ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

石の宝殿と生石神社の話(3)   石の宝殿、『播磨国風土記』 に登場

2016-10-31 09:07:48 | 石の宝殿と生石神社の...

        『播磨国風土記』 

 「石の宝殿と生石神社の話(1)」の写真の大きな石の正体は何者なのでしょうか。それにしても、不思議な石塊です。

 謎解きに出かけましょう。さっそく、本丸へ切り込みます。

 この石塊に関して記録があります。 

 『(播磨国)風土記』です。

 風土記は、日本で最も古い書物の一つで、今から1300年ほど前の713年に大和朝廷から各国の①郡や里の名のいわれ、②産物、③地力、④山や川の地名、⑤伝承を書いて報告するように、と命令が出ました。

 その報告書が『風土記』となりました。

 その風土記ですが現在残っているものは『常陸国風土記』『播磨国風土記』『出雲国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』だけです。

 そのうちでも、『播磨国風土記』は、早い時期に提出されたと考えられています。したといわれています。

      『風土記』に「大石」として登場

 さっそく、『播磨国風土記』で、石塊(大石)についての個所を、読み下し文で詠んでみます。

  〈大石〉

 ・・・原の南に作り石があります。形は家のようです。

 長さは二丈(約6㍍)、広さは一丈5尺、高さもそれぐらいです。

 名は大石といいます。

 伝えられていることは、聖徳太子の時代に弓削大連(ゆげのおおむらじ・物部の守屋)作らせた石です。・・・・

 今回は、大石(石の宝殿のこと)が『播磨国風土記』に登場登場することだけを確認しておきます。(no3379

 *図:石の宝殿(西谷真治氏測量)

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石の宝殿と生石神社の話(2) JR宝殿駅(ほうでんえき)

2016-10-30 07:32:40 | 石の宝殿と生石神社の...

    JR宝殿駅(ほうでんえき)

 JR山陽本線で、加古川駅の下りの次の駅が宝殿駅です。

 『兵庫史の謎(春木一夫著)』(神戸新聞総合出版センター)に、宝殿駅について、次の文章を見つけました。

 

 ・・・尾崎士郎の艶笑小説『ホウデン侍従』に、奇怪なふぐりの顔をした挿絵が描かれていたのを思い出す。

 戦争中、在日していたドイツの婦人たちは、この地を通過するたびに、駅員がまじめくさって、

 「ほうでん、ほうでん」

 と大声で叫ぶため、耳まで真っ赤にしていたという、いわくつきの駅だ。・・・・

    石の宝殿は生石神社のご神体

 「ほうでん」が、ドイツ語で「キンタマ」を意味するのであれば、さぞドイツのご婦人は、顔を赤らめたことでしょう。

 もちろん、以上の「ほうでん」は、今から訪ねる「宝殿(ほうでん)」とは関係がありません。

 歴史に、あまり関心のない人にとって、現在「ほうでん」は、耳慣れない言葉になっているのかもしれません。

 少し以前は、地元ではかなり知られた物(歴史遺物)だったのですが、最近は転入者も多くなり、なじみのない言葉になってきたようです。

 宝殿駅から南西に1.5キロほど行くと龍山(たつやま)の生石神社(おうしこじんじゃ)に突き当ります。

 この神社に、不思議な大きな石(ご神体)があります。

 この御神体が「石の宝殿」で、「宝殿駅名」は、「石の宝殿」にちなんで命名されています。

 宝殿駅の北側のロータリーに石の宝殿のレプリカ(写真)がデンと置かれています。

 それでは、生石神社・石の宝殿を訪ねることにしましょう。(no3378

 *写真:石の宝殿のレプリカ(宝殿駅北側のロータリー)

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 石の宝殿と生石神社の話(1)  「石宝殿と生石神社の話」をはじめます

2016-10-29 07:28:41 | 石の宝殿と生石神社の...

