません。

代官所に訴え出る場合もありました。

前号の、草谷川の川郷8ヶ村と国岡・加古新村との水争いも代官所へ訴えでた一例です。

   水がたくさんある時

双方、その言い分を主張します。が、判決の決め手は「前例」でした。

「以前、どのような取り決めがされたのか」ということです。

延宝8年(1680)の文書(国岡土地改良区所蔵)に次のような記述があります。

 「(大溝用水からの取水に関して)冬春之儀ハ少シ茂構無御座候、四月より七月迄之内、用水之時者下江流申様願申候、四月より七月迄之内たりとも水沢山の時者、少シ茂構無御座候、・・・延宝八年申ノ六月・・・

現代文にしておきます。

「・・・灌漑期であって水が沢山あるときは、草谷川から水を取ってもかまわない・・・延宝八年(1680)・・・」

つまり 「水がたくさんある時」というあいまいな記述が水争いの原因になるのですがですが、この記述により代官所はそのときの状況を判断することになりました。

もしこの記述がなければ、国岡・加古新村は対8ヶ村との訴訟で敗訴したと思われます。

代官所は、この記録とその時の状況を判断して国岡に有利な判決を下しました。

   保管されてきた古文書

争いごと(特に水争い)のおきやすい印南野台地の村々にとって記録(文書)は、単なる終わったことを記録した文書ではなく、その時・将来に備えて保管すべき大切な書類でした。

