ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

信長の親ばか

2006-06-30 15:21:34 | その他

_059_1   加古川の戦国時代(1578)、秀吉は野口城を3日で攻め落とした。

  続いて、6月27日、神吉合戦が始まった。この時、神吉城主は神吉頼定、守る総勢は2.000の兵であったという。

  攻撃側の大将は信長の長男、信忠であった。神吉城が落城すれば、三木側に味方する東播磨の城々に与える影響は大きいことは容易に想像できる。

  従って、信忠側としては圧倒的に、しかも短期間で神吉城を降伏させことが必要であった。

  しかし、この攻撃で信忠側は、なんと30.000の兵を動員した。つまり神吉側の15倍である。

  結果は、勿論信忠側の勝利で終わった。神吉側は最後まで勇敢に戦い、頼定も討たれた。約20日の戦いであった。

  「もし」の話をしたい。もし、「大将が信忠でなかったなら、こんなにも多くの兵士の動因がなされたか」ということである。

  信長の長男に対する「親ばか」の気持ちがあったのではなかろうか。そんな気がしてならない。

*写真は、常楽寺(神吉城跡)の境内にある神吉頼定の墓

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今福村(加古川市尾上町)

2006-06-29 21:31:00 | 加古川市

_005   司馬遼太郎は「街道をゆく」で明石市まで足をのばしたが、加古川市へは来なかった。司馬氏には加古川市について何か述べてほしかった。

(きょうから「加古川をゆく」を書いてみたい)

今福八幡社(写真)

  山陽電車の「尾上の松」駅のすぐ東に、小さなお宮がある。今福八幡社である。何柱かの祭神は京都の石清水八幡宮の祭神と全く同じであり、今福村(尾上町)は石清水八幡宮の荘園であった。

  石清水八幡宮に、今福村のことを記録した建久2年(1190)の文書がある。

  「・・・播磨の今福からの税金を地元の有力者は納めようとはしない。天皇の命令で、納めるように取りはかってください・・・」という内容のものである。

  平安時代も末期になると、地方の有力者の支配が強まり、寺社の権利が侵されているようすが、よく分かる文書である。

  この文書は、平安末期には「今福村」は、既にあったことを証明している。村の成立は、これよりずいぶん古いものであったのだろう。おしなべて、このあたりの村々の歴史は古い。

  この地域は稲作に恵まれた場所であった。兵庫県の三分の一流域面積を持つ加古川の水が利用できた。

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ブログに写真を

2006-06-28 10:18:41 | その他

  ブログをはじめて2週間がたった。「町歩き」で、主に歴史をテーマにしている。どうも面白くない。内容と文章のまずさは置くとして、写真がうまく入らない。写真がうまく入れば少しは、読みやすいブログになると思うのだが・・・

  昨日の「趣味悠々」はブログの写真の取り込み方だったので、少し予習をして熱心に見たつもりであるが、どうも分からない。生来のメカ音痴である。

  今日は、とにかくブログに加古川の写真を入れることに挑戦したい。さて・・・

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別府鉄道

2006-06-27 19:33:53 | 加古川市

  小学校時代の記憶である。今の加古川市役所のすぐ東にJR高砂線・野口駅があった。そこで、別府鉄道に乗り換えて、しばらく行くと別府駅に着いた。そして浜にでた。そこは、春は汐ひ狩り、夏は海水浴に絶好の場所だった。

  今日、播磨郷土資料館(播磨町)に寄った。資料館の裏に、かつて別府鉄道の野口駅と別府駅間を走っていた車両が保存されている。

  資料館のTさんと話していると、「車両の中に入りますか」と言われたので、入れてもらった。

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  記憶の中の車内は、もう少し雑然としていたように覚えている。おそらく、保存のために修理をしたのであろう。すっきりしている。

  地元では「ガッタン」と呼ばれていたらしいが、私たちはもっぱら「マッチ箱」と少々軽蔑をこめて呼んでいた。強い風の日には飛ばされそうな列車であった。田んぼの真ん中を「カ・ル・ヤ・カ」に走って、別府の浜に通じていた。

  別府鉄道は本来、山陽本線の土山駅へ肥料を運ぶために敷設されたらしいが、「マッチ箱」の椅子に、久しぶりに座ると、なつかしさと浜の風景、そして汐の香りばかりが連想される。

