ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(299):不許葷酒入山門

2012-06-10 08:39:49 |  ・加古川市志方町

 前号「志方町を歩く(298)」で観音寺山門横の志方城の石垣を紹介しました。

 今日は、山門にある石造物「結界石(けっかいせき)」です。

結界石

002「不許葷酒入山門」と刻んだこの石塔(写真)は、観音寺の山門の「結界石(けっかいせき)」です。

「クンシュ、サンモンニ、イルヲ、ユルサズ」と読みます。

葷酒の「葷」は、ニラ・ニンニク・ネギなどの臭気がある食物や、カラシ・トウガラシなどの刺激性のあるもの、精力の出ると言われている食物、それに肉などを指しています。

これらは、寺での行の妨げになるので、それらを食べて寺に入ってはいけない。

また、酒も飲んで寺に入ってはいけない、と言う意味です。

禅宗寺院の山門によくみられます。

観音寺(志方町)は、禅宗・曹洞宗の寺です。

ほとんどの結界石は、江戸時代に造られています。

観音寺の結界石には、造られた時期を示す銘はありませんが、江戸時代のものと思われます。

   山門を入れば、そこは聖域

もともと仏教の寺では、葷酒を禁止しています。

ですから、ことさら葷酒を結界石に刻んで他に示す必要はないとも言われており、これは俗人が寺内にこれら「葷」を持ち込むことを禁じる意味もあるといわれています。

また、「葷」の造りの「軍」を支配者の意味とし、あわただしい軍乱の中で支配者が交代しても寺院の独立を守るとする説もあります。

 *『日本石仏事典(庚申懇話会)』(雄山閣出版株式会社)参照

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志方町を歩く(298):志方城の石垣跡

2012-06-09 11:39:04 |  ・加古川市志方町

   志方城址

362f2b12 『志方の文化財(志方町教育委員会)』で、志方城址読んでみます。

志方城は市易城とも呼ばれ、この城を築いた櫛橋左京亮則藤は藤原氏の出で代々赤松氏に仕え、播備作の三州の財産出納の役を務めた。

明応元年(1492)志方城を築き、文亀元年(140179才で没し、伊家、伊定と三代役90年続いて、天正8年(1580)戸共に豊臣秀吉の為に落城した。(以上、『志方の文化財』より)

そして、志方町観音寺に残る志方城の石垣の一部の写真(写真上)が添えられています。

その写真には「わずかに残っている旧志方城の内張りと石垣の一部」とあります。

『志方の文化財』が発行されたのは昭和483月ですから、その当時は写真のような旧志方城の一部と堀の一部が残っていたようです。

先日、山門横の石垣の写真(写真下)を撮りに出かけました。

堀は、埋め立てられ残っていません。

そして石垣は、綺麗にセメントで隙間を補修し元の姿が分からなくなっています。

志方城のイメージを持って見学に出かけた者にとっては、少しさびしい気持ちにさせられました。

イメージとは次のようです。別の所で書いた拙文を再掲しました。

    志方城の戦い

003戦国時代、加古川地方の城主は、ほとんど毛利に味方した三木方につき、信長・秀吉と戦った。

 まず、野口の城が落城した。

 ついで、神吉城が信長方の大軍におしつぶされた。

 その後、信長軍は志方城へ攻め寄せた。

 志方城に先立つ神吉城の戦いでは、織田方の30.000の軍勢に押しつぶされ、城主(神吉頼定)も討たれた。

 この時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はなかった。野口城の戦いでも援軍はなかった。

 志方城の戦いでも援軍は期待できなかった。負け戦は確実である。

 唯、戦うとすれば「勇敢に戦ったという事実を歴史に残す」という美学だけが支えの戦いになる。志方城が、そんな美学だけで、一丸となって戦ったとは考えられない。

 城主・伊則の娘は、信長方の知将・黒田官兵衛の妻である。当然のこことして、説得はあったと思える。

志方城のあった場所は現在観音寺である。城であった痕跡はほとんどないが、観音寺の山門脇の石垣に城跡がわずかに残る。

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志方町を歩く(297):四尊笠塔婆(志方町観音寺)

