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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(307) 泣けばとて、かえるものかよ 

2016-05-10 10:01:59 |  ・加古川市西志方

  8日・長楽寺の子安地蔵尊を拝観し、懐かしい植原繁市の歌碑にも再会することができました。歌碑を紹介しておきましょう。

 2012・3・21のブログで「花と流星の詩人・植原繁市」と題して、繁市を紹介しました。

 その時は「現在土砂崩れのため、歌碑は流され、見つかっていません」と書きましたが、その後の整備の途中で、埋もれていた石碑は見つかり、元の場所に設置されています。

 でも、写真のように、歌碑は多くの破損個所ができていました。が、繁市の詩が一層光を増したようです。

 歌碑をご覧になりながら彼の詩をお読みください。

 花と流星の詩人・植原繁市

 その日(2011年より前のある日)は、今にも泣き出しそうな空でした。

 風も、木々のざわめきもありません。

 長楽寺の境内は、時間が止まっているかのように静かでした。

 植原繁市には、こんな風景が似合うのかもしれません。

 境内の隅に繁市の歌碑があります。読んでみましょう。

 *注:現在(2012当時)土砂崩れのため、歌碑は流され、見つかっていません。

     人に告ぐべき

     寂しさにはあらぬ

     ゆふぐれをひとり杜にきて

     しみじみと樹をゆする

        泣けばとて、かえるものかよ

        告げばとて、癒ゆるものかよ

        しみじみと樹をゆする

 繁市の唯一の詩集『花と流星』にある詩「寂しさ」です。

 繁市は、明治41年、志方町横大路で生まれました。小学校でも病気がちで、姫路商業高校に入学しますが、胃腸疾患のため二年で退学します。

 そうした病弱が彼の繊細さを育てたのかもしれません。(no2014)

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志方町を歩く(306) 延命子安地蔵、一般公開

2016-05-09 08:09:01 |  ・加古川市西志方

 2011年の9月4日、午後1時ごろでした。志方の長楽寺の裏山が崩れました。

 新聞は、「寺は一部が埋まってしまったが、幸いけが人はなかった・・」と長楽寺の本堂の崩壊した写真を報じました。

 が、本堂は土砂に飲み込まれ、境内は土に埋まり大参事でした。

 幸い、重要文化財の地蔵堂は土砂崩れの直撃から免れ、昨日(5月8日)秘仏であるこの「延命子安地蔵」が一般公開されました。

 長楽寺の再建も、着実に進んでいるようです。

 

    延命子安地蔵、一般公開

 長楽寺にある地蔵は、重要文化財です。

 この「延命子安地蔵」は、様式から鎌倉時代から南北朝時代の作といわれています。

 座高71.7㌢で、台座をいれれば120.㌢の地蔵です。

 普通、地蔵は声聞形(しょうもんぎょう)、つまり坊さんの形です。

 地藏は、民衆の苦しみをいやすことを専門業とする仏であり、それも、生者の苦悩のみではなく、死者の苦悩もいやす仏です。

 長楽寺の地蔵は、左足を台座より垂下して、蓮華を踏み、右足は台座上に膝をたて、その上に右手を置き、軽く右頬にそえておられます。

 今は左手の持物(じぶつ)はないが、もともとは錫杖を持っておられたのでしょう。

 何を考えておられるのでしょう。

きっと、長楽寺の早い再建と熊本地震の早急の復興でしょうね。(no3213)

*写真:昨日、一般公開された秘仏「延命子安地蔵」と土砂崩れで崩壊した当時の長楽寺の本堂

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志方町を歩く(305):ツバメが飛ばない!