そのため、稲美町の各土地改良区には多くの古文書が保管されてきました。

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稲美町探訪(98):国岡新村の開発⑤・水争いに勝利する

2010-01-30 18:41:08 |  ・稲美町国岡

119 草谷川は神出(かんで)の雌岡山(めっこうさん)あたりの水を集めて、草谷より下草谷、野村を経て、中西条にいたって加古川の本流に合流します。

この川の水を利用する村々が川郷(かわごう)です。

草谷川の川郷は、草谷村・下草谷村・野村・下村・宗佐村・上西条・中西条・船町村の8ヶ村です。

江戸時代の初めの頃です。やがて、草谷川の水量が少なくなってきました。

原因は、加古新村をはじめ印南野台地上での新田開発と、それにともなう草谷川から取水する大溝用水の築造でした。

大溝用水から、旧暦の7月から翌年の4月の間は加古新村等への取水は認められました。

繰り返しますが、これは、加古新村が姫路藩の援助で開発されため、川郷の村々は藩に反対を唱えることはできなかったためです。

それと、加古新村の開拓者が川郷の上西条・中西条・下村の有力者であったことなどが考えられます。

加古新村の開発に続き、国岡新村の開発が始まりました。

大溝用水の水を加古大池の取水口の近くから分かれて、入が池に取り入れ国岡村に流すことが取り決められました。

もちろん、その背景に姫路藩の指導があったのはもちろんのことです。

でも、十分な水はありません。

この大溝用水をめぐって、大規模な水争いが幾度となく繰り返されました。

    写真は、大溝用水が加古大池と入が池の溝に流れる取水口(稲美町加古池ノ内)。左水路は天満大池へ・右水路は入が池へ流れる。

  草谷川の川郷(8ヶ村)との水争い 

明和元年(1764)の水争いもその一つです。

明和元年69日の降雨により、久しぶりに草谷川には十分な水がありました。

そこで、加古新村・国岡新村の2村は灌漑期(取水できない時期)だったのですが、水がたくさんあるので、大溝用水へ取水をしようと堰へ人足を出しました。

これに対して、草谷川の8ヶ村からは、そうはさせまいと大溝用水へ人足を出し、激しい水争いになりました。

双方から被害届があり、大庄屋をへて代官所に提出されました。

この訴訟の争点は「灌漑期であっても水がたくさんあるときは、加古新村・国岡新村に取水の権利があるかどうか」にありました

2村は「ある」、8ヶ村は「ない」と主張したのは当然のことです。

この訴訟は、灌漑期であっても、水がたくさんあるときは、2村は草谷川から水をとっても良いという結論で決着しました。

なぜ、このように2村に有利に決められたのでしょう。

次回で考えます。

その他の水争いについては『稲美町史』を参照ください。なお、きょう紹介した水争いは町史に紹介されていません。 

◇蛇足◇

今日で、ブログは900号になりました。1000号まで続ける予定ですので、もうしばらくお付き合いください。

ご意見・ご感想をお待ちします。

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稲美町探訪(97):国岡新村の開発④・琴池と藩権力

2010-01-29 16:32:07 |  ・稲美町国岡

105 昼過ぎに(129日)琴池にでかけました。

池は穏やかな日差しを照り返して、眩しく輝いていました(写真)。

キレイです。

・・・・

・・・・

琴池の歴史について、説明板には「・・・池の中に散在している土器の状況などから、中世から近世初め頃つくられたと思われるが、詳細な時期は不明です・・・」と説明されています。

琴池は江戸時代以前には、すでに造られていたようです。

前号で、新田開発と藩権力の関係を紹介しました。

これは印南野台地の新田村だけでなく、当時のどこの新田村にも共通することです。

国岡新村の開発におけるもう一つの藩権力を示す例を琴池にみておきます。

    琴池と藩権力

102 琴池は、国安にある池です。

国岡新村の開拓は村請新田(むらうけしんでん)、つまり新田開発に関わる費用等は自分たちで負担する開発として進められました。

開発当初の寛文年中(16611673)、国安村の琴池は改修され国岡新村と共同してつかうようになりました。

普通では、こんなことは考えられません。

国安村にとって琴池の水は大切な水であり、それを他の村へ分けるというのですから大問題です。

このことができたのは姫路藩の命令によるものでした。

この時、琴池は拡張されたといっても、国安村にとっては厳しい命令となりました。

一つの池を他の村と共同で使用するとなると、問題がおこることは予想されます。

特に、日照の年などは、村どうしの大きな諍いにもなりかねません。

現に、琴池が立会い池(共同して水を使う池)となって以来、毎年のように水不足になったと訴える国安村の訴状(注)が残っています。

が、藩の命令により国安村の琴池の水を国岡村は一部利用できるようになりました。

 このように、古い村にたいして、新田村が弱い立場にありましたが、支配権力者の直接の介入により、新しい水利慣行が行われるようになった例が多くあります。

(注)「琴池水論訴状」(国安水利委員会所蔵)

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稲美町探訪(96)国岡新村の開発③・藩権力

2010-01-28 15:01:31 |  ・稲美町国岡

334bf6cd いま、稲美町の略地図で北山を見ていいます。(地図の赤く塗りつぶした部分)

北山の集落の形が横に長く伸びているのが面白い。

北山集落は、地図の左の方に多く、右の方に「入が池」(黒く塗りつぶした部分)があります。

そして、「入が池」と北山集落を一本の水路が結びつけています。

曇川です。

北山集落も「入が池」も伝承では奈良時代には存在していたといいます。

つまり、北山集落は長い歴史の間で、せっせと入が池と曇川の周辺を自分の集落の土地とし、水の既得権を獲得してきたのでしょう。

そのため、北山集落は東西に引き伸ばしたような形になっています。

江戸時代、事情は変化してきました。

国岡新村が計画され、そこへ水を引くことになりました。

国岡新村への水路上に「入が池」が立ちはだかっているのです。

国岡の愛宕神社の東の道を北に抜ける道は急な坂をつくり、入が池と長府池・満溜池の辺りが東西に低い地形をつくっています。

*池の位置は、昨日も使った地図で確認ください。

   北山集落との話し合い 

Fa332a32 国岡新村の開発者は、北から集めた水をいったん「入が池」に集め、その水を千波池を造り、貯めて国岡集落に流そうと考えました。

問題は、「新しい水脈から集めた水を入が池に集め、集めた分だけ千波池に再度集めることができるだろうか」つまり「北山集落は、そのことを認めるだろうか」ということです。

