明治4年・申義堂は廃校
申義堂は、明治4年、廃藩置県にともない廃校となりましたが、その教育的機能は高砂小学校へひきつがれました。
ところで、申義堂の建物そのものはどうなったのかについてふれておかねばなりません。
土地・建物は廃校のさい、設立当初の提供者とみられる岸本家に返還されました。<o:p></o:p>
そのさい、申義堂に付属していた書類をはじめ、道具、蔵書類の一部も岸本家に渡されたようです。
河合寸翁筆による「申義堂」扁額(写真)や文書が同家に保管されているのはそのことを示しています。
その後、申義堂の土地は、明治12年、高砂警察署の建設のため立ちのき、さらに高砂町役場となり、現在は高砂地区コミュニティセンターへと変転しました。
申義堂・西井ノ口へ移築
申義堂の建物は、高砂警察署ノ建設に伴い、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されたという。
次になぜ、「西井口村へ」という疑問が残ります。次回に紹介するとしましょう。
申義堂は、昭和7・8年ころまでは光源寺の説教所として使われていたのですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。
それが、「申義堂」の建物であったことがあらためて確認されたのは、平成2年4月でした。
天井に棟札が打ち付けられていて、明治12年の移築が確認されたということが分かりました。
*『高砂市史(第二巻)・近世篇』・『なぜ申義堂が西井口にあったか(柴田育克)』『長谷川亀次郎を偲ぶ』参照<o:p></o:p>
*写真:申義堂の扁額(河合寸翁筆)、現在復元された申義堂に掛けられている。<o:p></o:p>