2012-06-08 06:52:56 |  ・加古川市志方町

 最近、よく石造物等の見学に出かけます。

 そこに説明があれば、助かります。説明を読みながらいろいろと想像もできます。

先日、志方町観音寺の「四尊笠塔婆」(写真)の見学に出かけました。

無縁墓地のそばに説明板がありました。読んでおきます。

   四尊笠塔婆

008笠を欠いているのは仏性寺のものと同じであるが、軸の長さはやや短く、太さにおいて少しま(「さ」が抜けているか?)っている。

蓮台の上の像の高さもやや高い。

衣紋の線、台座の蓮弁のきざみ方、姿態の美しさ等仏性寺のものとそっくりである。

紀年銘はないけれども南北朝のものと推定される。

四方の仏の位置が同じ高さでなく、相隣する二体が他の二体より三センチほど低く刻まれている。

それから軸の上部に深さ三センチほどのほぞ穴があいている。

仏像の位置とこの穴の点だけが仏性寺のものと相違しているところである。

          昭和六十二年三月

               加古川市教育委員会  

   四尊笠塔婆が見当たらない

 説明板はすぐ見つかりましたが、いつもとは反対にあたりを見渡しても笠塔婆が見つかりません。

 歩きまわりました。やはり、見当たりません・・・

 でも、あきらめませんでした。

 ありました!・・・ありました!・・・

 それもそのはずです。四尊笠塔婆は無縁墓地の中ほどに埋没していました。

 これでは、説明板は役に立ちません。

 よほど、石造物に知識があり、興味がある方以外は見つけることはできないでしょう。

 この四尊笠塔婆は志方町の貴重な文化財です。せめて、もう少し分かりやすい場所に移動させていただけませんでしょうか。

 ついでに苦言です。この笠塔婆を見学されて、仏性寺へ行かれる方がおられるかもしれません。

 仏性寺は「原の仏性寺」と場所を付け加えていただければ幸いです。

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志方町を歩く(293):アゾラ出現

2012-06-03 07:49:26 |  ・加古川市志方町

   アゾラ出現

036もう5年も前になります。8月でした。ブログで次のような文を書きました。

・・・

野口農協横の「駅ヶ池」を見ると、なんと!水面が真っ赤でした。

きれいというより不気味な感じです。

よく見ると、ヒシをびっしりと小さな赤い水草が取り巻いています。

それも、池いっぱいに覆っています。

「何という水草でしょうか?」また、「害は、ないのでしょうか?」・・

・・・この文を読んだ友達が神戸新聞に投書してくれました。

そして、新聞(夕刊)のトップに大きく「外来シダ植物‐アゾラ‐猛威」と報じ、記事は「アゾラは池の水質を変えてしまうので、放置せずに、可能な限り早期に取り除くことがのぞましい」と結びました。

その後、大掛かりなアゾラの除去作業が行われ、以来「駅ヶ池」のアゾラの出現はとまりました。

 その後、数か所の池でアゾラの出現が見られましたが、さいわいなことに大事にいたっていません。

   経堂池(志方中学校横)にアゾラ

先日、志方の宮山へ出かけました。

志方中学校へ手前の経堂池の水面は、ほとんどアゾラで覆われていました。

野口のアゾラと少し種類がちがうのでしょうか、茶色っぽいアゾラです。

わずかに、アゾラで覆われていない水面も、夏の暑さの中で、間もなく完全にアゾラで覆われると思われます。

水面全体がアゾラで覆われると、池は酸欠になり状況は悪化します。

そして、冬には枯れて腐り悪化し悪臭を放つようになります。

今、他の池に広がらないためにも、なんらかの対策を考える時でしょうね。

もっとも、アゾラの説明を読むと池にとって致命的な害を与える水草ではなさそうです・・・

  <アゾラ>

中国南部やベトナム北部では水稲の緑肥として利用してきました。

日本では稲が小さいときにアゾラが稲の頂部くっつくと光合成が妨げられるであるとか、アゾラが水面をおおうと水温が低下し、稲の生育を遅らせるなどと言われ、雑草扱いされています。

