ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(41):西井ノ口に申義堂があった(6)、申義堂廃校

2014-01-31 08:19:12 |  ・加古川市東神吉町

  明治4年・申義堂は廃校
 006
 申義堂は、明治4年、廃藩置県にともない廃校となりましたが、その教育的機能は高砂小学校へひきつがれました。
 ところで、申義堂の建物そのものはどうなったのかについてふれておかねばなりません。
 土地・建物は廃校のさい、設立当初の提供者とみられる岸本家に返還されました。<o:p></o:p>

 そのさい、申義堂に付属していた書類をはじめ、道具、蔵書類の一部も岸本家に渡されたようです。
 河合寸翁筆による「申義堂」扁額(写真)や文書が同家に保管されているのはそのことを示しています。
 その後、申義堂の土地は、明治12年、高砂警察署の建設のため立ちのき、さらに高砂町役場となり、現在は高砂地区コミュニティセンターへと変転しました。
     
申義堂・西井ノ口へ移築 
 申義堂の建物は、高砂警察署ノ建設に伴い、明治125月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されたという。
 次になぜ、「西井口村へ」という疑問が残ります。次回に紹介するとしましょう。
 申義堂は、昭和78年ころまでは光源寺の説教所として使われていたのですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。
 それが、「申義堂」の建物であったことがあらためて確認されたのは、平成24月でした。
 天井に棟札が打ち付けられていて、明治12年の移築が確認されたということが分かりました。
 *『高砂市史(第二巻)・近世篇』・『なぜ申義堂が西井口にあったか(柴田育克)』『長谷川亀次郎を偲ぶ』参照<o:p></o:p>

 *写真:申義堂の扁額(河合寸翁筆)、現在復元された申義堂に掛けられている。<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(40):西井ノ口に申義堂があった(5)、申義堂のスポンサー岸本家

2014-01-30 07:48:54 |  ・加古川市東神吉町

  申義堂の大スポンサー・岸本家
 申義堂の大スポンサーの岸本家は、印南郡大国村(現:西神吉町大国)から、享保年間(171635)に高砂町(たかさごまち)に進出したことに始まります。
 大国村の岸本家の本業は、木綿業を行なっており、高砂岸本家も木綿屋(木綿屋)と称し、木綿問屋経営が本業でした。
 903efe57
岸本家は、木綿売買のために加古川河口の港町高砂町にその拠点を設けるために、高砂町に移りました。
 当時高砂町は、東播地域の大動脈の加古川舟運(しゅううん)の拠点であるばかりでなく、瀬戸内海沿岸航路の重要な港町でした。
 高砂の岸本家は、その地の利を活かして、大国村の岸本家以上に大いに発展しました。<o:p></o:p>

 岸本家は、三代の間に、その基礎が確立され、その資産は、持高約270石を含め、銀高にして83貫目にも達したといいます。
 そして岸本家は、従来の高砂町の特権商人であった大蔵元などの有力商人として、高砂町の大年寄役に就任し、高砂町の行政の一端を担うようになりました。
 また当時、姫路藩では家老・河合寸翁が中心となって藩政改革が進められ、藩財政の再建策の一つとして切手会所が設置され、領内の重要な産物であった木綿の藩専売制が実施されることになりました。
 江戸への江戸積み業者は、「切手会所(きってかいしょ)」から藩札を受け取りました。藩は、江戸で綿布を金銀で販売しました。
 姫路藩には多額の正金銀が入るようになり藩の借金は専売制を初めて78年で返済することができました。
 この時、岸本家は、切手会所の貸付相談役(六入衆)の一人に任命され、木綿の藩専売制の運営の中で、重要な役割を果たす一方、姫路藩の財政にも深く関っていくことになりました。
 岸本家は、自身が献金するだけでなく、藩の借銀の信用保障を行ない、藩の財政に非常な貢献をしました。
 それに対し姫路藩は、岸本家を御用達商人として士分待遇を行ないました。
 高砂岸本家は、高砂町の有力商人として、姫路藩の御用達商人になるとともに、高砂町の大年寄役を長期にわたって勤め、近世高砂町の町政に大きく貢献しました。
*『播州高砂岸本家の研究(工藤恭孝)(ジュンク堂書店)参照
*地図:『長谷川亀次郎を偲(長谷川弘子)』より(一部)<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(39):西井ノ口に申義堂があった(4)、町衆の熱意

