『播磨国風土記』
「石の宝殿と生石神社の話(1)」の写真の大きな石の正体は何者なのでしょうか。それにしても、不思議な石塊です。
謎解きに出かけましょう。さっそく、本丸へ切り込みます。
この石塊に関して記録があります。
『(播磨国)風土記』です。
風土記は、日本で最も古い書物の一つで、今から1300年ほど前の713年に大和朝廷から各国の①郡や里の名のいわれ、②産物、③地力、④山や川の地名、⑤伝承を書いて報告するように、と命令が出ました。
その報告書が『風土記』となりました。
その風土記ですが現在残っているものは『常陸国風土記』『播磨国風土記』『出雲国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』だけです。
そのうちでも、『播磨国風土記』は、早い時期に提出されたと考えられています。したといわれています。
『風土記』に「大石」として登場
さっそく、『播磨国風土記』で、石塊(大石)についての個所を、読み下し文で詠んでみます。
〈大石〉
・・・原の南に作り石があります。形は家のようです。
長さは二丈(約6㍍)、広さは一丈5尺、高さもそれぐらいです。
名は大石といいます。
伝えられていることは、聖徳太子の時代に弓削大連(ゆげのおおむらじ・物部の守屋)作らせた石です。・・・・
今回は、大石(石の宝殿のこと)が『播磨国風土記』に登場登場することだけを確認しておきます。(no3379)
*図:石の宝殿(西谷真治氏測量)