  記録によると、この鉄道は1984年1月31日に廃線となっている。

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小学校の英語教育

2006-06-26 11:22:06 | その他

  新書版「危うし!英語教育(鳥飼玖美子)」(文芸春秋)読んだ。たまたま、本屋で目にとまった本である。

  今朝の新聞(神戸新聞)は、「小学生の英語必修、課題は?」のテーマで、小学校の英語教育を実践されている先生の記事を特集している。

  私(若干英語に興味を持っている)も、次の点だけ言っておきたい。

  「指導者は確保できるのか(誰が指導するのか)。・・・その為の予算の裏づけはあるのか?」という点である。

  小学生には、受験英語でない「楽しい英語」を教えて欲しい。だんじて、英語嫌いをつくって欲しくない。その為の英語教師(ALTも含んで)の確保は容易なことではないと想像される。安易に担任に責任を負わせるようでは最悪である。

  英語が好きになる条件の一つに、教師の責任は大きい。今、以上に、小学校の先生に負担を押し付けるのは酷である。

  しかも、週一時間の英語では効果は、あまり期待ができない。親(自分が出来なかった反動とも思える?)の英語教育に対する期待は大きい。いきおい、小学生のための英語塾が繁盛するのは目に見えている。そこへのチェックは入らない。英語教育は無秩序になりかねないと懸念する。

  「小学生の英語教育論」の詳細については鳥飼先生の著書にゆずるが、論(小学生の英語教育論)は極論でなく事実を踏まえた論争に高まって欲しい。

  推進論者は「是非の問題ではなく、小学生の英語教育は、待ったなしの段階にある」と主張するかもしれない。だが、条件のないままの見切り発車では、後の混乱の方が、はるかに恐ろしい。

  日本の企業は、従来、企業の必要とする人材は企業が予算をはたいて育てた。バブルがはじけて、多くの企業はそんな余裕をなくした。しかし、英語能力の必要性ははますます高まり、トーイックの結果を採用条件にする企業もあると聞く。

  英語教育を小学段から求める。つまり、本来なら、企業の必要経費を個人や公教育に要求している。その根性が、さもしい。

  ともかく、企業の英語教育対する要求が高まってきた。それに輪をかけて、親の子供に対する英語教育の要求は、猛烈に高まっている。それに対して、現場(学校)の意見は押されっぱなしである。

  一つ提案をしたい。中学校の英語時間を5時間(毎日1時間)に増やせばどうであろう。問題解決の有効な一助になるのと思う。そのかわり、小学校では、国語教育(作文教育)を、より充実させるのである。

  私の中学校時代(昭和30~32・もちろん加古川市の公立中)英語は週5時間であった。今、「お前の英語能力は確かか?」という反論が聞こえてきそうである。

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ビワの実

2006-06-25 14:05:41 | その他

  6月はビワの実の熟れる季節である。この時期、ビワの実を店先で見つけると淡路島が無性に懐かしくなる。

  というのは、学校を卒業して最初に就職したのが淡路島でビワの産地であった。その年の6月早速、ビワの実をいただいた。。

  それまで、ビワはあまり好きな果物ではなかった。というのも、ビワ・柿・イチジクは、買って食べるという発想はなく、特にビワは近所の庭にあるものを、もらうか、時には失敬して食べるものという思いがあった。もっとも、失敬することもあまりしなかった。ビワは、概して小粒ですっぱく、美味くなかった。

  淡路島で食べたビワは形も大きく、店頭に並ぶものと同じであったが、味はそれとも違って美味かった。

  ソウケ(ざる)いっぱい、いただいたのを覚えている。そのビワは、少し熟しすぎ、そして何かにあたったのであろう、表面は少し茶色に変色していたが、味は絶品であった。

  以来、淡路にいた4年間、ビワの季節は、いつもこの状態のビワをもっぱら選んで食べた。

  ビワの産地は淡路島の岩屋から野島にかけての瀬戸内側である。ここは、山が海にせり出し、海岸に沿って、かろうじて一本の道を確保しているような場所である。従って、水田がない。

  ビワの収穫は田植えと時期が重なる。仕事が重なると、手間のかかるビワづくりは無理となる。

  幸い、ビワは傷つきやすいが、ビワの産地である淡路の北部は神戸・明石の大消費地に近いという地の利を持っている。

*トレビア(役に立たない無駄知識)を、紹介しておきたい。

  ビワの皮は、へその方から剥へば綺麗にむける。枝の付け根の方から、剥くと途中で皮は破ぶれてしまう。(ご存知であったら無視して欲しい)