2014-01-29 08:57:08 |  ・加古川市東神吉町

  申義堂は高砂の町衆の熱意
 
002
 申義堂(しんぎどう)は、さまざまな記録から文政十年(1827)にはすでにできていたようです。
 そして、多くの解説では「申義堂は、河合寸翁(かわいすんのう)による仁寿山黌(じんじゅざんこう)の開設(文政六年・1823)と関連させて、藩が設けた施設」としています。
 たしかに藩が一定の出資を行い、維持運営費として25俵を給していた点からも、そのこととは否定できません。
 ただ、素朴に考えて、25俵という額で申義堂の運営と教授への俸給が賄えたのかというと疑問があります。不可能です。
 学問所は、たんに領主側の意向によってできるのではなく、地域庶民の教育への熱意があって初めて実現されるものです。
 高砂の町には、寺子屋とは異なったより高度な学問を望む施設を欲する動きがまずあり、それを受けて、河合寸翁の建議が出されたとみる方が自然です。
 申義堂の運営は、藩からの25俵と合わせて町の有志が一定の費用をねん出し、藩は教育や運営には直接的な干渉はなかったようです。<o:p></o:p>

 岸本家が中心に
 申義堂の設立運営に関わった町の有力者としてまず岸本家をあげることができます。<o:p></o:p>

 『加古郡誌』に「申義堂の建物は、高砂町岸本某の寄付にかかわるものにして、明治維新後廃藩に至りて、廃校するとともにこの建物を岸本某に下付せられしという」とあるように、岸本家が深くかかわっていました。
 しかし、もちろん岸本家単独の意志によるものではなく、町衆が町民子弟の教育施設をつくろうとした時に、岸本家を中心に町の有力者が土地や建物を提供し、資金を出し合ったのでしょう。
 従って、岸本家が建物・土地の多くを提供したからといっても、申義堂の運営が岸本家の単独によりなされたということではないようです。
 なかなか、『なぜ、申義堂の建物が西井ノ口にあったか』の紹介に入れなく余話ばかりをしているようですが、冊子の紹介の前に、岸本家について少し触れておきます。
 *『高砂市史(第二巻)』参照<o:p></o:p>

 *写真:再建された申義堂<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(38):西井ノ口に申義堂があった(3)、申義堂①

2014-01-28 12:07:17 |  ・加古川市東神吉町

  申義堂(しんぎどう)①
 申義堂について少し説明をしておきます。  Sinngidou_2

  江戸時代後期になると藩校の設置が全国でさかんとなりました。
 幕藩体制の揺るぎの中で、藩政をになう人材の必要が高まったためです。
 また、庶民にとっては、何よりも商業の高まりの中で読み書きの能力がますます必要になりました。
 そのため、庶民を対象とした教育は郷学へ広がりました。
 高砂でも、姫路藩により「申義堂(しんぎどう)」が設けられ、庶民教育が行われました。
 申義堂の設立は、文化年間(180417)で酒井忠実の家老・河合寸翁(かわいすんのう)の意見により、高砂市北本町での開校でした。
 藩校「好古堂(こうこどう)」の支校の一つで、町民の子弟の教育の場で、内容は、四書五経などが中心でした。
 教師陣は多彩で、美濃部達吉の父・秀芳や本居宣長の子・大平などが教育にあたりました。
 また、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)・梁川星巌(やながわせいがん)などが高砂に逗留中、講師として教壇たったこともあります。
 隆盛を誇った「申義堂」でしたが、明治4年(1871)の廃藩置県と共に廃校となってしまいました。
 その後、申義堂は、明治12年に加古川市東神吉町西井ノ口に移築され、光源寺(姫路市)の説教所として使われました。
 戦後は、西井ノ口町内会の倉庫として利用され、もと申義堂であったことは人々の記憶から消えていきました。
 その後、専門家の調査により、その建物が申義堂の遺構であることが分かり、高砂へと移築保存されることになり、解体され保存されました。
 