2012-06-16 08:21:18 |  ・加古川市西志方

大池の土手を歩きながら、次の文を思い出しています。

   ある寓話

001とある村があった。

そこでは、命あるものはみな、周囲のものと仲良く暮らしていた。

村のまわりには豊かな農場や穀物畑が整然と並び、丘の斜薗の果樹園では、春になると、白い花が緑の野に雪のように浮かんで見えた。

秋には、カエデがみごとに紅葉し、マツの緑を背景に燃えたつようだった。

山に狐の鋭い吠え声が響き、朝霧にまぎれて鹿が忍び足で野原を横切った。

道を歩けば、ハンノキ、そして大きなシダ類や、色とりどりの野花が四季折々に咲き乱れ、人々の目を楽しませた。

冬でさえも路傍の景色は美しく、無数の鳥たちが、雪の上に顔をだしたさまざまな実や、枯れた野草の種子をついばんでいた。

じつのところ、この地方は多種多様な鳥が豊富なことでよく知られ、春と秋、渡り鳥が大挙してやってくる季節には、遠くから見物の人々が集まった。

山から流れてくる小川の水は冷たく澄み、ところどころに濃い影を落とす淵には魚が棲みついていたので、釣り人もたくさん訪れた。

ずっと昔、人間がはじめてここに家を築き、井戸を掘り、納屋を建てて以来、町は変わることなく美しかった。

ところが、暗雲が町に忍び寄り、すべてが変わりはじめていた。

・・・・

以前なら、春の朝はコマドリやネコマネドリや、ハトやカラスやミソサザエの騒がしいコーラスで明けるはずなのに、今はなんの声も聞こえない・・・(みんないなくなった)

ツバメが飛んでいません

叱られそうです。文章の書きかえをしています。

もとの文書は、『沈黙の春(レイチェル・カーソン)』の冒頭の部分です。

これはアメリカのある町の環境(農薬)汚染を告発しています。

アメリカであることを伏せた文にしました。植物・魚の名前も書き換えました。

原の大池の土手にいて田植えの風景を見ています。「ツバメ」がほとんど飛んでいません。昔と比べると少なすぎます。

そんな風景を見ながら、『沈黙の春』の一節を思い出しています。

いまツバメが少ないのは志方町に限った風景ではありません。

レイチェル・カーソンが訴えたように生活環境は現在進行形で激変しているようです。

*写真:大池からの風景

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志方町を歩く(304):水利権

2012-06-15 06:29:07 |  ・加古川市西志方

大池(志方町)の水争い

志方町には130あまりの池があります。

それぞれ歴史的な背景は異なりますが、多くの池は旱魃や洪水の時になんらかの争いを経験しました。

きょうは、大池(志方町原)の水争いをみます。

大池は、姫路へぬける「湯山街道」沿いにあり、東から行くと山中の入り口にある大きな池です。前号で紹介した池です。

  水 利 権

016明治1011月、「大池」の水をめぐって、大池から水を得ている成井村・西牧村・横大路村・原村・永室村が山中新村(志方町山中)を姫路支庁管内飾磨裁判所に訴えました。

大池の水は、上流(大池の1kmほど姫路より)の中山新村の小さな焼山池に流れ込み、そこから大池に流れています。

天明三年(1783)には、双方が証文を取り交わし和解していました。

約束が守られなかったのでよう。弘化年間(184448)に、改めて証文を取り交わしています。

その条項(内容)とは「大池が満水の上は、焼山池へ水譲りもうすべし・・・」というものでした。この条項をめぐって争い、裁判に持ち込まれたのです。

結果は「山中新村の焼山池は、下流の大池が満水でない時は、水を取り入れることはできない」ということになりました。

このように、江戸時代から続く水利慣行(水利権)は、明治時代はもちろん、現代まで守られています。

*写真:原の大池

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志方町を歩く(303):大池の分水石

2012-06-14 08:34:00 |  ・加古川市西志方

姫路から志方へ抜ける道沿いに山中の集落があります。

山中集落が原の集落へ出るところに「大池」があります。

文字どおり大きな池で、志方町西志方の5つの集落の水ガメとなっています。

この水は西志方の村々にとっては、まさに命の水でした。

そのため、大池の水を巡って水争いが、しばしばおきました。

   

