ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(303) 宮本武蔵 in 高砂(4) 祖先は赤松

2015-07-31 09:07:59 | 高砂市

 宮本武蔵の元の名前は田原です。田原一族が、なぜ米田に住みつくようになったのでしょう。

 地元で語られる宮本家の系図を見ておきます。

 系図は、お寺の縁起等とともにあまり信用できません。

 ですが、宮本家の場合は、後でも説明しますが、納得できる内容が多く含まれているようです。

     武蔵の祖先は赤松

 話は、武蔵生誕から250年ほど昔にさかのぼります。

 そのころ、播磨全域は、強大な勢力を持ち支配していたのは豪族・赤松則村円心でした。

 円心には、4人の男子があり、その二男、赤松貞範が、田原家の祖とされています。

 赤松本家は、三男の赤松則祐(そくゆう)が跡を継いでいます。

 その貞範の孫に持貞という子がおり、室町幕府四代将軍・足利義持(よしもち)の寵愛を受けるようになりました。

 義持は広大な円心の土地を、持貞に与えようとさえしました。従って、円心と持貞は仲が良くありませんでした。

 その持貞が、あろうことか、将軍義持の側室に手を出してしまったのです。

 不倫の発覚で、義持は激怒し、持貞に切腹を命じました。

 そして、嫡男ら一族を追放してしまいます。その追放先が、米田だったのです。

 応永34年(1427)のことでした。

 米田に移った家貞は、姓を赤松から田原と変え、いわゆる地侍としてこの地に住み、勢力を伸ばしたと言います。

 この家貞から数えて田原家5代目に、同じ名前の(甚右衛門)家貞という人物がいます。

 彼には、二人の男子がいた。兄が久光、弟を玄信といいました。

 この玄信が後の「武蔵」です。

     新免(宮本)家の養子に

 武蔵のその後についても、後に説明しますが、田原家を久光が継ぎ、玄信は、美作の平尾家の養子となりました。

 平尾家は、田原の縁戚に当たり、そのころは美作(みまさか・岡山県の北部)・竹山城主の新免宗貫の家臣でした。

 新免氏は、抜詳の働きで城主から新免姓を名乗ることを許されていました。

 ここに新免玄信が誕生しました。

 後に、その居住地である宮本村から宮本姓を名のるようになりました。(no2886)

 *『宮本武蔵を行く(中元孝迪)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真:武蔵生誕地碑(縦2.5㍍、横7㍍)

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高砂市を歩く(302) 宮本武蔵 in 高砂(3) 棟札は語る

2015-07-30 09:09:22 | 高砂市

    ほんとうの話

 どこでも、「英雄譚」になると、「○○は△△(地元)で生まれた」という話があります。その英雄が有名な人物である時はなおさらです。

 宮本武蔵の出生地も、「どうせ、〝宮本武蔵 in 高砂〟の武蔵も、その類の話だろう」と思われておられませんか。

 ちがいます。順序立てて話を進めなければならないのですが、先に泊神社の棟札の話をしておきます。

    史実を伝える泊神社の棟札

 加古川市加古川町木村にある泊八幡宮(とまりはちまんくう)で、おもしろい資料が発見されました。

 泊八幡宮を修理する際に発見された棟札(写真)です。

 それは、武蔵の養子・宮本伊織の起草による棟札でした。

 この棟札は、承応二年(1653)に記されたもので、武蔵死後、8年目にあたります。

 この棟札には、宮本伊織・武蔵は播州米堕村(米田村・よねだむら)が出生地であること。

 そして、作州(岡山)の宮本武蔵の義子(養子)になり、元服して小笠原藩に仕えたこと、などが記されています。

 そして、武蔵もまた養子であつたことが記されていました。

   五輪書を証明する「武蔵米田誕生説」

 付け加えます。

 棟札には、生家である米田・田原家の由来も明確に記されています。

 伊織が、棟札にこの事実を書き記したとき、どこか、だれかと論争をするために、出自を曲げたり、押しつけたりするといったことは考えられません。

 文面は、五輪書に書いているように、武蔵播磨誕生説をそのまま素直に解釈すれば、いいと思われます。

 そのことから、伊織も武蔵も、ここ高砂・米田で生まれたことが素直に読み取ることができます。(no2885)

