ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(136) 鎌倉時代(24) 文観(17)・後醍醐天皇、加古川で一夜

2019-12-28 08:25:02 | 大河・かこがわ

    後醍醐天皇、加古川で一夜

 正和5年(1316)、北条高時が執権につきましたが、幕府の支配体制の乱れは著しものがありました。

 復習です。先に述べたように、この機を見た後醍醐天皇は、正中(せいちゅう)元年(1324)、倒幕を計画しました。

 しかし、後醍醐天皇は、天皇には珍しく、それであきらめるような人物ではありません。

 元弘元年(1331)にも倒幕の計画を進めましたが、この時も身内の密告により失敗に終わってしまいました。

 俊基は、捕らえられ鎌倉へ護送されました。文観は遠島でした。

そして、後醍醐天皇は、隠岐島(おきのしま)に流されることになりました。

 京都を出発した天皇一行は、7月12日に教信寺(加古川市野口町)の前の山陽道を通り、加古川の宿に入りました。

 加古川での宿は、播磨の守護所(場所は現在の近く-加古川町)でした。

 残念なことに、後醍醐天皇一行は確かに教信寺の前の道を通り加古川の町で宿をとっているのですが、野口を通過した時の記録は残していません。

 加古川での宿舎は、寺家町の常住寺であったという説もあります。(no4841)

*写真:後醍醐天皇が沖に流された時に通った道(称名寺・常住寺の場所を探してください)

    《お知らせ》

 この1年ブログをお読みいただき、ありがとうございました。

 来年の1月4日(土)まで、お休みとします。5日(日)より再開しますので、引き続きよろしくお願いします。

 良いお年をお迎えください。

 

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大河・かこがわ(135) 鎌倉時代(23) 文観(16)・文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ

2019-12-27 09:54:12 | 大河・かこがわ

            文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ

 後醍醐天皇の幕計画は、正中の変に続きまたまた失敗でした。

 今度は、鎌倉幕府は激怒しました。厳しい取り調べでした。

 文観には死罪の決定が下されました。

 「たとえ身分の高い僧であろうとも、死罪にすべきだ」ということに決まったのです。

 しかし、次のような噂話がまことしやかにつたえられています。

 ・・・・執権の北条高時が眠っているとき、夢の中に数千の猿があらわれ、「われらは、比叡に住む仏の使者である」と、猿が高時(時の執権)につげたのでした。

「僧たちに拷問(ごうもん)にかけたらしいが、かならず仏罰があろう。さきごろの地震も、そのむくいである・・・」と言って姿を消しました。

もともと気の弱い高時は、夜中におきて、部下をやって、文観の獄舎をのぞかせたところ、獄舎の障子に、不動明王の姿が写しだされていたと高時に報告しました。

「まことか。もしも仏罰があれば、おおごと」と、高時は文観の死刑をとりやめ、僧侶たちを遠島の処分に変更したと・・・

 あくまで夢物語でしょうが、地震で被害をうけ、まだ野原でむしろ一枚で起居している庶民がいる状態で、もし坊主を殺したならば、ただ反感を買うだけだと考えなおしたのでしょう。

 後醍醐天皇隠岐の島へ流罪、日野俊基や文観等もそれぞれ流罪となりました。

 この時、一番の重罪は文観で、薩摩国の鬼界ヶ島(硫黄島)に流されました。

 日野俊基は、流罪になり後に殺害されています。

 幕府は、後醍醐天皇等は日野資朝・俊基・文観等を失い、倒幕という大それた計画はできないであろうと考えたのです。

 しかし、これはさらなる動乱のはじまりにすぎませんでした。(no4840)

*絵:不動明王(醍醐寺蔵)

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大河・かこがわ(134) 鎌倉時代(22) 文観(15)・正中の乱は失敗するも!

2019-12-26 08:21:13 | 大河・かこがわ

      正中の乱は失敗するも!

