北山村との水争い①
国岡新村が姫路藩の命令で、北山村の所有の「入が池」から、用水の一部を得ることができるようになりました。
このように、新しい水利秩序ができあがると、すべての問題が片付いたわけではありません。
村にとって水は死活問題のために、その後も「水争い」はしばしばおきています。
一応の水利秩序ができた後は、藩の強力な水利権に対する影響力は減少し、基本的には、当事者間で水利秩序を守り、問題を解決するのが原則とされました。
というのは、裁判となると訴訟費用かかり、精神的負担があります。
それに当事者どうしの解決の方が、双方の納得が得られ、あとあと実際に効果があったためです。
藩が複雑な水利訴訟を解決するためには、担当役人は各地の細かな水利慣行に習熟する必要があります。
役人に、それを求めることは無理でした。
そして、藩が判決を出しても、訴訟の再発が起こり藩の権威を失うことが起こります。
そのために、水争いは当事者の話し合いを優先させました。
しかし、当事者で解決できなくなることもしばしばおこりました。そんな時は、代官所に訴えでます。
国岡新村の場合、入が池の水をめぐって北山村との水争いがしばしばおきました。
次号では、宝暦11年(1761)の水利訴訟を例に水争いの過程を追ってみることにします。
*「北山村との水争い」は「(稲美町探訪)北山を歩く」としてもお読みください。
きょうは、気軽に「コーヒーブレイク」の話題としてお読みください。
北山の名前
伝承によれば、入が池は1300年の昔に造られたとされています。
そして、堤の一部は「六曲屏風」と言って、屏風を半開きにした時のような形に造られました。
この堤の形は、一部分に水の圧量がかからないように工夫された土木技術によるものです。
当時、日本に、そんな技術はまだありません。
あるとすると渡来技術集団によるものです。
『印南野文化(5)』に、次の面白い記事があります。
「・・・柳沢忠氏の『印南野開拓史』にも、これらの池の築造は渡来人の技術指導によるところが多いと述べられ、『加古川市史』にも、この地方の開発は新羅系の渡来人秦氏の力が大きかったと記しています。
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『稲美町史』にも、西日本の乾田農耕技術者として、これら朝鮮渡来の技術集団が多くの功績を残していると言います。
ここまでは、すんなり理解できます。
次の文章を皆さんはどのように考えられますか?
朴(ぼく)から北(ほく)、そして北(きた)へ?
「これら渡来系技術集団の中に、朴(ぼく)氏がいました。
北山集落は、その朴が住んだところという意味で「北」(ほく)集落となづけました。
そして、やがて朴氏は北(ほく)となのり、現在の北となったと言うのです。
北山は、朴氏が開いた集落の意味でしょうか。
入が池は、渡来系技術集団、朴技術集団が築いた池でしょうか。
先に、『稲美町町探訪(260)』で、常楽寺の縁起を紹介した時の「喜多太夫」も同系と考えられるというのですが?
*写真:夕暮れの入が池
北山村の歴史は古く町内でも、もっとも早く開発が始まったとされています。
それでも、明治初年にいたっても山林など未開拓地が、かなり残っていたようです。
明治初年以来、それらの開発のための大きな溜池の築造が話題にのぼってきました。
これは、地租改正による重い税負担に迫られたことも一因であったと思われます。
明治16年8月、北山・中村の水利委員は話し合いを持ちました。
明治18年には、淡河疎水の起工式がありました。
北山村でも、明治19年7月12日、新池の築造を兵庫県に願い出ました。
さらに、明治21年、下流の村々と相談し、再度兵庫県知事に新池の築造を願い出ました。
満溜池築造へ
次の問題は、土地を確保することです。国有地の払い下げを国に申請しました。
この払い下げを申請した国有地は、長府池の西の谷状になった土地で、溜池を造るのには絶好の土地でした。
しかし、申請は済ませたもののなかなか許可は下りませんでした。
明治28年から29年にかけて、一時小休止の状態になってしましました。
が、明治30年から農商務省に陳情を繰り返し、明治32年2月18日、官有林の払い下げの許可を得ることができました。
この官有林の払い下げに奔走したのは北山村の井上得三郎でした。
明治32年3月、やっと着工の運びとなりました。
しかし、おり悪しく長雨が続き工事はなかなかはかどりません。竣工期限と決めた5月下旬にいたっても、ようやく半ばを終える状態でした。
それに6月を過ぎれば麦の収穫から田植えが始まり、村の人は工事を続けることができません。
しかたなく、6月9日を以っていったん工事を中断し、9月10日から工事の再着工ということになりました。
9月に工事は再開されたのですが、またまた秋の長雨で工事が大幅に遅れてしまいました。
やっと竣工したのは、明治33年3月7日でした。
この工事は一応の完成でした。その後も越水の破損などの問題がおきています。
なお、満溜池は、明治41年増築工事が行われ、現在の溜池となりました。
満溜池の越水の近くに、井上得三郎等当時の水利委員の功績をたたえた記念碑が建てられています。
*地図で満溜池の場所を確かめてください。
「国岡の歴史」でも「入が池」がしばしば登場します。入が池(入の池)について伝承も含んでみておくことにしましょう。
(入が池は、東の方にありますが北山に属しています)
「入が池」の名について
『印南野文華(第5号)』に「入が池」名について、石見完次は面白い説明をされています。
①「鳰(にお)の池」が語源か?
