ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(328):北山の歴史(17)・中嶋信太郎先生(2)

2010-09-30 07:28:06 |  ・稲美町北山

Hirokazu_165 前号の続きです。

中嶋信太郎先生は、明治37年(19044月のお生まれで、平成19年(20071月、102歳でお亡くなりになりました。

平成17718日、稲美町は町に多大な貢献があった先生に対し「名誉町民」の称号を贈りました。

先生は、万葉歌の研究ばかりでなく、自らも多くの歌を詠まれています。

その一部が、万葉の森の歌碑となっています。

万葉の森を訪れられた時、印南野を読んだ万葉歌碑と共に先生の歌碑も訪ねください。

   歌碑(常泉寺)

今「稲美町探訪」は「北山」を探訪しています。

北山に残された先生の歌碑をたずねます。

北山の常泉寺の山門を入ると左手に鐘楼があります。

鐘楼の横に中嶋先生の歌碑があります。

この鐘の 響かふかぎり とことはに

和みぞ行かむ 人の心は

              *とことは・・・末永く

         (歌:中嶋信太郎、設立者:丸尾佐市)

昭和39年、梵鐘が多数の人びとの喜捨により再鋳された機会に、梵鐘記念碑として建設されたものです。

残念なのは、歴史を持つお寺が少し荒れていたことです。

歌碑を訪ねた時、訪ねる人も少ないのか、じゃまされることなく4匹の猫が木の下で昼寝を楽しんでいました。

*写真:常泉寺の歌碑

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稲美町探訪(327):北山の歴史(16)・中嶋信太郎先生(1)

2010-09-29 11:13:38 |  ・稲美町北山

中嶋信太郎先生は北山の人です。

中島先生は万葉研究家・国文学者・歌人として稲美町のみならず広く活躍されました。

また、稲美町が誇る「万葉の森」の開園にも奔走されました。

<先生の主な経歴>

    大正12年~昭和51年 小学校・女学校・高等学校教諭

    昭和43年~昭和54年 「稲美町史」編集委員、執筆

    昭和52年~平成19年 短歌団体「茅花(つばす)結成、主宰

    昭和54年~平成19年 国安天満神社献詠祭実行委員長

    昭和63年~平成13年 いなみ野万葉の森の会長

    平成13年~平成19年 いなみ野万葉の森の名誉会長

そして、多くの受賞歴をお持ちです。

   中嶋信太郎先生(1)

58c43669 中嶋氏を紹介する時、「先生」をつけなければ、落ち着きません。

というのは、個人的なことで申し訳ないのですが、私の高等学校卒業は昭和37年です。

その時の教頭先生が中嶋先生でした。

学年担当が違っていたのか授業は受けていません。

でも、校内で毎日のようにお目にかかりました。

『印南野文華』でYTさんは、「・・・高校の漢文を教わった頃、痩せていて色黒で、おじいさんに見えた・・・」

私もYTさんと同じよう印象を持っていました。

    怠惰になるな!

後日、先生の著書を読ませていただいて、その学識の深さにビックリさせられました。

そして、あるところで、中嶋先生は次のように語りかけておられます。

「・・・病気でもない健康な通常人に対して、少しゆっくりせよ、休み休みする方がよい、少し怠けろ、とは誰が言うものか。

大体人という者は怠けやすいものである。

休めといわれないでも自然に休養は取る。

絶対に休養しないで働き続けることは肉体的にも精神的にもできない。

しかし、その休養が長くなりすぎ、自然に、そして知らずしらず怠惰に陥ることになる・・・」(『印南野文華』より)

先生から私どもへの教訓です。先生は文章そのままの人生を送られたようです。

*写真:中嶋信太郎先生(昭和37年『加古川東高校卒業アルバム』より)

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稲美町探訪(326):北山の歴史(15)・口上書の語ること

