ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(112):城山物語⑯・中道子山城の築城者は赤松晴政か?

2011-09-30 19:09:15 |  ・加古川市東志方

   

  <後期赤松氏の年譜>

明応五年(1496)  赤松政則没、赤松義村が継ぐ。

明応八年(1499)  赤松のナンバー2の浦上則宗が赤松の乗っ取りをはかる。

永正四年(1507)  赤松義村と政則の妻・洞松院、妻の松の対立が深まる。

永正十五年(1518) 赤松義村が浦上追討の兵をあげる。

大永二年(1522)  義村、室津に幽閉され殺害される。

享録四年(1531)  赤松晴政、父・義村の敵の浦上村宗を討つ。

天文元年(1532)  尼子氏の侵攻始まる

天文十一年(1543) 置塩山城の築城始まる。(最近の研究より)

   

   中道子山城の築城は、赤松晴政の時代

中道子山城の発掘調査より判明したことを繰り返します。*「志方町を歩く(109)」をご覧ください。

「・・・山城跡から出土した土器の分析から、焼土層は享録年間(15281532)に当たることが判明した。

この結果、中道子山城跡は居城として永正・大永年間(15041528)に築城され、享録年間の焼失後、すぐに再築城されたのが確実となった。

城の構造は、天正期以降の出現する技法の芽生えが随所に見られ、まさに過渡期の山城であったといえる」

発掘調査は、「中道子山城発掘調は、中道子山城は永正・大永年間(15041532)の間に居城として使用された」ことを明らかにしました。

この時代、加古川近辺でこれだけの規模の城を必要とし、維持できる人物がいたでしょうか。

赤松につながる城主は、多数いるものの。特に中道子山を必要とする城主は見当たりません。

とすると、中道子山城の主人公を別に探す必要があります。

   

中道山城の築城者は、赤松晴政か?

Photo_2ここから、大いなる妄想を書きます。ご批判ください。

最近の研究からは、置塩山城の築城は、晴政により天文十一年(1543)の頃にはじまったとされています。

それは、度重なる浦上の攻撃に備えるため、尼子氏の攻撃に対抗するためというのがその主な理由だったのでしょう。

いざの場合、赤松氏は、中道山城を東播磨地方の守りの根拠地とすることにあったのかもしれません。

また、次のような想像は、蛇どうでしょうか。

もし、尼子氏にせめられたら、浦上に敗れたら新しい拠点が必要となります。

そのために、不必要ほどの規模の城を造っておいたのではないでしょうか。

天文十一年、晴政は置塩山に急きょ防備の優れた城を築く必要がありました。

しかし、時間がありません。

晴政は、志方の中道子山城を新しい拠点として築城した実績があります。

置塩山城と中道子山城の縄張りは非常に似ています。

置塩山城は中道山をモデルにして、大急ぎで築城したのではないかと推測します。

中道子山城の築城者は、赤松晴正と考えてみました。

かなり強引ですが、このままでは中道子山の築城者は五里霧中です。

歴史書は、いつまでも「中道子山城の築城者は、はっきりとしない」と書き続けるでしょう。

築城者として、通説とは全く異なった人物を登場させました。

あなたなら、中道子山城の築城者を誰と推測しますか。

*写真:置塩山城、南西部の石積み

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志方町を歩く(111):城山物語⑮・置塩山城と中道子山城②

2011-09-29 16:11:09 |  ・加古川市東志方

置塩城は中道子山城のモデルか?

Photo『中道子山城跡発掘調査報告書』(p28)の一部を読んでいます。

置塩山城は、姫路市の北方に築かれた、赤松氏最後の山城である。

・・・この山城を見ると、中道子山城跡の形式と酷似する状況ではないだろうか。

・・・両者を重ねてみると廓の段数に相違はあるものの、ほぼ重なっていることに気付かされる。

置塩城の2分の1に縮小したのが中道子山城となるのではないだろうか。

伝えられる、置塩城の完成図を考えると、この城の形式を持って中道子山城が築かれているのではないだろうか。

城郭の構造の細部を見ていくと、北部に井戸廓や土塁構造をもっており、東西には永い城壁が姫路方面に築かれていることも共通している。

敵に対した部分に長い城壁を築いていることは、北部の山地を背景した城主の瀬戸内に対する意識を見ることができる。

また、偶然というか、大手門への入り方も同じ位置に設定されている。

   中道子山城が置塩山城のモデルでは?