   原の大池

012東志方には法華谷川・西川があり、志方町には法華谷川が流れています。

でも、西志方には大きな川がありません。

周囲の山々から流れ出た水は、小さな流れとなり下流へと流れてしまいます。

そのため、周囲の山々から流れ出た水は、いったん池に溜めて、田植など水が必要な時に使われます。

ですから、西志方には山沿いにたくさんの池が造られています。

しかし、それらの池は各集落の水田を潤すだけで、余裕がありません。

   西志方5ヶ村の共有管理の池

705578f7 西志方の村々は、それぞれの村のため池の水だけでは足りません。

それを補ったのが、原の大池の水です。

写真上をご覧ください。

大池の水が勢いよいよく流れ出しています。

この風景は、この時期限定ですので見学にお出かけください。

大池からの水は、横大路700石、原500石、成井200石、永室・西牧175石というぐあいに水田面積、収穫高に応じて水は分配されました。

もちろん、それにかかわる経費も分配される水の量にしたがって、負担されています。

*写真上:現在の大池の分水石

  写真下:江戸時代の絵図から‐分水石(復元図)

*『ため池再発見』(いなみ野ため池ミュージアム推進実行委員会)参照

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志方町を歩く(296):ササユリ

2012-06-07 06:20:20 |  ・加古川市西志方

    高御位山

Sasayuri_004『志方郷(15)』に、村上弘氏が「高御位山今昔記」と題して寄稿されています。

一部をお借りします。

「・・・成井登山口より登る正面道は、昭和60年に加古川市により婦人・子ども、老齢者のために行き届いた配慮が払われた登山道が完成し、楽々と登ることができるようになった・・・」

「楽々と登れるようになった・・・」という文にごまかされました。

「四丁目」の丁目石のところまでは、順調だったのですが、その後、急に心臓が高鳴り始めました。

七丁目辺りで、完全にダウン。

それでも、山頂まで10回ぐらい、長めの休憩をとり、やっとのこと「征服」することができました。

私にとっては、まさに征服がぴったりとする登山となりました。

やはり、年なんですね。

これを最後の、高御位山登山にします。

 ・・・・

以上のような文を以前に書きました。

以後、心臓に自信がなく、高御位山登山はやめています。

   ササユリが咲いています

でも、6月になると山へ登りたくなるのです。

山にササユリが咲いています。

さいわい、登山口の階段を10分ばかり登ったところにササユリの咲いている秘密の場所があります。

昨日、そこへ出かけました。

去年は、数本咲いていたササユリですが、今年は一本だけが昨年の場所とは違うところに咲いていました。

「こんにちは・・・」

私より若干年配とお見受けする方が、頂上へ登って行かれました。

私は、これで今年の「高御位山登山?」は終りとします。

*写真:ササユリ

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志方町を歩く(288):ルピナス(西志方横大路)

2012-05-28 07:33:09 |  ・加古川市西志方

039ある人から、ニュージランド(南島)のテカポ湖ほとりに咲くルピナスの話を聞いていました。

「その風景は、まさにおとぎ話の風景のよう・・」だそうです。

ルピナスは、一度見たかった花でした。

515の神戸新聞の朝刊に志方町西志方横大路のルピナスのニュースが大きく報道されました。

昨年、このニュースを知ったのは6月中ごろで、若干おそく、しおれ始めていました。

今年は、孫とさっそく見学に出かけました。

孫は、ルピナスを見つけて、第一声「ワー・・・」。

その鮮やかな色どりに興奮したようでした。

「さっそく写真をパチリ」。いい写真が撮れました。

 若干、新聞記事の紹介が遅くなりましたが、ルピナスは長持ちする花です。

6月の初めまでは見事なルピナスが楽しめます。

お出かけください。

以下、神戸新聞の記事の一部です。

  ルピナスが満開

   6月上旬まで楽しめます

ルビナスはマメ科の植物で、花がフジに似ていることから「ノボリフジ」とも呼ばれる。

横大路地区では2008年秋から栽培しでいる。

昨年秋から、同協議会ルビナス部会の約30人が花の世話をした。

栽培面積をこれまで2倍に広げ、2カ所計約2千平方㍍に約5千株を育てた。

赤や桃、白、紫など'色とりどりの花が垂直に伸び、独特の光景が人々の目を楽しませている。(神戸新聞より)