     「石宝殿と生石神社の話」をはじめます

 

 前号までは、「瀧瓢水物語」を書いてみました。

 まだまだ続けるべきなのですが、ここまでを「一部」としておきます。さらに、後日「瀧瓢水物語(二部)を続けます。

 少し「瀧瓢水物語」を休んで、次回からは、「石宝殿と生石神社の話」を始めることにします。

 ご意見をお寄せください。 

 余話:「ひろかずのブログ」は、続いています

 退職して13年になりました。退職後の2年は、大学で英語を勉強し、修論として、「A History of Kakogawa City」を書いてみました。

 なんとか、卒業できました。

 「さて、次は何をしようか」と思案して始めたのが「ひろかずのブログ」です。

 「運動不足なので散歩をしよう。そして、散歩をしながら考えたこと、新しく発見したことを書いてみよう」と考えました。が、見事に挫折・・・

 一週間もたてば、書くことがなくなり、散歩もおっくうになってきました。

 そこで始めたのが、加古川市を中心にした身近な歴史(地域史)を書くことでした。

 もともと歴史には興味を持っていたためか、不思議と続きました。続けていれば、化学変化がおきます。

 独りよがりの歴史でも、読んでくださる人がおられます。時々、丁寧な感想もいただきました。

 いい気になり、調べた場所(歴史)へ新しくカメラ(一眼レフ)を買って撮影出かけるようになりました。結果的に散歩が増えました。

 地域史関係の本を読む量もふえました。

 1700号まで続いた時です。ある新聞が「ひろかずのブログ」を写真入りで大きく紹介してくださいました。

 結果、一挙に読者が増えました。

 2000号を超えたころから、複数の公民館から、申し合わせたように「歴史講座」への依頼が来るようになりました。

 そうして、きょうで続けたブログは3377号。

 内容からもわかるように、間違だらけの、独断的なブログとなっていますが、このブログが続いているのは、知らないからです。

 知らないことを調べることの面白さを楽しんでいます。(no3377

 *写真:石の宝殿

 

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瀧瓢水物語(29) 瓢水、大坂で眠る

2016-10-28 12:16:08 | 瀧瓢水物語

   瓢水、大坂で眠る

 宝暦11年正月、瓢水の俳諧の師匠であった松木淡々(81歳)は、大坂で没しました。

 翌年の宝暦12年(1762)の春、瓢水は大坂に出かけ、そこで病気になり、師の後を追うかのように、5月17日波乱万丈の生涯を終えました。

 行年79歳。

 大阪市天王寺区生玉町の持明院に眠っています。

 墓碑は、門人筒井青瓦により建てられました。

 墓碑の銘を読んでおきましょう。

   (正面) 瓢水翁の墓

   (背面) 門人筒井青瓦建

   (側面) 宝暦十二午五月

   蜜印山持明院

 24日(月)、午後持明院へ出かけました。

 騒音の町も、涼しく、すっかり秋の一日でした。

 鶴橋駅で昼食をすませ、地下鉄に乗り換えて谷町九丁目駅で下車。

 そして、南へ少し歩くと、あたりは寺がたくさん集まっています。持明院は、地図を片手に行くと、すぐ見つかりました。

 持明院は、創建の頃は、生玉神社の生玉十坊の一つで現在の生玉神社内にあり、ずいぶん大きな規模を誇っていたようです。

 しかし、明治維新の廃仏希釈のさいに、生玉神社を出て現在地に移転しました。その上に、戦災で焼け、その規模も小さくなり現在に至っています。

 瓢水の墓碑(写真)は、山門近くの境内にありすぐ見つけることができます。(no3376)

 *写真:瓢水の墓碑(持明院境内)

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瀧瓢水物語(28)  瓢水の筆塚

2016-10-27 07:13:54 | 瀧瓢水物語

    瓢水の筆塚

 宝蔵寺境内に、瓢水の筆記用具の筆などの遺品を埋めた筆塚(写真)を子供の富春と俳句の門人・播陽が建立しています。

 場所は、本堂の西に見ることができます。

 次の文字を読むことができます。

 <筆塚> 

    (右側面) 維時宝暦十二年壬午五月十五日 

    (正 面) 瀧瓢水翁自得居士筆塚

    (左側面) 筆塚 赤松入道心十世の孫主

   水寓干加東郡滝野村因以瀧為氏

   後住干今之別府村既歴五世乃至

   干翁事家載 

    (背 面) 銘はあるのですが摩滅して判読できません

  〈瓢水の位牌〉

 なお、寺には瓢水の位牌もあります。

   表 寛翁自得居士

     盛蓮栄照信女    (瓢水のこども・富春の継母)