 *「宮本武蔵50の真説(宮本武蔵研究会)』(東邦出版)、『宮本武蔵を行く(中元孝迪)』(神戸新聞出版センター)参照

 *写真:伊織奉納の棟札(泊八幡宮・加古川市)

 

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高砂市を歩く(301) 宮本武蔵 in 高砂(2) 武蔵、高砂市米田町に誕生

2015-07-29 07:45:36 | 高砂市

   宮本武蔵は、昭和生まれ!

 吉川英治が、昭和10年(1935)8月から14年7月まで、(小説)『宮本武蕨』を朝日新聞に連載しました。

 大好評を博し、真実の歴史上の人物のように認識され、もっとも有名な剣豪になったといえます。

 しかし、それは実像とは違う新たな「吉川武蔵」の創造でした。

 その後、以後、彼の宮本武蔵は、ラジオに芝居に映画にテレビに、ひんばんに「吉川武蔵」が演じられて、日本人のひとつの武蔵像ができあがりました。

 つまり、現在、ほとんどの人が持つ武蔵像は吉川英治の小説によるものです。

 つまり、宮本武蔵(像)は、昭和生まれということになります。

 吉川は、小説の中で、宮本武蔵は作州(岡山)生まれと書いています。

     武蔵は、高砂生まれ

  しかし、彼の唯一の著作『五輪の書』で、はっきりと『・・・観音を礼(らい)し、仏前にむかひ、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもりて六十・・・』とはっきりと、自分(武蔵)は、播磨の生まれとはっきりと書いています。

 名前を「新免武蔵」と書いているが、宮本武蔵のことです。

 「新免姓」については、後に説明します。

 ここでは、宮本武蔵のことであるとしておいてください。

 自分の著書で、出生地をごまかすでしょうか。その理由は、なにもありません。

 つまり、武蔵の作州(岡山)うまれより、高砂生まれの方が自然です。

 詳細は、後に紹介するとして、もう少し先を急いでおきます。

 武蔵の生国は、現在の高砂市米田町です。(no2884)

 *『宮本武蔵の真実(小島英熙著)』(ちくま新書)参照

 *写真:田原・宮本家(高砂市米田町米田)、碑文は宮本家13代宮本信男筆

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高砂市を歩く(300) 宮本武蔵 in 高砂(1)・「宮元武蔵 in 高砂」の話をしよう

2015-07-28 07:16:30 | 高砂市

   「潮風の町:近世の高砂」を

          少し、お休みします

 赤瀬川原平さんは、「老人力」という言葉をつくられ、多くの所で書かれています。

 赤瀬川さんの「老人力」について、読んだことないのですが、最近「老人力」について、時々考えます。

 何歳から老人なのかわかりませんが、現在72才です。老人を感じることがあります。

 たとえば、昔から読書は多読の方でしたが、最近、読後の気分は残るのですが、肝心の内容が残ってくれません。

 ですから、読書の方法が少し変わってきました。

 同じ本を何回も読むようになりました。そうすると、少しは内容が残ります。

 そして、やさしい本を選ぶようになりました。一般的に「やさしい本(文)を書いておられる方)は、本当によくわかっておられ、やさしい方である」ことを発見しました。

     宮本武蔵 in 高砂

 それに、地域のことを書いた本を、よく読むようになりました。地名と風景が読書の理解を助けてくれます。

 若いころ歩いた昔の風景が読書を助けてくれるのです。まさに「老人力」です。

 最近『双剣の客人(寺林峻著)』(アールズ出版)を読みました。

 宮本武蔵の物語です。

 寺林さんは、宮本武蔵は高砂市米田町の出身として書いておられます。

 もちろん、史料を駆使して書いておられます。

 最近、ブログの内容が、少し硬くなっています。近世(江戸時代)の高砂話は、少し休みます。後日、再度復活させます。

 宮本武蔵の話をしましょう。題を『宮本武蔵 in 高砂』としました。(no2883)