2010-09-28 11:06:02 |  ・稲美町北山

「稲美町探訪(324)」、北山の人口の減少(江戸時代)をご覧ください。

そこで、「北山村の場合では、江戸中期より戸数で一割たらず、人数で三割以上の減少が見られる」と書いています。

その理由として「北山村は(古い村で)家族数が最も高く・・・・石高の少ない百姓も多かったと想像される。

古い村ですから、村内には開拓できるところは少なく、大きな増収(発展)は見込まれなかったのでしょう。

そのため村を離れた百姓も多かったと想像されます」と書いておきました。

   「口上書」の語ること

11072fab このことを証明する文書ではないのですが、『稲美町史』(850852p)に「口上書」(安政四年・1857)の解読文がありあます。

この文書の主人公をBさんとしておきます。

Bさんは、蛸草新村の百姓です。

(内容) 

蛸草新村のBさんは、昨年の冬病死しました

その跡継ぎのことが親類の間でもめて決着がつきません。

そのため、関係者が寺の方からの指図(決着)をお願いしました。

このもめ事は、寺の指図どおりに決着しました。

   

  旦那寺は北山村・常泉寺

このことは、当時、寺は檀家に強い力を持っており、檀家はその旦那寺を頼って事あればその処理を仰いでいたことを物語っています。

檀家と旦那寺の結びつきの強さを知ることができます。

さて、もう一点は、Bさんの旦那寺のことです。

Bさんは蛸草新村の百姓ですから、旦那寺はてっきり草谷村にある寺と想像しますが、Bさんの旦那寺は北山村の常泉寺です。

つまり、いつの頃かBさんの祖先は、蛸草新村の開拓にあたり、村を出たのですが、多くの百姓がそうであったように、Bさんも故郷の村の常泉寺を旦那寺としました。

ですから、常泉寺の檀家の分布状況をしらべれば、先祖がどこへ開拓に出かけたのかを知るヒントがあるようです。

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稲美町探訪(325):北山の歴史(14)・往来一札之事(旅行証明書)

2010-09-27 10:51:32 |  ・稲美町北山

往来一札之事(旅行証明書)

5217a8a4 稲美町内の仏教は、真言宗・浄土宗真宗・禅宗が大部分を占めていました。

村の各家は、檀家として、日常生活において種々の規制を受けました。

寺と個人は、非常に固く結ばれていました。

寺には「宗門改め帳」が備え付けられ、丁度今の戸籍のような役割を果たしていました。

旅行も勝手にできません。

寺院の許可と証明書が必要でした。

『稲美町史』に、北山村のAさんが旅行に出かけた時に常泉寺が発行した「往来一札之事」(旅行証明書)が紹介されています。

解読文ならびに詳しい説明は町史をご覧ください。

(内容)

北山村のA氏は、代々浄土真宗の常泉寺の檀家に間違いありません。

この度、親鸞上聖人の御旧跡を巡拝に出ました。

国々の関所はお通しください。

また、旅の途中では、一泊の宿のお世話をお願いいたします。

もし旅の途中で病気になり死亡しましたら、その旨をお知らせいただかなくて結構です。その土地のしきたりにより処分ください。

後日のため、旅行証明書を出しておきます。

天保三年(1832)四月

浄土真宗 常泉寺 印

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稲美町探訪(324):北山の歴史(13)・人口減少(江戸時代)

2010-09-26 15:42:56 |  ・稲美町北山

<北山村の家数および人口>

元文2(1737)   家数 124軒  人口751

明治14年(1881) 家数 117軒  人口497人   

2a19c6cc 上の数字を見ながら『稲美町史』(230p)の一部を読んでみましょう。

・・・

国安村、北山村では江戸時代の戸数、人口より明治期のほうが少ないという減少化の傾向があらわれている。

とくに国安村のばあい江戸時代中期より三割の戸数と四五%にも及ぶ人数の減少がみられる。

北山村の場合では、江戸時代中期より戸数で一割たらず、人数で三割以上もの減少がみられる。

古くからいわばこの稲美町域、とくに天満地区の中心的な村であった北山、国安両村の没落は、新しい村々すなわち印南新村、加古新村、蛸草新村などの発展と著しく対照的である。