   裏 宝暦十二年壬午五月十七日

 

 *(余話)なお、瓢水と関係はないのですが、筆塚の横に日本一古い大きなオリーブの木があります。

 オリーブの樹木といえば小豆島が有名ですが、宝蔵寺のオリーブは小豆島よりも20年数も早く植えられました。(no3375

 *写真:宝蔵寺境内の瓢水の筆塚

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瀧瓢水物語(27) 三つ葉葵の鬼瓦と徳川将軍の位牌

2016-10-26 07:42:50 | 瀧瓢水物語

     菩提寺(宝蔵寺)は、真言宗の名刹

 別府町の名刹:宝蔵寺(写真)は、瀧家の菩提寺で、真言宗の名刹です。

 宝蔵寺を訪ねてみましょう。

     三つ葉葵の鬼瓦と徳川将軍の位牌

 宝蔵寺には不思議なものが残されています。

 三つ葉葵の紋の入った瓦と徳川将軍の位牌です。

 今の宝蔵寺は、昭和63年3月に、270年ほど前に建立された古寺が、老朽化したため取り壊され、全面改築されました。

 本堂の一部に三ッ葉葵の紋が入った鬼瓦が使用されていました。

 その他に、徳川将軍の位牌もあります。

 徳川家康(初代将軍)、家宣(6代)、吉宗(8代)、家斉(11代)・家定(13代)の位牌です。

 その経過についての詳細は分かりません。

 というのは、宝蔵寺は寛永年間(1624年頃)に大火があり一切のものが灰燼に帰し、創設以来の古記録が残っていないからです。

 以前に、東神吉町の常樂寺を訪ねたことがあります。

 常楽寺は、慶安元年8月(1648)、三代将軍徳川家から寺領18石4斗分の土地を「御朱印状」により寄進されています。

 将軍から保障された土地を「朱印領」と言います。

 朱印領を持つ寺院は、位が高いとされ、あまり多くありません。

 朱印状は、将軍が代替わりのたびに、新たに朱印状を再交付してもらうため、住職が江戸へ出かけました。

 常楽寺には8枚の朱印状が保管されています。

 宝蔵寺も事情は同じで、朱印状が保存されていたと思われますが、おそらく火災のため焼失したのでしょう。

 現在は、感謝のために作られたと想像する位牌と鬼瓦が残されています。(no3374)

 *写真:瓢水の菩提寺、宝蔵寺

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瀧瓢水物語(26) 『続 近世畸人伝(二)』より二話

2016-10-25 07:37:23 | 瀧瓢水物語

        『続 近世畸人伝(二)』より

   2話)小川に落ちた時の話

 近村の小川の橋を渡るとき、瓢水は足を踏みはずして、落ちてしまいました。

 近くにいた農夫は、瓢水が小川に落ちたことを知り、びっくりして助け上げようとして大騒ぎになりました。

 下を覗き込むと、腹が減っていたのか、彼は濡れながらも懐の餅を悠々と食べているのです。

 農民はあきれたといいます。

   (3話)蔵売って 日当たりのよき 牡丹かな

 さらに、こんな話もあります。

 瓢水が60歳も半ばの頃でした。

 本宅が人手に渡ってしまって、別の家(別宅)に移り住んでいました。

 別宅とはいうものの、ちょっとした庭に蔵があります。

 そこには一面に牡丹の花が見事に咲いていました。

 見事な大輪の牡丹です。

 瓢水はそれ、それをぼんやり眺めていました。

 「この蔵も売れてしまったか・・・」と、つぶやくのでした。

 瓢水はあまり、それを気にする様子もありません。

 やがて、一句が出来上がりました。

    蔵売って 日当たりのよき 牡丹かな

 瓢水には、上記のような話がいくつも伝えられています。

 瓢水は、謎めいた俳人でした。(no3374

 *写真:牡丹の花

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瀧瓢水物語(25)  藩主を残したままで・(『近世畸人伝』より)