写真:経堂池のアゾラ

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志方町を歩く(292):二つの志方

2012-06-02 05:55:07 |  ・加古川市志方町

きょうは、「志方郷(36号)」で松本光明氏の書かれた「志方郷を東西に分ける一拠点・・・大宗」を参考に「二つの志方」について考えてみます。

   二つの志方

015志方が登場する古文書に、暦応三年(1340)正月二四日付の安保光泰入道光阿の残していた文書があります。

この古文書によると、現在志方町地域は、東西の二つの志方に分かれています。

『加古川市史(第四巻)』で、安保光泰の残した文書の一部を確認しておきます。

  ・・・・・

   一 播磨国土佐余部内西志方郷

   一  同 土佐余部東志方

  ・・・・・

志方の地図をご覧ください。

志方・西志方は、一つのまとまりのある平地に広がっています。

そして東志方との間には、大藤山一支脈の天神山・宮山・石打山・吉広山の山々が壁のように続いています。

(写真上は、向かって左の山は天神山・右は宮山、手前が志方・西志方、山向こうが東志方)

   大宗(志方を東西に分けた一拠点)

E809ce74さて、この東西両志方を結ぶ道路は、慶長167年(16112)に描かれたと思える慶長播磨國絵図(解読図)でみると、志方町と細工所とをつなぐ道路(赤く塗った道)が一本あるだけです。

その中間に大峯村という村があります。大峯村は現在の東志方大宗でしょう。

この後、正保播磨国絵図では、志方町から大峯村を経て、高畑村と東中付に向って道が分岐し、細工所村へは高畑村を経由しています。

ですから、天神山と宮山の間の峠は、二つの志方を結びつけるパイプのような役割にあり、ここを通して志方・西志方と東志方は結びついていたと考えられます。

しかし、基本的には志方は二つの地域だったようです。

それに、東志方は江戸時代に天領(幕府領)として、志方・西志方(姫路藩)と違った歴史を歩むことになりました。

志方町が一つのまとまりのある地域となったのは、明治時代以降と考えてよさそうです。

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志方町を歩く(291):志方八幡社⑬・志方棒連中

2012-05-31 06:03:58 |  ・加古川市志方町

「志方郷(33号)」で、礒野道子さんは「志方棒連中」について紹介されています。

「棒連中」とは何でしょうか、初めて聞く用語です。

説明の一部をお借りします。

   志方棒連中

007志方八幡神社の本殿の西に、えびす社があります。

その前に一対の灯ろうと、幟石柱が建っています。

ふだんは、この石灯籠、幟石柱の文字に注意する人は殆んどいないと思われますが、

「志方棒連中」と刻まれています。

お参りの時はご覧ください。

えびす社は、明治12年西宮からお迎えしています。幟の石柱は明治14年、灯ろうは明治16年に建てられています。

そして、これら幟の石柱と灯ろうは共に、志方捧連中が寄進しています。

灯ろう基段には周旋方として、小さな字で15名の名が刻まれています。

「棒連中」とは初めて聞く用語です。

志方棒連中とはどんな人たちでしょうか。

棒の仲間ということですが、この捧とは天秤棒のことで、捧の前後に荷物をぶら下げて売り歩く、行商人たちの仲間です。

えびす神社は、商売繁盛の神様です。

ですから、灯ろうや幟立ては、商売繁盛を願って棒連中が寄進したのでしょう。

志方における棒の行商の歴史が古いようです。

   盛んであった棒商

002江戸時代に書かれた助永村の明細帳に次の記述があります。

(注)助永村:明治9年、助村と比村が合併して、お互いの一字をもって永室村となりました。

「当村百姓作間隙の節(さくまひまのせつ)、塩物、油元ゆい売、丹波路まで罷り出で(まかりいで)一、二夜泊り罷り帰り申候(まかりかえりもうしそうろう)」

この伝統は、作間商人(あきんど)として農家の副業となり、明治の終りまで続き、農家にとって大切な現金収入であつたようです。(以下略)

以上「志方郷(第33号)」より

文体・内容は一部変えています。詳しくは「志方郷」をお読みください。

*写真上:えびす神社

 写真下:灯ろうの文字「志方棒連中」

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志方町を歩く(287):志方八幡社⑫・包丁式

2012-05-27 06:13:35 |  ・加古川市志方町

時々、書きにくい話題があります。

それは自分が見ていないし、詳細を知らない内容の時です。

きょうの「包丁式」がそうです。でも、「志方八幡社シリーズ」では、ぜひ取り上げておきたい話題です。

きょうは、「志方郷(第19号)」の間原敏夫氏の文章をお借りしました。(専門用語等を省き読みやすくしています)