幕府は、倒幕の中心となった日野資朝(すけとも)・日野俊基(としもと)を取り調べたが、下手な裁断はくだせませんでした。

倒幕を企てたといっても、密告だけで、これという証拠もなかったのです。

 もし、倒幕計画に加わったと思われる公家たちをことごとく捕え、後醍醐天皇までむりやりに退位させてしまえば、地方の武士や民衆の反発を買いかねません。

 決裁は、両名を死刑にするところですが、資朝(すけとも)は佐渡ヶ島へ遠島。俊基(としもと)は「無罪」となりました。

  後醍醐天皇は、これでへこたれるような、やわな天皇ではありません。

 「倒幕」の二文字がますます燃え盛るのでした。

 それからしばらく経(た)って、宮中に、醍醐寺の文観僧正が招かれました。

 「ご坊に、お願いがございます」と、俊基が殊勝な顔つきで、頭をさげるのでした。

     元弘の乱・文観捕らわる

 「お願いともうしますのは、鎌倉調伏(倒幕)の祈祷をしていただきたいのです。

 もちろん、表向きは、中宮のご安産の祈祷(きとう)だということにしていただき、安産祈祷を口実にして、北条高時をのろい殺してもらいたい」と、俊基は、文観等にたのむのでした。

 文観らは、正中の変のときから、倒幕の企てに関(かか)わっていたので、一言もなく、承知しました。

 嘉暦元年(1326)の春ごろから、文観等は、宮中に壇をかまえ、祈祷をはじめました。

 後醍醐天皇も祈祷に加わりました。

 またまた、この計画は漏れてしまいました。

 京都は、うだるような7月11日(元弘元・1331)の夕刻でした。日野俊基の館は六波羅の武士により取り囲まれてしまいました。(元弘の乱)

 日野俊基は、とらえられ鎌倉へ送られます。死を覚悟した鎌倉への護送でした。文観もとらえられ鎌倉へ送られたのです。(no4839)

 

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大河・かこがわ(133) 鎌倉時代(21) 文観(14)・正中の変

2019-12-25 08:51:30 | 大河・かこがわ

14世紀の初め、時の執権・北条高時は、田楽や闘犬にふけり、政治をかえりみることをしませんでした。政治は腐敗しました。

 社会の混乱は深まるばかりでした。後醍醐天皇は、政権を武士から取り戻し、政治を改めようと、鎌倉幕府打倒を決意しました。
 その事件の顛末を少し述べておきましょう。

        正中の変(正中元年・1324)

 この討幕計画の中心になったのは、日野資朝(すけとも)と日野俊基(としもと)です。

 資朝は、当時の公家政治の中心人物でした。いっぽう俊基は、身分はもともと低く後醍醐天皇からその才能を認められ取り立てられた人物です。

 後醍醐天皇の信頼のおける仲間内の会議で俊基から、討幕の計画が提案されました。

 さすがの、仲間の貴族もびっくりしました。

 俊基は、天下の情勢、後醍醐天皇の決意を諄々と語りました。

 具体的には「倒幕の旗揚げの日は、来る 9月23日。北野の天神祭りの日で、この祭りに、武士の一団がまぎれこみ、わざと喧嘩をはじめる。

 そうすれば、六波羅探題(ろくはらたんだい)は騒ぎをしずめるために兵をさしむける。

 そこで、手薄になった六波羅を急襲し、探題を討ちとり、我らの兵をもって、宇治と大津を固め、まず京都を、朝廷の勢力下においてから、地方の武士たちに号令して、鎌倉へ押し寄せる」ということでした。

 その場の貴族たちもさすがに青くなったようです。

 しかし、この計画は、仲間内から漏れ失敗におわってしまいました。(no4838)

 

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大河・かこがわ(132) 鎌倉時代(20) 文観(13)・八髻文珠菩薩(般若寺)の語ること

2019-12-24 07:52:58 | 大河・かこがわ

     八髻文珠菩薩(般若寺)の語ること

 後醍醐天皇の討幕にかける執念を知る手掛かりが、奈良の般若寺に残されていました。

 般若寺には古くから伝えられてきた仏像・「八髻(はっけい)文珠菩薩」(写真)があります。

 最近、歴史学者・網野善彦氏等の研究により、その文殊菩薩が後醍醐天皇の意を受けた文観が、幕府打倒を祈願してつくらせたものであったことが明らかになりました。

 菩薩の体内から、そのことを示す銘文が発見されました。

 銘文は「金輪聖主御願成就」とあり、般若寺の住職の話では、「文珠菩薩が大変痛んでいたので、解体修理した際に見つかった」ということです。

 「金輪聖主」とは後醍醐天皇のことです。

 後醍醐天皇は、着々と討幕の準備を進めていました。

 さっそく仲間を集め、秘策が練られました。

 「この計画を隠すために行われた無礼講では、素肌のすける衣裳をつけた女をまじえ、無軌道な酒宴が開かれた」と『太平記』は書いています。

 しかし、この「革命ごっこ」は簡単にもれ、つぶされました。(no4836)