長い歴史というものは、時には頑迷なまでに「変化」することを嫌うものです。

すんなり解決するとは考えられません。

   藩権力

方法が、一つあります。

開発許可を姫路藩に申し出ることです。そして、藩の許可を得ることでした。

藩としても、年貢の増収を目指さなければならない都合がありました。

旧来の村の水利習慣をかたくなに守っておれば収量は増えません。

そこで、藩の水利慣行の変更という指導があります。

「姫路藩の命令」ということであれば、いかに北山集落としてもノーとは言えません。そこから、北山集落と国岡新村の条件闘争が始まります。

結果を急ぎます。前号「水は入が池を越えて」をお読みください。

加古新村と国岡新村が新しい水路から獲得した水の内、30%を国岡新村が支配できることになりました。

その後の話し合いで、国岡新村が得た30%の水の内、半分の水を北山へまわすということで話は決着しました。

水利慣行を変更することは、ひじょうに難しい作業でした。

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稲美町探訪(95):国岡新村の開発②・水は入が池を越えて

2010-01-27 20:24:17 |  ・稲美町国岡

新しい村を開発するということは、その村が水を新たに獲得することです。

自分たちの集落の範囲で水源を見つけられない限り、周辺の村々の用水に割り込まなければなりません。

   水が足りない

その場合、解決しなければならない多くの問題がありました。

国岡新村の場合を例にします。

国岡新村は、すぐ北の加古新村と共同で開発を行ってきました。

国岡新村では、千波池、新池(明治期に棒池と改称)、山城池が新しく築造され、城ノ池の改修を行いました。

また、琴池はもと小さな池でしたが、大きくし隣の国安村と水を分け合うようになりました。

しかし、新田村の開発が進み大きくなると、たちまちに灌漑用水が不足するようになりました。

加古新村・国岡新村は、藩に願い出て風呂谷池(草谷)の水路の改修をおこないました。この溝は「四百間溝」と呼ばれています。

そして、その用水の30%は国岡新村へ、70%は加古新村へ流されることになりました。

溝普請にともなう人夫賃・資材等については、国岡新村3分、加古新村7分の割合で負担することになりました。

これらのことを定めた文書(寛文12年・1672)が、国岡土地改良区に残っています。

    水が流れない

Fa332a32 この新しい溝の普請により30%の水は国岡新村の支配に入りました。

稲美町役場から愛宕神社そして東辺りの地形は、高くなっています。

水は高いところを流れてくれません。

そして、流路になる低いところは「入が池」に遮断されています。

国岡新村に水を引くとなると、どうしても北山村等の支配する村々と間で水利権の調整をしなければならなくなります。

国岡土地改良区に残る文書(寛文11年・1671)から、その間の事情をみていくことにします。

   水は「入が池」を通過する

入が池は古来より北山村の所有でしたが、国岡新村の開発のためにいったん「入が池」に水を入れ、再びその水を引き出すことを国岡新村は藩に願い出て許可されました。

藩が許可を出したとなると、表だった反対はできません。

そして、現在よりも小さかった入が池の堤防を高くし、さらに入が池の面積を広げました。

そのため、野寺の土地・8反8畝14歩を買い上げ入が池の敷地としました。

その費用は、国岡新村の負担となりました。

改修され大きくなった「入が池」で、元の貯水量を示すところに分切石(ぶんぎりいし)を据え、そこから上の水を新しい貯水をとして国岡新村は使えるようになりました。

しかし、分切石より上の水は全てが国岡新村のものとはなりませんでした。

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稲美町探訪(94):国岡新村の開発①・村のはじまり

2010-01-26 22:12:47 |  ・稲美町国岡

曇川を「入が池」までたどってきました。しばらく「シリーズ・曇川」をお休みして、国岡新村(現:稲見町天満国岡)について書いてみます。曇川の続きは国岡新村の後で続けます。 

 国岡新村の開発

「稲美町探訪(15)・加古新村誕生」で、『江戸時代(大石慎三郎著)』(中公新書)から次の部分を引用しました。

「・・・天下分け目といわれた関ヶ原の戦いを中心として、その前後約6070年ほどのあいだ、つまり戦国初期から四代目綱吉の治世半ば頃までは、わが国の全歴史を通じてみても、他の時代に類例がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代である。・・・・

戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また優れた治水土木家でもあった。・・・」

つまり、戦国時代の(軍事)技術が、江戸時代農業に転用されたというのです。

 C33a2da7 村名は、安村と村の頭文字

姫路藩でも17世紀から水利施設や新田開発がさかんに行われるようになりました。

1660年前後に、一つのピークをむかえています。

国岡新田も、この時期に開発された新田村の一つです。

国岡新村は、寛文2年(1662)、国安村の庄屋・彦太郎と岡村の庄屋・安右衛門が中心になり開発されました。

そのため、国岡という村名は両者の村名の頭文字からつけられたといわれています。

   拡大する国岡新村

以来、国岡新村では未開墾地が次々と開かれ、寛文9年(1669)には、最初の検地がおこなわれ、この時、村高29496合の村になりました。

また、開発から87年後の寛延3(1750)の国岡に残る「明細帳」によれば村は順調に伸びていることが分かります。

 ・村高  404382

 ・田畑  4851

(うち田221714歩、畑24町1反514歩、

屋敷2町1反825)

 ・家数  99

 ・人口  523(274人・女249)

つまり、最初の検地から87年間に国岡新村は、村高約295石の村から405石の村に拡大しています。

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稲美町探訪(93):曇川⑦・入が池の水は北山のもの

2010-01-25 18:23:04 |  ・曇川(くもりがわ)

きょうのブログは、前号「探訪(92):北山集落と曇川」の復習になります

   「入が池」周辺に水は集まる

005_2 「雌岡山(めっこうさん)は標高241メートルの低い山だが、ぐるりに高い山がなく視界はぐんぐん開けている。

印南野台地は大まかに言えば、雌岡山あたりを頂点にして南西に地徐々に低くなる地形です。

稲美町の域には草谷川・曇川・国安川・喜瀬川の4つの川が流れています。

古代の集落は、この川の周辺ではじまりました」

以上は「稲美町探訪(74)・水は天満大池に集まる」の一部の再掲です。

*草谷川周辺の開発については後日取り上げます。

ここでは、印南野台地の水は、ほとんど天満大池に集まったような書き方になっていますが、天満大池と同じように、水は「入ヶ池」辺りにも集まりました。

きょうの「曇川」も、入が池から国安川と曇川の交わる地点までの曇川です。

そこに「入が池」が築かれたのは、伝承では天平の頃(奈良時代)と伝えられています。

004 雌岡山さん辺りからの水は、幾筋もの流(りゅう)をつくりここに集まりました。

さらに、草谷地区の風呂谷あたりの水も集めました。

その水は、曇川となり、とちゅう国安川と合流して曇川は水かさをまし、加古川へと流れました。

時代は、奈良時代です。

先人は、ここに土手を築き「入が池」をつくりました。

「入が池」がつくられる少し以前に、天満大池が完成していましたから、よいお手本になったと想像します。

しかし、「入が池」は現在のような大きな池ではなかったようです。

   荒地「国岡」

当時(奈良時代)「入が池をつくり、わが村に水を引こう」と計画したのは北山集落の人でした。

以来、入が池の水は、北山の曇川流域を潤し続けました。

稲美町役場・商工会議所のある「国岡」あたりの地形は少し高く、曇川の水は利用できません。

それに、入が池・曇川の水は北山集落のものでした。

「国岡」あたりは、長い間、荒地のままでした。

開発は江戸時代を待たねばなりません。

 しかし!・・・

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稲美町探訪(92):曇川⑥・北山集落と曇川

2010-01-24 19:21:15 |  ・曇川(くもりがわ)