 *宮本武蔵の肖像画(島田美術館蔵)

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コーヒーブレイク  やさしく書くこと

2015-07-27 10:36:55 |  ・コーヒーブレイク・余話

   ブログ

 2006年6月14日5時50分「ブログをはじめました」の題で、「ひろかずのブログ」を書き始めました。それが、今日のブログで2882号になりました。

 (*最近は、1日のアクセスが1000を越えています)

 1号の文章では、次のようなたわいのないことを書いています。

 「・・・昼から、『ブログに挑戦してみよう(NHK) 』を参考に、悪戦苦闘の末ブログを立ち上げました。

 よろしくお願いします。当面、「まち歩き」で、見たこと感じたことを投稿します。今日はその1です。・・・」

 2006年は、退職して3年目です。

 思いつきで始めたブログですが、今年は2015年ですから9年も続いています。

 「ひろかずのブログ」は、本で調べる。そして、その場所を歩いて確かめることにしています。

 9年間の生活は、このブログを書くことと孫(小学1年生の女の子)と遊ぶことで終っています。こんごも、この生活を続けたいのですが・・・

    やさしく書くこと

 偉そうに読書について書きます。

 最近読書は「ブログの内容の関係で歴史の入門書」が多くなっています。それに、年をとり、興味の範囲がだんだん狭くなってきました。

 それを意識して、先日面白そうなので守備外ですが、『火山はすごい(鎌田浩毅著)』(PHP文庫)を読んでみました。

 面白いんです。と言うのは内容がよくわかります。子供向けの本でもありません。

 理科の本です。

 こんなに分かりやすい本は、初めてです。

 今日のブログは、この本の紹介ではありません。

 自戒のつもりで紹介しています。

 本当に、内容のよく分かる人の書かれた人は、分かりやすく、楽しく書けるものですね。

 ひろかずのブログも、できるだけ鎌田先生を見習います。

 少し感動しましたので、「コーヒーブレイク」として紹介します。(no2882)

 *写真:「火山はすごい(鎌田浩毅著)」のカバー

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高砂市を歩く(299) 潮風の町:近世の高砂(21)・大蔵元

2015-07-26 08:34:57 |  ・高砂市高砂町

   

          大蔵元(おおくらもと)

  近世の高砂では、その商業を円滑に行うための組織として、17世紀半ばに大蔵元(蔵元)という制度がつくられました。

 これは一種の株仲間で、特に大蔵元は、高砂の特権商人によって形成されています。

 江戸時代の高砂の繁栄も、これら大蔵元の活動によるものでした。

 しかし、高砂では、これらの輸送を担当するのみで、それを材料にした手工業は興りませんでした。

 その点、製造業を中心にして、発展をとげた伊丹などとは対照的でした。

 高砂は、もっぱら荷物の引き受け、保管、積出しをその業務とした商業の町でした。

 それらの仕事を引き受けた問屋商人は、一般的に「大蔵元」とよばれ、年貢米を取り扱うことため、藩からも特別な待遇を受けていました。

     小蔵元(こくらもと)

 また、史料から「小蔵元」の名称がみられます。

 小蔵元は、大蔵元の下にあり大蔵元に統括されていたようです。

     大蔵元の役割

 加古川を下ってくる御城米、諸大名米、および諸荷物の運搬は、高砂港に所属する船に限定されていました。

 例外として、沖積み荷関しては自由な積み出しが認められていたようですが、他所での積み出際は、厳しく取り締まりがなされていました。

 高砂港を出入りする諸荷物は大蔵元を通さず直接積こむことを禁止し、大蔵元問屋へ商業機能が集中されていました。

 これは、単に大蔵元を利するだけでなく、荷改め、抜け荷の防止の役割も果たしました。また、藩が大蔵元に荷受け独占の特権を付与したことは、川筋からの年貢米の品質検査を厳重にする点でも大きな役割を果たしました。(no2881)