 *写真:(修理前の)八髻文珠菩薩(般若寺)

 

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大河・かこがわ(131) 鎌倉時代(19) 文観(12)・ 後醍醐天皇の野望

2019-12-23 08:33:54 | 大河・かこがわ

              後醍醐天皇の野望

  14世紀の初め、長く続いた鎌倉幕府も、蒙古襲来をきっかけに、その支配体制にかげりが見えはじめました。
 時の執権・北条高時は、田楽や闘犬にふけり、政治をかえりみることをあまりしませんでした。

そのため、政治は腐敗し、社会の秩序も乱れ始めました。
こうした社会の混乱が深まっていた文保二年(1318)、後醍醐天皇が即位したのです。
天皇は、政権を武士から取り戻し、政治を改めようと、鎌倉幕府打倒を決意しました。
後醍醐天皇はまず、中宮の安産祈願に名を借りて、寺々に幕府打倒の祈祷を行なわせます。
そして、自らも法衣をまとい、護摩を焚き、経を唱えながら、幕府調伏を祈祷しました。(no4836)

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大河・かこがわ(130) 鎌倉時代(18) 文観(11)・文観と後醍醐天皇の結びつき

2019-12-22 19:41:28 | 大河・かこがわ

     文観と後醍醐天皇の結びつき

 文観は、永仁3年(1295)西大寺に入り受戒し、文観25才の時、文観・朱音を名乗り、叡尊の起こした真言律宗の叡尊の十三回忌の追善務める西大寺の真言律僧としてその姿を現しています。

 復習です。

 正安3年(1301)真言宗に入り醍醐寺の道順により真言僧となっています。

 文観は、師である道順の線に連なって、後醍醐天皇に近づいたようです。

 たちまち、双方の政治家的な気質、野心家的な素質が急激に二人を親しくさせていきました。

 後醍醐天皇は、天皇家の家系では珍しいほど政治好きでした。

 「自分は政治をやりたい」

 30才を過ぎて即位した後醍醐天皇は、はっきりそう考えたのです。

 学問にも打ちこんで、「なぜ天皇自身が政治をすべきか」という理論武装もしました。

 理論に弱い日本人政治家のなかでは、異色の人物です。

 それも、机上の学問としてではなく、むしろ現実的(実用的:宋学)な学問を愛したようです。

 一方の文観も、また政治好きな人物でした。

 この二人が結びついたとき、「政治をわれらの手に。・・・そのためには、まず幕府打倒だ」と、エスカレートしていったのは、自然の流れだったのでしょう。(no4835)

 *挿絵:文観のつもり

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大河・かこがわ(129) 鎌倉時代(17) 文観(10)・後醍醐天皇の絵像について

2019-12-21 20:31:42 | 大河・かこがわ

       後醍醐天皇の絵像について

当後醍醐天皇が紹介されるとき、かならずといってよいほど紹介されるのが、神奈川県藤沢市にある時宗の総本山、清浄光寺(しょうじょうこうじ)に伝わる後醍醐天皇の絵像です。

 この絵像で、後醍醐天皇は、天皇の正装である黄櫨染(こうろぜん)の抱(ほう)を着、その上に袈裟(けさ)を掛けて、右手には密教の法具の金剛杵(こんごうしょ)、左手には金剛鈴(こんごうれい)をにぎり、八葉蓮華の敷物の上に座したすがたで描かれています。

 かつては、後醍醐天皇が幕府倒す時の祈りを行うさまを描いたともいわれていました。

 が、この絵像が、文観を師として灌頂を受けたすがたを写したことが、最近、絵像に付属する文書「揄祇灌頂之事」(清浄光寺文書)から知られるようになりました。

 この後、醍醐天皇像については、歴史学者の黒田日出男氏が、両手の持ち物や、八葉蓮華の敷物から、大日如来(だいにちにょらい)と衆生を仲介する金剛薩埵(こんごうさった)に天皇をなぞらえたものとしています。

先に紹介したように後醍醐天皇も文観も道順から灌頂を受けています。

 そして、後醍醐天皇は文観から灌頂「揄祇灌頂」を受けています。

 文観と後醍醐天皇は真言(律)宗を通じて強い結びつきがあったようです。(no4834)

