新書版「危うし!英語教育(鳥飼玖美子)」(文芸春秋)読んだ。たまたま、本屋で目にとまった本である。
今朝の新聞(神戸新聞)は、「小学生の英語必修、課題は?」のテーマで、小学校の英語教育を実践されている先生の記事を特集している。
私(若干英語に興味を持っている)も、次の点だけ言っておきたい。
「指導者は確保できるのか(誰が指導するのか)。・・・その為の予算の裏づけはあるのか?」という点である。
小学生には、受験英語でない「楽しい英語」を教えて欲しい。だんじて、英語嫌いをつくって欲しくない。その為の英語教師(ALTも含んで)の確保は容易なことではないと想像される。安易に担任に責任を負わせるようでは最悪である。
英語が好きになる条件の一つに、教師の責任は大きい。今、以上に、小学校の先生に負担を押し付けるのは酷である。
しかも、週一時間の英語では効果は、あまり期待ができない。親(自分が出来なかった反動とも思える?)の英語教育に対する期待は大きい。いきおい、小学生のための英語塾が繁盛するのは目に見えている。そこへのチェックは入らない。英語教育は無秩序になりかねないと懸念する。
「小学生の英語教育論」の詳細については鳥飼先生の著書にゆずるが、論(小学生の英語教育論)は極論でなく事実を踏まえた論争に高まって欲しい。
推進論者は「是非の問題ではなく、小学生の英語教育は、待ったなしの段階にある」と主張するかもしれない。だが、条件のないままの見切り発車では、後の混乱の方が、はるかに恐ろしい。
日本の企業は、従来、企業の必要とする人材は企業が予算をはたいて育てた。バブルがはじけて、多くの企業はそんな余裕をなくした。しかし、英語能力の必要性ははますます高まり、トーイックの結果を採用条件にする企業もあると聞く。
英語教育を小学段から求める。つまり、本来なら、企業の必要経費を個人や公教育に要求している。その根性が、さもしい。
ともかく、企業の英語教育対する要求が高まってきた。それに輪をかけて、親の子供に対する英語教育の要求は、猛烈に高まっている。それに対して、現場(学校)の意見は押されっぱなしである。
一つ提案をしたい。中学校の英語時間を5時間(毎日1時間)に増やせばどうであろう。問題解決の有効な一助になるのと思う。そのかわり、小学校では、国語教育(作文教育)を、より充実させるのである。
私の中学校時代(昭和30~32・もちろん加古川市の公立中)英語は週5時間であった。今、「お前の英語能力は確かか?」という反論が聞こえてきそうである。