「入の池」というのは、「鳰(にお)の池」のことであろう。
琵琶湖も別名、「鳰の海」と言うそうで、鳰(かいつぶり)がたくさん居たので、いつかこう呼ばれるようになったと考えている。
入は鳰の略字として常用されていたのであろう。
②入の池は「丹生(にう・赤土)」が語源か?
また、「入の池」は語源的にみて丹生(にふ・赤土)の池という意味とも考えられる。この池の築造がたいへん古いので、古語で呼んだとも考えられる。
③入の池の堤の形(六曲屏風の形)からか?
人柱になった「お入(おにゅう)」の名を採ったと言うが、順序は逆で、話は入が池の名が定着した後につくられたものである。
私(石見氏)は、薬師堂の碑文を見た当初から、六曲屏風の形に築いた土手のかたちが蛇の行く姿に見えるから、蛇が主役に出てきたと思った。
蛇は水神の使いと言われ、池の伝説に出てくることが多い。
・・・・
さて、皆さんはどのように考えられますか。
写真:入が池(東の方に雌岡山を望んで)
国岡新村の開発は地形の関係上、北山集落に遮断されており、直接、国岡新村の池に流すことができません。
どうしても、いったん「入が池」に貯蔵する必要があります。
水利慣行を変更することは、大問題でほとんど不可能でした。
しかし、国岡新村は、藩の権力(命令)により、風呂谷流の水の30%を「入が池」集め、その水を国岡新村の千波池に移し利用できるよう命令があり実現することができました。
入が池を国岡新村と共同で利用するとなると、利害の対立も考えられます。
藩の命令といえども、北山村にとって、すんなり認める分けにはいけきません。
そこで、北山村は国岡新村との条件闘争になりました。
国岡土地改良区に残る「にうか池證文之事」(寛文11年・1671)に記録が残されています。
*「にうか池」は「入が池」のこと <msnctyst w:st="on" addresslist="30:北山村;" address="北山村"></msnctyst>
北山村からの要求
① 入が池は古来、北山村所有の池であったが国岡新村の開発のために小さかった池の堤防を3尺高く築く。
② そのために、池の面積を拡大するために、国岡新村は野寺村の土地8反8畝14歩を買い上げる。
③ 「入が池」のもとの貯水量を示すところに分切石(ぶんぎりいし)をすえ、分切石より上の水を新流溝からの流水として、それを国岡新村と北山村の2村の間で5分5分にすること。
そして、この文書には、内容を確実にするために、契約書の裏に2名の藩の奉行の署名があります。
こうして、国岡新村は、風呂谷地区の水を千波池へ取り入れることができるようになりました。
藩の命令があったというものの、古くからの水慣行の変更には、大変な難しさがありました。
それでも水が不足に!
