北山村との水争い①
国岡新村が姫路藩の命令で、北山村の所有の「入が池」から、用水の一部を得ることができるようになりました。
このように、新しい水利秩序ができあがると、すべての問題が片付いたわけではありません。
村にとって水は死活問題のために、その後も「水争い」はしばしばおきています。
一応の水利秩序ができた後は、藩の強力な水利権に対する影響力は減少し、基本的には、当事者間で水利秩序を守り、問題を解決するのが原則とされました。
というのは、裁判となると訴訟費用かかり、精神的負担があります。
それに当事者どうしの解決の方が、双方の納得が得られ、あとあと実際に効果があったためです。
藩が複雑な水利訴訟を解決するためには、担当役人は各地の細かな水利慣行に習熟する必要があります。
役人に、それを求めることは無理でした。
そして、藩が判決を出しても、訴訟の再発が起こり藩の権威を失うことが起こります。
そのために、水争いは当事者の話し合いを優先させました。
しかし、当事者で解決できなくなることもしばしばおこりました。そんな時は、代官所に訴えでます。
国岡新村の場合、入が池の水をめぐって北山村との水争いがしばしばおきました。
次号では、宝暦11年(1761)の水利訴訟を例に水争いの過程を追ってみることにします。
*「北山村との水争い」は「(稲美町探訪)北山を歩く」としてもお読みください。