置塩城の縄張りは、あまりにも中道子山城に似ています。

上記の記述では、中道子山城は置塩山城を手本にして築かれているのではないかと推測されています。

しかし、置塩山城は最近の研究では赤松晴政の時代の天文十一年(1543)に築城が始まっています。

時代はあまり違わないのですが、天文十一年には発掘調査などから中道子山城は、既に存在していたことが確認されています。

ですから、置塩山城はむしろ中道子山城の形式を採用したのではないでしょうか。

赤松晴政の時代は、戦闘に明けくれ、じっくり築城について考える余裕がなかったと思われます。

しかし、置塩に拠点を置いた赤松氏にとって山城は築城必要となりました。急きょ置塩山城の建設に取り組みます。モデルがありました。

それが、中道子山城だったと想像してみました。

   最後の山城

播磨では、守護の赤松氏にまさる勢力はありません。

ですから、赤松氏の浮き沈みはあったものの中道子山城も赤松に関係した城であったことは確実です。

最後の山城です。

中道子山城の城主は、置塩山城につながる人物でなないでしょうか。

 *写真:置塩山城の縄張り

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志方町を歩く(110):城山物語⑭・置塩山城と中道子山城①

2011-09-28 22:58:25 |  ・加古川市東志方

 それでは、中道山城の城主探しに出かけます。

 後期赤松の置塩山城から考えてみます。

  置塩城築城は

晴政の時代(天文11年・1543)にはじまる

赤松惣領家の話に戻します。

赤松政則は、明応五年(1496)心臓発作により嘘のようにあっけなく他界します。

その後、義村が政則を継ぐことになります。

が、お決まりのように一族の中での権力闘争が始まりました。

赤松支族のナンバー2の浦上村宗との対立です。

浦上村宗は、政則の奥さん・洞松院、吉村の妻・松も抱き込みます。そして、義村を攻めます。

義村は、室津の寺に幽閉され、殺害されます。

赤松晴政は、父・義村の失脚により赤松家を継ぐことになり義村は、奇跡的に仇討ちに成功し浦上村宗を暗殺します。

浦上氏との暗闘の上に、赤松惣領家の混乱を見逃さず、出雲の尼子晴久の播磨侵攻が始まりました。

天文元年(1532)ごろから美作(みまさか・岡山東部)への侵攻が始まります。

この時は、本格的な侵攻ではありませんでした。

こうなれば、敵対していた浦上村宗の子・政宗と赤松晴政は、尼子氏に対抗する必要から和睦します。

その後も、尼子氏は天文七年(1538)に攻め込んできました。

晴政と毛利氏との関係は良好であったようです。

この間、政晴は尼子氏との戦いで国外(播磨の外)への脱出も二度におよびました。

尼子氏は毛利との戦いに敗れ、播磨から撤退します。

播磨に帰った晴政は、天文十一年(1543)頃から置塩山城の築城を始めたようです。

最近の研究では、置塩山城は赤松政村・義村の時代ではなく晴政の時代に築かれたとしています。

  中道子山城の築城は

永正・大永年間(150432)に築城

 1_026 「志方を歩く(109)」で紹介した『第四次中道子山城発掘調査』の一部をもう一度読んでみます。

 「・・・山城跡から出土した土器の分析から、焼土層は享録年間(15281532)に当たることが判明した。

この結果、中道子山城跡は居城として永正・大永年間(15041528)に築城され、享録年間の焼失後、すぐに再築城されたのが確実となった。

城の構造は、天正期以降の出現する技法の芽生えが随所に見られ、まさに過渡期の山城であったといえる」

後期赤松氏の赤松惣領家の置塩山城は、中道子山城より少しだけ早い時期に築城されたようです。

読者の方から「それがどうした」という声が聞こえてきそうです。

この二つの、城そして築城時代から、独断をのべさせていただきます。

 *写真:中道子山城本丸跡の石碑

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志方町を歩く(109):城山物語⑬・ど素人(私)の仮設

2011-09-27 22:24:14 |  ・加古川市東志方

『第四次中道子山城発掘調査』(1990・最後の発掘調査)のまとめの最後の部分を読んでいます。

「・・・山城跡から出土した土器の分析から、焼土層は享録年間(15281532)に当たることが判明した。

この結果、中道子山城跡は居城として永正・大永年間(15041528)に築城され、享録年間の焼失後、すぐに再築城されたのが確実となった。

城の構造は、天正期以降の出現する技法の芽生えが随所に見られ、まさに過渡期の山城であったといえる」

ここまでは、史実を補う新しい事実です。

   

  ど素人の仮説!