   高御位山を背に

ここ横大路のルピナスは、テカポ湖にはかなわないかもしれません。

でも、高御位山を背に見事です。

もうすぐ、高御位山からは「ササユリ」のニュースが届く頃になりました。

*写真:ルピナス(520日撮影、中央の高い山が高御位山です)

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志方町を歩く(266):長楽寺(31)・寺標みつかる

2012-05-06 16:19:59 |  ・加古川市西志方

  

    寺の復興が、また一つ前進しました

 002久しぶりの長期の旅行(オーストラリア・ニュージランド)でした。

旅行で感じたことをブログにしました。面白くない記事になっていますが、お許しください。

 さて、「ひろかずのブログ」は「志方町を歩く」に戻ります。

先日、長楽寺さんの「谷の長楽寺通信~復興の日々~」は、埋もれていた道標の見つかったことを書かれています。

素晴らしい出来事です。寺の復興が、また一つ、大きく前進したようです。

「長楽寺(30)」の続きとして、お断りもせず転載させていただきました。

   寺標見つかる

(「谷の長楽寺通信」より)

  昨日(429日)は災害で流されてしまった寺標を再設置する作業が行われました。
寺標は軸石だけで高さ3Mほど重さは2トン近くはあるでしょうか。

そんな大きなものも下台だけを残しみごとに流されていました。

004_2 当初はどこにいったのか皆目わからなかったのですが、土砂を撤去する作業をする中で無事に発見され運び出されていました。

 この寺標は平成215月に現寺役員のM様のご寄附により建立されました。

この度、今回の土砂災害のことを新たに刻み、再び長楽寺のシンボルとして復活しました。

所々泥で汚れ、傷ついた跡が残っています。

まっさらでピカピカの寺標ではありませんが、それでもその傷がまた私ども長楽寺の歴史を刻んでいます。
 こうやって皆様に助けられて、少しずつそれでも着実に復興してきている。寺標を見上げ、そんな温かな気持ちになった一日でした。
 もし、長楽寺にお参りの際は是非ともこの寺標を一度ご覧いただきたいです。寺駐車場の西、石段の脇に堂々と建っています。

ちなみに表の長楽寺という字は亡くなった前住職の字になります。

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志方町を歩く(262):長楽寺(27)・森をつくろう(2)

2012-03-28 00:08:24 |  ・加古川市西志方

長楽寺の裏山の大藤山を形成している岩石は、閃緑花崗岩で、六甲山の花崗岩よりさらに水に弱く風化が早い花崗岩です。

でも、風化が土を造り、樹木を育てました。その木々の根がしっかりと大地を支えました。

樹木に抱かれた土壌が水を蓄え、谷に集まり、そして麓の池のへ、そして村々の田畑を潤しました。

 大藤山では、遠い昔からこんな営みが繰り返されてきました。

  

   大藤山受難

 019近くで、次のような話を聞くことができました。

 <戦争中>

 「はっきりと覚えてへんけど、戦争中に松の油を採るいうて、ようけの木を切りました」

「鉱山を掘る時に支えにするために、木を切りました・・・」

 <戦後>

戦後も大藤山の受難は続きました。

今から50年ほど前のことです。長楽寺の裏山が大火でたくさんの木が焼けました。

戦中から戦後にかけて長楽寺の裏山は、大変な受難があったようです。

 今の長楽寺の裏山の樹木(写真)は、その後に育った杉を中心にした木々です。

昨年の94日の山崩れの原因は、山の荒れだけではなく、たくさんあると思います。いまその原因の分析がもとめられます。でも、確かな原因の一つは「山の荒れ」です。

そこで、いま長楽寺さんでは、「1000年の森をつくりたい市民会」を立ち上げ、大藤山の再生運動のための署名を始めています。

 「市民の会」の署名の趣旨を掲載します。署名にご協力ください。

   

   みんなで1000年の森をつくろう!