2016-10-24 09:31:56 | 瀧瓢水物語

       姫路藩主を残したままで(『近世畸人伝』より

 ある日、姫路藩主・酒井忠恭(さかいただずみ)が瓢水の風流を聞き、領地の巡覧の途中に瓢水の宅に籠を止め立ち寄ったことがありました。

 当日は、朝方雨が少し続いていたが、午後になるとすっかり晴れて、絶好の秋日和になりました。

 もちろん、前もって瓢水には藩主の訪問のことは伝えてありました。

 その日、忠恭一行は、加古川の泊りなので別府の瓢水の家に着いたのは遅く七つ時(五時頃)でした。

 忠恭は15万石の大名であり、かつては幕府の老中主席(現在の首相のような位)をつとたこともありました。

 これほどの賓客を迎えるからには、いくら貧しくてもそれなりの礼儀というものが必要です。

 しかし、瓢水は特別なことはせず、いつも通りで、違うとすれば座布団が準備されている程度でした。

 忠恭の方が驚いたほどでした。

 瓢水は、背伸びしている様子もなく普段の調子で少しばかり俳諧について話をしました。

 秋の暮れは早く、すぐにあたりは暗くなります。

 瓢水には興が乗らず退屈でした。

 しばらくして、瓢水は「厠に・・・」と告げ、そのままは藩主を置いたまま行方をくらましてしまったのです。

 その夜、瓢水は、ついに帰って来ませんでした。

 藩主は、カンカンになり姫路へ帰ったといいます。

 後日、瓢水が言うのには、その夜は月が殊に明るくて、須磨まで散歩したとのこと・・・

 『近世畸人伝』には、まず、こんな瓢水の奇行が紹介されています。(no3373)

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瀧瓢水物語(24)  『続 近世畸人伝 二』で瓢水を紹介

2016-10-23 08:43:26 | 瀧瓢水物語

      近世畸人伝

 近世畸人伝(きんせいきじんでん)』は、近世の諸階層の特色ある人物百余名の伝記です。正続各5巻があります。

 その続編は、寛政10年 (1798) に刊行され、職業,貴賤を問わず、一芸一行にすぐれた者を奇として紹介しています。

 続編の(二)に、瀧瓢水が奇人の一人として取り上げています。

    『続 近世畸人伝』を読みましょう

 ・・・・(瓢水は)播磨加古郡別府村の人で、剃髪(仏門に入り)して自得といいました。

 瓢水は、俳諧に夢中になり、千石船7艘も持っている富豪でしたが、遊蕩のため財産をすべて費やし、後に貧しい生活となってしまいました。

 『近世畸人伝』には彼の数々のエピソードが紹介されています。

 なお、『播磨名所巡覧図絵』(享和三年・1803)にも、「・・瓢水はこの別府の生まれで、俳諧を優れており、性質は淡白で『人伝後編』に書かれている」と、『人伝』で瓢水が紹介されていることを記しています。

 

 『近世畸人伝』に描かれている瓢水は、本当の姿の紹介とは思えません。

 しかし、瓢水といえば「奇人」とレッテルを張られ広く知られていたようです。

 それでは次号から少し、畸人伝に描かれた瓢水のエピソードを読むことにしましょう。(no3372)

 *写真:『近世畸人伝 二』

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瀧瓢水物語(23) 瓢水の妻の名はヲトヨ

2016-10-22 06:47:24 | 瀧瓢水物語

    瓢水の妻の名はヲトヨ

 瓢水の奥さんについて知りたくなりました。

 現在、詳しく調べられているかもしれませんが、不勉強なため、まだ知りません。

 後日詳細が分かりましたら詳しく紹介することにします。

 ご存知の方は一報ください。

    玉林寿光信女(オトヨの戒名)