1_020 ここからが問題の文章になります。

定説がないとはいえ、史料がない中で、以下のように想像するのはあまりにもハレンチだと思いつつ、一つの仮説として書いてみます。

天正八年(1580)・三木城が落城し、三木の戦いが終わるまで、中道子山城の記録はいっさい史書には登場しません。

きっと、天正期を前にして、中道子山城はほろんでいたか、その役目を終えていたのではないでしょうか。

天正期は、近世の芽生えの時期であり、政治の中心としての城、鉄砲の出現により、山城から平城に移っていきます。

後にもふれますが、西飯坂(志方町)の天神山城も、そんな理由で平城である志方城(今の観音寺の場所)に場所を変えたのでしょう。

もはや、天正期には山城の役目は終わっていたのです。

中道子山城の支配者は、赤松惣領家につながる人物だと想像しています。

中道子山城の支配者については、後に想像してみます。

赤松惣領家の力が弱まり、もはや置塩城から遠く、そして大きな城は維持できなかったのでしょう。

赤松氏の弱体化にともない、別所・櫛橋等の赤松支流が独立し地方に勢力を張るようになりました。

が、もはや中道子山城は魅力のない城、維持するにはお荷物で、赤松の支流の三木別所氏も志方城の櫛橋氏も手を出さなかったのかもしれません。

その後の長い年月の中で、中道子山城は荒れはて、盗掘にあい、腐り、土塁や一部の石積みを残して、草村の中に埋もれてしまったのかもしれません。

しかし、そのことが、廃城当時の姿を現在にまで比較的よくとどめているように思えるのです。

 歴史の専門家からブーイングが聞こえてきそうです。

*写真:山上の「中道子山城」の説明。

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志方町を歩く(108):城山物語⑫・中道子山城の火災は、戦闘ではない

2011-09-26 21:47:53 |  ・加古川市東志方

独断と偏見で中道山城発掘調査書を使わせていただいています。お叱りを受けそうです。

もう少し『中道子山城跡発掘調査報告書』(加古川市教育委員会)の記述を続けます。

   中道子山城の歴史的な根本的な見直しを!

「・・・中道子山城の本丸・二の丸などの平面配置から考えると、守備する側のより完成された城郭を示しているように思える。

この山城が三木合戦に登場しなかったということは、その築城された歴史的位置付けを根本から考え直す必要がある。

そのため発掘調査は城主を確定させる資料を得るだけでなく、その積み重なった土の中から山城の歴史を読み解くことである。

これによって中道子山城が、加古川市の山頂に広大な面積をもって築かれたのか、という歴史的意義を導きだすことができるであろう」

以上が、調査報告(前号から続く)の記述です。

    中道子山城の火災は、戦闘ではない!

1_010報告書は、中道子山城の歴史的見直しを提起されています。

考えてみれば当然で、三木合戦はあまりにも有名で、学術的にも詳細な研究がなされている戦いです。

中道子山城は、規模から云って三千~五千の戦闘員の大規模な城です。

通説のように、中道子山城が三木側に立ち、信長・秀吉側と対峙したとすると、あえて断定しますが、何らかの記録は必ず残っているはずです。

2次発掘調査(昭和63年~平成元年)は二の丸を中心とした調査でした。

調査結果を続けて読むことにします。

「・・・その発掘調査の結果からは・・・建物跡の礎石がる地面は焼け壁や炭がところどころに見られ、第1次調査(本丸を中心とした調査)と同じく、この場所でも火災があったことが知られている。

火災を受けた後、(この場所の)建物は再建されなかったようである。

この火災の原因は何だったのであろうか。

これは山城での攻防戦を物語るものか、あるいは失火であったのか、現在のところ明確にすることはできない」と歴史家らしい慎重な表現です。

 

しかし、このブログでは「これらの火災は、中道子山城をめぐる攻防とはとても考えられない」と結論付けておきます。それは、記録が全くないからです。

くりかえします。これだけ大きな中道子山城が戦闘に巻きもまれたとすると、何らかの記録が残るものです。

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志方町を歩く(107):城山物語⑪・落城は三木合戦ではない

2011-09-25 16:49:50 |  ・加古川市東志方

「赤松一族の興亡」を簡単に書きました。

そろそろ①「中道子山城」のはじまりと築城は誰なのか、そして②廃城はいつなのかという課題に入っていかねばならないのですが。

史料は何も語ってくれません。

歴史に素人の私にはあまりにも無理な話ですが、このブログは気楽な読み物です。

そして、素人の無鉄砲さで書いてみることにします。

いま、まだ中道子山城の築城者について、まよっています。

②の中道山城の廃城を先に書くことにします。

   中道子山城は三木合戦で落城した山城ではない

 「廃城の時期について」、『中道子山城跡発掘調査報告書』は、科学的で納得できる記述です。お借りしました。

   