  

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レシート

2006-06-24 17:02:56 | その他

  先日、小説「Dの複合(松本清張)』について、書いた。その時、文庫本のページの間にG書店発行のレシートが挟まっていた。

  「G書店、 加古川駅前(ジャスコ前) TEL**-*** 19 AUG 76  320 現」とある。

  つまり、1976年8月19日、ジャスコ前にあったG書店で、320円(現金)で、「Dの複合(新潮文庫)を買っている。消費税はない。ブックカバーに、¥320 とあるから、この本の領収書に間違いない。30年前のことである。当時、この店に、よく出かけていたことを思い出した。

  今、G書店は別の店に変わっている。ジャスコも移転した。この近くにある友達の店も、30日で店じまいするという。

  この30年間の出来事である。まさに、世の中の変化を嘆いた「方丈記(鴨長明)」の記述のとおりである。でも、違うことが一つある。長明の思い描いた時間の長さは、こんなにも短いスパンではなかったであろう。

  加古川市の街角の風景は、近年大急で変化しすぎた。こんなことを考えるようでは、私も「歳」かもしれない。

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蛇がいた

2006-06-23 10:53:08 | その他

  (水曜日の午後)蛇が我が家に侵入していた。それも二匹である。一匹は低いブロック塀の上で、長くなっていた。小さいもう一匹は、塀の内側のブックの中にいた。以前にも、蛇の侵入はあったが、二匹同時というのは、今回がはじめてである。

  塀の上の、比較的大きな方は、竿の先で突いたら、外の水路に、勢いよく落ちて流れていった。

  小さいのは竿でついたら、横のゴミステーションの狭い隙間に入ってしまった。突いても、出てきそうにない。

  妻は隙間から、スプレー式の殺虫剤(キンチョール)を吹きかけた。退治すると、勇みたっていた。春先に桃の木に着いたアブラムシをこれでやっつけ、首尾よくいったので、この殺虫剤の絶大な効果を信じているようである。

  今回は、事情がちがう。蛇は、虫へんの「漢字」とはいえ、虫の仲間ではない。塀にも、この殺虫剤を吹き付けた。塀に「におい」をつけ、蛇の侵入を防ぐというのである。共に効果があるのか大いに疑問である。

  隣家のIさんの自宅の前の畑にも大きな蛇がいたという。我が家に侵入したのとは、大きさがあわない。別の蛇のようである。

  田植えで追い出されたのだろうが、我が家の周りでは、まだ自然が残されている。そう考えれば蛇がいたことも、あなあがち悪いものではないと思えてくる。

  最近、鷺・カラスの姿をよく見かけるようになった。先日まで、ケリの鳴き声が、やかましいほどであった。もっとも、雀はカラスのせいか、少なくなったようだ。

  かつて(戦前)、わが町の周りを飛びかっていたという、蛍は歓迎したいが、蛇は、やはり嫌である。ごみを捨てが、若干いやになった。

  *城山三郎は、わが町を小説「部長の大晩年」(朝日新聞社)で、「蛍の里」として紹介している。

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松本清張 in 加古川市

2006-06-22 07:39:27 |  ・加古川市の歴史人物

  西神吉にある三島由紀夫家(平岡家)の菩提寺・真福寺へいった帰りに、天ヶ原(あまがはら)の毘沙門堂に寄った。以前、ここへ来たのは何時だったか思い出せないほど昔に一度、来たことがある。

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 *左:天ヶ原の毘沙門堂、右:毘沙門堂の絵馬(羽衣が描かれていた。)

  ウェルネス・パークの入り口の道を500mほど、まっすぐに行くと毘沙門堂の前に出る。そこから、かなり急な石段を登ったところにある毘沙門堂には羽衣伝説がる。天ヶ原は、ここに羽衣が舞い降りたという伝説から名づけられている。松本清張は小説「Dの複合」で、天ヶ原ついて少し書いている。

  ・・・・余裕があれば加古川まで引っ返して、羽衣の伝説地を見たいのです。「へえ、加古川にも羽衣伝説がある?」伊勢はビックリした。「少し北に行ったところに、印南郡神吉村(加古川市東神吉町)というのがあって、そこに天ヶ原(天下原)という土地があり、羽衣伝説が遺っているそうです・・・・。

