<後期赤松氏の年譜>
明応五年(1496) 赤松政則没、赤松義村が継ぐ。
明応八年(1499) 赤松のナンバー2の浦上則宗が赤松の乗っ取りをはかる。
永正四年(1507) 赤松義村と政則の妻・洞松院、妻の松の対立が深まる。
永正十五年(1518) 赤松義村が浦上追討の兵をあげる。
大永二年(1522) 義村、室津に幽閉され殺害される。
享録四年(1531) 赤松晴政、父・義村の敵の浦上村宗を討つ。
天文元年(1532) 尼子氏の侵攻始まる
天文十一年(1543) 置塩山城の築城始まる。(最近の研究より)
中道子山城の築城は、赤松晴政の時代
中道子山城の発掘調査より判明したことを繰り返します。*「志方町を歩く(109)」をご覧ください。
「・・・山城跡から出土した土器の分析から、焼土層は享録年間(1528~1532)に当たることが判明した。
この結果、中道子山城跡は居城として永正・大永年間(1504~1528)に築城され、享録年間の焼失後、すぐに再築城されたのが確実となった。
城の構造は、天正期以降の出現する技法の芽生えが随所に見られ、まさに過渡期の山城であったといえる」
発掘調査は、「中道子山城発掘調は、中道子山城は永正・大永年間(1504~1532)の間に居城として使用された」ことを明らかにしました。
この時代、加古川近辺でこれだけの規模の城を必要とし、維持できる人物がいたでしょうか。
赤松につながる城主は、多数いるものの。特に中道子山を必要とする城主は見当たりません。
とすると、中道子山城の主人公を別に探す必要があります。
中道山城の築城者は、赤松晴政か?
最近の研究からは、置塩山城の築城は、晴政により天文十一年(1543)の頃にはじまったとされています。
それは、度重なる浦上の攻撃に備えるため、尼子氏の攻撃に対抗するためというのがその主な理由だったのでしょう。
いざの場合、赤松氏は、中道山城を東播磨地方の守りの根拠地とすることにあったのかもしれません。
また、次のような想像は、蛇どうでしょうか。
もし、尼子氏にせめられたら、浦上に敗れたら新しい拠点が必要となります。
そのために、不必要ほどの規模の城を造っておいたのではないでしょうか。
天文十一年、晴政は置塩山に急きょ防備の優れた城を築く必要がありました。
しかし、時間がありません。
晴政は、志方の中道子山城を新しい拠点として築城した実績があります。
置塩山城と中道子山城の縄張りは非常に似ています。
置塩山城は中道山をモデルにして、大急ぎで築城したのではないかと推測します。
中道子山城の築城者は、赤松晴正と考えてみました。
かなり強引ですが、このままでは中道子山の築城者は五里霧中です。
歴史書は、いつまでも「中道子山城の築城者は、はっきりとしない」と書き続けるでしょう。
築城者として、通説とは全く異なった人物を登場させました。
あなたなら、中道子山城の築城者を誰と推測しますか。
*写真:置塩山城、南西部の石積み