中道子山城の廃城の時期はいつか

<『中道子山城跡発掘調査報告書』(p3)より>

1_035 「・・・最も新しい刊行である『日本城郭体系』には、・・・中道子山は、天正年間(157392)に、羽柴秀吉の攻撃を受け落城」と記述されている。

落城の時期は『日本城郭体系』を引くまでもなく、ほとんどの文献資料が三木合戦を念頭に置いて想定されている。

しかし、その通りなのであろうか。これも検討が必要であるのではないだろうか。

確かに、三木合戦に関して加古川周辺で、その前哨戦というべき合戦が行われている。

特に神吉・野口の各城での戦いは、いつまでも後世の人々の脳裏に残ったことであろう。

そして、それらの戦いは勝利者側の文献である『信長記』や『太閤記』にも記されるほどの、壮絶で悲壮な戦いであった。

これらの諸城と比べると、中道子山城は規模も大きく、攻撃からすれば神吉・野口の諸城よりも落城させる困難さが増大したと考えられる。

そのため、もし三木合戦に中道子山城が羽柴秀吉軍と対峙していれば、当然勝利者側の作品には何頁かを費やして壮絶な戦いが記述されたことであろう。

しかし、現在残された作品の中には<中道子山城>の記述は一行たりとも見つけることができないのである。

加古川から遠望できる中道子山城の威容は、当時の武将にとって格好の攻撃目標になったと思われる。

しかし、戦記のどこにもその姿を見ることはないのである。

これはどう云うことなのであろうか。

すべての文献が共通に書く天正期の廃城は中道子山城では起こり得なかったということを意味しているのではないだろうか。

*写真:中道子山城跡は、夏草の中にある。

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志方町を歩く(106):城山物語⑩・後期赤松氏

2011-09-24 14:21:20 |  ・加古川市東志方

「城山物語⑧・⑨」では、少しくどくなりましたが「赤松氏の興亡」を書いてみました。もう少し続けます。

 中世の志方町は、この地を支配した赤松氏の動向を抜きにして考えられません。

 少し復習しておきます。

 円心から始まる赤松氏は、4代目の満祐の嘉吉の乱で惣領家はいったん潰れます。

 歴史家は、円心から嘉吉の乱までの赤松氏を「前期赤松氏」と呼んでおり、奇跡的に復活した5代・政則から8代・房則までの時代を「後期赤松氏」と呼んでいます。

    

    置塩山城は政則の時代の築城か? 

Photo従来の歴史では、後期赤松氏の政則時代は、政治の拠点を、置塩山城(おじおやまじょう)に置き、赤松氏は見事に復活をとげました。

しかし、政則の死後の赤松氏は、坂道をころげ落ちるような没落の歴史であるとしています。

しかし、最近の研究からは、少し異なった後期赤松氏の姿が浮かび上がります。

『赤松一族八人の素顔』(播磨学研究所)に依藤保氏は次のように書いておられます。現在、通説化しつつあります。

まず、置塩山城(おじおやまじょう)について検討しましょう。

「・・・これだけの大きな城を後期赤松氏がもっていたとは信じられないぐらいの、不釣り合いなものに映ります。

これには、最盛期の政則期の時代につくられたからだという説明がなされています。

大規模な城を維持し続けたわけですから、義村以降に赤松氏が弱体したという説にはやはり疑問が残ります。

・・・・・(置塩山城の発掘調査の結果)城内の遺物は赤松氏がもっとも衰退した時期とされる永録から天正(15581591)にかけてのものが、遺構からもこの頃に城の構造が変化したことがうかがわれる。

さらに、『赤松一族八人の素顔』の記述を続けます。

通説では文明元年(1469)に置塩山城を築城したとされる赤松政則ですが、その頃は京都にいました。

・・・・(その後、山名氏との戦い等で)置塩山城を築くような環境ではありませんでした。

経過をみると、政則が置塩へ移った様子はありません。というよりも、政則の時代は有力守護大名として京都に屋敷を構えるのが普通でした。

いずれ京都に帰るので、赤松氏が置塩に居城をつくる必要はまったくないのです。

・・・・・

とすると、いつ誰が、何のために置塩山城を築城したのかということが問題になります。

    

   置塩山城と中道子山城

長々と、赤松氏の歴史を書いています。「中道子山城の話は、どうなっているんだ・・・」というご不満の声が聞こえてきそうです。

少し、先を急ぎます。

・中道子山城は、発掘調査の結果、16世紀の城山であることが分かりました。

16世紀は、後期赤松氏の時代です。

・中世の志方地域は、赤松氏の支配下にあり赤松氏を避けてこの地域の歴史は考えられません。

・置塩山城は後期赤松氏の政則の以後の拠点です。

「赤松氏の興亡」の歴史は長くなりました。これらの事実を踏まえて、次回から中道子山城について推理してみることにします。

*写真:置塩山(姫路市夢前町宮置、糸田)

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志方町を歩く(105):城山物語⑨・赤松家復活なるも・・・

2011-09-23 00:19:38 |  ・加古川市東志方

   千代丸急死、しかし

7dc1e915 嘉吉の乱で、六代将軍・義教(よしのり)を謀殺した赤松満祐(あかまつ・みつすけ)弟・満雅の子・千代丸は城山城脱出しました。

それを確かめて、満祐は自害しました。

この時、千代丸は9才でした。

そして、千代丸は京都三条家の所領である近江の願成寺へ送り届けられました。

というのは、満祐の弟の満雅の妻は京都三条家の出だったからです。

そこで、かくまわれて10年あまり後、千代丸は還俗して時勝と名のりました。

やがて、「赤松家の血筋を引く方が生きておられ」というニュースは旧臣に勇気を与えました。

が、それもつかの間、康正元年(145523歳で、時勝は急死します。

 赤松政則の誕生、そして赤松家復活

しかし、偶然にもその年、時勝の死の前に男子が生まれました。

次郎法師丸です。何ともドラマチックな話です。

彼は、後の赤松政則です。

家臣連中が次郎法師丸を担いで赤松家再興の動きに出ます。

南朝方が持っている三種の神器の一つである神璽を取り返して北朝に納めれば赤松氏の復活を認めるという将軍家との密約ができました。

 *神璽(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)