<趣旨>平成2394日未明、合風12号による大雨の中、兵庫県加古川市志方町永室にある大藤山(251.1m)は上から下まで崩落しました。

麓にある1300年の歴史を持つ大藤山長楽寺の本堂、座敷は土砂流に押し流され、歴史的価値のある文化財を失いました。住職をはじめ家族は奇跡的に助かりましたが、真っ暗闇の中、すさまじい音と共に流されていく本堂を目の当りにし、死の恐怖を味わいました。今も家には戻れず、仮住まいを余儀なくされています。

もう二度とこのような悲しいことがないようにと願ってやみません。

今を生きる私たちの命を守る為に、共に生きるすべての生命の為に、未来の為に、私たちは今、何が出来るのかを考え行動します。

防災に強い森、命を育む森、1000年の森づくりの計画と実行を要望します。

 *連絡先 「1000年の森をつくりたい市民の会」? 090-5548-3392

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志方町を歩く(261):長楽寺(26)・森をつくろう(1)

2012-03-27 07:12:41 |  ・加古川市西志方

  1000年の森をつくろう

Photo313日の神戸新聞「大雨に弱い急峻な六甲山地」と題して、次の記事を書いています。

 大藤山の状況は「六甲山地」を「大藤山」と置き換えれば全く同じ図式です。

大藤山を形成している岩石は、閃緑花崗岩(せんりょくかこうがん)です。

閃緑花崗岩は、六甲山の花崗岩よりさらに水に弱く風化が早い花崗岩です。

神戸新聞の記事を読んでみましょう。

  地震、水害に強い森に

国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事筋所によると、六甲山地は風化した花こう岩で形成された部分が多く、大雨で崩れやすい。

さらに、山頂から河口までの距離が短いため、大雨が降ると、川の水は一気に河口へと突き進む。

1938(昭和13)7月の阪神大水害などがその恐ろしさを物語る。

近年は山林の手入れ不足で地表に日が差さず、特定の種類の樹木しか育たないため、さらに土壌が崩れやすい状況が生まれている。

神戸市は対策として1月、「六甲山森林整備戦略案」を策定した。

今後1OO年を見据え、市内の六甲山地を5分類して間伐や植林を進める。

4月以降、一部の市有林を対象に、作業道整備と山の斜面の補強などの実証実験を始める。

市六甲山整備室は「市民参加で聞伐に取り組むなどし、災害に強い森づくりを進めていきたい」としている。(神戸新聞より)

   大藤山(長楽寺の裏山)の状況は!

  大藤山は、もろい花崗岩(閃緑花崗岩)です。

  山頂からの雨は一気に山麓の池や田畑へと突き進みます。

  昨年の94日の土砂くれはその恐ろしさを物語りました。

  近年は、特定の樹木が多く、山の手入れが行き届かず土壌の崩れやすい状況が生まれている。

以上のように、大藤山は六甲山の状況と酷似しています。

いま、長楽寺は、お寺再建ともう一つ裏山(大藤山)の森の再生を目指しています。

そのため、「1000年の森をつくろう!」と森の再生を訴え、署名活動を行っています。

*写真:昨年94日の土砂崩れの跡

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志方町を歩く(260):長楽寺(25)・長楽寺の歴史(1)

2012-03-26 08:32:53 |  ・加古川市西志方

全国のどの神社仏閣も、その神社仏閣がいかに素晴らしい来歴を持つかということを「縁起」としてまとめ、現在に伝えています。

ですから、寺社の縁起は、ほとんどの場合そのままでは信ずることができません。

長楽寺の縁起も、そのままでは史実とは認めることはできませんが、紹介しておきましょう。

    長楽寺の縁起

Album_img09長楽寺は、和銅六年(713)、慈心上人により真言秘密の遣場として大藤山(251)の中腹に開基されました。

現在の本尊である「木造延命子安地蔵菩薩」は、治承二年(1178)高倉天皇の中宮建門院(平清盛の女)が難産のおり、各地の神社仏閣に祈願されましたがおもわしくなく、丹波老の坂の地蔵尊が女人安産によいとの事で勅使をたて参籠祈願をしたところ、いとも安らかに玉の如き皇子(安徳天皇)が生まれました。

高倉天皇は喜びのあまり、平清盛に命じ同体の地蔵様66体を彫刻させ、日本66州に一体ずつ安置させました。

和同六年(713)の開基とされています。

以上が『志方町誌』に紹介されています。

史実として、開基等は定かではありませんが、残された石造物などから想像して鎌倉時代までは確実にたどれそうです。

それ以上の長楽寺の歴史は縁起も含めて、今後の研究に待つことにします。

そのため、今日のブログは「長楽寺の歴史(1)」としておきます。

    長楽寺は三木合戦で焼かれたか?

