中道子山城の歴史を書いてみましたが、2・3余話を続けておきます。
余話として(1):東播磨地域は北朝方(南北朝時代)
赤松一族の歴史の解明が遅れている(はっきりしていない)理由の一つの理由を述べておきましょう。
東志方町高畑に円福寺というお寺があります。
本堂に向かって右隅に、県指定文化財の宝筐印塔(ほうきょういんとう・写真)があり、宝筐印塔には康歴元年の銘が刻まれています。
北朝年号(康歴元年)
「康歴元年(1379)」は、南北朝時代の北朝年号で、南朝年号では天授五年です。
赤松四代当主・義則(満祐の父)が赤松家所領の五穀豊饒を願い、また「一結衆」とあるところから赤松一族の安寧祈願、さらに赤松一族の供養塔として造立したものと思われます。
この宝筐印塔の「北朝年号」からもわかるように、赤松本家は、曲折はあったものの足利尊氏(北朝方)として活躍し、後醍醐天皇(南朝方)に敵対し、時代を乗り切ります。
南朝正閏論(なんちょうせいじゅんろん)
江戸時代までは、北朝側であろうが、南朝側であろうがまったく問題とならなかったのです。
が、明治時代となり天皇制度が声高に叫ばれ、やがて「南朝正閏論(せいじゅんろん)」が正しいとされました。 (*南朝正閏論:南朝を正統とする考え方)
そして、日本が戦争に突き進んでゆくにつれ、北朝を支持した赤松氏は逆賊とされたのです。
南朝正閏論のため、赤松一族は歴史の上、全く評価されなくなりました。
明治時代~戦前にかけて北朝支持を色濃く残す円福寺(志方地域)の立場は微妙な立場になりました。
そのため、赤松一族の研究も大幅に遅れてしまっています。赤松関係の史料もずいぶん失われたことと想像します。
加古川市教育委員会の宝筐印塔の説明には「・・・基礎正面に康暦元年の銘がり南北時代の遺品であることがわかる・・・」とありますが、北朝年号であるとの説明がありません。
少し、もどかしい気持ちが残ります。(no3494)
*写真:円福寺の本堂に向かって右隅の北朝年号を刻む宝筐印塔