  北山集落と曇川

012 きょうの話題の曇川は、入が池から国安川と曇川の交わる箇所までの曇川です。

曇川と国安川が交わる地点から、曇川を少し北へ歩くと川上真楽寺(しんぎょうじ)があります。

この辺りが北山集落です。

北山は、古くから開発された集落で、そのルーツをたどると、奈良時代にたどりつくといいます。

すぐ北隣の加古地区が江戸時代に開発されたのと比べて、その歴史の古さが際立っています。

伝承ですが、真楽寺も天平11年(738)に建てられたといわれています。

014_2  この古い歴史は、みんな北山を流れる曇川の恵みによるものです。

でも、北山あたりの地形は斜面をつくっており、わずかな水もたちまちにながれ下って普段は水があまりありません。

そこで、曇川の上流に「入が池」を築き、水の必要な時に曇川にながし、堰をつくり、村の田畑に水を取り入れました。

「入が池とお入さん」の伝承については、「稲美町探訪(13)・入ヶ池の伝承」をご覧ください。

入が池は北山集落の池です。

いま、稲美町の住宅地図で真楽寺あたりから曇川をたどり入が池までを見ています。

かたくなまでに、入が池、そして曇川の川沿いは北山に属しています。

地図を眺めながら「既得権」という言葉が浮んできました。

入が池に集まった水は、長い期間、当然のように曇川をながれ北山集落の田畑を潤し続けてきました。

まさに、曇川の水は北山集落の既得権として認められていました。

   国岡地区に延びる開発

江戸時代になり、事情は少し違ってきます。

北山と入が池の間に広い未開発地がありました。

現在の地名で天満国岡地区です。

少し、次号からの予告をしておきます。

「とうぜん、ここを開発しよう」人々があらわれます。

しかし、水がない。

水は完全に北山の支配下にありました。

さあ、どうして水を得るかいうのが次の問題になります。

*写真は、川上真楽寺

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稲美町探訪(91):曇川⑤・蛸草庄 vs 加納庄

2010-01-23 22:43:49 |  ・曇川(くもりがわ)

  蛸草庄

再度、蛸草について書いておきます。

蛸草の語源については、『稲美町探訪(78)』で、「開発当時、“高い草”が茂っていたところから、名づけられたというのが有力な説である」と書きました。

さらに、蛸草について『稲美町史』(p9789)の記述をお借りします。(一部書き換えています)

「・・・平安末までには、北山、岡、国安、六分一、森安、中村、野寺、草谷などの村々が、川に沿った丘陵の麓や、台地の斜面に集落を形成していったようである。

これらの村々のうち北山・岡・国安・六分一・森安・中村等の村々を総称して、南北朝時代の初期までは蛸草村と呼んでいた」

また、天正17年(1589)のある記録では、「蛸草庄」は「蛸草村」とも呼ばれています。

蛸草庄の村々は、まだ完全に独立していなかったようです

  加納庄002_2  VS 蛸草庄

曇川の下流の現在の神野地域は「加納庄」と呼ばれていました。

現在の神野(かんの)の呼称は、この「加納(かのう)」からつけられました。

つまり、曇川の上流部(現稲美町天満)は蛸草庄であり、下流部(現加古川市神野町)は加納庄でした。

曇川は、この二つの地域を潤した川です。

古代であれば、この二つの地域は、人口も少なく田畑の水は曇川の水で十分とはいえないまでも、お互いに水争いも少なく共存できたのでしょうが、集落が大きくなり田畑が広がると、たちまちに曇川の水の争奪戦が始まったと考えられます。

しかし、ほとんど記録がありません。

  蛸草は、池郷の村

伝承では、蛸草大池(天満大池)は、白鳳3年(675)に築かれたとあります。

伝承はともかく、古い時代に築かれたのは確かです。

蛸草庄は、蛸草大池の水を共に使用する池郷(いけごう)としてのまとまりがありました。

約束事に違反したら制裁も伴いました。

曇川の水をめぐって下流の加納庄との争いでは、一歩も引かない強力な大池郷の村であったと想像されます。

幾多の水争いの後、室町時代になると、それぞれの村々は独立して、村の権利として水利権を獲得するようにもなりました。

この水利権は、水利組合・土地改良区の名前で現在にまで引き継がれています。

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稲美町探訪(90):曇川④・曇川流域の支配者

2010-01-22 21:38:20 |  ・曇川(くもりがわ)