天正6年(15788月、大事件が発生しました。三木別所氏に味方した志方城方と信長・秀吉方の戦いが始まりました。

三木別所に味方した志方城は炎上してしまいました。

元禄十一年(1698)、助永村庄屋・九郎兵ヱの書いた「万覚書(よろずおぼえがき)」によると、次のように書かれています。

長楽寺は、天正六年(1578)秀吉の兵火にあい七堂伽藍ことごとく焼失し、難を逃れた子安地蔵は助永村に移され、仮堂を造って安置されました。

当時、助永村には二間四方の地蔵堂があり、地蔵尊を祀っていたので、この方は「小仏地蔵」、長楽寺の子安地蔵は「岩掛地蔵」と呼んだといいます。

寛文三年(1663)専空念教法師が、現在の地に常行念仏堂を建て、宝永三年(1706)に広く喜捨を仰いで、本堂、阿弥陀堂、庫裡等を再建しました。(「万覚書」より)

長楽寺の焼き打ち事件は、当時の状況から史実と思われます。

志方城の合戦と長楽寺の関係も今後研究課題です。

大正七年(1918)、子安地蔵は国宝に指定され本尊厨子に安置され、昭和二十五年(1950)の法の改正により、国の重要文化財に指定されました。

現在、昭和六十三年ご本尊を災害から守るため、地蔵堂を造り安置されています。

昨年、94日の土砂崩れで、地蔵堂は無事でした。

*『志方町誌』参照 *写真:長楽寺の春(長楽寺HPより)

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志方町を歩く(259):長楽寺(24)・十三重層塔残欠②

2012-03-25 07:50:30 |  ・加古川市西志方

「志方町を歩く(254)」で長楽寺の「十三重層塔残欠」を紹介しました。

今回の報告は、その続きとしてお読みください。「十三重層塔残欠②」としておきます。

  十三重層塔残欠②

少し、復習をします。

  長楽寺の十三重層塔の残欠は基礎と笠が残り、ともに花こう岩製です。

  復元されると、その総高は約570cmであり、十九尺塔として造られたものでしょう。

  鎌倉中期(1250年頃)の形式を示しています。

  長楽寺の東南に当たる志方町西中(写真下)の墓地に同式の笠が三個あり、もと一具のものと考えられています

  専門家は、この石塔は鎌倉時代初期のもので、県下における最古の層塔であると指摘しています。

塔はもともとに西中に存在したのか?

Shikata_1_016長楽寺と志方町の西中の墓地の「十三重層塔残欠」を見学した時、「両層塔とも元はてっきり長楽寺にあり、その一部が何らかの理由で、西中の墓地に移動したもの」と思い込んでいました。

そして、元の長楽寺の創建の年代をいろいろ想像してしまいました。

 その後、「志方郷(27号)」で、地元の郷土史家・上月昭信氏がこの塔について次のように紹介しておられることを知りました。

紹介しておきます。

塔の屋根部分が置かれている。西中墓地の入り口に、かつて「七尾山八王寺」という寺院が存在したといわれる。

現在も小字として「八王寺」があり、このことを物語る。

志方町誌には「伝承によれば天平年間行基菩薩の開基と伝え、本尊は釈迦牟尼仏で四天王を配置した相当の伽藍であり、焼失して廃寺となる」「西中毘沙門堂の本尊である毘沙門天王は七尾山八王寺のものである」と記している。

行基開基の伝承は別にして、鎌倉期に「七尾山八王寺」が存在した可能性は高く、志方町内に散在する十三重塔残欠は、もともとこの寺院に造立されていた塔の散らばったものといえる(「志方郷・27」より)