 *「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照

 *写真:堀川沿いの蔵跡(昭和45年撮影・現在徐々に取り壊されています)

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高砂市を歩く(298) 潮風の町:近世の高砂(20) 大年寄

2015-07-25 06:34:29 |  ・高砂市高砂町

   町人の自治(高砂町)

  高砂に常駐する武士は川口御番所の7人、津留穀留御番所の2人、百間蔵の守衛2人とその他わずか27人に過ぎませんでした。

 高砂は、町人たちの町でした。

 それでは、高砂はどのような仕組で行われていたのでしょう。

 高砂町方の人口の大部分を占める商工業者や廻船業者、海業従事者が居住する町屋敷分は年貢免除地でした。

 高砂町方は、28町に町屋が建ち並ぶ市街地であり、約8.000人の人々が様々な経済活動を行っていた都市でした。

 この都市の行政は町人の自治によって運営されてました。

     大 年 寄

 高砂町方の町人自治による都市行政の組織が史料的に明確になるのは宝暦5年(1755)のことである。

 この年、高砂町は、白銀100枚の冥加金(税金)を毎年上納することになっていました。

 そして、高砂町には総会所が設置され、3人の大年寄が出勤して「大小の諸公務支配」を行い、その指揮下にあって28町にはそれぞれ一人ずつ「小年寄」と数人の5人組頭がいて、町ごとの運営にあたっていました。

 そして、これら自治機関が法制的に確立し、公認の役所としての総会所が設置されたのは宝暦5年でした。総会所は南本町に設置され、のち細工町に移転しています。

 また、大年寄は無給でしたが、文久3年(1863)になって姫賂藩から1人ずつに3人扶持が支給されることになりました。

 それは、大年寄の役職が藩の公的な組織として位置付けられたことを意味しています。

 文化6年(1809)から同10年と天保2年(1831)から明冶4年(1871)までの大年寄の在職者は『高砂市史(第二巻)』、p143にあります。

 また、大年寄3人と各町ごとに一人いる小年寄の中間に「構年寄」という役職者が8人いて、大年寄とともに高砂町政を担当しています。

 おそらく、高砂町の運営するに際して、常に28人の小年寄が担当するより3~4町を代表する「構年寄」8人と大年寄3人で運営する方が効率的であったのでしょう。(no2880)

 *『高砂市史(第二巻)』参照

 *写真:大年寄であった岸本家の茶室の庭

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高砂市を歩く(297) 潮風の町:近世の高砂(19) 高砂の漁業

2015-07-24 09:38:57 | 高砂市

 きょうの高砂の漁業は、今井修平先生の書かれた「たかさご史話(49」」をお借りしました。(文章を少しだけ変えています)

    高砂の漁業

 高砂では漁業も盛んでした。

 安永2年(1773)の高砂町の明細帳には「漁船118艘・船持115人、曳網船25艘・船持20人」とあります。

 また、町名にも漁師町、釣舟町、狩網町があって.それぞれ51世帯202人、111世帯、435人、68世帯296人が住んでいました。

 漁船の数からいえば、その大部分が漁業で生活していたといえるでしよう。

 そのほかにも、魚町91世帯341人がありました。

 その全では無いでしょうが魚問屋や生魚や塩干魚を加工・販売する商人も多く住んでいたと思われます。

     漁業権

 姫路藩主が参勤交替で国元に在住している年には高砂の町中として塩鯛10枚を歳暮として献上する習わしがありました。

 それは姫路藩から高砂に対して漁業権が認められていたことへの謝礼の意味がありました。

 それとは別に、毎年、高砂漁師から塩鯛420枚、塩鰆100本、干鱧300本を献上する替わりに、それぞれ銀336匁、150匁、10匁5分が上納されていました。

 これらも、漁師たちか漁案権を認められることに対するお礼の献上物であったものが、安永2年の段階ではすでに金納となっており、営業税的な性格に変わっていたと考えられます。