また、一戸あたりの家族数を調べてみると、江戸時代では北山村が最も多く、6.1人で、その次に五人台として野寺・国安・岡・印南新とつづく。

そして一番少ないのが加古新村の3.7人で新村ほど少ない傾向が明らかであろう。

   北山村は家数・人口ともに大きく減少

 つまり、稲美町域の江戸時代~明治時代初年における人口は、ほとんどが増加しています。

その中にあって、北山村は国安村と共に家数・人口共に大きく減少しています。

国安・北山村は歴史も古く、この地域の中心となってきた村です。

『稲美町探訪(241)』で国安村の数字を取り上げました。

寛延3年(1750)の国安の91%が10石に満たない百姓なでした。

それに、家族数は5.3人と高くなっています。

<msnctyst w:st="on" addresslist="30:北山村;" address="北山村"></msnctyst>

 北山村は、家族数が最も高く6.1人です。そして、石高の少ない百姓も多かったと想像されます。

古い村ですから、村内には開拓できるところは少なく、大きな増収(発展)は見込まれなかったのでしょう。

そのため、開拓のため村を離れた百姓も多かったと想像します。

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稲美町探訪(323):北山の歴史(12)・国岡新村との水争い

2010-09-25 08:04:37 |  ・稲美町北山

きょうは、復習です。

先に「国岡の歴史(一部)」をまとめました。

「国岡の歴史(7~9)」は、「江戸時代の北山村と国岡新村との水争い」について書いています。

そして、「国岡の歴史(20~22)」は「明治以降の北山村と国岡新村との水争い」について若干触れました。

これらの記事は、北山村の歴史としてもお読みください。

江戸時代に先立つ戦国時代は戦争に勝利のために、土木技術・築城技術・鉱山技術が発達した時代でした。

江戸時代の初期は大開発時代

Ec25e250 やがて、平和な江戸時代となり、戦国時代に発達した技術が農業に転用されるようになりました。

そのため、江戸時代の初期は、日本の歴史の中でも一大開拓時代ブームとなりました。

姫路藩は、年貢増収の必要から新田の開拓を奨励します。

国岡新村辺りには荒地が残っていました。

しかし、その辺りを農地に変えるためには、入ケ池を経由しなければ水は得られない地形に位地していました。

そのため、姫路藩は北山村に入ケ池の水を国岡新村に分けるよう命令を出します。

藩の命令とあれば、北山村としても従わざるを得ません。

しぶしぶ藩の命令に従いますが、何とか北山村に多くの水を確保しておきたかったのです。

北山村としては、国岡新村に水を分けるという不利なことはしたくはありません。いろいろな条件をつけました。

そのあたりの事情については「国岡の歴史(6)・藩権力」をご覧ください。

水は農民の命でした。江戸時代を通じて、国岡新村としばしば水争いを引きおこしました。

それに、北山村内でも開拓が始まりました。

水の確保は、今までにまして強まりました。

そのような事情の中で、水の神である、北山天満神社は勧請されたのでしょう。

   昭和まで続く水争い

水争いは、江戸時代にかぎられたものではありません。

北山と国岡の対立は、昭和の時代(初期)までつづいたのです。

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稲美町探訪(322):北山の歴史(11)・北山天満神社

2010-09-24 11:41:18 |  ・稲美町北山

北山の天満神社に来ています。

神社は村から少しはなれた静かな丘陵地にあります。

本殿には次のような説明がりました。一部を掲載させていただきます。

Inamimachi7_170 ◇北山若宮の由来◇

田の水確保を祈願して創建された。

  (略)

御祭神

一、菅原道真公

   学問の神様

   天地水の神様

一、     大歳の神(池大明神)