 上月氏は、長楽寺の層塔の残欠はもともと西中にあったものとされています。

そして、長楽寺と西中の残欠の外にこの層塔の一部(写真)が、最近観音寺(志方町)の境内で発見されたことも紹介されました。

 先日、観音寺の墓地へこの層塔の一部を撮影に出かけました。

 墓地の一番高くなっている北の所に残欠の一部はありました。

説明がありませんので、このブログの写真と同じ石造物を探してください。

それにしても、長楽寺の十三重の層塔の残欠は、西中にあったものでしょうか。

もし、長楽寺にあったとすれば、長楽寺の創建の一つの手掛かりにもなり、西大寺の真言律宗との関係が考えられます。

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志方町を歩く(258):長楽寺(23)・地蔵盆

2012-03-24 07:58:03 |  ・加古川市西志方

長楽寺の地蔵盆について『志方町誌』は、次のように書いています。

   長楽寺の地蔵盆

Photo志方で一番灘大な盆踊りは長楽寺の地蔵盆で、広い境内を参詣埋めつく、むせかえるような人いきれの中で、殆んど徹夜で踊りあかしたものである。

宵の日にから寺まで約一粁の道を、肯中にかつがれた太鼓が一時間もかかって寺まであがってくる。

境内を太鼓が練り廻ったあと、やっとのことで屋台の上にあがると、そこで音顕がはじまり、盆踊りの男女が屋台のぐるりを二重にも三重にもとりまいて踊るのである。

音頭の番組みが進んで、夜中をすぎる頃には漸く人影も少なくなって、秋のけはいの深くなった山の夜空に、声はいっそう澄んで哀調を帯びた。

今年の音頭も踊りも、もうこれでおしまいだという気持ちも手伝ってか、この単調な太鼓の音がひとびとの胸にしみた。

・・・・・

上記の、『志方町史』の文章は、歴史書の記述のようではありません。「文学的」です。地蔵盆の夜の風景が一幅の絵のように浮かんできます。

また、「志方郷(第8号)」で、礒野道子さんも地蔵盆について書いておられるので、その一部をお借りします。

地蔵盆の夜

太鼓の上には頭(かしら)が乗っている。右手(めて)は命綱を握り、弓手(ゆんで)に弓張提灯を持って大きく揺れる太鼓の上で青年は指揮をとる。

路傍に並ぶ見物人の注目を浴びながら、提灯を高く掲げた胸の線がたくましい。人々は太鼓の後について行く。

(長楽寺に着いて)三十段の石段を一気に駆け上がってきた太鼓は「よいやっせえ」の掛け声も勇ましく、右に左に倒しては高く差し上げて、音頭のためのやぐらを駆けまわる。

・・・・砂ぼこりが舞い、歓声が上がる。

    おや!

上記の文章を読みながら「おや・・・」と思うことがあります。

この太鼓の練り歩きは、「何を表しているのだろうか」ということです。

調べてみましたが、どこにも答らしきものがみつかりませんでした。

長楽寺さんへも問い合わせましたが、「わからない・・・」ということです。

この行事は、おそらく江戸時代の終わりの頃にはじまった行事でしょう。

そこには、「何か」があったはずです。

地蔵盆一般の話ではなく、長楽寺・長楽寺周辺の地域で、この行事を始めた「何か」の原因があったはずです。

その「何か」を知りたいものです。

*『志方町誌』・「志方郷(第8号)」参照

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志方町を歩く(257):長楽寺(22)・四国八十八ヶ所めぐり

2012-03-23 07:49:09 |  ・加古川市西志方

   四国八十八ヶ所めぐり

昔は、四国八十八ヶ所めぐりは、全部歩いての巡礼でした。

同行二人(お大師さんと一緒)と書いた笠に杖、白装束の姿になって四国八十八ヶ寺をめぐりました。

   長楽寺の八十八ヶ寺めぐり

Sarah_032長楽寺の寺域にも八十八ヶ寺を模した88の祠がありました。

それをめぐる小道もあります。

長楽寺のこれらの八十八ヶ寺の祠をめぐると、四国八十八ヵ寺を巡るのと同じ功徳があるとされ、近隣の人々は、お大師さんの命日である21日になるとお米一握り、お金を88個持って、お参りに出かけました。