020_2 ある夏の日、稲根神社の裏にある二塚古墳の写真を撮りに出かけました。

午後の3時ごろでした。強烈な薮蚊の襲来をうけました。

 縞々模様の蚊が数匹、尻尾を高くして脚に止まっているのです。早々に退散したことを思い出しました。

     二塚古墳

 神社の裏の小さな丘に、二つの円墳(はっきりしない)があります。

063  二基の古墳が近接しているところから考えると夫婦塚とも考えられます。

2号墳(写真上)は、1号墳(写真下)よりやや高いところにあり、石造りも若干丁寧です。

どうやら、2号墳の方が1号墳よりも若干早く造られているようです。

2号墳の築造時期は、石室の形態や見つかった須恵器などから6世紀後半の古墳と思われますが、1号墳もあまり時期は違わないと考えられます。

6世紀、曇川流域を支配した豪族がいたことをいいたかっただけです。

 江戸時代、稲根神社のあるこの集落は、この二つの古墳にちなみ二塚村と呼ばれていました。

    余話「手末村」

 明治9年に二塚村は、手末村と合併して神野村となりました。

 しかし、二塚村は「元禄郷帳」に「古ハ手末村」と記しているところから判断すると元は一村で「手末村」あったようです。

 「手末村(てずえむら)」という村名を考えてみます。

 溜池の水源である水路のことを「流(りゅう)」と呼びます。

「流(りゅう)」については、後に取り上げますが、印南野台地を流れる重要な流に「手中流(てなかりゅう)」があります。

手末とは中流の端という意味です。

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稲美町探訪(89):曇川③・稲根神社の語ること

2010-01-21 19:06:50 |  ・曇川(くもりがわ)

「稲美町の歴史探訪」をしていますが、曇川に関しては、加古川市の一部地域の説明を含みます。ご了承ください。

稲根神社(加古川市神野町)

016 明治9年に、加古郡手末村と二塚村が合併して神野村となりました。

 その旧二塚村に稲根神社があります。曇川の河口の近くの神社です。

 稲根神社(写真)の裏に、二つの後期古墳があります。

旧二塚村も、この二つの古墳から名づけられています。二塚古墳に関しては、次号で紹介する予定です。

 郷土史家の石見完次氏は『東播磨の民俗』(神戸新聞出版センター)で、稲根神社について、次のように語っておられます。

 「・・・その塚(二塚古墳)に葬られていた豪族が、実は水と平地を求めて神野の里に来て、最初にこの地に稲を作った部族の長であると考えられ、そしてその有難い稲の御魂を祭ったのが稲根神社であると考えられる・・・」と。

 また、稲根神社の由来は次のようである。

 ・・・太古、人々が食べ物を失ったとき、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)がこれを憐れみ、高天原から稲穂を降らせた。

 そのとき、この地に三粒が落下して、これが実って、世の中に米が満つようになった・・・

 本来、神社の由来と言うものは、怪しげなものが多く検証が必要です。

 でも、稲根神社の由来は、二塚古墳・曇川・稲作、そして何よりも神社の名前(稲根)をつなげてみると考えてみる価値がありそうです。

 まず神野の地で稲作が最初に始まり、やがて播磨の地に広まったことを語っているのでしょうか。

そう考える学者も多くおられます。

 ともかく、曇川河口で始まった稲作は、まず神野の地(賀意理多の谷)それも曇川沿いで早い時期に始まったようです。

 *『東播磨の民族(石見完次)』(神戸新聞出版センター)参照

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稲美町探訪(88):曇川②・なぜ曇川?

2010-01-20 20:18:15 |  ・曇川(くもりがわ)

曇 川 (くもりがわ)

008  曇川(写真)は、加古郡稲美町の野寺を源にする流れと、同町岡の大池・小池からの流れが、下沢あたりで合流して神野の平野を潤し加古川へと流れています。

(写真:国安川と曇川の合流点。左・曇川、右・国安川)

 加古川の本流は、古代より「暴れ川」であり、古代人にとって、本流に沿った土地を直接水田等に利用することは、技術的に無理でした。

 稲作の技術を持った弥生人は、加古川をさかのぼりました。

 加古川の本流に続く、曇川の河口あたりの地形は、稲作に最適な土地であることを発見しました。

 古代人は、曇川の流れに沿った湿地で稲作をはじめました。

 それにしても、曇川とは不思議な名前です。

 「・・・雨の時だけ、その流れを見ることができるという水なし川で、曇ったら流れるところから曇川というんや・・・」と、ある近くの人は教えてくださいました。

 地元の歴史家、石見完次氏は「林に覆われ、籠った谷川のことで、籠り川が正しいと思っている・・」と主張されています。

 昨日(20日)、曇川の土手を歩きました。大寒にしては暖かな日で、黄砂で空がボートして春のようでした。

二羽の水鳥が、忙しく水浴びをしていました。

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稲美町探訪(87):曇川①・賀意理多・舟引原

2010-01-19 21:04:08 |  ・曇川(くもりがわ)