この神璽奪回作戦に成功し、赤松家は奇跡的な復活を遂げます。

   

   そして、赤松家没落

赤松は、置塩を拠点に政則を柱として、勢い回復しました。

しかし、山名が赤松に襲い掛かかりました。(「置塩」の場所を図で確認しておいてください)

真弓峠の戦い(1477)では惨敗で、播磨は山名に占領されてしまいました。

その後の播磨は、しばらく血なまぐさい戦場と化します。

その後、長享年二年(1488)、なんとか山名勢を追い出すことに成功します。

政則は、赤松家の勢力を保つために細川家に近づき、再婚相手として細川家の洞松院(どうしょういん)を迎えました。

そして、正則の娘・松に養子・義村を迎え赤松家を託しました。

ところが、事態は暗転します。

明応六年(1497)、四月二十五日でした。

政則は鷹狩のために滞在していた加西郡坂井庄の長円寺で心臓発作のため、あえなく亡くなってしまいます。政則は42才でした。

政則の政治力があってこその赤松一族の結束でした。

赤松家が盤石なものとなっていない段階での無念の他界でした。

こうなると、お決まりの一族内での下剋上が始まりました。

紙面の関係上、年表を追うことにします。

   

    赤松家、没落の年譜 

・明応八年(1499)   赤松一族のナンバー2であった浦上則村が赤松家の乗っ取りをはかる。

・永正四年(1507)   義村と洞松院(妻の松は洞松院と共謀)の対立が深まる。

・永正十五年(1518)  義村は浦上追討の兵をあげる。

・大永二年(1522)   義村は室津の寺に幽閉され殺害される。

   

    則房の代で赤松惣領家消滅

復活を遂げた赤松家も、赤松政則の死後、一族間の争いにより衰退してゆきます。

政則を継いだ義村は、室津の寺に幽閉され殺害されてしました。

その後、息子の晴政は父の敵打ちに成功するものの、次の則房の時代には守護職も失い、秀吉の傘下に組み込まれます。

そして、天正13年(1585)屋島で戦果をあげ阿波の地に新天地を得ました。

赤松惣領家は播磨を離れます。阿波に移って13年目の慶長三年(1598)、則房は病魔に侵され、ひっそりと他界しました。

歴史は、赤松氏の最後を赤松則房としています。

この後、赤松総領家は廃絶同然となりました。

これが、「赤松一族の盛衰記」です。

次回では、「しかし、事実は・・・」という話を続けます。

*図:「置塩城周辺図」(『飾磨郡誌』より)

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志方町を歩く(104):城山物語⑧・嘉吉の乱

2011-09-22 00:07:35 |  ・加古川市東志方

 いま、中道子山城主を探していますが、迷路をさまよっています。

 中道子山城を調べる時、赤松氏の興亡の歴史を知る必要がありそうです。

なぜなら、中道子山城の時代は赤松一族の勢力下にあったからです。

 そこで、直接志方町が出てきませんが、3回シリーズで「赤松一族の興亡」を簡単に調べておきましょう。

今回は、ほとんど「志方を歩く(61)」の再掲です。

  

   赤松一族の興亡・嘉吉の乱

    満祐、義教(足利六代将軍)を殺害

A84a3497 「・・・新邸の池のカモの子がたくさん生まれました。水面をすべる様子がいかにもかわいく、ぜひともお運びくださるように・・・」

嘉吉元年(1441)旧・六月、義教(足利六代将軍)のもとへ、こんな招待状が届きました。

新邸の主(あるじ)は、赤松満祐でした。

義教は就任以来続いていた戦いに勝ち抜き満ち足りた気持ちのときでした。

義教と仲が悪くなっている満祐からの招待でしたが、喜んでこの招待を受けました。

義教は多数の重臣とともに赤松邸に入りました。

庭先の猿楽は三番まで進み、酒はすでに五杯目。宴たけなわのころでした。

この時、明かり障子がドット開き十数名の武士が義教めがけて突進してきました。

義教は、叫び声もあげる間もなく首をかき切られたのです。

満祐は、その日の夜のうちに、京都二条にある屋敷を焼き払い、家臣たち700名を伴い、播磨の坂本城(姫路市)に引き上げました。

満祐に味方するものは誰もいません。

赤松満祐は、急ぎ合戦の準備をしました。

幕府軍は、坂本城を攻め、これを陥落させました。

満祐は、揖保郡にある城山城(きやまじょう)で最後の一戦をするものの、赤松軍はすでに五百騎あまり、九月九日に攻撃が始まり城山城はついに陥落しました。

これは、円心から四代続いた赤松氏の滅亡でした。

この段階で、赤松氏再興を見通したものは誰もいなかったとおもわれます。

*写真:加東市東条町安国寺にある足利義教の供養塔。(『兵庫探検(続歴史風土編)』(神戸新聞出版センター)より

満祐は、播磨・坂本城へ帰る途中、この寺で義教の葬儀を盛大に行ったといわれています。

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志方町を歩く(103):城山物語⑦・城主はだれ!ますます混迷