   包丁式

F50e757「庖丁式」とは、何をする式かご存じでしょうか。

「使い古した庖丁を供養する儀式では?・・・」と考える人も、たくさんおられるのではないでしようか。

「庖丁式」は、神様の前で魚や鳥をさばいてお供えする儀式で、華遣・茶道と同じ

ように伝統の流儀が残っています。

昭和40年の台風で能舞台が倒壊し、その後再建されました。

志方八幡宮の春祭に、能舞台の再建を機に古式四條流の「庖丁式」が、毎年家元以下の奉仕により奉納されています。

儀式に続き氏子、崇敬者の豊饒並びに学業成就を祈り、その後能舞台において「庖丁式」が奉納される旨の祝詞があり、家元は衣冠をそれ以下は狩衣を身につけ能舞台に上がります。

    春のお祭りに、お出かけください

庖丁人が登場し、刃渡りが約40センチもある『庖丁』と長い『はし』を使って魚には手を触れないで、庖丁を高々と振り上げながら大魚を見事にさばいていきます。

普通は、鯉をさばく儀式が奉納されます。

次に、納めの儀では、姐の上でさばかれた魚を三方に盛り付け、そのまま御神前に進みお供えします。

次に玉串を捧げて一同拝礼し庖丁式を終ります。

境内には氏子有志の皆さんによる「薄茶席」も設けられ、優雅な雰囲気を味わうことができます。

志方八幡社の春祭には八幡宮の能舞台に足を運んではいかがでしょうか。

*写真:包丁式(神戸新聞提供)

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志方町を歩く(286):志方八幡社⑪・庶民の苗字

2012-05-26 07:44:11 |  ・加古川市志方町

002以前にも別のところで、この話題を取り上げあげたことがあります。重なります。

学校の社会科の授業で「江戸時代、身分は固定し、苗字帯刀は、武士以外は禁止されていた」と学んだのではないでしょうか。

実を言うと、私も中学校で社会科を担当していました。

そして、上記のように教えていました。

   江戸時代の庶民の苗字

『苗字の歴史(豊田武)』(中公新書)を読んでみましょう。(新書の記述、文体は若干変えています)

(1)農村において苗字を持つ者は武士だけだろうか。個々の小作人も、特定の土地に居住し、耕作地とする以上は地名を家の名とすることはありうる。

(2)各地から(庶民も)苗字を持っていたという各種の例が寄せられている。

(3)庶民も、従来からの苗字を有していた。・・・・苗字を公に名乗ることが許されなかっただけのことである。

(4)一般的に、神事に関する場合は、苗字を使用する例が多かったようである。

  江戸時代、多くの庶民は苗字を持っていた

 005写真下の寄贈者の名前は、表参道の隋神門の前の左右にある燈籠にある名前です。

読んでおきます。

右から尾崎兵太夫、同 宇兵衛、河田市右エ門、西山新村 伊左エ門、江戸 小嶋屋彦兵衛、同 宮嶋屋正蔵です。

彼らの苗字に注目ください。

最初の3人は尾崎・河田と苗字を使っています。

西山新村の伊左エ門は苗字がなかったのでしょう。後の彦兵エ衛と正蔵は屋号を苗字代わりに使っています。

尾崎さんと河田さんは武士であったとは考えられません。武士・農民・商人が一緒に献燈に名を刻む例はないようです。

江戸時代、大庄屋は苗字を名乗ることができましたが、尾崎さんと河田さんは大庄屋でもありません。

この二基の燈籠は天保十二年(1841)に寄贈されたものです。

上記の(3)・(4)を再度ご覧ください。

江戸時代、多くの庶民は苗字をもっていました。でも、正式な文書(もんじょ)や過去帳では使うことができなかっただけです。

神社(神事)では、例外的に庶民も苗字を使うことが許されていました。

きょうは志方八幡社に限った話題ではないのですが、八幡社の献燈から江戸時代の庶民の苗字について考えてみました。

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志方町を歩く(285):志方八幡社⑩・能楽堂

2012-05-25 06:23:51 |  ・加古川市志方町

  

 能が盛んであった地域

023志方町(しかたまち)は、能がずいぶん盛んな地域でした。

明治初年まで、毎年秋の祭礼には奉納行事として能楽が催されていました。

能が盛んであったのは、八幡社の能楽堂によっても想像できます。

しかし、盛んであった能も明治時代になってからさびれ始めました。

その後は、能よりも狂言の方が盛んに上演されるようになりました。

昭和376月、能楽堂は県文化財の指定を受けました。

そして、最後に能が上演されたのは、昭和379月、関西電力がスポンサーになって志方町の文化財、産業、慣行などがテレビの全国放送により紹介された時でした。

   能楽堂倒壊(昭和40年)

D9229e9eその能楽堂も昭和40910日の台風23号により倒壊してしまいました。

その時、寛文4年(1664)8月建立の銘文が見つかりました。

これは、わが国最古の西本願寺能楽堂(国宝)に次いで古い貴重な建造物であることが判明しました。

八幡社の能楽堂は、江戸時代の初めに建てられています。

ということは、この時代にすでに能がずいぶん盛んであったということです。

理由としては、かつて志方は志方町であり武士の文化の伝統があったこと。

そして、志方は「志方町(しかたまち)」と呼ばれ町場の性格を持ち、経済的・文化的な一大拠点として賑わいのあった地域であったことなどが考えられます。

その後、能楽堂は倒壊から26年を経て氏子の協力により再建され、現代に至っています。

現在、10月の秋祭りには新しい型の舞楽、胡蝶の舞(正式には「和光楽」)が奉納されています。

*志方郷(第10号)、『志方町誌』参照

*写真上:能舞台(先日撮影に出かけたのですが、戸が閉められ内部の撮影ができませんでした。後日撮影して差し替えます)

 写真下:地元の少女らの舞「和光楽」奉納

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志方町を歩く(284):志方八幡社⑨・明星山能満寺

2012-05-24 09:12:56 |  ・加古川市志方町

八幡社の表参道を登ると隋神門があります。

隋神門の手前を右に折れると、きょうの話題の社務所主屋(写真)があります。

この建物は、もとから八幡社の社務所主屋として造られたのではありません。

もとは真言宗の明星山能満寺の本堂でした。

少し説明が必要のようです。

   明星山能満寺

024「志方八幡社④」をご覧ください。

櫛橋左京亮(くしはしさきょうのすけ)が志方城を築いたのは、明応元年(1492)のことです。

志方城は、今の観音寺・志方小学校の場所にあり、志方城の鬼門の方向に小高い丘(宮山)がありました。

その丘に石清八幡宮から勧請して志方八幡社を建て、鬼門を鎮め、志方城の守り神としました。

時代は神仏習合の時代です。

八幡社と同時に、八幡社を守るお寺、つまり別当寺が造られました。

明星山能満寺です。

「別当寺」とは、神仏習合が認められていた時代に神社に付属して設けられた寺のことです。

神社の祭礼を仏式で行う者を「別当」と呼びました。

現代の感覚では少し妙に聞こえますが、神社に属する僧侶が八幡神社を奉斎し、維持管理をしていたのです。

神仏分離

明治初年に神仏分離令が施行されました。

明星山能満寺は、その役目をおえ、以後は八幡社の社務所の機能を果すと共に神官居住所となりました。

むかしは、瓦ぶきの堂々とした造りでした。

現在は、茅葺屋根は傷が甚だしく、トタン波板で蓋われていて昔の面影はありません。

 *なお、八幡社の主屋(写真)・門・蔵は国指定の文化財に登録されています。

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志方町を歩く(283):志方八幡社⑧・常夜燈(明治28年)

2012-05-23 07:31:06 |  ・加古川市志方町

特別貴重な文化財でもありません。

近くの神社へ参られた時、これら石造物の年代・周旋人などからいろいろ想像ください。

   播磨灘からの目印・常夜燈

随神門から参道の、石段を登りつめた左側(高御位遥拝所と手水舎と間)に、この常夜燈はそびえ立っています。

正面に「常夜燈」の文字、側面に施主、飾東郡小川村、庄次郎と達筆の文字が刻まれています。

台石上段の正面の文字を読んでおきます。

周旋人

志方町       竹   

飾東郡小川村    戸部孫三郎

  志方町       

   明治二十八年・日清戦争の勝利の年

013さらに、右側面には、「明治二十八年十月」と建立の年月日が彫りこまれています。

「明治二十八年」は、日清戦争の勝利に日本中が湧きかえった年です。

おそらく、八幡神社例祭を期して、日本の勝利のお祝の意味が込められていたのでしょう。

これは考えすぎで、単に明治二十八年に造られただけなのかもしれません。

でも、明治二十八年について少し調べておきましょう。

明治二十七年に日清戦争が始まりました。

戦争は近代的な軍隊を整えた日本は勝利し、明治二十八年下関で講和会議が行われました。

講和会議で結ばれた下関条約では清は朝鮮の独立を認めること(日本の朝鮮植民地化に、清は介入しない)、リアオトン半島・台湾などを日本に譲り渡すこと、日本に巨額の賠償金を払うことなどが決められ、日本中は歓喜に包まれました。