池水農耕の神様

一、     市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

池を守る神様

創建

  不明であるが鳥居に記録のある享保五年(1720)かあるいはそれ以前であろう。

   (以下略)

この神社は江戸時代のはじめのころに、水(農耕)の神として、国安八幡神社の神を勧請しています。

「北山村は、都が明日香(奈良時代以前)にあった頃、入ケ池をつくり農耕を始めた」という伝承を持っています。

伝承の年代は、ともかくとして、古くから開かれた村です。

近隣にはあまり集落はなく、北山村は入ケ池から下沢までの曇川の水を独り占めの状態で使ってきました。

しかし、江戸時代になり事情は急変しました。

万治元年(1658)年、北山村のすぐ北に加古新村の開拓が始まりました。

南には、寛文2年(1662)には国岡新村が誕生しました。

そして、北山新村では荒地の開拓も始まりました。

水がたちまちに不足するようになりました。

北山の天満神社は、そんな水事情の中で創建されたのでしょう。

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稲美町探訪(321):北山の歴史(10)・赤米

2010-09-23 09:12:20 |  ・稲美町北山

「北山の歴史」は「北山の歴史(9)」で、しばらく休んでいましたので、続きを再開します。

歴史を中心に、いろいろな話題を取り上げます。

きょうは、北山に栽培されている「赤米」の話題です。

   赤い稲穂 秋風に揺れ

Hirokazu_139 20日(月)の神戸新聞の朝刊(東播版)に、「赤い稲穂 秋風に揺れ」の題字で、次の記事を載せています。

・・・

 古代米の一種「赤米」が稲美町北山の水田で鮮やかに色づき、赤い稲穂が秋風に揺れている。

 通常の稲穂に比べて背丈が高く、籾の先端にひげのような芒(のぎ)がある。

近くで糀みその醸造所を営む繁田喜彦さん(52)が、5年前から「神丹穂(かんにほ)」という品種を栽培している。

 「今年は好天の影響で生育がいい」と、繁田さん。

 10月下旬頃から刈り始め、約300キロを収穫する見込み。

JA直売所や醸造所などで小分けして販売する。・・・

   ド迫力の赤米

 昨日(22日)昼から、その古代米(赤米)を見学に出かけました。

一緒していただいた方の説明では、この米の生育のすばらしさは土づくりにあるそうです。

「農薬はいっさい使っていない」との事でした。

米の生育に「迫力」とはいささか、大げさのようですが、ご覧になればそれが実感できます。

赤いより「紫」の穂は、他の稲穂を圧倒する迫力をもっていました。

販売されるそうですから、この赤米で「握り飯」をつくって、ほお張ってみたい。

*写真:収穫をまつ赤米(稲美町北山)

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稲美町探訪(320):国岡の歴史(50)・国岡の歴史(一部)終了

2010-09-22 10:20:02 |  ・稲美町国岡

 国岡の歴史(一部)終了

「国岡の歴史」が50回になりました。

この辺で「国岡の歴史(一部)を終わり、次の話題へ進みたいと思います。

「国岡の歴史」の最終回は、彼岸花のある風景をバックに国岡の風景を載せ「国岡は岸花とコスモスの中にあった・・・」とでも、かっこよく書いて終わりたかったのですが、今年の9月ばかりは夏をひきずり、彼岸花も・コスモスも秋を忘れているようです。

  国岡の歴史(二部)を続けます。でも・・・

2c2a3050 今回の「国岡の歴史」を一部としておきます。

というのは、「国岡土地改良区」には、今回紹介できていない江戸時代を中心とした古文書が多数保存されています。

その一部は紹介しましたが、ほとんどが紹介できていません。

「国岡の歴史(二部)」では、これらの史料を利用して、さらに国岡の歴史を深めたいと考えています。

これからが、「国岡の歴史の本番」です。

でも、ここで問題があります。

古文書がよく読めないんです。

どなたか、読んでいただけないでしょうか。

そのため二部の紹介までには、時間がかかると思います。

ご了承ください。

*ご意見・ご感想をqq7z6tn9@mist.ocn.ne.jpまでお寄せください。

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稲美町探訪(319):国岡の歴史(49)・村誕生には壮絶な歴史が!