 また、網を用いる漁業に対して営業艦札が発行されており、これらにも銀納で運上銀が課されています。

 その他に、川漁師にも同様に運上銀を課しています。

 播磨離の海域には岡山や摂津(神戸方面)からも漁師が入り込みますので、姫略藩としては高砂、飾磨を始めとする領内漁村の漁師を保護するとともに、領外への漁獲物の叛売を制限して城下町姫賂を中心に領内の食科資源を確保する政策をとっています。(no2879)

 *「たかさご史話(49)・高砂の漁業」参照

 *地図:高砂周辺の主要漁村と高砂の諸漁場(『高砂市史第二巻』)より

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高砂市を歩く(296) 潮風の町:近世の高砂(18) 木綿(8)・干鰯

2015-07-23 09:42:52 | 高砂市

 高砂の綿作について取り上げました。高砂の近辺の加古・印南郡では綿作が盛んで、そのためにその肥料である干鰯(星か)について触れておかねばなりません。

   干鰯(ほしか)

 写真の高砂神社の玉垣(写真)をご覧ください。

 数多くの玉垣に、「干鰯仲」と刻まれています。

 その下に、欠落していますが、仲間の「間」か、仲買仲間の「買仲間」の文字が入るのでしょう。

 ともかく、干鰯を商っていた商人が神社に献金をし、玉垣にその名を残しています。

 干鰯は、字のごとく鰯を干して、小さく砕いた肥料です。

 干鰯は、特に綿作の肥料として優れており、油粕と共に広く使われました。

 とりわけ、加古川・高砂地方にとって、干鰯は重要な意味を持っていました。

 なぜなら、この地方は和泉・河内などとともに木綿の生産地であり、木綿づくりには肥料として多量の干鰯を必要としました。

 そのため、干鰯屋は、大いに繁盛しました。

 明和5年(1768)、高砂の干鰯問屋は、藩に願い出て運上金(税金)を納めることと引き換えに、高砂での干鰯販売の独占権を認められています。

 当時、高砂には干鰯問屋が9軒、仲間19軒もあったといいます。

 伊保崎村・荒井村から別府村・池田村一帯は木綿づくりが盛んで、文政期(1818~29)から幕末の頃の状況をみると、高砂の綿の作付率は、畑で95.2%、全田畑面積に対しても40.1%でした。(no2878)

 *写真:高砂神社の玉垣:「干鰯仲(間)」と刻まれている。

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高砂市を歩く(295) 潮風の町:近世の高砂(17) 木綿(7)・大阪積完敗

2015-07-23 09:11:19 | 高砂市

   飾磨・城下の木綿問屋は江戸積、高砂は大坂積

 長束木綿の大坂積の統制が強まったのは、天保7年(1836)のことです。

 木綿問屋・仲買を強力に専売制下に組みいれたためです。

 その結果、姫路木綿の生産地である加古・印南両郡の長束木綿問屋は30数軒に制限され、大坂積も大幅に制限され、大部分は飾磨津の江戸積仲間の手で江戸に送られました。

 弘化4年(1847)の長束江戸積仕法の改定により、大坂積はさらに制限は強められ、別府・寺家町(現:加古川市)、それに高砂に限定されました。

 木綿販売

  高砂の木綿問屋は完敗

 この弘化4年の改定により、大坂積の数量は激減することになります。

 嘉永2年(1849)の長束木綿総取扱高は76万反ですが、そのうち、江戸積は60万反、大坂積は、約16万反に過ぎませんでした。

 これは、専売制を利用した姫路城下、飾磨の江戸積仲間と競合で、高砂の大坂積問屋は完敗となりました

 高砂の岸本吉兵衛も大坂積をみかぎり、江戸積仲間に加わりました。

 長束木綿問屋は姫路・飾磨の江戸積仲間の支配下に組み入れられたため、高砂問屋は木綿の生産地が、地元の加古川・高砂地方に関わらず集荷が困難になりました。

 その後、江戸積木綿は江戸市場の需要の限界と根強い大坂商人の巻き返しがありましたが、かつての繁栄は回復できませんでした。(no2877)