*「神戸新聞」参照、写真は西井ノ口にあった頃の申義堂(神戸新聞より)
 
 <o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(37):西井ノ口に申義堂があった(2)、河合寸翁

2014-01-28 08:50:43 |  ・加古川市東神吉町

 河合寸翁(かわいすんのう)
 Kawaisunno
 河合道臣(みちおみ)は、姫路藩の家老で、後の河合寸翁(すんのう)です。
 以後、河合寸翁として話を進めます。
 藩主・酒井忠道(ただひろ)の文化5(1808)、姫路藩には73万石の借財がありました。
 寸翁は、播磨地方が木綿の産地であることに着目して、綿布を姫路藩の専売にし、藩の財政改革に取り組み、みごと借金ゼロを成し遂げました。
 寸翁は、綿を藩の専売品として、江戸への直送する方法をとりました。さまざまな妨害もありました。
 しかし、綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、文政6年(1823)、江戸への木綿専売が幕府に認められました。
 これは、「藩主・酒井忠学(ただひろ)の妻・喜代姫(きよひめ)が将軍・家斉(いえなり)の娘であったためでもあった」ともいわれています。
 ともかく、姫路綿の江戸での販売は好調で、藩の借金は、短期間に返済し終えることができました。
 (寸翁は、綿の専売の外にも多くの産業の振興を手掛けています)
 藩主は、この功績に対して寸翁のかねてからの希望をかなえました。
 寸翁の願いとは、有能な次代の人材を育てる学校を創設することでした。
   
 寸翁の夢、人材の育成
  ◇仁寿山黌(じんじゅざんこう)の建設
 姫路藩には好古堂という藩校がありました。好古堂では藩士の子弟に学問や武芸を教えました。
 寸翁の時代は、時代が沸き立っていました。河合寸翁は、藩の学問書・好古堂に協力するかたわら、有意な次代の人材を育成するため、仁寿山の麓に学校を設立しました。
 文政6(1823)正月、教場、図書倉、教師館、食堂から塾舎、医学寮までが整然と整い、朱子学を基にした伸びやかな学校でした。
  
 ◇申義堂(しんぎどう)を開く<o:p></o:p>

 また、寸翁は文化年間(18041817)、姫路藩主・酒井忠実に願い出て、庶民教育の拠点として高砂の町に学問所をたてました。
 この学問所が申義堂でした。
 *写真:河合寸翁像(姫路神社内)

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(36):神吉中学校界隈を歩く(9)・西井ノ口に申義堂があった(1)

2014-01-27 08:21:17 |  ・加古川市東神吉町

   申義堂が西井ノ口(東神吉町)にあった理由とは(1)
 47075558
 先日、西井ノ口(東神吉町)の柴田育克(しばたいくよし)さんの研究による『なぜ、申義堂の建物が西井ノ口にあったか』という冊子をいただきました。
 さっそく、読ませていただきました。
 みなさんにもぜひ知っていただきたい内容が満載です。
 いま、「ひろかずのブログ」では、東神吉町を散策しています。
 砂部弥生遺跡を訪ねています。
 次の話題に移る前に一挙に、時代が飛びますが、この冊子の内容を先に紹介をさせていただきます。
 なお、冊子『なぜ、申義堂の建物が西井口にあったか』に沿って、紹介すべきなのですが、少し文体を変たり、付け加えをしながら紹介をします。
 あつかましくも、柴田育克さんからご了解をいただきました。
 少しだけ、先を急ぎます。
 東神吉町井ノ口には、日本の教育史に残るような学校が、かつてありました。
 この学校の建設に関わったのは西井ノ口の長谷川亀次郎氏でした。
 長谷川亀次郎氏と申義堂が関係してきます。
 ここでは、名前の紹介だけにしておきますが、亀次郎氏のご子孫の方が『長谷川亀次郎を偲ぶ』として冊子にまとめておられます。
 とりあえず、この二冊を中心に、申義堂・西井ノ口あった学校・長谷川亀次郎氏のことを紹介します。
 さっそく、申義堂の話を始めます。
    