2010-09-21 10:22:32 |  ・稲美町国岡

地方史で思うのですが、記録に残る史料だけでは、その歴史の全体像が浮かびあがらないことが多いようです。

全体像を記録した史料を期待しても無理です。「想像」で補う必要があります。

きょうもそんな「国岡の歴史」です。

加古新村のような村を!

Hirokazu_109  寛文2年(1662)に国岡新村が誕生しました。

次の会話は、それに先立つ数年前の村役人らしい百姓の会話です。

現在の「愛宕」の名称は愛宕神社が勧請された後の名称ですが、その場所を愛宕として話を進めます)

農夫A:愛宕さんの辺りは水が少ないところだが、広いところが荒地でそのままですな。

農夫B:あそこに水は引けないものでしょうか。そうした、らじょうさん(たくさん)の作物ができますやろに。

農夫A:加古新村をみてみなはれ。あないな高とこに村をつくったやないですか。

農夫B:それに、姫路の殿様もずいぶんのり気でしたな。

農民A:わし等も愛宕のあたりの荒地を開発しませんか。村のもんに、何回もこの話をしましたら、「あの辺は水がのうてダメ」と話になりません。

わしらも、加古村の沢兵衛さんのような立派な計画を作り藩にお願いしてみましょう。

そうしたら村のもんもその気になりますわ。今のままでは何時までも貧乏のままです。

(加古新村の開拓については「稲美町探訪(1619)・加古新村誕生」をご覧ください。

・・・・

二人の百姓は、国安村の庄屋:彦太夫と岡村の庄屋:安右衛門です。

これは記録にもとづく、会話ではありません。勝手な想像です。

   開発は自普請で

二人の庄屋は何回となく、村の者に具体的に計画を話したことでしょう。

ついに、綿密な計画をつくり藩に「開発願い」を提出し、開発の許可書をえました。

しかし、加古新村の開発と違っていたのは、「開発は許可する。ただし、開発に伴う費用は自分たちの負担(自普請)とする。その他のことに関しては援助を惜しまない」というものでした。

入が池の問題・藩権力については先に説明(「国岡の歴史・6」)しましたのでそれをお読みください。

   村誕生には壮絶なドラマが! 

新しい村をつくり田畑をつくるには、まず池・溝を造ることになります。

池が造られた年代を『稲美町史』から拾ってみます。

城の池・山城池・上棒池・下棒池・千波池・入ヶ池の改築が国岡新村誕生の寛文年間となっています。

その他の費用も要ったと思いますが、とりあえずこれらの池・溝を造るためだけでも莫大な労力と費用が必要です。

これらに対して、加古新村と異なり「自前の労力と費用で完成させろ」というのですから、その苦労は想像できます。

国岡誕生の裏には記録にはない壮絶なドラマが展開されたはずです。

*写真:現在改修中の千波池(せんばいけ)

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稲美町探訪(318):国岡の歴史(48)・国岡の水路

2010-09-20 13:16:35 |  ・稲美町国岡

5b975e78 国岡の水路は「国岡の歴史(18)」でも取り上げています。一部変わっていますので、きょうは「国岡の水路の改訂版」です。

 ・・・

明治から大正にかけて国岡では3つのため池が造られました。

明治初期には權ノ池が造られ、そして、淡山疎水の整備により、明治33年に美谷池が大正4年には琴池が築造されました。

それに伴い、水の流れも一部流を変わりました。

 ・・・

 権ノ池・美谷池の場所については「国岡の歴史(24)」で確かめてください。

*美谷池(昭和51年、県立養護学校用地として売却)、権ノ池(昭和59年、稲美町スポーツセンターとして売却)、は埋め立てられ、そして寛文(1661216633)年間に造られた山城池も平成11年に埋め立てられ、現在商業施設となっています。