  清張は、もう少し天ヶ原について続けているが、省略する。ともかく、天ヶ原に関しての詳しい記述ではない。この文章から判断すると、清張は加古川に寄っていない。上記の記述の前のところで、「・・・(姫路から汽車で)加古川の町を通り抜け、右側の方に淡路見え隠れしているうちに明石に入り、着いたところが海岸に面した、人丸花壇という旅館だった・・」とも書いている。

  「Dの複合」取材では、加古川へ寄ったとは言えないが、彼の小説に「火の路」がある。ここでは「石の宝殿」について詳述している。現地の調査なくしては書けない記述である。古代史に対する清張の興味も考えれば、ここで、長時間の現地調査をしたことは確実である。石の宝殿はJR宝殿駅から西へ約1000mほど行ったところにある。(天ヶ原の毘沙門堂は北へ1000mのところ)

  ともかく、「Dの複合」や「火の路」の取材で、天ヶ原のことを知ったのであろう。ウエルネス・パークへ行ったついでに、毘沙門堂によって、羽衣伝説を思い出すのも一興である。

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三島由紀夫 in 加古川市

2006-06-21 09:20:26 |  ・加古川市の歴史人物

  平岡定太郎(さだたろう)は福島県知事に抜擢された。抜擢したのは原敬である。彼は、まもなく樺太庁長官になった。定太郎の長男が梓(あずさ)であり、彼も父親と同じく東大出の官僚であった。その息子が平岡公威(きみたけ)、つまり三島由紀夫である。

  定太郎は、加古川市志方町に生まれている。昨日、妻と平岡家の(20日)菩提寺、真福寺(西神吉町宮前)を訪ねたが、墓地は志方の方へ移されていた。

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 *平岡家の菩提寺、真福寺(加古川市西神吉町宮前)

  

  三島由紀夫と加古川市について、若干書いておきたい。由紀夫が加古川市を訪れたのは二回のみである。

  一回目は、由紀夫に徴兵検査の命令が来た時である。当時、徴兵検査は現住所か本籍地のどちらで受けてもよかった。彼も父も何とか公威(由紀夫)の不合格をのぞみ、徴兵を逃れたかった。おしなべて体格のよくない東京での徴兵検査になれば合格率が高くなる。幸い、当時の由紀夫は体の貧弱な若者であった。たくましい若者の多い本籍地・加古川で受験すれば不合格の可能性が高くなると踏んだ。

  この、徴兵検査の時加古川を訪れた。検査は視力・腕力・走力それに重量挙げまであった。後に、「仮面乃告白」で、この時のようすを「・・・・農村青年たちが軽々と十回も上げる米俵を、私は胸までも持ち上げられずに検査官の失笑を買ったにもかかわらず、結果は第二種合格で・・・」と表現している。

  これは、本人も父も誤算だったに違いない。なお、この検査は加古川公会堂、現在の、加古川小学校の横の図書館で行われた。これが一回目の加古川訪問になった。

  昭和20年2月4日、赤紙、召集令状の電報があった。電文には、「本籍地で入隊せよ」とか書かれていた。

  東京を発つ時、微熱だったが、志方に着くにつれて熱は激しくなった。入隊地、現在の青野ヶ原へ出かけた。この時のようすを、もう一度「仮面の告白」から引用したい。

  「入隊検査で獣のように丸裸にされて、ろうろしているうちに、私は何度となく、くしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいう音をラッセルと間違え、あまつさえ、この誤診が私のでたらめの病状報告で確認され・・・(省略)・・・私は、肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた。営門を後にすると私は駆け出した。荒涼とした冬の坂が村の方へ降りていた。」

  この時が、由紀夫の2回目の加古川訪問である。彼は加古川が、あまり好きでなかったのか、その後の加古川訪問はなかったし、作品にも書いていない。

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宮本百合子 in 加古川市

2006-06-20 08:28:37 |  ・加古川市の歴史人物

  昨日、土山(加古川市平岡町)の喜瀬川にかかる橋のところで車を止めた。田植えの頃の喜瀬川の流れを見たかったためである。日ごろは、流れもなくよどんでいる川も、この時期ばかりは、さすがに流れがある。上流の池から田に水を供給するためである。喜瀬川は、川と言うより用水路と呼んだほうがピッタリとする川である。喜瀬川は台地上にあり、旱魃こそあれ、およそ、洪水とは無縁の土地を流れる。普段は細々とした、頼りなげな川である。ここに、洪水と言う大事件が起きたのは、敗戦から数日後の10月のことであった。宮本百合子が、偶然この洪水に出くわし「小説・播州平野」に書いている。