2011-09-21 08:12:06 |  ・加古川市東志方

    

   中道山子城址発掘調査より

6191f05b加古川市教委は、昭和64年から始まった4次にわたる調査を終え、平成226に結果を発表しました。

翌日の各新聞は、中道山子山城発掘調査について、大きく報じました。

それらの記事の一部を読んでみます。

<産経新聞>

・・・巨大な大手門が見つかり城の規模も16世紀のものとしては東播磨一の規模で、時代は16世紀初めから中ごろにかけての城とわかった。

・・・また、発掘調査で出物などから城はまず永正年間から大永年間(15211554)に築城され、享録年間(15281554)に焼失、天文年間(15321554)に再建されたとみられることが分かった。

13.000平方㍍におよぶ城は、東播磨では一番大きく大手門を築くことにより山陽道を通る人に威容を誇ったとみられる。

これまでの調査で・・・赤松満政の三男孝橋繁広の築城と推定していたが、城の規模は3.0005.000人いたと推定され、大きすぎることから、孝橋ではないとしている。

<神戸新聞>

4年間の調査結果を総合して同城調跡調査委員会(委員長・石田善人岡山大学教授)は、全体を完成度の高い土塁をめぐらし、防御の堅さを誇ったとした。

築城技術は、天正年間以降に登場する平城の芽生えが随所にみられる過渡期の城。

・・・考橋新五郎繁広と見ていたが、規模などからこれだけの城を維持する力はなく、この説を否定。

<読売新聞>

これまで、赤松一族の孝橋繁広(141554)が築城したと想像していたが時代が1世紀合わなくなり城主は不明になった。

<朝日新聞>

(今回の調査で)山城の全体像が明らかになった。

大手門は領主の権威を見せつけるために、門の上に建物を置く櫓門(やぐらもん)だった・・・戦術的な意味よりも領主の権威を示すため、大きな門にしたらしい。

    

   城主は誰!ますます混迷

発掘の結果から中道山子城は、16世紀の初めから中ごろの城であることが分かりました。孝橋繁広は、15世紀の人です。

また、赤松氏則は、永徳三年(1383)播磨の清水寺では亡くなっています。

孝橋繁広・赤松氏則は共に時代が合わず、中道山子城築城者の可能性がなくなってしまったようです。

加古川市教委も「年代がはっきりした反面、築城主がわからなくなってしまった。

今後の城の性格や歴史的な位置づけ、築城主などについて調べたい」と話しておられます。

 *絵:大手門の想像図(加古川市教育委員会)

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志方町を歩く(102):城山物語⑥・孝橋繁広、赤松氏則城主説は後世の伝承か?

2011-09-20 00:17:47 |  ・加古川市東志方

Cyudouji22中道山子山城の城主といわれている孝橋新五郎繁広と赤松氏則のふたりを紹介しました。

中世史を専門とされていた元神戸大学の石田善人教授(故人)は、この二人について『加古川市史(第二巻)』(p24)で、次のように書いておられます。

「・・・・

志方町の天神山城と中道子山城と築いたのは赤松氏則だという伝承がある。

『播磨鑑』(はりまかがみ)によれば天神山城は氏則父子の滅亡後は櫛橋氏が城主になったという。

中道子山城の方はさらに不確かで、赤松氏則あるいは孝橋繁広(素性は諸説あってはっきりしない)が城主だったという。

いずれも後世の伝承に過ぎないのだが、もしそれが何らかの事実を反映しているとすれば、円心の末子氏則も五箇荘の分与にあずかっていた可能性があることになる

(天神山城-志方町西飯坂-については後に「志方町を歩く」で紹介します。五箇荘については、今は赤松氏が持っていた荘園くらいに理解しておいてください)

 

 孝橋繁広・赤松氏則、城主説は後世の伝承か?