 *「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照

 *写真:木綿

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高砂市を歩く(294) 潮風の町:近世の高砂(16)・木綿(6)、続く大坂積

2015-07-22 13:29:09 | 高砂市

   木綿の江戸積み激増

  大坂へ出荷されていた木綿が大量に江戸へ送られるようになったのは、天保7年(1836)3月の長束木綿江戸積仕法(しほう:決まり)の成立がきっかけでした。

 長束木綿の江戸積について天保7年まで明確な仕法も会所(役所)もありませんでした。

 この仕法によって、木綿の流通機構が完成しました。

 江戸積仕法によって、木綿の江戸積が奨励されたのですが、それは江戸積の奨励にすぎませんでした。

 しかし、この仕法の改定(天保7年8月)を境にして、江戸積木綿が激増し、天保11年10月から弘化4年(1847)までの6年間に加古郡・印南郡産出の物だけで、428万反強が江戸に出荷されました。

   木綿の江戸積み激増

 大坂へ出荷されていた木綿が大量に江戸へ送られるようになったのは、天保7年(1836)3月の長束木綿江戸積仕法(しほう:決まり)の成立がきっかけでした。

 長束木綿の江戸積について天保7年まで明確な仕法も会所(役所)もありませんでした。

 この仕法によって、木綿の流通機構が完成しました。

 江戸積仕法によって、木綿の江戸積が奨励されたのですが、それは江戸積の奨励にすぎませんでした。

 しかし、この仕法の改定(天保7年8月)を境にして、江戸積木綿が激増し、天保11年10月から弘化4年(1847)までの6年間に加古郡・印南郡産出の物だけで、428万反強が江戸に出荷されました。

 文化7年以降、多くの姫路木綿の出荷先が、大坂から江戸へと変わったのです。

 木綿価格が大坂積に比べて引き上げられ、年々6万両もの売り上げがありました。

 そのため、他領の商人も大坂積を敬遠し、江戸積に転向するようになりました。

   続いた大坂積

 しかし、木綿の大坂積が禁止されていたわけではありません。

 特に、高砂から、たくさんの木綿が大阪へ出荷されています。

 高砂と別府(現:加古川市別府町)に大坂積の「荷物受取問屋(津出蔵元)」が存在していました。

 万延2年(1861)の頃の、高砂の「津出蔵元」は高砂の大蔵元・米屋清兵衛でした。

 しかし、これら問屋は、大坂への積出を自由にできたわけではありせん。

 御国産木綿会所の下請けである長束木綿問屋は、加古・印南の長束木綿をとりしまりました。津出蔵元は、「長束木綿会所」の支配を受けていました。

 次号では高砂町と江戸積について考えます。(no2876)

 *「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照

 *挿絵:江戸積み(菱垣廻船で)

 

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高砂市を歩く(293) 潮風の町:近世の高砂(15)・木綿(5)、大阪積