申義堂
 柴田氏の報告は、申義堂の不思議から書いておられますので、ブログでも申義堂(しんぎどう)から話を進めます。
 申義堂は、文化年間(18041817)、姫路藩主・酒井忠実が家老の河合寸翁の意見を取り入れ庶民教育の拠点として建てた学問所です。
 河合寸翁の説明から始めることにしますが、きょうはイントロです。

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(35):神吉中学校界隈を歩く(8)・砂部弥生遺跡(4)学者の嘆き

2014-01-26 14:11:41 |  ・加古川市東神吉町

  学者の嘆き
 Photo
 砂部遺跡の調査報告書『砂部遺跡(加古川市教育委員会)』(1976)を読んだ。
 おわりにの部分が、印象的である。
 この種の報告書のおわりにでは普通、発掘の感想・遺跡の意義などが書かれる。
 ここでは、報告書の中身と違って、「うらみ節」である。
 ・・・(砂部遺跡は)調査団の強い要望にも係わらず、無残にも破壊されてしまって、今はない。・・・
 B地区の建物址は保存状態が極めて良好であること、この種の遺構としては類例のないものであること。
 敷設管を少し迂回させるか、地下深く打ち抜くかで保存が可能であることなどの点をあげて、保存を主張した。
 ・・・県教委が責任を持った対策をたてるべきであるにもかかわらず、第1回目の会合に出席しただけで、2回目以降は調査団、市教委の強い要求にもかかわらず出席すらせず、一方的に破壊をきめるという無責任な態度に終始したことは、容認できない。
 「遺構としての重要性は充分理解できるが、行政上やむを得ない」というのがその理由だと伝え聞くが、このようなことが理由ならば、どんな重要な遺跡でも、行政上の都合だけでいとも簡単に破壊されることになる。
 それでは文化財を保護することはできない。
 以下の文章は省略するが、ここに文化行政の一端を垣間見ることができる。
 学者の嘆きだけにさせてはならない。我々の無関心さもそうさせている大きな一因であろう。
 *図:砂部遺跡

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(34):神吉中学校界隈を歩く(7)・砂部弥生遺跡(3)、朝鮮半島の影響

2014-01-25 08:30:49 |  ・加古川市東神吉町

  朝鮮半島の影響が
 Photo
 古墳時代の砂部(いさべ)遺跡は、弥生時代から古墳時代の遺構をふくんでいる。
 古墳時代の砂部遺跡からは、写真のような深鉢形の身に孔をもつ脚をつけた高杯や帽子形のつまみをもつ蓋などが出土している。
 これらの土器は、朝鮮半島の南部の洛東江(ナクトンガン)流域から出土する土器ときわめて似ている。
 このあたりの説明を『加古のながれ』(加古川市史編さん室)から引用したい。
 ・・・・これらは、須恵器(すえき)とよばれる土器で、横穴式石室と同じく朝鮮半島から伝来し、倭国でもさかんにつくられるようになったものです。
 製作の開始期には、朝鮮の工人たちが渡来して指導にあたったと思われます。
 ただし、その系統は朝鮮西部の百済(くだら)地方であったようです。
 砂部の土器は、それらとは違い朝鮮半島南部でつくられ、製品として持ってこられたものです。
 ・・・加古川西岸地域では、このように朝鮮からの珍品が出土しています。
 これらはおそらく、朝鮮に渡った人々、それも五世紀を中心とする、倭政権の朝鮮進出に参加した人々によってもたらされたと考えられます。・・・(一分、原文をかえる)
 これら朝鮮半島南部との関係を持つ土器の発見例はきわめて少なく、今のところ畿内地方の古墳や集落址から少数の出土があるだけである。
 *『加古のながれ』(加古川市史編纂さん室)参照
  写真は『加古川市史(第七巻)』より

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(33):神吉中学校界隈を歩く(6)・砂部弥生遺跡(2)