この勝利は、その後の日本の進路を決定づけることになりました。

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志方町を歩く(282):志方八幡社⑦・高御位遥拝所

2012-05-22 08:22:28 |  ・加古川市志方町

 「志方町を歩く(21)」で、高御位山について次のように書いています。

  高御位山は、たかが304メートル!

自慢話です。

2030代はけっこう体力に自信がありました。特に、20代前半は陸上競技大会にも時々出場しました。

確か、昭和44年でした。けっこう大きな駅伝大会に、ある町の代表選手として出場しました。

たまたま、私たちのチームに長距離界では全国的に名が知られたYさんがメンバーとしておられ、彼の快走により優勝したんです。

先日、書類を整理していたら、その優勝を報じる新聞の切り抜きがでてきました。

以上は、「昔は、体力があった」ということを言いたかった初老の独り言です・・・・

   登山道は完成したが・・・

018「・・・成井登山口より登る正面道は、昭和60年に加古川市により婦人・子ども、老齢者のために行き届いた配慮が払われた登山道が完成し、楽々と登ることができるようになった・・・」とある文章にあります。

久しぶりです。高御位山登山に軽い気持ちで挑戦しました。

「楽々と登れるようになった・・・」という文にごまかされたようです。

「四丁目」の丁目石のところまでは、順調だったのですが、その後、急に心臓が高鳴り始めました。

七丁目辺りで、完全にダウン。

それでも、山頂まで10回ぐらい、休憩をとり、やっとのこと「征服」することができました。私にとっては、まさに征服がぴったりとする登山となりました。

これを最後の、高御位山登山にします。

以上が「志方町を歩く(21)」よりの再掲載です。

   高御位山遥拝所

 高御位山登山は、お年寄りにとっては、体力に自信のある人を除いて、無理な話です。

 でも、志方町の人にとっては、いつまでも高御位山は故郷の山です。

 安心ください。

志方八幡社の隋神門から参道を登りつめた所に常夜燈があります。

その左に、あまり知られていないのですが高御位の遥拝所(写真)があります。

これは高御位山に登れない人のための高御位山の遥拝所です。

ここからの高御位山は正面に堂々と聳えています。

その前に故郷の志方盆地が広がっています。

*写真:高御位山遥拝所

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志方町を歩く(281):志方八幡社⑥・絵馬、奉天会戦

2012-05-21 08:24:31 |  ・加古川市志方町

 八幡社の拝殿にはたくさんの絵馬がありますが、その中に異色の奉天会戦を描いた絵馬(写真)があるので紹介しておきましょう。

絵馬・奉天会戦

008奉天会戦(明治38年・1905)は、日露戦争の最後の会戦でした。

奉天は、現在のショエンヤン(瀋陽)です。

ロシア陸軍は、40万にものぼる軍隊を奉天近くに結集し、世界に誇るバルチック艦隊も無傷で、ロシア側は徹底抗戦のかまえを崩していませんでした。

ロシア軍と日本軍は、満州を舞台に60万の将兵が18日間にもわたり激闘を繰り広げたのです。

状況は、日本側に圧倒的に不利でした。

この会戦では、両軍あわせて10万をこえる死傷者を出しました。

しかし、日本軍は奇跡としかいいようのない条件の下で、かろうじて勝利を勝ちとったのです。

ロシア軍は退却しました。

しかし、日本軍は、さらに追いつめる余力は残っていませんでした。

国内の事情は違っていました。

国内では、日本軍の「はなばなしい大勝利」が宣伝されていました。

国民は、狂喜の坩堝の中にありました。

志方町の当時の状況も想像ができます。

八幡社の拝殿の左隅に「奉天大会戦」の絵馬がかっています。

投松村(ねじまつむら)の青年が日露戦争後の明治42年に奉納しています。

投松(現:志方町投松)の青年たちの「熱気」が伝わってくるようです。

 *奉天会戦の絵馬

 この記事は、以前にこのブログで紹介した内容です。文体を変えています。