2015-07-22 08:28:09 | 高砂市

 前号で説明したように、木綿の江戸積みは始まりましたが、少し付け加えておきます。

   木綿の江戸積のはじまり

  藩の専売制度は、文化7年(1810)にはじまりましたが、木綿が江戸に送られたのは文政3年(1820)で、専売制実施の10年後のことでした。

  そして、翌年の文化4年、城下の綿町に専売品取扱機関として御国産木綿会所(おんこくさんもめんかいしょ)が設けられました。

  御国産木綿会所は、高砂の岸本吉兵衛などの6人衆や姫路城下の有力商人などによって運営されていました。

 この御国産会所の下に姫路藩江戸積仲間が置かれましたが、それに参加したのはほとんど城下・飾磨の商人で、高砂商人の参加はみられません。

    長束木綿の大坂積

 姫路木綿は、加古・印南郡で生産される木綿で、長束木綿(ながそくもめん)といいました。

 その実数は、天保7年(1836)の調査によると、姫路領内で長束木綿が150万反あまりで、近隣藩からの買い入れ分を加えると、約200万反にも達しました。

 長束木綿は、長束木綿仲買があつめ、加古・印南に散在する木綿問屋に納め、長束木綿問屋へ出していました。

 当時、城下の木綿問屋が江戸に積み出した木綿・200万反うち30万反程度で残りの85%は長束木綿問屋が大坂や他領へ販売していました。

 専売制度実施当時、大坂積木綿は圧倒的な割合でした。

 この長束木綿を江戸積みの統制下に置くために、国産会所の下部機関として長束木綿会所が設置されたのです。

 天保7年のことでした。(no2875)

 *「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照

 *写真:御国産木綿会所(姫路市綿町・戦災で焼失)

 

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高砂市を歩く(292) 潮風の町高砂:近世の高砂(14)・木綿(4)、綿布を江戸へ直送

2015-07-21 07:07:58 | 高砂市

    姫路藩の木綿

 姫路藩では、正徳二年(1712)に木綿仲買株が設定されており、元文元年(1736)大坂に入荷した木綿の生産の中に「播磨」の名が見えます。

 また、後に播磨藩御用商人・六人衆に一人となる高砂の岸本家の祖は印南郡大国(現:加古川市西神吉町大国)で酒造業と木綿販売を家業としていましたが、享保年間(1716~36)に分家して高砂に進出し、木綿販売を続けています。

 ですから、正徳・享保年間のころに、すでに高砂でも木綿流通がみられていたようです。

    新しい経済政策・江戸へ綿布を直送する

 しかし、木綿の作付や木綿の流通が急増するのは19世紀以後のことです。

 つまり、河合道臣(後の寸翁)が木綿を専売制に着手した時期と重なります。

 播磨の木綿産地の中心地は加古・印南郡でした。

 そのため、高砂に周辺地域から相当数の木綿(綿布)が集荷されたようです。

 高砂は、近世初期以来、米の移出港として京坂地域殿結びつきが強かった関係もあって、播州木綿は高砂から、もっぱら大坂へ出荷されていました。

 播州木綿は、藩専売により江戸積が実施される以前は総て大坂積とされ、その販売も大坂商人の手に委ねられていたため、領内商人は極めて不利な木綿商いを強いられていました。

 藩は、大坂商人から多額の借金があり、大坂商人や大坂商人と結びついた藩の役人・商人を無視して自由に江戸への移出ができなかったのです。

 しかし、姫路藩は余りにも多額の借金を抱えていました。背に腹は代えられません。

 このままでは姫路藩の経済は、破たんしてしまいます。

 何としても、新しい経済立て直しの策が求められました。

 しかし、江戸と直接取引をするとなると、大きな抵抗がありました。

 大坂商人やそれに繋がる人々の反対です。

 それを押し切って、河合道臣(寸翁)は藩政改革の一環として直接江戸へ木綿を移出する木綿専売に着手しました。

 道臣の経済政策を支えた一人が高砂の岸本家でした。

 岸本家については、後にも取り上げることにします。(no2874)

 *「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照

 *写真:河合道臣(寸翁)像:姫路神社境内

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高砂市を歩く(291) 潮風の町:近世の高砂(13)・木綿(3)、河合道臣

2015-07-20 09:25:09 | 高砂市

    木綿を藩の専売品に!