2014-01-24 08:11:14 |  ・加古川市東神吉町

 Photo砂部弥生遺跡(2)
 昭和49年県の建設局より、加古川平荘ダムの工業用水を、高砂市の工業地帯へ送る送水管の埋設工事が発表された。
 遺跡の可能性があり、加古川市教育委員会が調査を実施することになった。
 場所は、神吉中学校の少し東で、加古川西岸から約1.4キロ、標高約5メートルの古代加古川西岸の自然堤防上に位置している。
 調査地点は、下図のABである。
 この遺跡は、加古川下流を代表する集落遺跡で、弥生時代前期から古墳時代までの遺構であることが明らかになった。
   
砂部弥生遺跡 
Photo_2
 弥生時代の砂部遺跡は、前期のものであり、加古川下流ではやく稲作が始まったことを示す遺跡であろうといわれている。
 また、住居跡の周りからは、土器を焼いた穴が発見され、そこからイネやカヤが確認された。
 弥生時代前期におけるイネの収穫は、「穂のみを収穫し、その他の部分は堆肥として利用した」という説が有力である。
 土器を焼くためにイネワラが利用されたとすれば、当時の農業形態のあり方を再考させるものとして注目される。
 砂部遺跡には幾筋もの溝が南北方向に通り、それより東は地形が一段と低くなっている。<o:p></o:p>

 かつて加古川が、この辺りを流れていたのであろう。
*『砂部遺跡』(加古川市教育委員会・1976)参照
 写真上は、砂部弥生遺跡『播磨の弥生土器とその周辺』(加古川文化センター)より

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(32):神吉中学校界隈を歩く(5)・砂部弥生遺跡が語ること

2014-01-23 07:56:21 |  ・加古川市東神吉町

 Photo_2右の地図の太い線は、10メートルの等高線である。地図の黒丸は弥生遺跡であり、岸遺跡は縄文と弥生の複合遺跡。この等高線から南の低地部は、加古川の運んだ土砂などの堆積物によりできた沖積平野である。
 「ここに、なんとか人が住めるようになったのは弥生時代からで、縄文時代は、まだ十分陸化が進んでおらず、定住できるような状態ではなかった。
 そのため、この平地部から縄文遺跡は発見されていない」と前号に書いた。
     
砂部弥生遺跡が語ること
 しかし、砂部遺跡から縄文時代の最後の時期の土器が出土している。
 これを、どう考えたらよいのだろうか。
 これについて『加古川市史(第一巻)』は、次のように説明している。
 ・・・・現代の研究では、縄文時代の晩期後半には、既に稲作がはじまっていたと考えられる。
 この時期を弥生時代に入れようとする見解もある。
 砂部遺跡に住んだ縄文人は、この時期ここで稲作をはじめていた。
 しかし、砂部遺跡は加古川に近く、加古川の氾濫にいつも脅かされた。
 加古川が増水する季節は、ここで住むことはできなかった。
 そのため、危険な季節には近くの洪積台地上にある岸遺跡辺りに住み、低地が安定した季節に砂部遺跡に住むという二重生活をしていたのではなかろうかと推定している。
 *『加古川市史(第一巻)』参照

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(31):神吉中学校界隈を歩く(4)・東神吉町は海の底

2014-01-22 08:18:06 |  ・加古川市東神吉町

  東神吉町は海の底
 Photo_2
地図の太線は、海抜10メートルの等高線である。
 そのあたりは、急な傾斜(崖)なっている。
(前回、この崖・階段状の地形や加古川の流れが造った自然堤防の凸凹の地形をガンギと呼び、カンキの名前のもとになったのかもしれないことを書いた)
 海抜10メートルより低い地形の東神吉町や加古川町あたりは、古くは「加古の入江」と呼ばれた海の底だった。
 万葉集に、次の柿本人麻呂の歌がある。
    
稲日野(いなびの)も 

          ゆきす過ぎがてに 思えれば
      心恋しき 可古(かこ)の島見ゆ
(広々とした稲日野の近くの海を航行していると、船の速度がはかばかしくない。いろいろ思いにふけっていると、やがて恋しい加古の島が見えだした)
 この歌の「加古の島」は、加古川の三角州であろう言われている。
 地図の黒い点は、弥生遺跡で、河口部分(現在の神吉町・尾上町・加古川町)から弥生遺跡より以前の縄文時代の遺跡は見つかっていない。
 このことは、このあたりに人が住めるほどの陸化が進むのは弥生時代以後であり、縄文時代も含めて、それ以前の東神吉町あたりは海の底であったことを物語っている。
 