 ここでは、分かっていることだけでも紹介しておきます。

 法蔵寺に残る瀧家の過去帳に、わずかにその名前を知ることができます。

  (過去帳より)

   〇 玉林寿光信女 享保十三年戌申三月二十三日

            叶屋久次郎母

            西浜ニテ相果 ヲトヨ

 享保十三年(1728)瓢水45歳の時に妻・ヲトヨが亡くなっています。

 オトヨは、現在の高砂市北浜町西浜の藤言家から嫁入りしています。

 そして、西浜で亡くなっています。

 彼女の死因や享年等は、まだ調べていません。これらも、分かった時点でお知らせすることにします。

 妻・オトヨの死後5年後に瓢水の母(参)が亡くなっています。

 母が亡くなったときは、母の死に目に間にあえず号泣して詫びています。

 さればと手 墓に布団も 着せられず

 これは、その時に詠んだ句です。 

 でも、オトヨについての特別な話は伝えられていません。

 オトヨと瓢水の生活は、幸せなものだったのでしょうか。

 オトヨは、瓢水の45歳時に亡くなっています。そして、 彼女は実家で息を引き取っています。

 何か事情があったのでしょうか。(no3371

 *絵:オトヨのつもり(あるところで、稲美町のHさんが、ある女性の絵を描いてくださいました。少し寂しそうにも見える女性です。オトヨと関係ない絵ですが、オトヨのつもりで使わせていただきました)     

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瀧瓢水物語(22)  瀧家寄進の手水鉢

2016-10-21 06:24:36 | 瀧瓢水物語

     瀧家寄進の手水鉢

   昔から、高砂市や加古川市の海岸は「松どころ」つまり、松の名所として知られていました。

 曾根の松・高砂の相生の松・尾上の松、それに別府の住吉神社の手枕の松(たまくらのまつ)等を見て歩く「播州めぐり」というハイキングコースもありました。

 「手枕の松」は、広く知られた松でした。

 江戸時代、松巡りの旅で、ここにたくさんの旅人もあったようです。

 茶店もありました。「(別府)住吉神社」に来た旅人は、茶店で一服し松を見学したといいます。

 どんな話をしたのでしょうか。

 心地よい潮風がありました。白い砂浜と松の風景が、はるかに続いていました。

      手水鉢の銘

 「手枕の松」のすぐ近くに、現在新しい手水鉢(ちょうずばち)があります。

 あまり古い話ではありません。以前ここに古い手水鉢(写真)がありました。不思議に思って、その手水鉢を探しました。

 ありました。社務所の裏に移動して、保存されています。

 この手水鉢は、瀧家の寄進による手水鉢です。

 銘は、次のようです。

   元禄八年

     奉寄進

      施主 瀧市良左衛門

        二月 吉日

住吉神社へお参りの時は、この手水鉢も見学ください。(no3370)

*写真:上、瀧家寄進の手水鉢、 下、手水鉢の銘

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瀧瓢水物語(21)  瓢水、「手枕の松」と命名

2016-10-20 07:57:16 | 瀧瓢水物語

 

   手枕の松(たまくらのまつ)

 江戸時代、手枕の松は、広く知られ『播磨鑑(はりまかがみ)』にも「・・・この社(別府の神社のこと)に松の大木あり、一抱えばかりの太さに、地より一間ばかり上にて、横にこけたる長さ十間ばかり、枝繁茂して、年々青く茂りたり。 曽根の松に続き無双の霊松なり。 こけたる幹につか柱(支え棒)有り、廻りを石の垣にて隔つ・・」とあります。