Photo_4  話題は一挙に、古代へ遡ります。

 右の地図は、石見完次氏が、加古川史会の「会報(第36号)」に発表された論文「播磨風土記研究・舟引原はあった」から、必要な部分だけを引用させていただきました。

 播磨風土記に次のような記述があります。

  舟引原(ふなひきはら)

 ・・この里に舟引原(ふなひきはら)がある。昔、神前村に荒ぶる神がいて、つねに航海を妨害して通さなかった。

 ここを往来する舟は、すべて印南(加古川)の大津江にとまり上流へと上り、賀意理多之谷(かおりだのたに)から舟を運搬し、赤石(明石)郡の潮(みなと)まで通行させた。だから、舟引原という・・・

 上記の神前村は古宮あたりの浜で、大津江は現在の加古川町稲屋あたりだとされています。

 しかし、『風土記』にある賀意理多之谷・舟引原については、学会でも不詳とされていました。

 加古川史学会の石見完次氏は、加古郡稲美町六分一(ろくぶいち)の古い字限図に「舟引」を見つけられ、舟引原の場所を確定されています。

  賀意理多(かおりだ)

舟引原の場所から判断して、奈良時代、曇川は 賀意理多(かおりだ)と呼ばれていたようです。

 古代は、地図の赤い線にそって舟を魚住の泊(名寸隅・なきすみ)へと運こび、明石の林まで航海したと想像されます。

 それにしても、荒ぶる神の正体は何でしょうか。多くの書物は「海賊説」をとっていますが・・・

*「会報36号」(加古川史学会)・『播磨国風土記への招待(浅田芳朗)』(柏書房)参照

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稲美町探訪(85):蛸草城の戦いは?

2010-01-17 21:13:51 | 稲美町

  蛸草城の戦いは?

C1ce09d3 天正5年(1577)、加古川評定があり結果は決裂におわりました。

加古川近在のほとんどの諸城は、三木方つまり毛利方に味方して、信長・秀吉方と敵対しました。

あくる天正63月、秀吉は三木城の包囲をはじめます。

4月、野口城陥落

6月~7月、神吉城陥落

8月、志方城陥落

次々に三木城に味方する諸城は陥落し、三木城は孤立してゆきます。

この時、中村(稲美町天満中村)には、三木方に味方をした蛸草城がありました。

ここまでは、いろいろな書物にも紹介されているのですが、蛸草をめぐる戦いのようすが分かりません。

蛸草城の城主は「小山氏」であったと思われます。

小山家の家譜に「小山氏の祖先は、もと小山田氏をいい、別所長治が三木城において秀吉に叛いたとき、志方城において戦ったが破れ、のち大村合戦において奮戦した」とあるのですが、ここでも蛸草城での戦いのようすが分かりません。

  小山家の家譜は語る

Enco3 小山家の家譜について続けます。

(三木合戦当時)小山源兵衛が、三木別所家につかえていました。

天正8117日、城主・別所長治らが自刃するときに源兵衛は長治の命を受けて、別所家の守り本尊の十一面観音と長治の末子(当時2才)を伴って三木城を出て、蛸草庄中村(現:稲美町中村)にのがれました。

