ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(318):堂前の地蔵さん(広尾)

2012-06-30 08:02:50 |  ・加古川市東志方

いま広尾付近を散策していますので、この記事は三度目の紹介になりますが、掲載しておきます。

堂前の地蔵さん(東志方広尾東:旧柏尾)

Shikata_045この六地蔵さん(写真)は、志方町広尾東のバス停のそばのお堂の前にあります。

六地蔵さんは、ふつう墓地の入り口に並んでいるのですが、ここは墓地ではありません。

もともとは、墓地にあったものがここに移動したのかもしれません。

ここの六地蔵さん、石棺の蓋に三体ずつ上下二段に分けて、舟形光背の中に浮き彫りされています。

室町時代の作と推定される古いものです。

不思議なことがあります。よくご覧になってください。

六地蔵さんの左下にもう一体、小さな像があります。

この一体は、何をあらわしているのでしょうか。

供養される人物の像とも推測できるのですが、説明板(加古川市教育委員会)は、願主の像としています。

他の例から私も願主の像と思います。

そして、写真右横に小さな、享保二年(1,717)と「念仏講」と刻んだ石柱があります。

この「念仏講」と彫られた石柱が作られた頃は、きっと地蔵さんをお守りする念仏講がさかんだったのでしょう。

風のざわめきの中に念仏講の響きが聞こえてきそうです。

*「連載・郷土の石彫⑨」(神戸新聞・昭和56219日)参照

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志方町を歩く(317):広尾種子(梵字)石棺仏

2012-06-29 11:18:46 |  ・加古川市東志方

今日の話題・「広尾の種子石棺仏」は、「志方郷(27)」で藤原良夫氏が報告された研究を参照させていただきました。

    

  広尾種子石棺仏

026 志方町広尾の広尾西共同墓地は、きれいに区画整理されました。

墓地の中央部分に石造遺品(写真上)があります。

この石造物は、高さ193センチ、(埋設部の掘り出しからの高さ232センチ)、上側の幅62センチ、下側の幅76.5センチ、厚さ14.521センチです。

これは、古墳時代の石棺(石の枢)に種子(梵字)を彫った石棺仏です。

凝灰岩製の組み合わせ式石棺の底石を再利用したものです。

石棺底石材の右側部分を縦に割り、上部の左右を円弧状に加工し、板碑(いたび)のように造られています。

石棺仏の最上部中央にオン、一段下がってキリーク、その下右側にサ、左側にサクの各種子をヤゲン彫りしています。(写真下)

  

   志方町内最古の在銘石造仏

57b03004左側に銘文があり、現在は鎌倉時代後期の紀年名「正和三年(1314)と敬白」のみが解読できています。

種子(梵字)のオンは「心から仏の教えに従う」ことを意味し、キリークは「阿弥陀仏」、サは「観世音菩薩」、サクは「勢至菩薩」となり、キリーク・サ・サクの三種子で阿弥陀三尊を表しています。

広尾の円照寺・上月住職は「二十数年前まで、この石棺仏の前で土葬前の棺桶を置き読経をしていた」と語っておられます。

円照寺の前身は、真言宗正念寺と伝えています。

通称吉広山の北東山麓(円照寺の南約450メートル)に所在し、嘉吉元年(1449)の戦火で焼失と伝えられており、この石棺仏は正念寺と関係があるのではないかと想像されていますが、確かなことは分かっていません。

*「正念寺」については「志方町を歩く(314)・まぼろしの正念寺」をご覧ください。

この石造物は志方町で、在銘石造遺品としては、町内で最古のものです。

<志方町内の古い在銘石造遺品ベスト3>

  広尾・墓地  種子石棺仏   正和三年(1314)

  高畑・円福寺 宝篋印塔    康暦元年(1379)

  原・仏性寺  笠塔婆     永徳四年(1384)

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志方町を歩く(316):円照寺⑨・円照寺跡

2012-06-27 08:40:01 |  ・加古川市東志方

003   円照寺跡

「志方町を歩く(313)」で、円照寺を次のように紹介しました。

・・・月輪山円照寺は、花の寺で知られた浄土真宗本願寺派(広尾西)の寺です。

アジサイが今を盛りと咲いています。

7月の上旬になると、寺をもっとも華やかに彩るノウゼンカズラが咲さきます。

円照寺は、平成五年(1993)に、この地に移転新築されました。

もとは、この地の北方50㍍の丘陵地にある古色蒼然とした寺院でした。

山門前にある数十株の雪柳は、春、葉とともに雪白の小花がみだれ咲く様がみごとでした。

   歩いてみること 

 先日、円照寺跡へ出かけました。

 そこは、空間が広がり、寺の一部の施設や、鐘楼跡も残っていました。

004 「山門前にある雪柳」の紹介は、既に紹介されている文章の一部をお借りしましたため、実感がありませんでした。

 でも、そこに立つと、春の雪柳が見事に咲き乱れている風景が、そして、秋に咲く真っ赤なヒガンバナが想像できます。

 その時に、再度ここへきてみます。

   歴史を確かめる

 旧寺跡の前の道を登ると吉広村(現:広尾西)の庄屋さんの家の前へでます

 庄屋(堀内家)さんは、旧円照寺の隣で、両者の関係の深さが想像できます。

 また、庄屋宅の横()の道は、伊能忠敬の測量隊が通った加西道です。

 測量隊は、庄屋宅で昼食を取っています。

 その日、円照寺も接待の準備のため大忙しだったことでしょう。

伊能隊の方々は、食後ぶらりと旧円照寺を散策されたかもしれません。

 歩いてみると、そんな記録にないことを想像してしまいます。

 旧円照寺跡は、新しくなった円照寺の跡地のためか廃墟の感じはありません。

 住職が、「新しい円照寺で弱った植物をしばらくここに移すと、たちまちに元気がもどります」と言われた言葉が印象的でした。

 ここは、パワーポイントがみなぎる場所かもしれませんよ。

 ただ、不思議な地形の場所なんです。 

 以下全くの素人の想像です。

このあたりを東西に続く坂は、断層のようにも見えるのです。

 近くを、断層が通っていることが確認されているので、そんなことをつい想像してしまいます。

 もし、この文章をお読みの地質の専門家がおられましたらご意見をお願いします。

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志方町を歩く(315):円照寺(8)・原兵庫頭

2012-06-26 07:44:50 |  ・加古川市東志方

020広尾と言いながらほとんど小畑西(平荘町)に近い、広尾字二塚に、「原兵庫頭(はらひょうごのかみ)」の塚があります。

古老によれば、「塚の位置は、昔と変わらないが、もっと広く、頂上は平らで小さな丘であった」といいます。

現在は、東西5m、南北4m、高さ1mの方形区画として残っています。

塚の頂上に「原兵庫頭」の墓標(写真)があります。

表面に、「原兵庫頭之墓」、裏面に「吉廣村 家系一族建立」と記され、側面には「天正六戌寅歳」、「七月二十日卒」とあります。

「原兵庫頭は、天正六年(1578)七月二十日に亡くなり、吉廣村(現在の広尾西)の一族がこの墓標を立てた」ということです。

原兵庫頭は、どのような人物だったのでしょう。

亡くなった天正六年(1578)に注目してください。

   兵庫頭、三木合戦に死す

天正六年の志方地方の状況をみておきます。

この頃、播磨地方は、毛利に味方した三木の別所氏と信長秀吉軍が激突した戦場と化しました。

 加古川地方の城主は、ほとんど毛利に味方した三木方につき、信長・秀吉と戦いました。

まず、野口の城(加古川市野口町)が落城し、ついで、神吉城が7月に信長方の大軍におしつぶされました。

その後、信長軍は志方城へ攻め寄せました。

志方城には1.000余騎が立て籠もり、勇敢に戦い、小城にもかかわらず20日も抵抗したと言う説がありますが、この時(天正6年・8月)の戦いの詳細は分かりません。

志方城に先立つ神吉城の戦いでは、神吉方2.000の軍勢は、織田方の30.000の軍勢に押しつぶされ、そして城主(神吉頼定)も討たれました。

この時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はありませんでした。

志方城の戦いでも援軍はなかったようです。

天正六年八月、ついに志方城は落城しました。

「原兵庫頭」は、三木合戦で信長の軍勢と激しく戦い亡くなった人物のようです。

   原兵庫頭は円照寺の中興に関わる人物

また、寺記に「原兵庫頭は、嘉吉の乱で焼失した寺の再興を志し、現寺院の西に庵を建て、この時浄土真宗の寺とし、また、織田信長との戦いに参加し、一族郎党ことごとく浄土真宗を死守のために殉じた」とあります。

兵庫頭についての詳細は不明です。

現在も、広尾西に原姓があり、兵庫頭はその祖先であろうと考えられます。

この墓碑の敷地は、圃場整備後も保存され、加古川市教育委員会によって案内板が立てられています。

*「志方郷(第20号)」の「原兵庫頭」(上月輝子)参照

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志方町を歩く(314):円照寺(7)・まぼろしの正念寺

2012-06-25 08:58:17 |  ・加古川市東志方

9142ad7a「志方郷(29)」の「まぼろしの正念寺」を読んで、さっそく碑(写真)の撮影に出かけました。

石碑のありそうなところは、草むらを越えなければ行けません。

突然足元で、「ごそ・・」と動きました。蛇です。

いっぺんに草村へ突入する気持ちが萎えてしまいました。

本文の写真は「志方郷」のもの(上月正信氏撮影)をお借りしました。

蛇が消える冬にでも、再度撮影に出かけます。

   

まぼろしの正念寺

現在の志方町には17ヶ寺がありますが、かつては29ヵ寺以上の寺院があったといわれています。

現在、小字等にその名を残すものもありますが、寺名や所在地が不明になったものがほとんどです。

旧吉広村(現:広尾西)には「正念寺」という寺院があり、「正念寺は、真言宗の寺院で、嘉吉元年(1480)の戦禍で消失した」という伝承がありました。

広尾西集落南の山麓に「正念寺」という小字が残り、また溜池も「正念寺池」(写真下)と呼ばれており、地元では古くから、正念寺池が正念寺跡であると伝承されてきました。

しかし、寺院に関連する建物跡や、瓦などの出土もなく、その実体は不明のままでした。

が、広尾西在住の山本賢一氏が、近くの山中字「大谷」から板碑(石製碑・写真上)を発見されました。

その板碑の銘文は「正念寺」に関すものであることがわかりました。

板碑に書かれた内容

001碑文は、次のような内容でした。

・この寺院(正念寺)の僧の生まれは、紀州国(現和歌山県)那賀郡野上庄亀井村

・僧の名前は勢伝

・位は権大僧都法印

・塔頭(たっちゅう)の名前は利益院(りやくいん)

(勢伝が)亡くなったのは延宝二年(1674)九月九日。

碑文の語ること

碑文に刻まれた内容は、地元の伝承にある真言宗の寺院、正念寺の僧(伝勢)に関する供養の文のようです。

碑文にある「紀州野上庄」は真言宗の本山、高野山金剛峯寺と関係の深い地域で、そこから真言宗の僧が吉広村に布教に来ていたと思われます。

「権大僧都」「利益院」などの呼び名は、真言宗の僧および寺院に関係深いものです。

したがって、遅くとも延宝二年(1674)までに真言宗「正念寺」が存在していたことが想像されます。

しかし、島原の乱以降、幕府による檀家制度が強化されるなかで次第に衰退し、やがて、正念寺は廃寺となり、その跡地は溜池となり、今日にいたったのでしょう。

正念寺(真言宗)が衰え、そして円照寺(浄土真宗)に代わった理由の裏にある原因をもっと知りたいものです。

*「志方郷(第29号)」:「まぼろしの正念寺(上月昭信)」参照

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志方町を歩く(313):円照寺(6)・竜の欄間

2012-06-24 06:13:46 |  ・加古川市東志方

  円照寺の欄間

029 月輪山円照寺は、浄土真宗本願寺派の寺です。

広尾西(東志方)の花の寺で知られたお寺です。

アジサイが今を盛りと咲いています。

7月の上旬になると、寺をもっとも華やかに彩るノウゼンカズラが咲さきます。

今、咲き始めています。

円照寺は、平成五年(1993)に、この地に移転新築されました。

もとは、この地の北方50㍍の丘陵地にある古色蒼然とした寺院でした。

山門前にある数十株の雪柳は、春、葉とともに雪白の小花がみだれ咲く様がみごとでした。

  欄間(竜の透彫)は、文政二年(1819)の制作

031花を観賞された後、本堂へお参りください。本尊は阿弥陀如来(立像)です。

 内陣と外陣をわける梁上に設置された欄間の竜の透彫(写真)の見事さに驚かれると思います。

 柱から竜が盛り上がって取り巻き、圧倒的な迫力で迫ってきます。

 京都・奈良の大寺院ならあまり驚かないかもしれませんが、ここは広尾西という鄙の里にある寺院です。

平成10年に内陣の修復が行われました。

欄間も旧伽藍より移されました。

その時に旧本堂から欄間の彫師、彩色師を示す木簡が発見され、制作年月も判明しました。

この欄間は、江戸時代も終わりに近い文政二年(1819)に作成されています。

なお、この木簡の写真が本堂を入られたすぐ右手にありますのでご覧ください。

 *「志方郷(第36号)」で松本光明さんが執筆された「円照寺の欄間」参照。

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志方町を歩く(312):円照寺(5)・朝鮮通信使饗応記録

2012-06-23 00:29:44 |  ・加古川市東志方

東志方広尾の円照寺に「朝鮮通信使饗応記録(享保4年・1719)」が残されています。

この古文書については、上月昭信氏が「志方郷(50)」で「円照寺に残る朝鮮通信使饗応記録」として執筆されています。

詳しくは、それをご覧ください。今日の報告は上月氏の研究をお借りしています。

*写真は、「朝鮮通信使饗応記録(部分)」

   

円照寺に残る「朝鮮通信使饗応記録」

008江戸時代将軍が代わるごとに、朝鮮からは通信使とよばれる使節が江戸を訪れるようになりました。この使節を「朝鮮通信使」といいます。

この朝鮮通信使は、江戸時代を通じて合計12回派遣されました。

この円照寺の「朝鮮通信使饗応記録」は幅14.8㎝、長さ293㎝の和紙に書かれ巻ものとして保管されています。

はじめに「献立」とあり、前半は来日した高官に供された料理の内容が書かれています。

また、後半は、通信使一行の官職、人数、姓名が書かれています。

この文書は、享保4(1719)、第8代将軍吉宗の時に来日した朝鮮通信使(第九次通信使)の際の記録であり、一行475人のうち、朝鮮側の高官6人をもてなした「料理と一行の編成」を書き写したものです。

料理の内容は、食材、器にいたるまで細かく書かれており、食材は播磨地方で用意できる高級なものが多く使われています。

朝鮮通信使は、朝鮮を出発すると対馬を経て各地に寄港しながら大坂・江戸をめざした。

幕府は領内を通過する各藩に対し、通信使一行の警備と接待の内容について細かい指示と連絡をしています。

このため、各藩ではその準備に藩を上げて取りかかりました。財政的な負担も大変でした。

一行は、岡山県の牛窓から室津へ寄港し、そして兵庫に向かいました。

室津での接待を担当するのは姫路藩でした。

藩は、宿舎や食事の準備のため等の財政負担は商人・百姓に割り当てました。

  

吉広村庄屋・堀内氏から円照寺に譲られた記録か!

郷土史家の上月昭信氏は、「この記録は堀内家の家系図と一緒に発見されたことから、堀内家から円照寺に譲られたものと思われ、当時、広尾は吉広村と呼ばれ姫路藩領ではなかったが、吉広村の庄屋であった堀内蘇斎は、姫路藩の接待記録や来訪した人名を書き写し、後日のために備えたものと思われる」と推理されています。

経済的な負担の事もあり、朝鮮通信使の来訪は、室津と遠く離れた広尾村でも、大きな関心事でした。

なお、円照寺に残る通信使一行の名前について、上月氏は韓国での調査で正確に一致しており、誤字脱字が多い幕府の記録よりも正確な内容となっていることを確認されています。

また、享保4年の原本となる姫路藩の記録が未発見であるだけに貴重なものとなっています。

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志方町を歩く(311):円照寺(4)・庄屋寄進の鐘

2012-06-22 08:02:29 |  ・加古川市東志方

   

   吉広庄屋(堀内宅)にて昼食

027  伊能忠敬測量隊にいて、前号の復習をしておきます。

伊能忠敬測量隊は、文化11年(181434日、姫路城下を出発、その後二手に分かれ、その日の測量を済ませ、夜は合流して、坂本村(加西市)庄屋宅などに宿泊しています。

5日も二隊に分かれ、一隊の忠敬を含む5人のメンバーは、坂本から法華山線に沿って三口に出て、県道43号高砂北条線を南下しながら志方町内に入りました。

一行は細工所から岡、中才、吉広、柏尾、そして平荘町の一本松に向かって測量をしました。

このルートは、加西道です。加西道については「志方を歩く(309310)」をご覧ください。

日記によると35日の昼食は吉広村(現広尾西)庄屋・(堀内)清之丞宅でとっています。

庄屋・清之丞は医者でもあり「堀内京庵」と名のっていました。

35日は旧暦であり、今の2月です。

その日は晴れていたようですが、凍えるような風の中での測量であったと想像されます。

吉広村(現:広尾西)の村人は、暖かい味噌汁で待をしたと想像してみます。

こんな、どうでもよいことに興味を持つのですが、記録がないのでわかりません。

    庄屋・堀内信秀寄進の鐘

天明五年(1785)、庄屋・清之丞の父と思われる堀内信秀より円照寺に寄進された鐘(写真)が同寺の本堂の軒にあります。

堀内家は、当時円照寺の檀家総代のような役割の人物のようです。

堀内家は、明治時代の初めまで吉広村に住んでいたことが知られていますが、その後転居されています。

堀内家の邸宅跡・墓地は、現在も広尾西地区に残っています。

なお・堀内家に保存されていた古記録の一部が現在円照寺に保存されています。

次号で、その一部を紹介しましょう。

*「伊能忠敬・測量隊が歩いた道(上月昭信)」(志方郷48号)参照

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志方町を歩く(310):忠敬測量隊、加西道を行く!

2012-06-21 08:42:02 |  ・加古川市東志方

伊能忠敬測量隊、加西道をゆく!

前号で加西道を紹介しました。「志方を歩く180」を少し書きなおし、再度掲載します。

加西道は、伊能忠敬測量隊が調査した道としても歴史に登場します。

文化八年(181135日(旧暦)、伊能忠敬の測量隊(別働隊)が細工所を測量しました。

もちろん、正確な日本地図の作成のためです。

まず、伊能忠敬の測量図で加西の坂本をお探しください。

測量隊は法華山のある坂本から二手に分かれ一隊は社から立杭方面の測量をしています。

そして、別働隊が三口から南下して、志方細工所方面の調査をしています。

この日は、晴天であったようです。

  伊能忠敬測量隊(別働隊)

        昼食は吉広(現:広尾西)の庄屋宅で

D8a9f6fcその測量の様子を『加古川市史(二巻)』に見てみます。

「・・・伊能の測量は、主な街道の距離の測量をするかのように見えるが、正確な地図を作成するには実はそれよりも大切なのは、主な山・島で方位を測量すること、夜間に宿泊で行う天測によってその地点の緯度を算定することにあった。

・・・・・

(測量隊一行は)文化八年(1811)には法華山一乗寺のある坂本村の庄屋宅・百姓家に宿泊し、別働隊は三口から高砂道を南下して、大沢・細工所・同村安楽寺門前を通り、岡村字田中・下条・中才を通り、吉広・柏尾(以上志方町)・一本松新・小畑・西山・山角(以上加古川市平荘町)・小野・薬栗・見土呂を通り、滝野川(加古川のこと)を渡って国包(以上加古川市上荘町)にいたる。・・・」

また、日記によると春なお遠い35(旧暦、現2)、伊能忠敬の測量隊一行は安楽寺(細工所)門前から加西道へ入り、その日の昼食は吉広村(現:広尾西)の庄屋宅でとっています。

測量隊のたどった細工所から平荘の芝村(現:養老村)の河岸(かし・川の港)までの加西道は前号の地図をご覧ください。

芝村の河岸を起点としたこの道は、細工所で北条街道とつながる4.1㎞の道でした。

加西郡と印南郡の一ツ橋領(大沢・細工所・野尻・岡・吉広・柏尾・高畑・大宗・行常)の各村から年貢を納めるための道でした。

*図:伊能忠敬の地図(播磨部分)・・・赤い線が伊能測量隊の測量した行程

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志方町を歩く(309):加西道

2012-06-20 00:07:46 |  ・加古川市東志方

いま、東志方広尾の円照寺を訪ねています。

昨日(19日)は、めずらしい6月の台風で、予定していた円照寺の取材ができませんでした。

急きょ、広尾を中心にした地域の話題を取り上げます。

   加西道

C9c38c6c『志方町誌』は加西道を次のように説明しています。

平荘の養老を起点とし、紬工所北条街道に至る延長一里三町一間三尺。

細工所から岡、中才、吉広、柏尾を経て一本松に出て有馬道に達する道として古い道である。

一つ橋領の各村から年貢を納めるにはこの道を邇って芝の渡にでたもので、加西郡と加古郡とを結ぶ道でもあった。

 *注:明治92月、吉村と柏村が合併し、村名を両方の村の一字づつをもって広尾村としました。

*加西道は赤く塗った村々を通った道です。(村名は小さくてみにくいので拡大してご覧ください。図はクリックすると拡大します)

東志方の生活圏

いまの、志方町は志方町・西志方・東志方は一つの政治・経済圏をつくり、まとまりのある地域となっていますが、江戸時代は、今の西志方・志方が一つの政治・経済圏であり、東志方は、細工所を中心にした、他の一つの政治・経済圏をつくっていたと考えてよいようです。

江戸時代は原則として、物資は水を動き、人は陸を動きました。

東志方の生活物資は加西道を通り、加古川の養老()の河岸(かし・川の港)に集まりました。

東志方の物資は養老()の河岸に運ばれたのです。

そして、高砂へ運ばれた物資は大坂・江戸など全国へと運ばれました。

もちろん、全国から高砂に集まった生活物資の一部は養老()に集まり、東志方の村々へと運ばれました。

ということは、東志方の人々の経済圏は、今の志方・西志方との結びつきではなく、目は岡・広尾、そして加古川の河岸に延びる地域に広がっていました。

ましてや、東志方の多くの村々は西志方・志方町が姫路藩に属していたのに対し、江戸時代の後半は一ツ橋藩の天領でした。

その上に、大藤山から延びた山塊が志方八幡神社のある宮山へと繋がり、途中谷をつくるものの再び高畑へと続き、東志方と西志方・志方との間に山塊が塀のように立ちはだかっています。

 「志方はひとつ」といいたいのですが、もともと志方は二つの経済圏・生活圏から成たち、東志方の目は、加古川に向かう東向き地域と考えてよいようです。

 細工所から養老(芝)の河岸は加西道で結ばれていました。

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志方町を歩く(308):円照寺(3)・梵鐘

2012-06-19 07:57:59 |  ・加古川市東志方

 Ed0957b7円照寺には銘のある梵鐘では加古川市内で最も古い、明応七年(1498)の梵鐘があります。

 志方町内の梵鐘のほとんどが大戦中に供出されたのですが、この梵鐘は古鐘のために供出をまぬがれました。

 今、円照寺はアジサイがいっぱいですが、本堂の裏の梵鐘です。

 説明板(加古川市教育委員会)には、次の説明がありますので読んでおきます。

   銅 鐘

この銅鐘は、もと山口県徳山市の上野八幡宮のものであったが、豊臣秀吉が島津との戦いに陣鐘として用い帰京の際、宮谷附近に捨てたものを志方八八幡神社に納めたが、鳴りが悪かったため円照寺に納めたという。

銅鐘は小振りであるが全体に優美な形状をしており、特に鍾を突く位置にある撞座の模様は美しい。

加古川市内では、尾上神社及び鶴林寺にある重要文化財の朝鮮鐘に次ぐ明応七年(1498)の年号をもち、室町時代の鋳造技術高さを伝える優品である。

平成四年七月

加古川市教育委員会

*市指定文化財(平成3101日指定)

   梵鐘の銘文

 なお、『志方町誌』に、この鐘の銘文が紹介しています。

 史料として掲載しておきます。

  周防国富田保

  上野八幡宮

明応七年午戌四月廿三日巳

大願主 朝日道重

    延次采女充生年六十一歳

勧進阿闍梨宥椿

  大工大和相秀

諸行無常

是生滅法

生滅々巳

寂滅為楽

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志方町を歩く(307):円照寺(2)・花の寺(2)

2012-06-18 07:48:55 |  ・加古川市東志方

  花の寺

022円照寺は「花の寺」です。

お寺でいただいたパンフレットには、四季をいろどる花々が、次のように紹介されています。

花の時期にはぜひお訪ねください。みごとです。

  春

ミモザ           3月~4

ツバキ、クリスマスローズ  3月~4

ユキヤナギ         3月下旬

ライラック         4月下旬

シヤクナゲ、ボタン     5

バラ            5月下旬

 夏

アジサイ          6月~7

ノウゼンカズラ       7月~8

 秋

スイフヨウ、ハギ、リコリス 9月~10

ツワブキ          11

これら以外に、ロウバイ、シャクヤク、オオデマリ、コデマリ、ジャスミン、ヘメロカリス、キキョウ、カサブラシカ、タカサゴユリ、シュウメイギクなどが順次咲きます。

    「わが町加古川60選」に

 志方探訪をしていますが、この地域は、比較的立ち寄る回数が少ない地域でした。

でも、志方町へ来た帰りには、円照寺だけはよく立ち寄りました。

もちろん花を見るためです。

人は、それぞれ好きな花がありますが、私は断然ノウゼンカズラです。

あの燃え立つような色と広がりのある姿は、美しさと同時に命のようなものを感じます。

去年は、8月の終わりの頃にこの寺に寄ったものですから、ノウゼンカズラの盛りがすこし過ぎていました。

写真は、その時撮ったものです。

今年は、一番勢いのある時にこの花を撮影に出かけます。

円照寺は「花の寺」として、2010年に「わがまち加古川60選」に選ばれました。

そして、年数回コンサートが開かれます。夕暮れの音楽も楽しみです。

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志方町を歩く(306):円照寺(1)花の寺(1)

2012-06-17 07:32:24 |  ・加古川市東志方

 東志方の広尾あたりを散策してみます。

 このブログ「志方町を歩く」も300回を超えたのですが、これまで、このあたりをあまり散策していません。

理由は「知らなかった」だけです。

そのため、わずかに知っている円照寺あたりから散策をはじめます。

今日は、少しだけ円照寺を紹介しておきましょう。

   

   花の寺(1)

 円照寺は、別名「花の寺」と呼ばれ、四季折々の花が楽しめます。

004 今はアジサイの季節です。本堂の裏あたりのアジサイは見事です。

色づき始めました。昨日(16日)訪ねたのですが、少しだけ早かったようです。

まもなく、寺は赤や青いアジサイで埋まります。

 お出かけください。

 今日の紹介はこれだけにして、以下円照寺と関係がない蛇足(拙文)を書いておきます。5年も前に、あるところで書いた文章です。

   

   アジサイの科学

 今日も梅雨の雨である。こんな日にはアジサイの花がよく似合う。私の町(加古川市尾上町今福)の人口は結構多いのだが、田舎の風景も残っている。

今の時期、アジサイの花が、たくさん咲いている。

 アジサイに関して長年、「酸性土壌に咲くアジサイは青く、アルカリ土壌に咲くアジサイは赤くなる」と言う科学?を信じていた。

 002「数十センチ離れて酸性の土壌とアルカリ性の土壌が分かれているのか」と、少しの疑いを感じながら妙に自分を納得させていた。

この科学?とは少なくとも20才の頃からの付き合いで、かれこれ50年以上になる。

科学者であるなら、リトマス試験紙で確かめたであろう。

 園芸家の柳生真吾さんが、このことに関して、「赤いアジサイの株から青いアジサイの花は咲かない」と、ある本に書いておられた。

つまり、強い酸性土壌で咲く青いアジサイの花はより青く、強いアルカリ性土壌で育つ赤いアジサイの花はより赤くなると言うのが真実であると言う。

これを読んだ時、40年来のもやもやが、すっきり解決した。以後アジサイが、よりすがすがしく見えるのが不思議である。(以下略)

アジサイを見ると、いつもこのトレビア(どうでもよい知識)が浮かびます。

*写真:円照寺のアジサイ(616日撮影)

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志方町を歩く(305):ツバメが飛ばない!

