中道山子山城と赤松氏則
通説では、中道道山の築城者は、赤松氏則あるいは孝橋新五郎繁としています。
『志方町誌』も、「・・・中道子山城は、赤松氏則がはじめて築いたとしているが、氏則はおそらく中道寺を拠点としたようで、城郭といえる普請はしなかったようだ。
中道子山城は『播州古城軍録』に、城主は孝橋新五郎繁広築き給ふ・・・」とあり、『播磨鑑』にも同様の記述があります。
しかし、中世史を専門とする学者は「・・・赤松氏則あるいは孝橋新五郎繁広が城主とするせつは、いずれも後世の伝承に過ぎない・・・」と一刀のもとに切り捨てています。
この二説が伝承であったとしても、伝承の元となる何かがあるような気がします。
独断で赤松氏則伝承を考えてみます。
赤松氏則の復習をしておきましょう。
円心には四人の男子があり、一男は範資(のりすけ)、二男貞則(さだのり)、三男則祐(そくゆう)そして四男は、氏則(氏範とも書く)です。
氏則は、父円心の死後、三人の兄たちと不和となり、宮方につき兄弟間の争いとなり、氏則は、正平二四年(北朝応安二年・1369)に摂津中島で挙兵しました。
足利義満は、赤松則祐らに命じて氏則を攻撃させました。
氏則は敗れて、天王寺に逃れました。
そして、永徳三年(1383)氏則は、播磨清水寺(加東市)に立てこもりましたが、則祐の子の義則に攻められ、父子5人、郎党137人とともに自殺しました。
氏則は志方に土地を与えられていた?
氏則は、円心の四男です。
『加古川市史(第一巻)』(p24)の最後に、「・・・もし、これ(氏則築城説)が何らかの事実を反映しているとすれば、円心の末子氏則も五箇荘(この近辺の広大な荘園)の分与にあずかっていた可能性がある・・・」と記しています。
「火のないところに煙は立たない」ものです。
おそらく、加古川市史がわずかに記している上記の記事が案外本当かもしれません。
志方町西飯坂にあった天神山城も氏則の城としています。
となると、氏則が志方地域に土地を持っていたと考えてよいのではないでしょうか。
中道子山城がやがて、はっきりしなくなって後、この事実が「中道子山城は氏則の築城である」という伝承につながったと想像します。
*現在の志方町の風景(中道子山城から高御位山の方向をのぞむ)