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  (*昭和20年10月9日やっとの思いで、百合子(小説では、ひろ子)は姫路に着く。その日、台風がこの地を襲った。加古川での記述は11日のことである。写真は昨日の喜瀬川と橋)

   ・・・・・加古川でみんな汽車からおろされた。不安な顔つきを揃えて改札口を流れ出た。旅客の群れは駅前広場にトラックが二台待機しているのを見て、歓声をあげた。・・・トラックは急に速力を落として畑の横に停まった。・・・・小さいが、流れの急なところで、石橋が落ちていた。・・・・(「播州平野」より)

  文中の「小さい、流れの急なところ」とは喜瀬川のことである。詳細については小説を読んで欲しい。

  この時の洪水で26人の死者を出している。繰り返していうが、この地域は台地上にあり、旱魃こそあれ、水害を歴史上記録したことがない。この時は上流の池が連続して決壊して、一度にこの地を襲った。百合子は全くの偶然に出くわしたことになる。

  以前、この大洪水について調べたことがあった。その時、21歳の時、この水害を経験されたI(71歳)さんから手紙をいただいた。元気でおられるだろうか。手紙については機会があれば後日紹介したい。

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湯乃山街道

2006-06-19 08:56:59 | 加古川市

  信長・秀吉の時代、東播磨各地の城主は三木・別所氏の支配の下にあった。もっとも加古川城だけは秀吉方につくが、単独では別所氏には、とうてい対抗できる勢力ではなかった。今日は三木合戦の話ではなく、三木を通った「湯乃山街道」について書きたい。

  加古川市の住民としては、古くから加古川地方の方が、三木よりも経済的に優れていたと言う思い込みが強い。戦国時代、東播磨の各城主が三木の支配下にあったことを、いぶかしるのである。

  加古川の河口に発達した加古川・高砂の町は、ずいぶんと水害に悩まされ続けた。加古川は暴れ川であった。その為か生活は安定しなかった。広い河口は旅人の渡川を苦しめたことであろう。治水技術が発達するのは、戦国時代以後で、江戸時代に急速に発達している。

  三木には「湯乃山街道」が走っていた。この街道は事情が加古川とは違って、水害の少ない内陸部の街道である。「湯乃山」は有馬のことで、姫路から三木を通り、有馬に達し、さらに、宝塚から京都や大阪へ通じた道である。つまり、三木は重要な交通の要所に位置していたのである。この地を三木の別所氏が拠点にしたのも合点がいく。

  旅人にとって、「湯乃山街道」は魅力があった。何よりも途中で、温泉につかり、旅の疲れをとることができたのである。南北朝時代、播磨と西摂津を制した赤松氏は、特に、この街道を重要視した。

  三木から西へ湯乃山街道を行くと、宗佐(そうさ)・国包(くにかね)・井口(いのくち)・薬栗(くすくり)・山角(やまかど)、さらに志方、そして姫路に通じている。両荘公民館の前(南)の道は、まぎれもなく「湯乃山街道」の一部である。

  15年ほど以前のことである。地元の人と、この街道について話したことがあった。その時は「湯乃山街道ですか?」「有馬・京都へ通じてましたん?」「ほな、昔はええ道でしてんな」「・・・・」

  先日(6月15日)薬栗のIさんのにお会いしての帰り、そんな話をしたことを思い出した。その時と比べても、この「湯乃山街道」の話題は風化したようである。「加古川市史」にも「湯山街道」についての詳細な記述はない。

  我々としては少し不満が残る。「湯乃山街道」が元気であった頃、この街道沿いの村々も栄えていたに違いない。

 *写真左は薬栗(上荘町)の道、右は国包(八幡町)の道。共に旧:湯乃山街道の一部である。

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愚説・日本人の思考

2006-06-18 09:32:31 | その他

  空を眺めていたら、たわいもない考えが浮かんだ。でも、「大発見かも知れない」とひそかに思ったりもした。

  時々、外国へ旅行をするが、日本の空は外国(今、アメリカ・ヨーロッパ・オセアニアを念頭においているが他意はない)と比べて低く感じる。晴れた日も湿気のためか、白っぽい。抜けるような、あの青い、高い空が少ないようである。