ところが、新田開発が進むにつれ風呂谷地区からの灌漑用水は、たちまちに限界にたっし、宝永8年(1680)6月、草谷川を水源とする新たな引水計画が建てられました。
草谷川の非灌漑木である旧7月~翌年4月までの期間に取水し、これを溜池に貯蔵しておくことにより、用水を確保しようとしたのです。
これが大溝用水です。
次回の「国岡の歴史」で、調べることにします。
*地図で入が池・千波池の位置を確認ください。
土・日は「国岡の歴史」です。
今日の報告は、「稲美町探訪(95)」とほとんど同じ内容です。
国岡新村へ30%(風呂谷流より)
新田をつくることは、水を確保することと同じ意味をもちます。
国岡新村では、千波池、新池(明治期に棒池と改称)、山城池が新しく造られ、城ノ池の改修を行いました。
また、琴池はもともと国安村の小さな池でしたが、大きくし水を国岡新村と分けあうようになりました。
琴池については、後日報告の予定です。
そのため、加古新村・国岡新村は、藩に願い出て風呂谷池(草谷)の水路の改修を行いました。この溝は「四百間溝(しひゃっけんみぞ)と呼ばれました。
しかし、新田の開発が進むと、たちまち灌漑用水が不足するようになりました。
そのため、寛文11年(1671)2月、加古新村・国岡新村は藩に願い出て、用水源である風呂谷池流の改修を行いました。
藩から、溝掘賃として銀子五貫目と米五石の支給があったといいます。
そして、その用水の30%は北山村所有の「入が池」を経て、国岡新村へ、70%は加古新村へ流されることになりました。
この大溝用水の溝普請、維持管理にかかわる費用等は国岡新村と加古新村が3:7の割合で負担となりました。
これらを定めた国岡新村と加古新村の間の「分水契約書(寛文12年・1672)」の分水契約書が残っています。
分水契約書は「相究取替シ申證文之事」で、『稲美町史』(p163)に紹介されています。
(参考)
解読文(一部)
・・・(略)・・・
一、 流水 七分 加古新村江
一、 同 三分 国岡新村江
但シ、溝普請又ハ諸入用等有之候ハゝ、於向後ニ加古新村七分
国岡新村より三分仕配可申定、
・・・(略)・・・
写真:古文書「相究取替シ申證文之事」(国岡・故、藤本英二氏所蔵)
(内容が間違いのため一部訂正しました)
きょうのブログは「国岡の歴史」としてもお読みください。
姫路藩は開発ブーム
北山(稲美町天満北山)の歴史探訪をしています。やはり、水のことが気になります。
北山集落と周辺の集落との水利問題です。
当然のことながら、江戸時代以前、加古新村も国岡新村も、まだ誕生していません。
北山集落あたりの水は、北山村が独占して使うことができました。
しかし、江戸時代の初期は、戦国・織豊時代における土木技術の発達により、姫路藩では水利改良や新田開発がさかんに行われるようになりました。
17世紀の間に、表高15万石といわれた姫路藩の米の生産高が、新田の開発により、なんと1万3700石も増加しています。
その開発の中心になったのが印南郡と加古郡で、とりわけ加古郡は姫路藩の中で、もっと多くの新田が開発されました。
その新田開発のひとつのピークは1660年代です。
水が少なくなる
北山村の北の加古新村は、万治元年(1658)に開発が始まりました。
東の国岡新村は、寛文2年(1662)に誕生しました。
北山村の地形は、北と東に高く、水は北からそして東から集まりました。
が、北には加古新村が、東には国岡新村ができると、当然北山村への水の流れは少なくなります。
北山村にとっては、近隣の集落の誕生は死活問題となりました。
特に、国岡新村の開発には、大きな争いの種を含んでいました。
この時期、姫路藩は年貢の増収を目指していました。
そのため、国岡新村の開拓を奨励します。そして、北山村の水の一部を国岡新村に分けることを命令しました。
北山村としても藩の命令となれば反対するわけには行きません。
しかし、すんなり受け入れることもできません。
そのため、北山村としてはで国岡新村に対し条件闘争を展開することになります。