*図の点線は、古代山陽道のバイパスであり、10㍍の等高線に沿っている。

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(30):神吉中学校界隈を歩く(3)・地名、カンキ

2014-01-21 08:58:08 |  ・加古川市東神吉町

  地名の研究・カンキ
 神吉(かんき)の意味を考えてみたい。
 『播磨国風土記』の印南郡に、「含芸の里(かむきのさと)の伝承がある。
 伝承は「・・・仁徳天皇の時代、他田熊千(おさだのくまち)という人が酒を甕に入れて馬の尻にくくりつけ、家をつくる土地を求めて旅をしていたが、この村で甕を落とした。
 そのために、この村を甕落(かめおち)といった。
 この甕落(かめおち)が訛ってカムキになり、カンキになった」としている。
 どうもあやしい地名伝承である。
 神吉(かんき)の地名のおこりは、結論を先にいうと「はっきりとわからない」というのが真相である。が、研究者はさまざまに考えている。<o:p></o:p>

 カムキはガンギか?
 Photo
 地名研究者の故石見寛次氏は、『古地名新解釈』(神文書院)で、みごとな解釈をされている。読んでみたい。
 ・・・『播磨国風土記』(和銅六年・713)印南郡の条にある「含芸里(かむきのさと)」の名は、カムキから始まるとされているが、カムキの本名については種々の解釈がある。
 私(石見寛次氏)は、「含芸」を現代風に音読し、ガンギまたはガンゲであると思っている。・・・・略・・・・
 江戸時代、伊能忠敬が、升田山の八十の岩階(やそのいわはし)を「雁木彫(がんぎぼり)つけたる・・・」と言っているように、ガンギはあの岩階の様な形を言うのである。
 従って「ガンギ」と言う名は方々にある。・・・・略・・・・
 しかし、地名辞書によると、ガンギの意味は以上のような険しい地形ばかりでなく、ガッケとかガケ()とかに変化し、崖や川岸のこともカンキと言うとある。
 加古川の本流の主流が升田山の下を西へ曲って流れていた昔の状態では、神吉町あたりは崖であり、川岸であったのでカンキ村といった。
 西神吉町になるが「岸の集落」は、名前からして、まさに崖(ガケ)・神吉(カンキ)の地形の場所にできた集落であったのであろう。
*(注)
 
雁木
(がんぎ)は、かつて、船着場でみられた階段状の構造物。岸壁と違って、潮の満ち干や河川の流量変化による水面の上下に係わらず昇降や荷役が出来るため、近代以前の船着場で多く見られた。
 *写真:鞆ノ浦の中央船着場のガンギ(高砂出身の工楽松右衛門が造る)

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(29):神吉中学校界隈を歩く(2)・芸気里・含芸里

2014-01-20 12:20:14 |  ・加古川市東神吉町

 シリーズ「さんぽ」では「神吉中学校界隈」を歩いてみたい。
 ブログのデザインも少し変えてみた。あたらしい気分で再出発したい。
 東神吉町の古い歴史から始めたいが、きょうの「益気里(やけのさと)・含芸里(かむきのさと)は以前に、ブログで取り上げた話題である。
   益気里・含芸里
 Photo_2
 『風土記』は、奈良時代国ごとの産物・伝説・土地の質などをまとめた地理・歴史書である。
 奈良時代、印南郡には益気里(やけのさと)・含芸里(かむきのさと)・大国の里・六継里(むつぎのさと)等が見える。
 もっとも、古代の里は、必ずしもはっきりとした境界で分けられた地域ではなかったようである。
 その内、東神吉に関する里は、益気里と含芸里で、益気里は、東神吉町から平荘町にかけての加古川右岸と推測される。
 含芸里は、東神吉町・西神吉町から志方町に及ぶ地域であったと思われる。
 益気里の升形山(升田山のこと)について『風土記』は、次のように書いている。
 この里に山があり、名づけて升形山という。石を持って枡と桶を作る。故に升形山という。
 石橋がある。伝えて言うには、その昔、この橋は天まで続き、八十人衆が上がり下り往来した。故に八十橋(やそはし)という・・・<o:p></o:p>

