宮本武蔵の元の名前は田原です。田原一族が、なぜ米田に住みつくようになったのでしょう。
地元で語られる宮本家の系図を見ておきます。
系図は、お寺の縁起等とともにあまり信用できません。
ですが、宮本家の場合は、後でも説明しますが、納得できる内容が多く含まれているようです。
武蔵の祖先は赤松
話は、武蔵生誕から250年ほど昔にさかのぼります。
そのころ、播磨全域は、強大な勢力を持ち支配していたのは豪族・赤松則村円心でした。
円心には、4人の男子があり、その二男、赤松貞範が、田原家の祖とされています。
赤松本家は、三男の赤松則祐(そくゆう)が跡を継いでいます。
その貞範の孫に持貞という子がおり、室町幕府四代将軍・足利義持(よしもち)の寵愛を受けるようになりました。
義持は広大な円心の土地を、持貞に与えようとさえしました。従って、円心と持貞は仲が良くありませんでした。
その持貞が、あろうことか、将軍義持の側室に手を出してしまったのです。
不倫の発覚で、義持は激怒し、持貞に切腹を命じました。
そして、嫡男ら一族を追放してしまいます。その追放先が、米田だったのです。
応永34年(1427)のことでした。
米田に移った家貞は、姓を赤松から田原と変え、いわゆる地侍としてこの地に住み、勢力を伸ばしたと言います。
この家貞から数えて田原家5代目に、同じ名前の(甚右衛門)家貞という人物がいます。
彼には、二人の男子がいた。兄が久光、弟を玄信といいました。
この玄信が後の「武蔵」です。
新免(宮本)家の養子に
武蔵のその後についても、後に説明しますが、田原家を久光が継ぎ、玄信は、美作の平尾家の養子となりました。
平尾家は、田原の縁戚に当たり、そのころは美作(みまさか・岡山県の北部)・竹山城主の新免宗貫の家臣でした。
新免氏は、抜詳の働きで城主から新免姓を名乗ることを許されていました。
ここに新免玄信が誕生しました。
後に、その居住地である宮本村から宮本姓を名のるようになりました。(no2886)
*『宮本武蔵を行く(中元孝迪)』(神戸新聞総合出版センター)参照
*写真:武蔵生誕地碑(縦2.5㍍、横7㍍)