 現在、手枕の松は、社殿に向かって左前にあるのですが、『播磨鑑』の挿絵を見ると、当時の手枕の松は社殿に向って右側にあったようです。

 この手枕の松は、ずいぶん昔からあったようで「一木(いちき)」と呼ばれ、このあたりの集落(別府村)も古くは「一木村」と呼ばれていました。

 もっとも、室町時代の頃、村は別府村と呼ばれていたようです。

    瓢水、「手枕の松」と命名

 この霊松に「手枕の松」と命名したのは、(瀧)瓢水です。

 住吉神社には、前号でも紹介した「住吉太明神」の瓢水自筆の扁額があります。

 瀧家は、瓢水の代に衰えますが、住吉神社から歩いて西へ五分のところにあり、別府を代表する豪商でした。

 瀧家は、住吉神社にも大きな影響力をもっていいました。

 そんな事情もあり、瓢水の「手枕の松」と名づける希望もかなえられたのでしょう。(no3369)

 *写真:手枕の松(別府住吉神社)

 

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瀧瓢水物語(20)  自筆の扁額・瀧有恒

2016-10-19 07:16:10 | 瀧瓢水物語

  「ひろかずのブログ」では、いま、瓢水の俳句を紹介していますが、このあたりで少し話題を変えます。

 今日は、瓢水の自筆「瀧有恒」(写真) の扁額の紹介です。

 瓢水の俳句については、後に続けて紹介する予定です。

     住吉神社の扁額

        自筆の扁額・瀧有恒

 写真にある扁額を見に出かけたのは数年前です。

 浜の「あかがね御殿」の西にある住吉神社の社務所に掛けられています。

 以前扁額は、神社の拝殿に掛けられていたのですが、潮風の痛みを防ぐために社務所の玄関に移されました。

 この扁額は、瀧瓢水の筆によるもので雄渾な字体で書かれています。

 銘は、「瀧有恒書」とあります。

 瓢水は、富治斎(ふしゅんさい)・野橋斎(やぎょうさい)・一鷹舎(いちようしゃ)とも号し、剃髪してからは自得(じとく)と称していました。

 瀧有恒(たきありつね)は、彼の本名です。

 瓢水の家は、住吉神社の西、およそ300メートルの場所にあり、ここへはよく足をはこんだと想像します。

 ここから海の向こうに淡路島が横たわり、はるか右手に家島が、さらにその向こうに小豆島を見眺めることができました。(no3368)

 *写真:住吉神社の扁額

 

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瀧瓢水物語(19) 瓢水の句(4) 手に取るな やはり野に置け 蓮華草

2016-10-18 07:09:05 | 瀧瓢水物語

     

  手に取るな やはり野に置け 蓮華草

 今日の瓢水の句は、余分な解説は不要でしょう。少しだけ、蛇足を加えさせてください。

 写真の蓮華畑を見ながら、鑑賞ください。

    やはり野に置け蓮華草・・・・”

 蓮華草は、野に群がって咲くから美しく見えるのであって、それを摘んで家の中に飾ってもあまりきれいではありません。

 このことから、大坂の俳諧仲間が遊女の身請相談にやってきたとき、彼に「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」の句をおくってたしなめたといいます。
 この句は、自然の中で咲く蓮華草が美しいのと同じように、遊女は色町にいてこそ美しく見えるということなんですね。(no3367)

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瀧瓢水物語(18) 瓢水の句(3) さてはあの 月が鳴いたか 時鳥

2016-10-17 08:07:32 | 瀧瓢水物語

         さてはあの 月が鳴いたか 時鳥

 瓢水は、俳諧の名手としてその名は京都にも聞こえていました。

 ある時、御所へ招かれて,天皇より後徳大寺(藤原実定。定家のいとこ・歌人)の「ほととぎす鳴きつるかたを眺むればただありあけの月ぞ残れる」(百人一首で知られる)を俳諧に直せるかといわれ、即座に、

    さてはあの 月が鳴いたか 時鳥(ほととぎす)

 と詠み、周りを絶句させました。

 天皇は、大いに喜ばれました。

 

 瓢水のエピソードは続きます。

 美味しかったのでしょう。

 瓢水は、ご馳走になり帰るとき、感想を

    けし炭も 柚味噌につきて 膳の上

 の句を膳の上に書き残こして去ったといいます。

 それがまた、御所の人々を唸らせたといいます。(no3366

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