 *『加古川市史(第一巻)』参照

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(28):神吉中学校界隈を歩く(1)・東神吉町を歩きます

2014-01-20 08:14:26 |  ・加古川市東神吉町

  『加古川市史』を読む
 Photo
 最近、わりあい『加古川市史』を読みます。
 『市史』を編纂された方に怒られそうですが、一般的に『市史』というものは義理で買って本棚に飾られ、あまり読まれないのが実情のようです。
 私も、在職中に『加古川市史』を買いそろえましたが、それを、つまみ食いするように読むようになったのは「ひろかずのブログ」のネタ探しやその解説のためです。
 退職後のことです。
 赤線を引きながら読みました。
 最初のうちは、その線も市史全体から言うと、まさに「点」でしたが、現在、ブログも2000回を超え、赤線を書きこんだカ所がずいぶんふえました。
 どのページにも赤線が入っている状態になっています。
 点(加古川市の歴史)のネットワークができ、面になってきたようです。
 歴史に素人の私にも、加古川市の歴史への興味が深まってきました。
 こうなると、歴史だけでなく、発展して「加古川市」が好きになります。
   
「神吉中学校界隈を歩く」を始めます
 反面、ちょっと気になることがあります。
 他と比べて赤線が、少ない地域があるのです。
 その一つが東神吉町です。
 そのため、「宝殿駅界隈を歩く」として、少し米田町について書いてみましたが、次回から、「神吉中学校界隈を歩く」として、主に東神吉町を歩きます。
 最近,Kさんから「東神吉の歴史()」と、Sさんから「なぜ、申義堂の建物が西井ノ口」にあったかという冊子をいただきました。
 これらの冊子には、どこにも紹介されていない秘話が満載です。
 東神吉町を歩き、「ひろかずのブログ」の空白を埋める作業を進めることにします。
 なお、「神吉中学校界隈を歩く」としたのは、神吉中学校は誰でもご存知の場所であるためで、特別の意味はありません。
 *写真:神吉中学校<o:p></o:p>

 

<o:p> </o:p>

 

<o:p> </o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(27):宝殿駅界隈を歩く(27)・六継里

2014-01-19 09:59:40 |  ・加古川市米田町

 Muksasi_001 「宝殿駅界隈を歩く」といいながら、少し離れて米田を歩いているが、次の話題に移りたい。
 その前に、米田には米田神社の近くに「六継里」の石碑がある。少し触れておきたい
   六継里(むつぎのさと)
 『風土記』は、奈良時代の国ごとの産物・伝承・土地の室などをまとめた地理・歴史書である。
 米田(米堕)は、『風土記』に六継里(むつぎのさと)として登場する。
 もっとも、古代の里は、はっきりとした境界で分けられた地域ではなかったようである。
 Photo
 六継里は、いまでは高砂市と加古川市が入り組んでいる里で、米田辺りから加古川東岸の稲屋辺りに及んだ地域らしい。
 10月上旬から中旬にかけて甘茸というめずらしい茸が生えたと『風土記』にはある。<o:p></o:p>

 しかし、現在では現存しない植物だと言われている。
 当時の六継里の風景を想像したい。
 加古川の本流は、この里の西を流れていたのではないだろうか。
 稲屋を含んでいることから考えると、加古川の分流はあったものの、米田と稲屋は続いた地域であったのだろう。
 加古川本流は、六継里から海に流れ込んだ。そして六継里は、海岸に近い地域だった。
 目の前の海には、ナビツマ島が横たわり、さらにその先が瀬戸内海であった。
 ナビツマ島は、加古川の流れがつくった三角州で、今は陸続きになって高砂市内を形成している。
 *『播磨の国風土記を歩く(寺林峻)』(神戸新聞総合出版センター)参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする