ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

地域(加印)の風を読む(25) 余話として(1)、北朝年号(康歴元年)

2017-02-28 08:45:52 | 地域の風を読む

 中道子山城の歴史を書いてみましたが、2・3余話を続けておきます。

    余話として(1):東播磨地域は北朝方(南北朝時代)

 赤松一族の歴史の解明が遅れている(はっきりしていない)理由の一つの理由を述べておきましょう。

 東志方町高畑に円福寺というお寺があります。

 本堂に向かって右隅に、県指定文化財の宝筐印塔(ほうきょういんとう・写真)があり、宝筐印塔には康歴元年の銘が刻まれています。

      北朝年号(康歴元年)

 「康歴元年(1379)」は、南北朝時代の北朝年号で、南朝年号では天授五年です。

 赤松四代当主・義則(満祐の父)が赤松家所領の五穀豊饒を願い、また「一結衆」とあるところから赤松一族の安寧祈願、さらに赤松一族の供養塔として造立したものと思われます。

 この宝筐印塔の「北朝年号」からもわかるように、赤松本家は、曲折はあったものの足利尊氏(北朝方)として活躍し、後醍醐天皇(南朝方)に敵対し、時代を乗り切ります。

      南朝正閏論(なんちょうせいじゅんろん)

 江戸時代までは、北朝側であろうが、南朝側であろうがまったく問題とならなかったのです。

が、明治時代となり天皇制度が声高に叫ばれ、やがて「南朝正閏論(せいじゅんろん)」が正しいとされました。 (*南朝正閏論:南朝を正統とする考え方)

 そして、日本が戦争に突き進んでゆくにつれ、北朝を支持した赤松氏は逆賊とされたのです。

 南朝正閏論のため、赤松一族は歴史の上、全く評価されなくなりました。

 明治時代~戦前にかけて北朝支持を色濃く残す円福寺(志方地域)の立場は微妙な立場になりました。

 そのため、赤松一族の研究も大幅に遅れてしまっています。赤松関係の史料もずいぶん失われたことと想像します。

 加古川市教育委員会の宝筐印塔の説明には「・・・基礎正面に康暦元年の銘がり南北時代の遺品であることがわかる・・・」とありますが、北朝年号であるとの説明がありません。

 少し、もどかしい気持ちが残ります。(no3494

 *写真:円福寺の本堂に向かって右隅の北朝年号を刻む宝筐印塔

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地域(加印)の風を読む(24) さらなる中道子山城の歴史研究を

2017-02-27 07:17:25 | 地域の風を読む

 

    さらなる中道子山城の歴史研究を

 地元の郷土史研究家の上月昭信氏は、江戸時代後期に描かれた「播州三木城地図」にある説明「志方の城、本城より三里半、中道子山という」記述に注目され、本城である「志方城」の落城後は『別所記』にあるように、15787月とし、「志方の城=中道子山城」は、1555年の落城後、櫛橋氏によって使用され、1580年に火をかけられて落城したと推測されています。

 「ひろかずのブログ」では、中道子山城の築城者を孝橋としました。

 また、上月氏は著書『広尾と円照寺の歴史』で、孝橋氏がどこの領主であったのか、櫛橋氏との関係はどうであったのか不明な点が多い」と述べておられます。

    おわりに

 中道子山城について、少しあいまいなまとめになったことをお詫びします。

 分からないのですから、しかたがありません。今後の研究者の本格的な研究に期待します。

 さて、「中道子山城の歴史がはっきりとしない」から歴史的価値はないとは言えません。

 今後の研究で、どんな日本史(中世)の不思議・驚きが(歴史的価値)が飛び出すかしれません。

 いま、市民に知らされることなく無線塔が建設・歴史てな景観が壊されようとしています。

 今からでもいいですから、計画の詳細を市民に知らせてください。市民の声を聞いてください。(no3493

 *写真:中道子山城跡から播磨灘を望む

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地域(加印)の風を読む(23) やはり、中道子山城の築城は孝橋氏か

2017-02-26 10:18:04 | 地域の風を読む

  『加古川市史』は、

    孝橋説(中道子山城の築城者)を切り捨てるが

 『加古川市史(第一巻)』は、中世史を専門とする学者は「・・・中道山城の方は不確実で、赤松氏則あるいは孝橋新五郎(繁広)が城主だったとするが、いずれも伝承にすぎない・・・」とバッサリ切り捨てています。

 ただ一つはっきりしていることは、当時の情勢から判断して赤松につながる城であることは確かです。

 一方『志方町史』は「・・・日本城郭全集には、嘉吉元年(1441)赤松満祐が将軍義教を殺して播磨に逃げ帰った時、集まった武士のなかに『中道子山城主・志方弾正ェ門顕茂』のみえることから、この頃すでにこの城ができていたことは確かであるが、規模を広くし、地形を整えたのは応仁の乱後に入城した孝橋新五郎であろう」としています。

   やはり、中道子山城の築城は孝橋氏か

 このブログで、「赤松一族の興亡」を書いたのは、赤松一族の歴史を俯瞰してみたかったためです。

 赤松一族は、嘉吉の乱でいったん滅亡しました(前期赤松氏)。そして、政則の時に奇跡的に復活(赤後期赤松氏)しています。

 前・後期と通じて、志方に進出し、はっきりと中道子山城を必要とした人物が浮かび上がってきません。

 考えられるのは、嘉吉の乱のとき赤松氏攻めに加わった大河内一族(満政・満直)以外に考えられません。

 その満政・満直もすぐ後に殺害されます。

 その後は、少し時期をおいて『加古川市史』でバッサリ切り捨てている「大河内氏と関係があったと思われる孝橋一族により引き継がれた」と想像したいのです。

 さらに、満政・満直と孝橋氏の関係を確かめる必要がありそうです。(no3492)

 *写真:中道子山山頂の「赤松城址」の碑

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地域(加印)の風を読む(22) 孝橋(たかはし)氏のこと

2017-02-25 06:21:59 | 地域の風を読む

     大河内(赤松)満政・満直のこと

 満祐が将軍義教を殺した嘉吉の乱で一族とともに播磨へ逃れて来たとき、大河内満政は、赤松氏の有力な血縁でありながら山名氏などで編成する幕府軍とともに満祐を討伐する側にまわりました。

 この行動は、明らかに同族討ちになり世間の大きな話題となりました。

 しかし、満政は、「わしが赤松惣領家の追討に撃ってでれば、将軍殺しは赤松一部の跳(は)ねあがりだったことが世間にわかって、赤松全体が大罪をかぶらずにすむやもしれない、何としても、これから迎える赤松の試練を、乗り切りたい。そのために赤松一族を完全につぶしてはいけない・・・」と考えたうえでの行動だったと想像するのです。

 嘉吉の乱後、満政は、幕府から東播磨3郡を与えられたのです。

    孝橋氏のこと

 初代孝椅繁広について、彼は1441年の「嘉吉の乱」のあと東播案の3郡を与えられた赤松満政の子「満直」という説と地元櫛橋繁広(志方城主:くしはししげひろ)が満政の養子となったという説があります。

 大河内(赤松)満政・満直父子は、嘉吉の乱の後中道子山に進出し、中道子を拠点としたのでしょう。

 もちろん、すぐに城が完成するわけはありません。そこにあった寺等を利用しただけのそまつな構えだったと思われます。

 ともかく、加古・印南・明石・加西を見渡せる場所を、東播磨の拠点(城)としたのでしょう。

 しかし、満直は1443年、父・満政ともに殺されてしまいます。この間の事情は、「地域の風を読む(13)」をお読みください。

 その後しばらく、中道子山城(構)は、捨てられたような状態になっていたと想像します。

 赤松家の再興が認められた赤松政則の時でした。1484年以後、二代目「孝橋繁景(しげかげ)」が赤松氏家臣として復活し、城山の築城の再開がはじめられたようです。

 しかし、孝橋秀光の時(1555年)、三好氏が播磨に侵攻し、この戦いで彼は戦死します。

 この前後に中道子山城は、再び落域したようです。

 中道子山城はその後再建されます。次回の話になります。(no3491

 *写真:中道子山本丸跡

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地域(加印)の風を読む(21) 赤松一族の興亡(4)・置塩城について

2017-02-24 07:02:45 | 地域の風を読む

       余話として 

 「赤松氏の興亡」を書いています。

 中世の志方は、赤松氏の動向を抜きにして考えられません。

 円心から始まる赤松氏は、4代目の満祐の嘉吉の乱で惣領家はいったん潰れます。

 歴史家は、円心から嘉吉の乱までの赤松氏を「前期赤松氏」と呼んでおり、奇跡的に復活した5代・政則から8代・房則までの時代を「後期赤松氏」と呼んでいます。

    置塩城について

  蛇足を書いておきます。置塩城のことです。

 後期赤松氏の政則時代は、政治の拠点を、置塩山城(おじおやまじょう)に置き、赤松氏は見事に復活をとげました。

 そして、政則の死後の赤松氏一族のもめごとなどがあり、坂道をころげ落ちるような、見事なまでの没落の歴史です。これが通説でした。

 しかし、政則の後を継いだ義村も大規模な城を置塩城が存在したのですから、義村以降に急速に赤松氏が弱体したという説には疑問が残ります。

 文明元年(1469)に置塩山城を築城したとされる赤松政則というのですが、その頃政則は京都にいました。

 ・・・・(その後、山名氏との戦い等で)置塩山城を築くような環境ではなかったようです。

 経過をみると、政則が置塩へ移った様子はありません。というよりも、政則の時代、有力守護大名は京都に屋敷を構えるのが普通でした。

 いずれ京都に帰るので、赤松氏が置塩に居城をつくる必要はまったくないのです。

 とすると、置塩城にしても、いつ誰が、何のために築城したのかという疑問がります。 

 だらだらと、赤松興亡史を説明してきましたが、前期赤松氏は赤松惣領家を確立する時代でした。

 後期赤松氏は、衰亡と混乱の歴史ではっきりとしません。

 端的に言うと赤松一族で中道子山城をつくる必要性と経済力を持った人物が見当たらないのです。

 でも、中道子山城は存在しています。

 反面、中道子山城をつくった可能性のある人物は、かえって絞り込めるようにも思えます・・・(no3490)

 *写真:置塩城跡(ここから山頂城跡まで、徒歩で約40分ほど)

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地域(加印)の風を読む(20) 赤松一族の興亡(3)・赤松一族の衰亡

2017-02-23 03:00:03 | 地域の風を読む

     赤松一族の衰亡

 紙面の関係上、その後のあかまつけの状況を年表で追うことにします。

      赤松家、没落の年譜 

 ・明応八年(1499)   赤松一族のナンバー2であった浦上則村が赤松家の乗っ取りをはかる。

 ・永正四年(1507)   死亡した赤松政則(図)の後を義村が継ぐ。そして、政則の妻・洞松院は、松(義村の夫)と共謀し義村との対立が深まる。

 ・永正十五年(1518)  義村は浦上追討の兵をあげる。

 ・大永二年(1522)   義村は室津の寺に幽閉され殺害される。

      赤松則房の代で赤松惣領家消滅

 復活を遂げた赤松家も、赤松政則の死後、一族間の争いにより衰退してゆきます。

 政則を継いだ義村は、室津の寺に幽閉され殺害されてしました。

 その後、息子の晴政は父の敵打ちに成功するものの、次の則房の時代には守護職も失い、秀吉の傘下に組み込まれます。

 そして、天正13年(1585)屋島で戦果をあげ阿波の地に新天地を得ました。

 赤松惣領家は播磨を離れます。

 阿波に移って13年目の慶長三年(1598)、則房は病魔に侵され、ひっそりと他界します。

 歴史は、赤松氏の最後を赤松則房としています。

 この後、赤松総領家は廃絶同然となりました。

 これが、「赤松一族の盛衰記」です。

 赤松一族の興亡を3回ばかり書いてみました。

 それでは、赤松氏一族の興亡の歴史を念頭に置いて、中道子山城の歴史をたどることにします。(no3489)

 *図:赤松政則像(京都・六道珍皇寺蔵)

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地域(加印)の風を読む(19) 赤松一族の興亡(2)・赤松家の復活なるも・・・

2017-02-22 13:21:47 | 地域の風を読む

   赤松一族の盛衰(2) 赤松家の復活なるも・・・

 嘉吉の乱で、六代将軍・義教(よしのり)を謀殺した赤松満祐(あかまつ・みつすけ)弟・満雅の子・千代丸は、城山城(きのやまじょう)を脱出しました。

 この時、千代丸は9才でした。

 そして、千代丸は京都三条家の所領である近江の願成寺へ送り届けられました。

 というのは、満祐の弟の満雅の妻は京都三条家の出だったからです。

 かくまわれて10年あまり後、千代丸は還俗して時勝と名のりました。

 やがて、「赤松家の血筋を引く方が生きておられ」というニュースは旧臣に勇気を与えました。

 が、それもつかの間、康正元年(1455)23歳で、時勝は急死します。

    赤松家復活

 しかし、偶然にもその年、時勝の死の前に男子が生まれました。

 次郎法師丸です。何ともドラマチックな話です。

 彼は、後の赤松政則です。

 家臣が次郎法師丸を担いで赤松家再興の動きに出ます。

 南朝方が持っている三種の神器の一つである神璽(八尺瓊勾玉)を取り返して北朝に納めれば赤松氏の復活を認めるという将軍家との密約ができたからです。

 大河内一族を中心として、神璽奪回作戦に成功し、赤松家は奇跡的な復活を遂げます。

 赤松は、政則を柱として、奇跡的な復活を遂げます。そして、置塩城を築きました。

    赤松政則の急死

 しかし、山名が赤松に襲い掛かかりました。

 真弓峠の戦い(1477)では、惨敗。再び播磨は山名に占領されてしまいました。

 その後の播磨は、しばらく血なまぐさい戦場と化します。

 その後、長享二年(1488)、なんとか山名勢を追い出すことに成功します。

 政則は、赤松家の勢力を保つために細川家に近づき、再婚相手として細川家の洞松院(どうしょういん)を迎えました。

 そして、政則の娘・松に養子・義村を迎え赤松家を託しました。

 ところが、事態は暗転します。

 明応六年(1497)、四月二十五日でした。

 政則は、鷹狩のために滞在していた加西郡坂井庄の長円寺で心臓発作のため、あえなく亡くなってしまいます。政則は42才でした。

 政則の政治力があってこその赤松一族の結束でした。

 赤松家が盤石なものとなっていない段階での無念の他界でした。

 その後、一族内でのおきまりのように下剋上が始まったのです。(no3488)

 *写真:赤松正則築城の置塩城の城跡が残る置塩山(姫路市夢前町宮置)

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地域(加印)の風を読む(18) 赤松一族の興亡(1)・円心~満祐

2017-02-21 07:11:31 | 地域の風を読む

 中道子山城の歴史を探るとき、赤松全体の動きを見ておく必要がありそうです。

 でも、赤松家の歴史は複雑です。ここでは簡単に復習をしておきます。今日は、円心から嘉吉の乱までの赤松家の興亡の歴史です。

 *「no11(嘉吉の乱)」と合わせてお読みください。

    赤松一族の興亡(1) 

 赤松家は「嘉吉の乱」でいったん滅ぶ

 赤松は円心の時代に足利尊氏に高く買われて室町幕府の創設に力をつくし、赤松氏を一気に飛躍させ、押しもおされもせぬ豪族となりました。

 子孫はずっと佐用庄赤松村の白旗城にいて播磨国をおさめ、さらに幕府の要職もつつがなく勤めていました。

 天神山城を築いた初代満則(みつのり)は神西郡大河庄をもらって姓も大河内と変えるが、じつは円心の三男赤松則祐(そくゆう)の三男です。

 赤松円心の亡くなったあと長男の範資(のりすけ)が短期間だけ惣領家をつぎましたが、すぐに家督は、三男の則祐に移り、ついで則祐の長男義則が跡をつぎました。

 つまり赤松氏の惣領家はずっと円心の三男則祐の家系によってつがれてきました。

 大河内家は、義則の実弟満則からはじまり、大河内家の天神山城の城主は、いつ惣領家をついでもおかしくない誇りがありました。

 万一、白旗城の惣領家に異変が起これば、すぐにこの天神山城がとって代わって播磨統治の拠点にならねばという心づもりが、いつもありました。

 14歳で赤松惣領家の家督と播磨、備前二国の守護職をついだ惣領家の義則は、さらに軍功をあげて山名、一色、京極の三氏とともに赤松氏が幕府の要職である侍所所司を勤める四職(ししき)の家柄になりました。

 まぶしいほどの栄えようでした。

 義則の子・満祐の時代に事件がおきました。

 彼は、6代将軍(足利義教)から疎(うと)まれているのを肌で感じていました。

 満祐は、赤松家の取り潰しのうわさを真に受け、嘉吉元年(1441)、将軍義教を二条の自邸に招いて殺してしまったのです。

 いわゆる嘉吉(かきつ)の乱です。

 下の地位にある者が上位の者を倒す下剋上(げこくじょう)の風潮が芽生えはじめていたが、一気にその究極を演じてしまいました。

 事件を起こした満祐は、幕府の追討軍に追いつめられ、播磨国揖西郡の城(城山城・きのやまじょう)で一族69人とともに自刃して果て、栄華をつないだ赤松惣領家は断絶してしまいました。

 この時、誰もが「赤松城の滅亡」を疑いませんでした。(no3487

 *写真:室町幕府の将軍義教

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地域(加印)の風を読む(17) 中道山子山城は16世紀の築城というが

2017-02-20 07:54:05 | 地域の風を読む

 今、中道子城跡で進められようとしている電波塔建設については、まさに愚行です。

 いったん壊した史跡は元に戻りません。貴重な中世の城跡(中道子山城跡)保存に関しては、これからもこの訴えてゆきます。

 「地域の風を読む(14):満政の子(満直)志方へ」の続きに戻り、中道子山の歴史を続けます。

    中道山子山城は16世紀の築城というが

 「地域の風を読むno10」の復習です。

 加古川市教委は、昭和64年から始まった4次にわたる調査を終え、平成2年2月6に結果を発表しました。

 以下の記事は、翌日の産経新聞と神戸新聞の記事の一部です。

  <産経新聞>

 ・・・巨大な大手門が見つかり城の規模も16世紀のものとしては東播磨一の規模で、時代は16世紀初めから中ごろにかけての城とわかった。・・・

 これまでの調査で・・孝橋繁広の築城と推定していたが、城の規模は3.000~5.000人いたと推定され、大きすぎることから、孝橋ではないとしている。

  <神戸新聞>

 4年間の調査結果を総合して同城調跡調査委員会(委員長・石田善人岡山大学教授)は、全体を完成度の高い土塁をめぐらし、防御の堅さを誇ったとした。

 ・・・考橋新五郎繁広と見ていたが、規模などからこれだけの城を維持する力はなく、この説を否定。

 (今回の調査で)山城の全体像が明らかになった。

 大手門は領主の権威を見せつけるために、門の上に建物を置く櫓門(やぐらもん)だった・・・戦術的な意味よりも領主の権威を示すため、大きな門にしたらしい。

 発掘の結果は中道山子城は、16世紀の初めから中ごろの城であることが分かりました。

 孝橋繁広は、15世紀の人です。

 調査結果からうかがうと孝橋繁広(大河内満直か)と築城年代が合いません。

 「調査結果から判断して城主が、従来言われていた孝橋繁広では時代が半世紀ばかり合わない」というっことになります。

 仮に孝橋(大河内)が、中道子山城を拠点としたとしても、そこにあった寺を利用しただけであり、最初から城構らしいものがあったとは考えられません。中道子山城が中世の形を整えたのは、少し遅れるのは当然です。(no3486)

 写真:中道子山城の虎口(こぐち」とは中世以降の城郭における出入り口のこと。「小口」とも書く)

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地域(加印)の風を読む(16) いま、行政に求められること

2017-02-19 08:03:05 | 地域の風を読む

  

   いま、行政に求められることは

 「見える化」(市民への説明責任)ですよね

 写真のお城は、ご存知の竹田城跡(朝来市和田山町竹田)です。

 上の写真はいたずらをしています。竹田城跡に、電波塔を載せています。

 もし、こんな風景が市民に説明がなく出現したら、地元(朝来市)の人は激怒されるでしょうね。

 笑い事ではないのです。加古川市では中道子山城跡(東志方広尾)の貴重な中世の城跡に電波塔の工事が、まさに始まろうとしています。

 それも、加古川市民に説明なしに。

 今、まさに政治(行政)は「見える化」(説明責任)が求められています。

 説明がほしいです。

 加古川が好きなんです。市民を裏切ることはしないでください。(no3485

 *写真:「中道子山城(志方の城山)を守る会」HPより

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地域(加印)の風を読む(15) 〈緊急報告〉「中道子山城跡に無線塔建設 !」計画を市民に知らせてください

2017-02-18 09:37:51 | 地域の風を読む

 今日は、赤松氏と中道子山城の歴史を休んで緊急報告です。 

          中道子山城跡に無線塔建設

     とにかく、計画を市民に知らせてください

 (2月5日)の神戸新聞東播版の記事は「山城跡の無線塔建設、研究者反対、加古川市は適切」と大きく報じました。

 以下の記事はその一部です。

 兵庫県の加古川市が中道子(ちゅうどうし)山城跡(同市志方町広尾)のある城山山頂近くに建設中の無線塔について、研究者らでつくる日本考古学協会は「東播磨を代表する城跡の価値が損なわれる」として建設に反対している。これに対し、同市は「発掘調査し、協議を重ねて場所を選んだ」としている。

 同山城跡について、兵庫大学の金子哲教授(55)=日本中世史=は「国指定史跡になり得るほど、歴史的に重要な価値を持つ遺産」と指摘。中世後期から戦国時代に築城された同山城は土塁の基底部に石垣が設けられており「城郭に石垣が用いられる初期の事例として、学術的価値も高い」とする。・・・・

 また、播磨地域に勢力を持っていた赤松氏が、東播磨を見渡せる「遠見の城」として築城した説もあるという。市によると、無線塔の高さは26・8メートルの予定。同協会は1月中旬に職員が現地を視察した上で、「塔により城跡から北・西部分への眺望は遮られ、城の存在の根幹をなす意義が大きく失われる」と反発。建設撤回や保存を求める要望書を2日付で文化庁と兵庫県、同市にそれぞれ郵送した。

 

 研究者(団体)らが、文化庁と兵庫県、同市にそれぞれ郵送しているにもかかわらず、工事は進められようとしています。

 加古川市からの回答は、「日本考古学会協会からの要望書は確認しておりますが工事に際しては事前の文化財調査もおこない、・・・工事の中断させることは考えておらず、現時点での工事を中断させる等の対応は考えておらず、現時点で報道機関報道機関を通じての広報も予定しておりません・・・」とは、「あなた方(市民)の声を聞く耳は持ちませんよ・・・」と突き放したような冷たい声に聞こえます。

 ともかく、現段階のようすを市民にまず知らせ、その後の計画を進めてください。

 要望します。それが行政です。(no3484)

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地域(加印)の風を読む(14) 満政の子(満直)志方へ

2017-02-17 09:51:49 | 地域の風を読む

    大河内満政軍敗れる

 前号の復習です。山名氏と大河内満政の戦いについて『加古川市史』より、次のように紹介しました。

 ・・・幕府は説得しようとしたが、大河内(赤松)満政はこれに応じようとせず、山名軍との間に東播磨三郡の支配権をめぐり東播地方で激戦がおこなわれました。

 『東寺執行日記(文安二年正月二〇日条)には「播州合戦了」とのみ書かれていて、どこでどのような合戦があったのか、詳しいことはわかりません。 (*文安二年・1445)

 合戦は、圧倒的な山名軍の勝利に終わり、元赤松一族の有馬氏を頼ったのですが、殺害されてしまいます。

    満政の子(満直)志方へ

 その後、天神山城の城主は、満政の子の満直に引き継がれます。

 その満直は、印南郡の志方に移ります。享徳三年(1454)のことです。大河内の天神山城は、城代がかろうじて城を管理するだけの城跡のようなさびしい城となりました。

 さて、志方へ移った(大河内)満直のことです。

 志方の地元では、①満直は孝橋繁広と名を変えた。②櫛橋繁広が満直の養子なった。③また、その後加西郡善防城主・孝橋氏の養子なったなどの説があります。

 時代は、大河内満直の父が山名軍に敗れ四面楚歌の状態でした。

 ともかく、満直は大河内(赤松)の名前を隠す必要があったのでしょう。また、仲間を増やすことも必要だったのでしょう。

 そして、満直一族は、どこかに立てこもり盛り返す必要がありました。

 近くには、拠点となる絶好の山がありました。その山の頂上には、寺もありました。

 その山こそ中道子山です。ここに目を付けたのは自然のように思えます。

 城山は、志方における満直の拠点となったと考えるのです。(no3483)

 *写真:中道子山城跡遠景(注:満政の時代にはまだ城はまだなかった)

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地域(加印)の風を読む(13) 大河内(赤松)満政は、東播磨三郡を得たが・・

2017-02-16 09:17:46 | 地域の風を読む

     大河内(赤松)満政は、東播磨三郡を得たが・・

 嘉吉の乱で大河内満政は、幕府側に立ち山名氏とともに満祐を攻撃しました。

 その結果、満政は前号で述べたように東播磨三郡(明石・加古・印南郡)の支配権を得ました。

 しかし、守護の山名氏は、これに対して不満でした。山名は東播磨三郡をわがものにしようと策動します。

 大河内の得た東播磨三郡は、山名勢によってたちまち奪われてしまったのです。

 冷静な満政でしが、激怒しました。

 「赤松の不幸を手がかりに勢力をひろめようなどと武士の風上にも置けぬ」と赤松残党を結集して東播磨三郡の支配権を山名の手から奪いかえそうと総力戦で挑みました。

 が、力つきて摂津有馬に領地を認められている赤松(有馬)持家を頼って逃れ落ちのびます。

 ところが持家も同じく追われて窮地に陥っており、家臣を守るのが精一杯で満政は邪魔者扱いされて、そこであえなく殺されてしまいました。

 満祐ら赤松惣領家が城ノ山城で断絶して五年目のことでした。

    加古川で「山名vs大河内満政」の合戦が

 この山名氏と大河内満政の戦いについては『加古川市史(第二巻)』を参照します。

 ・・・幕府は説得しようとしたが、満政はこれに応じようとせず、山名軍との間に東播地方で激戦がおこなわれました。

 『東寺執行日記(文安二年正月二〇日条)には「播州合戦了」とのみ書かれていて、どこでどのような合戦があったのか、詳しいことはわかりません。 *文安二年(1445)

 しかし、満政の所領が加古川下流の幣荘(へいのしよう)(「報恩寺文書」)にあったことを思うと、加古川付近で合戦があったのではないかと考えられます。

 合戦は、圧倒的な山名軍の勝利に終わりました。(no3482)

 *史料:赤松(大河内)満政安堵状(加古川市報恩寺所蔵)

  (最後の文字:十二月廿八日 満政 花押

                   当寺 長老)

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地域(加印)の風を読む(12) 赤松一族の栄華は「嘉吉の乱」でほろんだが・・・

2017-02-15 09:53:23 | 地域の風を読む

    赤松一族の栄華は「嘉吉の乱」でほろんだが・・・

 嘉吉元年(1441)旧・六月、赤松満祐は、将軍義教を謀殺しました。

 満祐は、その日の夜のうちに、屋敷を焼き払い、家臣たち700名を伴い、播磨の坂本城(姫路市)に引き上げました。

 赤松満祐は、急ぎ合戦の準備をしましたが、幕府軍は、坂本城を攻め、これを陥落させました。

 そして、満祐は、城山城(きやまじょう・揖保郡)で一戦をするものの、最後は一族69人とともに自刃して果て、これで110年にわたって栄華をつないだ赤松惣領家は断絶してしまいました。

 赤松氏の拠点であった白幡城も徹底的に破壊されてしまいました。

 この段階で、赤松氏再興を見通したものは誰もいなかったのではないでしょうか。

   赤松の血は、大河内一族に残る

 嘉吉の乱当時の赤松一族のうち天神山城の赤松について、少し説明が必要です。地図で天神山城をお探しください。

 赤松一族の天神山城を築いた赤松満則は、神西郡の大河内庄をもらっていたので姓を大河内と変えましたが、実は赤松円心の三男則祐(そくゆう)の三男です。

 則祐は、幕府の要職である侍所所司(さむらいどころしょし)を務める家柄になりました。

 その上に美作(みまさか)まで領国として加えられ、播備作(播磨・備前・美作)の守護にのし上がったのです。

 大河内家は、幕府と強いつながりを持っていました。

 しかし、大河内家の本家の赤松満祐が将軍を殺害したのです。

 この嘉吉の乱で、大河内家は微妙な立場に立たされました。

 が、天神山三代城主・大河内満政は、赤松氏の有力な血縁でありながら、山名氏、幕府軍とともに満祐を討伐する側にたち旗色を鮮明にし、満祐を攻撃をしたのです。

 大河内満政は、満祐軍とは直接一線を交えてはいませんが、その姿勢は幕府に認められ嘉吉の乱後、明石・加古・印南の三郡が与えられましたのでした。

 赤松一族の栄華は嘉吉の乱で崩壊してしまいましたが、赤松の血は大河内一族の中に、東播磨で細々と残されることになりました。(no3481)

 *地図:置塩城・天神山城周辺図

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地域(加印)の風を読む(11) 嘉吉の乱

2017-02-14 08:01:49 | 地域の風を読む

      嘉吉の乱

 中道子山城主を探していますが、迷路をさまよっています。

 中道子山城を調べる時、赤松氏の興亡の歴史を知る必要がありそうです。

 なぜなら、中道子山城は赤松一族の勢力下にあったことは確かです。

 「赤松一族の興亡」を簡単に調べます。そして、俯瞰してみます。ヒントがありそうです。

      赤松一族の興亡・嘉吉の乱

       満祐、義教(足利六代将軍)を殺害

 「・・・新邸の池のカモの子がたくさん生まれました。水面をすべる様子がいかにもかわいく、ぜひともお運びくださるように・・・」

 嘉吉元年(1441)旧・六月、義教(足利六代将軍)のもとへ、こんな招待状が届きました。

 新邸の主(あるじ)は、赤松満祐でした。

 義教は、就任以来続いていた戦いに勝ち抜き満ち足りた気持ちのときでした。

 義教と仲が悪くなっている満祐からの招待でしたが、喜んでこの招待を受けました。

 義教は多数の重臣とともに赤松邸に入りました。

 庭先の猿楽は三番まで進み、酒はすでに五杯目。宴たけなわのころでした。

 この時、明かり障子がドット開き十数名の武士が義教めがけて突進してきました。

 義教は、叫び声もあげる間もなく首をかき切られたのです。

 満祐は、その日の夜のうちに、京都二条にある屋敷を焼き払い、家臣たち700名を伴い、播磨の坂本城(姫路市)に引き上げました。

 満祐に味方するものは誰もいません。

 赤松満祐は、急ぎ合戦の準備をしました。

 幕府軍は、坂本城を攻め、これを陥落させました。

 満祐は、揖保郡にある城山城(きやまじょう)で最後の一戦をするものの、赤松軍はすでに五百騎あまり、九月九日に攻撃が始まり城山城はついに陥落しました。

 これは、円心から四代続いた赤松氏の滅亡でした。

 この段階で、赤松氏再興を見通したものは誰もいなかったとおもわれます。(no3480)

 *写真:加東市東条町安国寺にある足利義教の供養塔。(『兵庫探検(続歴史風土編)』(神戸新聞出版センター)より

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