どのような条件闘争で解決するのか次号の「国岡の歴史」で報告しましょう。
『稲美町史』(p986)に、元文二年(1737)の北山村の明細帳があります。きょうは、この明細帳から江戸時代中期の北山村を想像してください。
(数字等はアラビアにしました)
北山村の明細帳(元文二年・1737)より
一 高521石7斗5升7合
此田畑43町5反9畝4歩
内田 23町9反1畝24歩
畑 19町6反7畝9歩半
一 家数 124軒
高10石(およそ7反)~27石(およそ1町9反) 9人
高9石(およそ6反4畝)以下 91人
高1石(およそ7畝)以下 水呑 25人
(一無家1人此働日雇かせぎ)
一 人数751人 男383人(内35人奉公に出居候)
女368人(内19人奉公に出居候)
外に38人他村より参り居候
一 牛数 42疋
近隣の村々より豊かであったが・・・
「豊かな村」といっても近隣の村と比べてのことです。
稲美台地の集落はどの村も水を求めて大変な努力がありました。
北山集落は「入が池」等の水があり近隣の村々と比べて安定した農業を営むことができたようです。
水田は約24町、畑が約20町と水田が畑よりも多くなっています。
それにしても、やはり生活は厳しかったようです。
約93%の人が高9石以下となっています。
そのためか、男女合わせて54人が奉公に出ています。どんな仕事を求めて、どこに奉公にでかけたのでしょう。調べてみたい。
上記の明細帳にある百姓の外に、医者2人、大工1人、そして鉢ひらき禅門(托鉢で生活している貧しい僧)2人あったと記しています。
『入が池の伝承』を「北山を歩く④」として復習をします。文章は「稲美町探訪(13)」の再掲です。
北山の川上真楽寺(しんぎょうじ)縁起に、次のような「入ヶ池」の伝承があります。
入ヶ池の伝承
都が明日香にあった644年、藤原弥吉四郎が天皇の命令を受けて西国に行く途中「蛸草村」で、一人の老人に出会いました。
その老人は「この野を開けば必ず末代まで繁盛するだろう。お前がここを開墾するがよい・・」と言い残して姿を消しました。
弥吉四郎は、天皇にそのことを申し上げ、この地の開拓にとりかかりました。
ある年でした。夏の日照が続き、水が乏しくなりました。
毎年、水が足りなくなるので、前年から上流の広い谷に水を貯める池の築造にかかっていました。
が、せっかく築いた堤は、その度に大水で流されてしまいました。
十数年、池はそのままになっていました。
ある日、藤原弥吉四郎の孫にあたる人が夢で不思議な僧に出会いました。
その僧は「お前のおじいさんは、川の上流をせき止め、池を築いたがうまくいかなかった。
これは上流の水が強いためである。だから、特別な工夫が必要である。
堤を六枚の屏風の形にし、北側の堤のところから越水(うてみ・洪水吐)を造って、水を越えさせるがよい。
そして、工事中に美しい女が通りかかるだろうから、捕らえて人柱にすると堤は完成するであろう・・・」
村人を集めて池の築造がはじまりました。
人柱になったお入(おにゅう)
ひとりの美しい女が通りかかりました。切り伏せて人柱にしてしまいました。
その後、堤は切れなくなりました。
この美しい女は「お入(おにゅう)といったので、この池は入ヶ池と呼ばれました。
738年、ある村人が、入ヶ池のそばを通り帰る途中、女に出会いました。
姿は大きく、目が丸く髪が赤い女でした。
村人は、驚き急いで帰ろうとした時、その女は「私は鬼ではない。私は、この池の人柱にされた、もとは山中に住んでいた蛇である。
たまたま、人がたくさんいるので女に姿を変えて来てみると、思いもかけず切り殺され、人柱にされてしまった。
村人は、立派な池ができて喜んでいるが、私の魂は池からはなれられない。いま、このような姿で現れたのである・・・
おまえは、これから村人に伝え、私の菩提(ぼだい)を弔ってくれ。
そうそうすれば、いつまでもこの池を守り続けるであろう」
そういうと、姿がなくなりました。
北山集落は1300年の歴史を持つ集落?