現在、図のように国岡土地改良区所有の池(赤く塗った池)は下棒池(しもぼういけ)・上棒池(かみぼういけ)・愛宕池(あたごいけ)・千波池(せんばいけ)・城ノ池(じょうのいけ)・琴池(こといけ:国安と持合)・新池(しんいけ:国安と持合)です。

(琴池の4割、新池の5割が国岡の管理)

   歴史を支えた水路

そして、国岡の池は、図のような水路で結ばれています。

現在は、東播磨用水により水路の水の心配はほとんどなくなりましたが、国岡の歴史は、まさに水をめぐる歴史でした。

これら水路は池と一体で国岡の歴史をつくった大切な血管の役割を果たしてきました。

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稲美町探訪(317):国岡の歴史(47)・邪推

2010-09-19 07:31:09 |  ・稲美町国岡

愛宕神社の境内にきています。

現地にいると、いろいろ考えたり、想像したりします。

次のことも、その一つです。

資料の裏づけがないのでないので、きょうの話題は「コーヒーブレイク・邪推」としておきます。

皆さんは、どのようにお考えになりますか。

   愛宕神社のこと

177 「国岡は、岡村の庄屋・安右衛門と国安の庄屋・彦太夫が中心になり開発した新田村です。

そうであるなら、なぜ国安村の天満神社を国岡新村の氏神として勧請しなかったのだろうか?」ということです。

ともかく、寛文二年(1662)に村が誕生し、山城国(京都)愛宕山より愛宕神社を勧請しています。

そして、国岡新村の開発人であった安右衛門が堂守となっています。

    4 つ の 邪 推

新田ができた時、まず氏神様をつくります。

その時、彼らの出身地の氏神様を勧請するのが一般的です。

国岡の場合、国安村と岡村の庄屋が中心になり国岡新村を開発しているので、国安村の天満神社を勧請してもよさそうなものです。

そうはならず、愛宕神社を勧請しました。なぜでしょうか。

次のようなことを考え(邪推)てみました。

       国岡新村は国安村と岡村の庄屋が中心になり開発した新田村であるとの記録から村人のほとんどが国安村・岡村からの入植と考えてしまいがちですが、近隣の多くの村々からも多数入植(記録は何も語っていません)して、氏神様を天満神社とすることには合意が得られなかった。

       愛宕さんは、国岡新村の開発人の一人であった安右衛門の個人的な信仰であった。

       京都市の最高峰、愛宕山(932メートル)は都で最初に朝日を受けるところにあります。国岡の愛宕神社付近も稲美町の高いところに位置し、神聖な場所に愛宕さんを勧請した。

       前号と関係するのですが、新田村が誕生し、次に寺や氏神さんを建設します。お金がない!愛宕さんは神仏習合(神仏混交)の霊山でした。とりあえず、愛宕神社一社で神も仏も間に合わせた。  

そのほか、どんなことをお考えになりますか。推理ください。

*写真:春の祭り(2月)