 江戸時代の後期、姫路藩は73万両という膨大な負債に苦しんでいました。

 家老・河合道臣(後の寸翁)の仕事は、なによりもこの負債を少しでも減らすことでした。

 道臣は、姫路木綿を大坂の商人を通さず、江戸へ直接販売できないかと考えました。

 しかし、姫路藩は大坂商人から膨大な借金を重ねていました。

そのため、姫路藩は、大坂商人を通さないで自由な商業活動はできなかったのです。

 江戸は大消費地であり、姫路木綿は品質もよく大量の販売が見込まれました。

 しかし、多くの地元の木綿業者や藩の役人は、大坂商人を恐れて、不満を持ちつつもなかなか道臣の案に協力しませんでした。と、いうよりも協力できなかったのです。

 *小説ですが、河合寸能の経済政策について、『姫路藩・凍って寒からず(寺林峻)』をお読みください。

   江戸への綿布の販路に成功!

 しかし、それを押して姫路藩は、江戸への綿(布)の販売をはじめました。

 大坂の問屋筋は、さっそく反応しました。

 姫路藩への新たな借財への金利があがりました。

 道臣は、藩内の木綿業者に粘り強く協力を求めました。

 やがて、大坂商人に対する不満が出るようになり、風は姫路藩に味方をするようになりました。

 11代将軍・家斉には一妻二十妾(しょう)の間に、55人の子どもをもうけましたが、43三人目の喜代姫が、姫路藩の忠学(ただひろ)との結婚の儀がなったのです。

 姫路藩は、徳川家と親戚になりました。

 そのためか、姫路木綿を専売品として直接江戸へ卸す話は一気に進み、姫路藩の綿布の専売制度は軌道に乗り、姫路藩の借財は、みるみる間に解消されたのです。(no2873)

 *『河合道臣(寺林峻)』(PHP文庫)参照

 *写真:(小説)『河合道臣』表紙

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高砂市を歩く(290) 潮風の町:近世の高砂(12)・木綿(2)、木綿の栽培

2015-07-19 14:13:02 | 高砂市

   江戸時代の初期は、大開発の時代

 姫路藩は、全国的にみても生産性の高い地域でした。

 江戸時代のはじめは新田開発がずいぶん行われ、耕地は広がりました。

 江戸時代初期は、大開発の時代で、日本の農村の原風景がつくられたのはこの時代です。

 とりわけ、印南郡・加古郡の平野部(台地部)では加古新田(現:加古郡稲美町)をはじめ大規模な開発がおこなわれました。

 また、明暦4年(1658)の益田堤の築堤により、加古川の西岸部に新田開発が拡大しました。

    江戸時代中期の新田開発は停滞

 江戸時代初期には、これら新田の開発により、米の増産がありましたが、中期以これら新田の開発は停滞します。

 あまりにも急激な、新田開発のために水不足の問題がおこりました。

 つまり、急激な開発が続けば、水不足で共倒れがおこります。

 そのため姫路藩でも、中期以降は新田開発も積極的に行われていません。

 しかし、江戸時代の中期以降は、(1)貨幣経済の発展と米価の変動による支出の増加、(2)農民階層の分化、(3)凶作・飢饉などにより、各藩とも財政政策は深刻になりました。姫路藩も例外ではありません。

 そのような状況の中で、しばしば、大規模な洪水・飢饉が当地方を襲いました。

 享保7年(1732)の飢饉では、姫路藩では1700人もの飢人がでましたが、高砂は特に多く600人もの飢人を出しています。

 高砂で、特に多くの飢人が多かったのは農業から離れ、日雇い・沖仲仕等半プロ層が多かったためと考えられます。

     文化の大改革

 これらの藩の財政の窮乏を立て直すために行われたのが、文化の大改革です。

 この藩改革で、家老の河合道臣(後の寸翁)は、新たな殖産興業にとりくみました。

 その中でも、最も力を注いだのは木綿の生産と藻綿(綿製品)の専売制度の実施でした。(no2872)

 *「近世港町の商業機能に関する研究(市村泰隆)」兵庫教育大学修士論文参照

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