兵庫県の中世史に興味のある方にとって石田先生は神様のような方です。

亡くなられる少し前に兵庫教育大学の近くの喫茶店でお話をさせていただきました。

親切な方で、その博識にびっくりした思い出がありあります。

石田先生に、「この二人は、後世の伝承に過ぎない」ときっぱりと断言されると、その先に進めません。

このブログは、歴史の専門書ではありません。私の独断と偏見で書いています。

天国から苦笑されておられるかもしれませんが、いま歴史に残されている点を拾って中道子山城の話を続けます。

次回では、中道山城の発掘調査結果から中道子山城を考えてみることにしましょう。

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志方町を歩く(101):城山物語⑤・赤松氏則

2011-09-19 07:38:02 |  ・加古川市東志方

「志方町を歩く(99)」で、中道子山城の孝橋新五郎繁広説を紹介しました。

今日は、もう一人の赤松氏則(うじのり)説を紹介しましょう。

   

     赤松氏則

Dsc_0022赤松氏の系図を赤松則村(円心)から始めます。

円心には四人の男子があり、一男は範資(のりすけ)、二男貞則(さだのり)、三男則祐(そくゆう)そして四男は、今日の話の中心の氏則(氏範とも書く)です。

氏則は、父円心の死後、三人の兄たちと不和となり、宮方につき兄弟間の争いとなり、氏則は、正平二四年(北朝応安二年・1369)に摂津中島で挙兵しました。

足利義満は、赤松則祐らに命じて氏則を攻撃させました。

氏則は敗れて、天王寺に逃れました。

そして、永徳三年(1383)氏則は、播磨清水寺(加東市)に立てこもりましたが、則祐の子の義則に攻められ、父子5人、郎党137人とともに自殺しました。

氏則滅亡のとき、清水寺の僧たちは義則がわに加わりました。

そのため、義則は、清水寺に感謝し、そして氏則父子追善のために田畑二町を清水寺に寄付しています。

先日(94日・日)、清水寺の氏則の墓(写真)を訪ねました。

山門の前の駐車場の手前の雨上がりの林の中に、赤松氏則の墓はポツンと人目を避けるようにありました。

清水寺へ参拝のときは、氏則の墓へもお寄りください。

  

    中道山子山城は、赤松氏則の普請か?

さて、中道子山城とのかかわりですが、氏則は「志方町を歩く(99)」で書いた孝橋新五郎繁広より少し分が悪いようです。

『志方町誌』によれば、「・・・中道子山城は、赤松氏則がはじめて築いたとしているが、氏則はおそらく中道寺を拠点としたようで、城郭といえる普請はしなかったようだ。

中道子山城は『播州古城軍録』に、城主は孝橋新五郎繁広築き給ふ・・・」とあり、『播磨鑑』にも同様の記述があります。

史実はどうだったのでしょう。今回も中道子山城の城主は、はっきりとしません。

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志方町を歩く(100)・「志方町を歩く」が100号になりました

2011-09-18 12:00:13 |  ・加古川市志方全般

 「志方町を歩く」は、きょうのブログで100号になりました。

「稲美町探訪」が100号になった時、下記のように書いています。

以下の文の「稲美町」を「志方町」に置き換えてお読みください。

 志方町も同じようになりそうです。

 <「稲美町探訪(100号)より>

    200号になったら! 500号になったら!

A9369e0c200号になったら、おそらく他人に稲美町のことを話たくなっているだろう」と想像します。

300号になったら、いっぱしの専門家面をして稲美町についての話をだれかに押し付けている」かもしれません。

400号になったら、もう忘れてしまいましたが恋人のように稲美町が愛おしくなっている」かもしれません。

「もし、500号になったら、きっと分からない古文書等と格闘しながら、誰も知らない稲美町を調べている」と確信します。

でも、まだ100号です。

<「稲美町探訪(500号)」より>

500号では、・・・ 

内容の重なりはあるものの「稲美町探訪」は500号になりました。

 もう少し続きそうです。

とりあえず600号を目標に「稲美町探訪」を続けますのでいましばらくお付き合いください。

 また、100号で「500号になったら分からない古文書と格闘しながら・・」とも書きました。

 67才(現在68才)の手習いです。最近、古文書の勉強を始めています。

 けっこう楽しいものです。

 先日、眼科で「視力が衰えていますよ」と言われましたが、幸い、古文書の文字は大きくて助かります。

・・・・・

*(「稲美町探訪は、503号で急停車して「志方町を歩く」を書くことにしました。「稲美町探訪」は後日続けます。その間ゆっくりと史料を集めます)