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大河・かこがわ(128) 鎌倉時代(16) 文観(9)・文観、西大寺の僧に  

2019-12-21 08:50:44 | 大河・かこがわ

          文観、西大寺の僧に

文観は、弘安元年(1278)に播磨国(はりまのくに)に生まれ、13歳のときに法華山一乗寺(ほっけさんいちじょうじ)(兵庫県加西市)で出家し、僧になりました。

 法華山・一乗寺は、真言律宗の開祖叡尊(えいぞん)ゆかりの寺院であり、法華山で僧になった文観は、二年後には、叡尊がかつて住職であった奈良西大寺へはいり、西大寺二世長老の信空(しんくう)から教えを受けました。

 正安三年(1302)に、西大寺の信空から教えを受け、秘法を授けられた文観は

、同年に醍醐寺報恩院の道順から阿闇梨(あじゃり:真言・天台の高僧)の位を持つ正規の僧となっています。

 醍醐寺で得度した叡尊が、西大寺流の律宗をおこしたのちも、醍醐寺や高野山と関係を持ちつづけたように、文観もまた、正規の真言僧でありつつ、西大寺流の律僧としての活動をつづけています。  

    文観・後醍醐天皇は、ともに道順から灌頂

 文観に灌頂(かんじょう:僧につく儀式)を授けた醍醐寺報恩院の道順は、皇太子時代の後醍醐天皇にも灌頂を授けています。

 道順は、後醍醐天皇からずいぶん信頼された僧でした。

 文観は、その道順からも教えを受けています。

 元亨三年(1323)に、文観は道順(元亨元年没)の高弟として、内裏(御所)に召されました。

 後醍醐天皇は、正中二年(1325)に文観を内供奉(ないぐぶ:天皇に特別に仕える職)に任じ、嘉暦二年(1327)、元徳二年(1322)には真言宗の秘法を、いずれも文観から受けています。

 文観は猛烈なスピード出世をしました。文観は、後醍醐天皇からずいぶん信頼されていたようです。 (no4833) 

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大河・かこがわ(127) 鎌倉時代(15) 文観(8)・真言律宗

2019-12-20 09:10:53 | 大河・かこがわ

            真言律宗

    西大寺が創建されたのは奈良時代ですが、当初は、壮麗な寺院でした。

 しかし、称徳天皇が亡くなり、道鏡が東国へ左遷されると、西大寺に対する関心はうすれ、平安時代には衰退の一途をたどりました。

 鎌倉時代には、所有していたすべての荘園を失いました。これを再生したのが叡尊(えいぞん:1201-1290)です。
 叡尊は、当時の戒律を守らない、特に浄土系の僧侶・人々(庶民)のあり方に疑問をもちました。

 西大寺に住み、深く戒律を学びました。

 西大寺に住んで10年が過ぎたころ、叡尊は仲間とともに誓いを立てました。

 お釈迦さまの弟子として、生まれ変わっても、浄土へは行かず、かつてお釈迦さまがしたように、諸仏の救いからもれた人々を救いたい。

 そのためには、地獄の苦しみも忍ぼうと叡尊は述べています。

 真言律宗寺院の活動は、多方面に及びました。

 「戒律を守る」ことにあることは当然です。その他、貧民・人非・らい患者の救済事業にも取り組みました。

 また、幅広い技術集団を抱え、道路・橋・泊・港の整備などを行いました。つまり、当時のインフラ整備のエキスパート集団を抱えて活動しました。

 中でも西大寺系の石工集団は「伊派」とよばれ、優れた石造物を多く残しています。

 特に加古川近辺では数々の伊派の石造物が、特に多く残されています。

 真言律宗の戒律、「伊派」の石工集団については後に紹介しましょう。(no4832)

 *写真:叡尊像(西大寺蔵)

 

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大河・かこがわ(126) 鎌倉時代(14) 文観(7)・西大寺の末寺

2019-12-19 08:26:24 | 大河・かこがわ

         西大寺の末寺

  1月27日の氷丘公民館地域学講座で報告された、兵庫大学の金子教授の報告からです。

 私たちの地域では、西大寺の末寺は常楽寺だけではありません。

 西大寺の末寺帳には次の4寺が挙げられています。

     西大寺直参末寺

 加古川市加古川町大野  常樂寺 播磨の筆頭末寺。播磨の末寺を管理する。

 *西大寺直参末寺の中でも、最も格が高いグルーブに入る。

 加古川市加古川町本町  常佳寺 元は寺家町

 加古川市平荘町山角   報恩寺

 加古川市尾上町     成福寺(不明)