北山集落の墓地に寄ってみました。
「北山公園墓地記念碑」には、次のようにはじまっています。
「この墓地は、北山集落が遠く千三百年の昔から先祖代々の御霊の鎮まります埋葬地として使用してきたものであります・・・」
なんと、北山集落は1300年の歴史を持つと伝えています。
とてつもない古い歴史を持つ集落のようです。
入が池と北山集落を結んだ集落
水は、生活用水に欠かせません。それに何よりも、水は水田や畑を育て、食料を供給します。
それでは、北山集落の水は主にどこから得ていたのでしょう。
地図で北山集落のかたちをご覧ください。なんとも不思議なかたちの村です。
東西に細長く続いています。
もうお気づきだと思いますが、北山集落の東の端に「入が池」がありあます。
入が池は北山集落の池です。
印南野台地の水は、天満大池と入が池の辺りに流れてきます。
北山の祖先は、ここに「入が池」をつくり水を確保し、集落に引いたのでしょう。
そのため、北山集落は入が池と北山集落を結んだ東西に細長い形となっています。
では、入が池はいつごろ造られたのでしょうか。
『稲美町探訪(13)』の「入が池の伝承」をご覧ください。
北山の真楽寺(しんぎょうじ)縁起には、入が池は飛鳥時代にさかのぼり築造されたという伝承を持っています。
つまり、公園墓地にある北山集落は1300年の歴史を持つという根拠がここにあります。
入が池の築造は、飛鳥時代にまでさかのぼるとなると若干疑問で、平安時代から鎌倉時代の築造ではないかと想像されます。
それにしても北山集落は古い歴史の村です。
浄応上人
浄土真宗(一向宗)は、鎌倉時代のはじめに親鸞上人によって開かれ、室町時代の蓮如に至って、その教えは大きく広がりました。
その後、戦国時代に織田信長と本願寺との抗争などを経て、江戸時代・庶民の間にこの信仰は堅固になっていきました。
一方、その教えの内容も深められ、各地で法論もさかんになりました。
(法論:教義に関する論議)
この法論において大活躍したのが北山・常泉寺の第10世・浄応上人でした。
浄応上人がまだ青年であった時です。
彼は、伊保崎(現:高砂市伊保崎)にあった浄真寺の大学僧・智遷上人の弟子でした。
よく勉強し、浄応は当時「南播十哲」と称せられるようになり、その学僧の中でも第一人者と目された人物でした。
浄応は、師の智遷とともに、しばしば京都の本願寺に足を運びました。
また、全国各地を行脚して論陣を張りました。
明和4年(1767)5月17日、西本願寺で時の御門主の臨席している中で功存・智洞と教義について激しい討論をしました。
また、亀山本徳寺(現:姫路市)の僧たちに講義をすることもしばしばでした。
また、揖西郡(いっさいぐん、現:龍野市揖西町)にあった学校でも教授をつとめました。
常泉寺からは、浄応上人だけでなくたくさんの浄土真宗の学僧が輩出しています。
中でも、浄応と次の浄暢は優れた学僧で、この功績に対して、本願寺から画像が送られ、今も本堂内陣に掲げられています。
なお、浄応上人が学僧として世に広く知られていた証拠として、播州揖西郡伊保庄正条村浄栄寺より依頼されて「大蔵経勧進序文」に浄応上人は筆をふるっています。
めずらしい経堂
また、浄応上人の時代に、今もある常泉寺の経堂(写真)が建てられました。
経堂には多くの経典とともに浄応上人の著述も蔵されています。
経堂を持つのは、この辺ではめずらしい寺院です。
*『稲美町史』参照
「中村を歩く」はしばらくお休みし、北山の歴史探訪に出かけます。
「北山・常泉寺の伝承」からはじめましょう。
*『稲美町史』(p860~61)参照
北山・常泉寺の伝承
北山村に喜多太夫という農夫が住んでいました。
ある日、喜多太夫は畑で草刈をしていると、草むらから長さ3尺(約1メートル)ばかりの蛇が、とつぜん太夫の手の指に噛みつきました。
太夫は気の強い人でした。蛇をつかみ、頭から尾まで引き裂いて殺してしまいました。
家に帰ると高い熱が出て、苦しくて耐えられなくなりました。
いろいろクスリを使ったのですが、いっこうに効き目がありません。
そのため一心に神仏にお祈りをしました。
ある日のことでした。加東郡の東条に住んでいる者だと言って、一人の老僧が訪ねてきました。
老僧は「そなたの病は並大抵では治りません。阿弥陀様におすがりしなさい。一心に阿弥陀様にお願いすれば、やがて病も治るでしょう。
今度来る時には、ナムアミダブツの一幅のお軸を持って来てやろう・・・」と言って去っていきました。
藁をもつかむ気持ちの太夫は、その日からナムアミダブツの名号を一生懸命唱えるようにしました。
そうしていると、不思議に苦しさが消えるのでした。
それから2年が過ぎたある日のことでした。