一つの寺の地域はいえ、坂をあがったり下がったりして、お年寄りにはたいへんきつい「八十八ヶ寺めぐり」でした。

昔の人は、お大師さんに対する信仰心がずいぶん厚かったためでしょう。

毎月二十一日には沢山のお賽銭があがったといいます。

長楽寺にある八十八の祠は、明治43年(1910)に造られたものです。

今から100年ばかり昔のことです。

祠の屋根はすべて丸みを帯びたそりがあり、美しい形で石仏は一体一体が異なったお姿です。

四国八十八ヶ寺のそれぞれのお寺のご本尊ですから当然のことです。

その隣には、お大師さんが全部の祠に座っていらっしゃいます。

石仏の下の台には文字が刻まれています。

「四十七番 伊予八坂寺」その横には本尊(阿弥陀如来)の名が刻まれています。

「伊予八坂寺」には、寄進者の名があります。

どんな思いでの寄進だったのでしょう。

病気の回復を願ったのでしょうか。

それとも、親よりも先に亡くなった子どものためだったのでしょうか。

 ・・・・

*『志方郷・第34号』(永室長楽寺:四国八十八ヶ所巡り‐磯野道子)参照

なお、昨年の94日の長楽寺を襲った土砂崩れで、これら八十八の祠の内、39が流されてしまいました。



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志方町を歩く(256)・緊急報告・稲岡工業破産へ

2012-03-22 08:04:43 |  ・加古川市西志方

Shikata_1_00120日(火)の神戸新聞の朝刊は、志方町の稲岡工業の破産のニュースを大きく報じました。その影響か、かつてこのブログで書いた「稲岡商店(工業)」へのアクセスが増えています。

きょうは、神戸新聞の記事を転載させていただきました。

*「稲岡商店①・②」は、「ひろかずのブログ・志方町探訪・稲岡商店」で検索ください。

稲岡工業破産へ

<神戸新聞、20日(火)朝刊より>

民事再生法の適用を申請し、経営再建中だったタオルメーカーの稲岡工業(加古川市志方町横大路)が破産する見通しとなった。

輸入品でも少量しかなかった明治期にタオルを国産化し、業界で草分け的な存在として知られる同社。

在庫処分セールが19日から本杜工場で始まり、長年愛用してきた消費者や近隣住民かち惜しむ声が広がった。

    

明治24年(1891)操業開始

Shikata_1_008 同社によると、現在の加古川市域やその周辺は江戸時代から木綿の生産が盛んだったが、産業の近代化とともに木綿業は危機に直面した。

窮状を打破しようと、創業者の稲岡久平が木綿の加工品としてタオルに着目。

調査・研究を重ねて1891(明治24)年に生産を開始した。

海外輸出や、中国にも工場を展開し。戦後も最新鋭技術を讃堀的に導入。百貨店向けの高級品が好調だった1991年には売上高26億円を計上した。

だが、バブル崩壊後は、中国を中心とするアジア製品の安値攻勢と国内の消費不振で業績が悪化。

20082月に民事再生法の適応を申請して経営破綻した。

さらに、直後のリーマン・シヨックで事業環境は悪化。グローバル経済の荒波は、120年以上の歴史を刻んだ老鋪にも容赦せず、直近の売上高は1億5千万円にまで落ち込んでいた。残務整理に当たる社員の一人は「時代の変化に対応できなかったことに尽きる」と唇をかんだ。

同社は23日まで在庫処分セールを行う。

タオルやバスローブ、マフラーなどを市価の59割引で販売する。

本社工場近くに住む女性(71)は「商品はしっかりして、使いやすかった。地元の女性の働き口だったのに」と残念がり、タオルを段ボールごと購入した。

高砂市の女性は「知人に元従業員がいるだけに、会社がなくなるのはさみしい」と声を落とした。

<蛇足>

私の父も稲岡工業に勤めていました。そしてフィリピンへ出征し、戦死しました。それだけに、稲岡工業の破産は、いっそうひとつの時代の終わりを感じます。

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