 続けて、金子先生は西大寺流の寺院として次の2寺を指摘されています。

     西大寺流寺院

 稲美町中村       円光寺(元は国安)

 加古川市加古川町稲屋  福田寺

 

 加古川地域は、真言律宗西大寺とつながりが特に強固な地域でした。

   次号から、真言律宗が私たちの地域に果たした役割を見ていきたいのですが、私たちの地域では天台律僧も活躍もしています。

 天台律僧の活躍については、さいわい『室町お坊さん物語(田中貴族子著)』(講談社新書)がありますのでご覧ください。

 律僧(鎮増)の目を通した加古川地方(米田)の水害のようすなども書かれています。(no4831)

 *写真:旧常住寺(常楽寺の写真はしばしば取り上げていますの、常住寺の写真にしました。寺家町にあった常住寺です)

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大河・かこがわ(125) 鎌倉時代(13) 文観(6)・新仏教と旧仏教

2019-12-18 07:47:21 | 大河・かこがわ

    新仏教と旧仏教

 鎌倉仏教の話です。

 鎌倉時代、地震・飢饉・戦争は引き続きおきました。

 その上に重い税金があり、人々の生活は、厳しさを増し、まさに末法の世のようでした。

 こんな時、人々は仏様に救いをもとめます。

 この時代、法然・親鸞といった新しい考えの宗教家がキラ星のように誕生しました。そして、「浄土(極楽)」の教えを広めようようとしたのです。

 それも、厳しい修行は必要でなく、一心に仏様にすがれば、極楽に往生できるという教えでした。

 そのため、庶民は救いを仏様に求めたのです。この浄土教の教えは、すさまじい勢いで広がろうとしました。

 当然、それまでの宗教(教団)と争いがおきました。

常楽寺は、西大寺系の真言律宗の寺院

 旧仏教側にも反省がおきました。 

 「お釈迦さまが一番大切にされたのは戒律(かいりつ)を守ることである。もう一度、いまの時代に戒律を呼び興こそう」という声が高まりました。

 信者は「戒律」を守ってこそ救われるとする教団が真言宗・天台宗を中心にして生まれました。

 特に、真言宗から規律(律)を大事にする声が上がり、奈良の西大寺を再興した叡尊(えいぞん)を中心にして真言律宗がつくられました。

 真言律宗は、歴史の教科書にあまり登場しませんが、時代に大きな影響をあたえました。

 永仁3年(1295)、文観は西大寺に入り受戒(真言律宗の僧として認められ戒名をもらうこと)しています。

 この時の戒名は「殊音(しゅおん)」でした。

 ここに、文観(殊音)・西大寺・常楽寺のつながりができてきました。(no4830)

 *写真:西大寺

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大河・かこがわ(124) 鎌倉時代(12) 文観(5)・不遇な少年時代か?

2019-12-17 05:39:22 | 大河・かこがわ

 文観を追いかけたいのですが、謎だらけ人物です。

 特に、子供の時代の文観についてはほとんど分かりません。自分のことを語っていないのです。語りたくなかったのかもしれません。

 そのため、伝承では子ども時代に文観は「播磨の農民の子として生まれ、幼少時に天台宗の僧に130文の銭で買われた」という伝承まであります。

     不遇な少年時代か?

 「瑜伽伝(ゆかでん)」から彼について想像してみます。

 彼の直弟子の宝連(ほうれん)が書いています。

 おそらく文観から直接聞いた内容でしょう。そのため、信用してよい史料と思われます。

 少し気になるか所があります。

 「(文観は)大野源太夫重貞孫也、播州人也、弘安元年 戊寅正月十一日乙未鬼宿金曜辰初分誕生、非母可生孝子・・・・」の部分です。

 「(文観は)大野源太夫重貞孫也」と書いており、お爺さんが登場し、父のことを書いていません。

 何か理由がありそうです。彼の父が亡くなっているのであれば別の書きようがあるはずです。

 母については「非母可生孝子」と書いています。

 少年時代、どのような家族構成で生活したのかはわかりませんが、家族問題をかかえていたようです。

 「このような家庭環境のためか、聡明な少年であった後の文観は、父、母あるいわ世話をする人により寺に預けられたのかもしれません」

 この部分は想像です。

 その寺が大野の常樂寺だったのでしょう。(no4829)