長治の末子は、その後与兵衛と名のり小山家を継ぎました。

それから数十年後、小山家の祖先は、十一面観音を本尊とし西教寺を建立しました。

家譜の常として正確に歴史を記録したものとは言えませんが、小山家の家譜は以上のように語っています。

ここでも蛸草城の戦いの記述はありません。

稲美町の方からはブーイングが聞こえてきそうですが、戦いはなかったのかもしれません。

少なくとも、本格的な戦闘にならなかったのでしょう。

本格的な合戦であれば、なんらかの伝承が伝えられるものです。

秀吉は、三木攻めにおいて余分な力を裂きたくなかったのかもしれません。

このあたりの事情は想像です。とにかく、蛸草城は敗れました。

そして、蛸草城は三木合戦後、取り壊されたのでしょう。

西教寺も戦いの後に、すぐ建てられたのではありません。

秀吉の威光が強まる中で、長治の念持仏を持つという寺の建設は許されるものではありません。

その西教寺も、やがて無住になってしまいました。

明治初年、神仏分離令により天満神社にあった圓光寺が西教寺のあとに本堂・庫裡などを移築し、今日にいたっています。

十一面観音は、圓光寺の本尊の阿弥陀三尊の横の厨子に納められ、秘仏とし開扉されていません。

  蛸草城は、現在の圓光寺の場所にあった

話をもどします。

蛸草城の城主は、小山氏であり、城のあった場所は西教寺、つまり現在の圓光寺のある場所であったといわれています。    

*上図:『東播磨の歴史2(中世)』より

   下写真、圓光寺:「HP・播州稲美天満宮秋祭」より

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稲美町探訪(84):加古川評定

2010-01-16 23:39:09 | 稲美町

 三木の合戦と蛸草城について少し触れておきたいのですが、話の都合上少しより道をして、加古川評定について書いておきます。

秀吉が加古川へやってきた

057  秀吉が加古川へやってきました。

当時、信長は武田・上杉と対峙しており、大坂では石山本願寺(浄土真宗)が信長に対抗して、身動きがとれませんでした。

 その時、石山本願寺を支援していたのが、毛利氏でした。

 やがて、播磨を舞台にして信長軍と毛利軍人の激しい戦いが展開されました。

 当時、野口・神吉・加古川・志方(以上加古川市)・高砂・蛸草の諸城は、三木の別所氏の支配下にありました。天正5年(1577)信長から別所氏に一通の手紙が届きました。

 内容は「毛利攻めにおいて、信長方に味方されたい・・・・・・恩賞ははずむ」というものでした。城主・別所長治(べっしょながはる)は、この時21才でした。

 やがて、評定(会議)が加古川城(加古川西高等学校の東にある称名寺が加古川城跡・写真上)で開かれました。

 信長側からは秀吉が、そして三木側からは城主・長治に代わり、叔父の賀相(よしすけ)等が参加しました。

 世に名高い「加古川評定」です。この評定は、まとまらず三木方は毛利に味方し、信長方と戦うことになりました。

評定の状況は、小説ですが司馬遼太郎の小説『播磨灘物語』の一部を読むことにします。

  加古川評定

Abfef682  ・・・いよいよ秀吉が広間にあらわれ、評定がはじまりました。当然のことながら秀吉は正面の席にいる。

 播州者は、みな秀吉をあるじのごとく秀吉にむかい、はるかに下がっている。

 「なぜじゃ、我々はみな羽柴ごとき者を主のように仰がばならぬ・・・・」と、どの男も、この位置関係に不満を持ち、別所賀相(べっしょよしすけ・三木城主長治の叔父)のごときは「ちょっと、かわやに・・・・」とつぶやき、ゆっくり腰を上げて、そのまま部屋を出て小一時間帰ってこなかった。

 評定も進みつつあった時である。賀相に言わせれば、「下郎上がりが、何を間違えて、かかる場所に座っておるのか・・・」といいたかったところであろう。

 「かわやに・・・」といった賀相は、そのまま門前に出、そこで待たせてあった供の者を連れ、その辺を一巡し、ひまをつぶした。

 ・・・・この後、もとの席に帰り、長々と秀吉に戦法を講釈した。

 たまりかねた秀吉は「よく承った・・・」と長談義を中断させた。・・・(『播磨灘物語』より)

 賀相は三木に帰り、この評定のようすを城主・長治に伝えました。「・・・秀吉の態度はまことに無礼であった・・」と。

 この時、三木方は毛利氏に味方し、信長・秀吉方と戦うことが決定しました。

 加古川城のみは信長側につきましたが、他の近在の城主は三木方として信長と戦うことになりました。

*この評定は、加古川城で行われました。下図は加古川城近辺の小字名です。「城の開地」が城跡でしょう。『加古川市史(第二巻)』参照

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