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志方町を歩く(280):志方八幡社⑤・八幡社拝殿

2012-05-20 07:30:13 |  ・加古川市志方町

八幡社拝殿について『加古川市史(第七巻)』は、次にように書いています。

専門用語が多いのですが、そのままお読みください。

   志方八幡社拝殿

019拝殿は、規模の大きい割拝殿である。

構造形式は五間三間、一重、入母屋造、本瓦葺で、正面屋根中央に千鳥破風と軒唐破風をつける。

それゆえ、いわゆる権現造の拝殿と同形で、しかも桁行がながいから、まことに立派である。

柱はすべて方柱、柱頭組物なくに直ちに桁を受ける。

柱間は解放(吹放し)である。

内部は、このあたりによく見る化粧屋根裏で、豪壮な民家の台所に見るものと同じく、大きい梁が縦横に組まれて日本風構造(和小屋)の美をほしいままにしている。

この下まわりには多くの絵馬が掲げられ、この拝殿は絵馬殿をも兼ねているのが知られる。

造営年代は様式上、江戸末期くらいかと推定される。

・・・・

(以上『加古川市史(第七巻)』より)

八幡神社社記によると、天保四年(1833)焼失にあい、14年を経て弘化四年(1847)旧に復す、とあります。

江戸末期も最末期です。

いろいろの絵馬

八幡神社は武神の社です。

絵の具がはげてよくはわからないのですが、戦国時代合戦図らしいのがあります。

また「熊谷直実が無官の大夫平敦盛を呼び返す絵馬、八幡太郎義家が雁の乱れをみて伏兵のあるのを知る絵馬、楠公父子別れの図、そして奉天大合戦図」など、さすがに戦の絵馬が多く掲げられています。

*「志方郷(第25号)」(松本光男)参照。

*写真:志方町八幡社拝殿

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志方町を歩く(279):志方八幡社④・鬼門

2012-05-19 07:57:20 |  ・加古川市志方町

昔は、十二支で時間・方位などを表しました。

方位では、「子」を北とし、「午」を南としました。ですから北と南を結ぶ経線を子午線といいます。

東北の方向は「丑寅」です。

  

ウシトラの方向は鬼門   

Photo昔から、「丑寅(「艮・うしとら)」の方向は、「鬼門(きもん)」として人々に恐れられていました。

中国古代の地理書『山海経(せんがいきょう)』によると、度朔山(どさくさん)という山の東北の方にたくさんの鬼が住んでいて、夜になると門から出て来て人びとを悩ましたといいます。

そこで、鬼の出入りする東北の方向を鬼門というようになりました。

鬼門(東北)は、災のおきる方向でした。

   

   鬼は魂(隠)の音韻変化

「鬼」とは、生命の通った魂が身体から離れた霊となったものをいい、死者の魂(隠・おん=見えないもの)で、隠(おん)が変化して鬼となりました。

日本では古くから死者を「穢れ」と「恐れ」との両面からみる発想がありましたが、いつの間にか「恐れ」が優先して人間に害を加える巨大な怪物となったのです。それが鬼です。

鬼は丑寅の方向に住むということから、鬼は牛の角をはやし、虎の牙をもった形をつくり上げたのです。

こうして東北の方向は、鬼門として忌み嫌われるようになりました。

現在でも鬼門に当たる方角に台所や便所があると家庭内に紛争が絶えないなど、あらぬことを信じる人がいます。

思えば、東北方向は、冬寒風の吹きすさぶ方角でした。

   

   宮山は志方城の鬼門

そのため、東北方向を鬼門として、そこに神仏を祭り、鬼の災いをさける風習が生まれました。

比叡山延暦寺は、京都の鬼門に当たるために建てられた寺で、京都を災いから守ろうとしたのは、よく知られています。

さて、志方ですが櫛橋左京亮(くしはしさきょうのすけ)が志方城を築いたのは、明応元年(1492)のことです。

志方城は、今の観音寺・志方小学校の場所にありました。

志方城の鬼門の方向に小高い丘(宮山)がありました。

その丘に石清八幡宮から勧請して志方八幡社を建て、鬼門を鎮め、志方城の守り神としたのです。

 *写真:観音寺(志方町・志方城跡)

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