再び老僧が訪ねてきて「以前約束したナムアミダブツのお軸を与えよう」と太夫にお軸を与えました。
重ねて「この世は一時の仮の宿、あなたは阿弥陀様の本願を信じる親鸞の教えを信ずることです。そうすれば、病苦も癒えて、来世でも苦しみのない生活が続くのです・・・」と、ねんごろに教えました。
喜多太夫は、いよいよ阿弥陀様を信ずるようになりました。
その後、老僧の行方は誰も知りません。
ナムアミダブツの名号の軸は蓮如上人の直筆のものでした。
喜多太夫は、仏堂をかまえ、この軸を安置しました。
近隣の人々は、このふしぎな話に感じ、みな宗旨をあらためて(浄土)真宗に帰依しました。
近くの涼光庵の禅僧もこの門に入いり、念仏者となりました。
喜多太夫は、この僧に住職をお願いしました。
これが今の常泉寺の第一世・涼光上人であると伝えています。
*写真:北山・常泉寺
寛延3年(1750)の明細帳のはじめの部分を読んでみます。
国岡新村が誕生したのは寛文2年(1662)ですが、その後まもない頃の村高が記載されています。
開発当初:石高の335石4斗7升5合の村
川畑清右衛門様
神戸久兵衛様
岡田?左衛門様
寛文九酉三月御竿
一 高四拾石四斗七升九合 石坂甚左衛門様
寛文十三丑三月御竿
延宝二寅二月御竿右御同人様
高〆三百三拾五石四斗七升五合 免三ツ取
田畑三拾六町九反弐畝廿壱歩
内
畑弐拾町六反八畝拾六歩 壱石弐斗代上中下なし
*?は解読できない文字です。
(写真の明細帳は上記の一部)
寛文9年(1669)の検地では、石高は294石9斗9升6合です。
そして、寛文13年(1673)と延宝2年(1674)の検地では、新たな開拓により40石4斗7升9合が増加して、〆て(合計)335石4斗7升5合となっています。
「免三ツ取」とあるのは、その内3割が年貢という意味です。
そして、田畑は36町9反2畝21歩、その内、畑が21町6反8畝6歩ですから田は15町2反9畝15歩ということになります。
開発当時は、水も十分でなく畑作中心でした。
国岡新村の歴史は、その後水田・畑ともに大きく拡大させた百姓の歴史です。
(土・日はシリーズ「国岡の歴史」です)
寛延3年(1750)年の国岡新村の明細帳を読んでいます。
解説の必要がないほどの文章ですが、解読文を付けておきます
(国岡新村明細帳-寛延3年-)より
一 家数 九拾九軒
一 人数 五百弐拾三人 内 男 弐百七拾四人
女 弐百四拾九人
一 大工 弐人
一 木引 弐人
一 禅門 壱人
一 牛数 三拾五疋
家数99軒、人数523人(男:274人、女249人)、大工2人、木引(木挽)2人、禅門1人、それに牛数35匹です。
木挽は桶などを作る職人で、禅門というのは僧のことです。
これらの数字から当時の国岡新村のようすを想像してみましょう。
牛数 35疋、(家数 99軒)
牛数を考えてみます。
家数99軒で、牛数35疋です。農耕には欠かせない大切なのが牛です。単純に計算しますと約3軒に1疋の割りになります。
ですから3軒に2軒は、牛がなく農耕をしていたことになります。きつい労働であったことでしょう。
『稲美町史』(339p)に、北山村の明細帳(元文2年・1757)の数字があります。
それによると北山村は124軒で牛数42疋です。
北山村も約3軒に牛は1疋の割で、国岡新村の牛数が特に少ないわけではありません。
それにしても、きびしい農作業であったようです。
前号で向山集落の誕生は元禄時代として紹介しました。
では、向山の祖先はどこから移住してきたのでしょうか。
「向山」は「向かいの山」
前号で「向山にはかつて、明願寺という明福寺(下沢)の説教場としての寺があった・・・」と『稲美町史』を引用しました。
これは入植前の自分たちの旦那寺、つまり下沢の明福寺に願い出て、明願寺という説教場を向山集落に建立したものと考えられます。
そして、明願寺を心のよりどころにして村を発展させたのでしょう。
それに、何よりも向山の人達は「自分たちの祖先は下沢から移り住んだ・・・」とはっきりとその歴史を受け継いでおられます。
明福寺(下沢)の辺りから、向山の方をみると、坂は曇川の辺りまでいったん下っています。
そして、再び向山の方へと急な登坂となっています。
向山の地形は、下沢から見ると、まさに「向かいの山」です。
では、「下沢の多くの人々がなぜ向山に移住したのだろうか・・・」ということですが、当時の社会の動き、近辺の村々の記録から推測して、新田開発のためとしか考えられません。
このようにして、中村向山は誕生しました。
時代は、元禄時代です。
当然のこととして、この時、中村の大庄屋の小山五郎右衛門の政治力があったと思われます。
挿絵:北条正さんが描いてくださった「開拓に当たる百姓の姿」です。
先年、大腸がんで亡くなられました。ご冥福をお祈りします。