  有史以来、無意識のうちに、低い空の下で日本人は生活を繰り返してきた。日本人の意識に影響を与えない道理がない。

  日本人の気質は島国と比較してよくいわれるが、低い空の下で生活してきた影響の方が大きいのではないか。日本の町は、平野にあっても、すぐに山で閉ざされてしまう。

  深い無意識のうちに、周囲を山で閉ざされ、上を低い空で締め切った缶詰のような世界で、生活を繰り返してきたのが日本人では、なかっただろうか。

  もっとも、これは外国との比較の問題であるが、そこから生じる思考は想像以上に、細やかな、内向きの感情を育んだのであろう。世界を対象にした思考を育てにくい環境にあった。

  空が大きければ、相対的に地上の風景は小さくなる。先月、マウント・イーデンの丘(ニュージランドのオークランド市)から市街を眺めたときにそれを感じた。反対に空が低いと、地上の風景が大きく見える。近くの事柄に感心が向く、悪くすると外に対して無関心と排斥の感情を育てやすい。

  近頃、とくに日本人の(プチ)ナショナリズムが気になる。日本人はそんな「縮思考」が許される環境の時代に住んでいない。

  この思考回路の一因は「空」にあるのかもしれない。あらためて繰り返すが、これは愚説である。聞き流して欲しい。

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かわいそうな道標

2006-06-17 10:17:48 | 加古川市

_028_4   今、(17日午後4時)、野口(加古川市)の旧西国街道沿いの小さな道標の前にいる。近所の人にもほとんど知られていない。小学生・中学生の通学路でもあるが、この壊れかけの道標には、誰も気にとめないようである。

  草が生い茂ると見えなくなってしまいそうな道標であるから、それも当然かもしれない。

  昔(江戸時代)、このあたりで一番大きな道はこの西国街道であった。

  海岸部にも、比較的大きな道があった。「浜街道」である。浜街道は別府・尾上・高砂・曾根そして姫路へと通じていた。東は明石に至る道である。

  西国街道は所々で浜街道と結ばれていた。この道標の文字は「*田山尾上」と読める。欠けている*には「刀」の文字が入る。刀田山(とたさん)とは鶴林寺のことで、道標は「ここを南に行けば鶴林寺・尾上へと通じる」つまり、浜街道に続くことを教えている。

  今では、何の変哲もない村中の小さな道であるが、重要な役割をになった道である。鶴林寺までの途中に大きな造り酒屋さんがあるが、この街道沿いにあったと考えれば何の不思議もない。

  誇らしい役割を担ってきた道標である。決して他の場所へ移動されたりしないように・・・そんな時は言ってくれよ。彼(この道標)は歴史の証人だ、と言ってやるから。

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蛍の里

2006-06-16 07:37:49 | 加古川市

  このブログは1日遅れのニュースを書いている。

  今日(15日)も雨。ずぼらを決め込んで、二階の窓から外を眺めている。そこは水田であり、150メートルほど先に用水路がある。この用水路は聖徳太子の昔からのものであると言われている。

  大きな川から水を引いたのであるから、それなりの財と技術がいったはずである。聖徳の昔、地方に、そんな財と技術があったとは思えない。旧河川の跡だというのなら話は別であるが、事実はどうも怪しい。

  ともかく、この用水路を利用して成立したのが、私の町である。城山三郎の小説「部長の大晩年」の二節に「蛍の里」がる。「・・・・母の実家の周りには初夏には蛍が特に多いところで、無数の蛍が群れて、いくつかの光のようになり、輪を描きながら、夜空を低く舞う・・・」と書いているが、その「ほたるの里」とは私の町のことである。このことを子供の頃から町に住む老人に確かめてみた。そのとおりだったと言う。

  蛍の舞った水路は現在、立派な?コンクリートの用水路に変身した。こんなうっとうしい雨の日には一昔前の蛍の舞う用水路の風景を想像してみるのも、一興である。

  用水路の周辺の水田は、急速に減ってきた。原因は明らかに高齢化である。町の風景の変化は確実に早まっているようだ。

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