 志方町についても、500号ほど書けば、なんとか志方町の姿が浮かび上がるのではないかと楽しみにしています。

 2年ほどかかりそうです。

 そのとき70才です。取材でお世話になる志方町の人と一緒に呑むことにします。

<お詫び>

 「志方町を歩く」は、ある事情でパソコンが99号で突然でダウンしてしまいました。

 いろいろご試みたのですが、結局だめでした。今日(18)やっと回復しました。

 「志方町を歩く」を続けますのでよろしくお願いします。

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志方町を歩く(99):城山物語④・孝橋新五郎繁広

2011-09-04 00:10:11 |  ・加古川市東志方

中道子山城跡の城主は、二人の城主説が考えられてています。

 その一つは赤松氏則(範)築城説であり、もう一つは孝橋(新五郎)繁広(たかはし・しんごろう・しげひろ)説です。

孝橋新五郎繁広

1_032赤松円心の三男は則祐です。そして、則祐の子・義則の長男は、嘉吉の乱で歴史の名を残している赤松満祐です。

嘉吉の乱および満祐の説明は「志方を歩く(6064)」をご覧ください。ここでは説明を省きます。

嘉吉の乱後、満祐は守護所の坂本城(姫路市)で幕府軍を迎え撃ちましたが、府軍は坂本城を攻め、これを陥落させました。

満祐らは、少なくなった部下とともに揖保郡にある城山城(きやまじょう)で最後の一戦をするものの城山城は陥落、満祐の首は長刀(なぎなた)の先に貫かれ、京都で見聞されました。

ここに、赤松氏はいったん没落しました。

この満祐の最後の戦いに嫡子教康と弟の則繁が父と一緒に戦かいましたが、この二人は、城山城から逃げのびました。

教康は、伊勢に落ち、則繁も行方知れずとなりました。

が、ひょんなことで、則繁の行方は記録にとどめられることになりました。

その経過を『加古川市史(第二巻)』(p42)にみることにします。

「・・・則繁は(城山城の戦い後)室津から九州筑前にのがれ菊池某を頼り、さらに倭寇となって朝鮮沿岸を荒らしまわるなど猛威を振っていた。

このことは嘉吉三年(1443)六月に前将軍義教の死を弔うために来日した朝鮮の使節が、あわせて則繁の海賊行為の禁圧を幕府に訴えたことから判明した(『建内記』)。

 その後、(中略)則繁は播磨に帰った。

(中略)これを知った幕府は、細川持常をして則繁を討たせた。

文安五年(1448)八月八日、則繁は隠れ家を囲まれ自殺し、その首は京都で鳩首された。・・・」(『加古川市史』より)

   

   大河内満直改め孝橋新五郎繁広

則繁の後は、赤松一族の支流、大河内家(天神山系)の満直が継ぎ、善坊城(加西市)に拠って、名前も孝橋新五郎繁広と改めたといわれています。

この孝橋新五郎が、中道子城を築いたというのです。

中道子山と善坊は目と鼻の先です。

もう少し、説明を加えておきます。

天神山の三代城主・大河内満政は、ある事情で赤松氏の有力な血縁でありながら幕府軍とともに満祐を討伐する側に加わっています。

それが、幕府に認められて明石・加古・印南の播磨東三郡を与えられました。

その満政の子が満直です。

(赤松)満直つまり孝橋新五郎が、播磨三郡を抑える拠点として城山を築いたのも納得できます。

(孝橋繁広については、地元の櫛橋繁広が赤松満政の養子となり、後に善坊の養子になり「孝橋」を名乗ったという説もあります)

*写真:中道子山城の本丸跡

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志方町探訪(98):城山物語③・城主はだれ?

2011-09-03 08:30:59 |  ・加古川市東志方

中道子山城は立派な山城です。

それでは、①誰がこの城を築いたのか、②その時期はいつか、③いつまで続いたのか、ということが知りたくなります。

まず、①の城を築いた人物を考えてみます。

   

     城主は誰?

    赤松氏則(赤松円心の四男)か、孝橋新五郎か

1_028城の築城者は、はっきりしているのが普通です。

でも、志方の城山の場合は、はっきりしません。謎の城となっています。

書物から調べてみます。

    

  ◇『中道山城跡発掘調査報告書』より

 「・・・中道子山城跡の城主は、二つの城主説が考えられてきている。

 その一つは赤松氏則築城説であり、もう一つは孝橋(新五郎)繁広(たかはししげひろ)説である・・・」

    

   ◇『志方町誌』より

 「・・・中道子山は俗になまって「ちゅうどうさん」と呼び、城山と呼ばれる場合が多い。(中略)『志方荘古城図附註』のみは、「至徳中、赤松円心の四男氏則(うじのり)、始めて之を築く」としているが、その他の諸書はみな、孝橋新五郎繁広の築くところとして天正の頃まで四代相続したとしている。(中略)

氏則がこの城に入ったのは至徳年間(138486)あるいはそれ以前で、天神城(志方町西飯坂)を築いて、しばらくそこにいて後、この中道山子山城を築いて入ったものと思われる。

(中略)至徳から応仁までの80年間の城主については詳しくはできないが、おそらく赤松の一族のたれかれが、たちかわり住したと思われる。

孝橋新五郎この人が、中道子山城を築いたという記録は『播州諸城交替連綿記』以下諸書の一致するところである・・・」

 二書とも中道子山城の築城者は赤松氏則か孝橋新五郎と考えられるとしています。

 『志方町誌』では、赤松氏則に若干分が悪い。

 さらに、この二人を追うことにします。

 *写真:城山山頂の「赤松城址」と刻む碑

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