 *挿絵:文観

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大河・かこがわ(123) 鎌倉時代(11) 文観(4)・やはり文観は、加古川の人

2019-12-16 09:23:16 | 大河・かこがわ

 文観は、北条(加西市)の法華山一乗寺の僧侶で、そこから奈良の大寺(西大寺)に移り後醍醐天皇の保護のもとで大活躍した人物であり、当然、北条(加西市)で誕生した人物であると思い込んでいました。

 『加西郡誌』を読んでみます。

     文観、『加西郡誌』より

 *以下は、文観を説明した個所の最初の部分の記述です。

 文観僧正は、我が郷土(加西市)から出た人物中の傑物である。

 ・・・・また、その革命家的素質はよく後醍瑚天皇を助けて、北條氏からの政権奪還の計画を(一時)成功させました。

 そして、鎌倉末期の仏教美術家として絶大の手腕を揮うたことは、遺品によって明らかに証明されています。

文観僧正については多くの書物で見ることができます。

 太平記には「文観僧正は、元は播磨国、法華寺(一乗寺)の住僧で壮年の頃より、醍醐寺に移つり、東寺の長者、醍醐寺の座主に任命され・・・」と書いています。(文は、少し読みやすくしています)

           文観・加古川に生まれる

 最近の網野善彦氏を中心とする研究では、文観の生まれは加古川市大野であるしています。

 「北条」の件ですが、中世、大野(加古川町)あたりは北條郷でした。

 「北条」と言えば加西の北条がよく知られているため加西と思い込みがちですが、加古川の北條郷を指していました。

 最近では、文観は加古川町の北條で生まれたとされています。

 文観は、この村で生まれました。弘安元年(1278)のことです。(no4828)

 *写真:北条の一乗寺本堂

 

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大河・かこがわ(122) 鎌倉時代(10) 文観(3)・文観の誕生日:弘安元年(1278 )1月11日

2019-12-15 08:36:57 | 大河・かこがわ

     文観(3)・加古川(大野)の生まれ

 以前、私は「文観」というとチョットいかがわしい怪僧であり、てっきりその生まれは、「加西」で、一乗寺で研鑽をした僧侶ぐらいに思っていました。

 そしてそれ以上に深く考えませんでした。

 

 それが入門書ばかりですが、中世史の碩学、網野善彦先生の著書を読んでいると、「文観は、加古川市加古川町大野の出身で、大野の常楽寺で研修を始めた」と思えてきました。

    文観の誕生日:弘安元年(1278 )1月11日

 また、昭和29年度氷丘公民館地域学講座(1/27)で、兵庫大学教授の金子哲教授が「日岡の文観」について講義をされました。

 その講義から、次の史料を紹介します。貴重な史料ですから掲載させていただきますが、少し読みづらいので飛ばしていただいてもかまいません。

  (史料1)

  宝連 「瑜伽伝灯商省」第九巻第二十九法務大僧正弘真条

  第廿九伝法務大僧正弘真  号小野僧正一長者座主 酉酉座主

  左大臣雅信公十三代後胤大野源太夫重貞孫也、播州人也、弘安元年

  戊寅正月十一日乙未鬼宿金曜辰初分誕生、非母可生孝子、祈誓如意

  輪白衣二尊、(後略)

     〈史料1〉からわかること

 この史料は、文観の直弟子の宝蓮の書いたもので、史料は信ぴょう性が高いと思われます。

     「弘真」は、文観のこと

 ◇お爺さんは、大野源太夫重貞、

 ◇文観の誕生は、弘安元年(1278 )1月11日。(母に関しては、「非母可生孝子」と記しています。何か事情があるようですが、今のところはこのままにしておきます。父に関しては不明です)

 ◇名前から想像されることは元関東(武士)だったようです。

 ◇文観は播州の人

 史料によれば文観は「播州の人」であり、名前を「大野」であるところから、加古川の大野の人であることが推察されます。

 この史料だけでは、正確なことははっきりしませんが、少し文観の輪郭が現れました。(no4827)

 *写真:常楽寺(加古川町大野)山門

 

 

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