2012-06-16 08:21:18 |  ・加古川市西志方

大池の土手を歩きながら、次の文を思い出しています。

   ある寓話

001とある村があった。

そこでは、命あるものはみな、周囲のものと仲良く暮らしていた。

村のまわりには豊かな農場や穀物畑が整然と並び、丘の斜薗の果樹園では、春になると、白い花が緑の野に雪のように浮かんで見えた。

秋には、カエデがみごとに紅葉し、マツの緑を背景に燃えたつようだった。

山に狐の鋭い吠え声が響き、朝霧にまぎれて鹿が忍び足で野原を横切った。

道を歩けば、ハンノキ、そして大きなシダ類や、色とりどりの野花が四季折々に咲き乱れ、人々の目を楽しませた。

冬でさえも路傍の景色は美しく、無数の鳥たちが、雪の上に顔をだしたさまざまな実や、枯れた野草の種子をついばんでいた。

じつのところ、この地方は多種多様な鳥が豊富なことでよく知られ、春と秋、渡り鳥が大挙してやってくる季節には、遠くから見物の人々が集まった。

山から流れてくる小川の水は冷たく澄み、ところどころに濃い影を落とす淵には魚が棲みついていたので、釣り人もたくさん訪れた。

ずっと昔、人間がはじめてここに家を築き、井戸を掘り、納屋を建てて以来、町は変わることなく美しかった。

ところが、暗雲が町に忍び寄り、すべてが変わりはじめていた。

・・・・

以前なら、春の朝はコマドリやネコマネドリや、ハトやカラスやミソサザエの騒がしいコーラスで明けるはずなのに、今はなんの声も聞こえない・・・(みんないなくなった)

ツバメが飛んでいません

叱られそうです。文章の書きかえをしています。

もとの文書は、『沈黙の春(レイチェル・カーソン)』の冒頭の部分です。

これはアメリカのある町の環境(農薬)汚染を告発しています。

アメリカであることを伏せた文にしました。植物・魚の名前も書き換えました。

原の大池の土手にいて田植えの風景を見ています。「ツバメ」がほとんど飛んでいません。昔と比べると少なすぎます。

そんな風景を見ながら、『沈黙の春』の一節を思い出しています。

いまツバメが少ないのは志方町に限った風景ではありません。

レイチェル・カーソンが訴えたように生活環境は現在進行形で激変しているようです。

*写真:大池からの風景

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志方町を歩く(304):水利権

2012-06-15 06:29:07 |  ・加古川市西志方

大池(志方町)の水争い

志方町には130あまりの池があります。

それぞれ歴史的な背景は異なりますが、多くの池は旱魃や洪水の時になんらかの争いを経験しました。

きょうは、大池(志方町原)の水争いをみます。

大池は、姫路へぬける「湯山街道」沿いにあり、東から行くと山中の入り口にある大きな池です。前号で紹介した池です。

  水 利 権

016明治1011月、「大池」の水をめぐって、大池から水を得ている成井村・西牧村・横大路村・原村・永室村が山中新村(志方町山中)を姫路支庁管内飾磨裁判所に訴えました。

大池の水は、上流(大池の1kmほど姫路より)の中山新村の小さな焼山池に流れ込み、そこから大池に流れています。

天明三年(1783)には、双方が証文を取り交わし和解していました。

約束が守られなかったのでよう。弘化年間(184448)に、改めて証文を取り交わしています。

その条項(内容)とは「大池が満水の上は、焼山池へ水譲りもうすべし・・・」というものでした。この条項をめぐって争い、裁判に持ち込まれたのです。

結果は「山中新村の焼山池は、下流の大池が満水でない時は、水を取り入れることはできない」ということになりました。

このように、江戸時代から続く水利慣行(水利権)は、明治時代はもちろん、現代まで守られています。

*写真:原の大池

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