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稲美町探訪(316):国岡の歴史(46)・神仏混交

2010-09-18 07:49:25 |  ・稲美町国岡

愛宕神社の境内を動き回りました。

現地にいると他のことを考えないのか、いろいろなことが目につきます。

    神仏混交

Hirokazu_126 愛宕神社では、まず神仏混交について考えてしまいました。

それほど愛宕神社は、神と仏の混淆が鮮明に残されているのです。

愛宕神社というのですから「神社」です。

もちろん、「日本の神々は古くから仏教の仏が仮の姿で現れたもので、神も仏も同じものである」とする神仏混交の考えが主流でした。

「権現」という言葉をお聞きになったことがあると思います。

「權」は「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の姿をとって「現れた」という意味です。

    神仏分離令

Hirokazu_115_2 明治元年(1868)、明治政府は、この神仏混交の考えはまちがいであるとし、神仏分離を命令し、神社を擁護しました。

国安天満宮内にあった円光寺を中村へ移動させたのはその典型的な例です。

一部には廃仏毀釈の激しい運動が起こりましたが、この神仏分離、特に廃仏の運動は徹底されませんでした。

そのため、多くの寺・神社には、その名残があります。

それにしても、国岡の愛宕神社には、仏教関係の建物・石造物が多く「残りすぎている」ようです。

かつて、日本宗教が神仏混交であったことを示す「サンプル」のようです。

愛宕神社には仏教関係の石造物・建物として、行者堂、地蔵堂、宝篋印塔(享保八年・1723)があり、鳥居に「享保十三年(1728)戌申・念仏講中」の銘が刻んであります。

*写真上:行者堂、下:宝篋印塔

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稲美町探訪(315):国岡の歴史(45)・庚申信仰

2010-09-17 08:03:17 |  ・稲美町国岡

「稲美町探訪(152)」で庚申信仰(こうしんしんこう)についてとり上げました。

稲美町を散策していると、稲美町は、県下でも但馬・淡路とともに庚申信仰が盛んな土地柄のため、しばしば「青面金剛(しょうめんこんごう)」の碑に出会います。

江戸時代、庚申信仰では、もっぱら青面金剛が拝まれるようになりました。

でも、不思議なことに国岡を歩いていると「庚申さん」に出会わないのです。

先日、愛宕神社に出かけました。

すると、本殿の東に、他では見られないような立派な庚申堂(写真)がありました。

やはり、国岡新村も庚申信仰が盛んな村でした。

庚申信仰(こうしんしんこう)

Hirokazu_120  江戸時代、ずいぶん盛んであった。庚申信仰(こうしんしんこう)も現在では、すっかりその姿を消しました。

 庚申信仰は、平安時代に中国から日本に伝わり、一般民衆の信仰になったのは、室町時代のことで、特に、江戸時代に盛んに行われました。

 コウシンさんは、庚申の夜(六十日に一回)、人体に住むというサンシチュウという虫が、人の寝ている間に天に昇り、天上の神にその人の罪を告げに行くといいます。

 そのため、庚申の夜は寝ずに、当番の家に集まり、庚申像をおがんだり、村の庚申さんにお参りに行くという行事です。

 いつしか、この行事は人々が集まって、一晩中酒を酌み交わし、演芸を楽しむと言う行事に変っていきました。

庚申の夜のザワメキが聞こえてきそうです。 

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稲美町探訪(314):国岡の歴史(44)・国岡郵便局

2010-09-16 08:51:09 |  ・稲美町国岡

   国岡郵便局(明治14年以前の郵便局)

3fb0db32_2   稲美町域内では、明治14年までに郵便局が、すでに国岡新村に設置されていました。

播州葡萄(ぶどう)園の記録によれは、同園から要請し、国岡郵便局および農政局長の双方から、「新たに印南新村に郵便局を設置されるよう」との申請がなされました。

その申請の内容は、「(葡萄園のある)印南新村には郵便局がなく、郵便物は国岡新村郵便局を経由して配達されます。

「葡萄園は、国岡新村より、ずいぶん遠いので大変不便をしています。・・・そのため印南新村に新しく郵便局を設置して欲しい・・・」というものです。

この申請に対して、明治14年“了承”の回答が丸尾茂三郎へ寄せられ、印南郵便局が設置されました。

したがって、葡萄園の記録から、国岡郵便局が明治14年にはすでに設置されていたことが分かります。

現在の稲美町域内では最も古い郵便局です。

しかし、その詳細や、廃止時期等はあきらかではありません。

国岡郵便局については『稲美町史』(p367368)をご覧ください。

明治37年になって加古新郵便局が設けられました。

これが現在の稲美の郵便局の前身です。

*明治25年頃の郡長・北条直正から魚住逸次氏への葉書(『稲美町歴史』より)

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