ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(291):志方八幡社⑬・志方棒連中

2012-05-31 06:03:58 |  ・加古川市志方町

「志方郷(33号)」で、礒野道子さんは「志方棒連中」について紹介されています。

「棒連中」とは何でしょうか、初めて聞く用語です。

説明の一部をお借りします。

   志方棒連中

007志方八幡神社の本殿の西に、えびす社があります。

その前に一対の灯ろうと、幟石柱が建っています。

ふだんは、この石灯籠、幟石柱の文字に注意する人は殆んどいないと思われますが、

「志方棒連中」と刻まれています。

お参りの時はご覧ください。

えびす社は、明治12年西宮からお迎えしています。幟の石柱は明治14年、灯ろうは明治16年に建てられています。

そして、これら幟の石柱と灯ろうは共に、志方捧連中が寄進しています。

灯ろう基段には周旋方として、小さな字で15名の名が刻まれています。

「棒連中」とは初めて聞く用語です。

志方棒連中とはどんな人たちでしょうか。

棒の仲間ということですが、この捧とは天秤棒のことで、捧の前後に荷物をぶら下げて売り歩く、行商人たちの仲間です。

えびす神社は、商売繁盛の神様です。

ですから、灯ろうや幟立ては、商売繁盛を願って棒連中が寄進したのでしょう。

志方における棒の行商の歴史が古いようです。

   盛んであった棒商

002江戸時代に書かれた助永村の明細帳に次の記述があります。

(注)助永村:明治9年、助村と比村が合併して、お互いの一字をもって永室村となりました。

「当村百姓作間隙の節(さくまひまのせつ)、塩物、油元ゆい売、丹波路まで罷り出で(まかりいで)一、二夜泊り罷り帰り申候(まかりかえりもうしそうろう)」

この伝統は、作間商人(あきんど)として農家の副業となり、明治の終りまで続き、農家にとって大切な現金収入であつたようです。(以下略)

以上「志方郷(第33号)」より

文体・内容は一部変えています。詳しくは「志方郷」をお読みください。

*写真上:えびす神社

 写真下:灯ろうの文字「志方棒連中」

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志方町を歩く(290):法道仙人⑥・法道仙人の手跡石

2012-05-30 07:04:04 |  ・加古川市東志方

志方町には「投松」と書いて「ねじまつ」がありますが、今日の話題の東志方町大沢の「投松」は「なげまつ」と読みます。

   投松(なげまつ)

006「志方町を歩く(69)」で法道仙人・大沢投松を紹介しました。復習をしておきます。

投松の大師堂に枯れた大きな松が保存されています。

大師堂には、「わがまちかこがわ60選」として、この松の説明があります。一部を読んでみます。

「県内の多くの寺院に開基伝説を持つ法道仙人が一乗寺(加西市)から投げた松といわれる“投げ松”は神木として祭られています。・・・」

つまり、法華山の開山の時、法道仙人が小松を引き抜き、山越しに投げたのがこの地に落ち、その松が根づき、すくすく伸びたのがこの大師堂の大きな松であるというのです。

投松の地名もこの松にちなんでいるといいます。

おしいことに、大正初期に枯れてしまいました。

   「法道仙人の手跡石」は札馬神社に!

 004また、「志方郷(第13号)」で、長谷川兼治談として、「・・・仙人が法華山へ行く途中、飛び降りて手をついた時、手の形が残ったといわれる法道仙人の手跡石(写真下)は、今は(大師堂近くの)北山山麓の大歳神社にある」と書かれているので、蚊に食われながら探してみましたが、見つかりませんでした。

 そのはずです。

法道仙人の手跡石と言われるこの石は、その後山陽自動車道の加古川北ICのすぐ南東に新しくできた大歳神社(札馬神社・さつまじんじゃ)に移されていました。

この手跡石は、古墳時代後期(67世紀の)の石棺の蓋に手形のような模様(キズ)があります。

*写真上:大歳神社(札馬神社)

 写真下:法道仙人の手跡石

<お知らせ>

 法道仙人については、かつて「志方町を歩く67)」から5回シリーズで紹介しました。

きょうの話題「法道仙人の手跡石」は、その続きの「法道仙人⑥」としてお読みください。

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志方町を歩く(289):蕪谷(大沢)の道標

2012-05-29 07:06:02 |  ・加古川市東志方

   法華山参拝の道

013蕪谷(かぶらだに・犬沢の北)の西の山の麓の道は、旧法華山参りの道でした。

大沢の集落から北へ進むと、そのことを物語るように道端の右側に小さな道標(写真)があります。

上には連華座の上に彫りのしっかりした地蔵座像があり、下には、次のように書かれています。

  右  ほうじょ

  左  ほっけ山

場所は、蕪池の西南の山の道沿いです。

蕪池の西()の土手は「法華参り」の道であり、南()の土手を進めば、北条街道へ出て、北条へ行くことができました。

昔の道の大切な分岐点であったようです。

蕪谷の村の人は4月になると(花祭りの頃)、村中総出で草刈りをし、法華参りの人が気持ちよく通れるように奉仕作業をしていたといいます。

いまは、この地蔵さんの道標だけが、かつての信仰の道であったことを物語たっています。

今は、もっぱら農道のようです。

   志方が、ますます好きになりました

この道は、広い道ではありませんが、かつての法華山参りの道で、狭いといいながら、小型の普通車は十分に通れる幅の道です。

昨日(528日)は、この近くに来たものですから、久しぶりで、車でこの道をとおり、道標を撮ることにしました。

順調な運転でしたが、麦刈りの準備をしておられ、前方に車が止まっていました。

引き返すことにしました。

左にバックし、右にハンドルを切り返した時です。

「ゴトン」と前輪が小さな山からの水で柔らかくなった溝にはすっぽりとはまってしまいました。

さらに悪いことに車の後部が浮いてエンジンをふかしても全然だめ・・・

小さなマーチですが、押してもビクともしません。

麦刈の準備をしておられたお爺さんとお婆さんに「若い方はおられませんでしょうか」と尋ねました。

事情を察知されたようで、お爺さんは「ちょうど息子が家にいるのでトラックーでひっぱったるわ・・・」と、少し離れた家にわざわざ帰られました。

その間、しばらくお婆さんとお話しました。元気なお婆さんでした。昔のこの道についてお話を聞くことができました。

「私は80を超えていますが、この村に来てから、この道から法華山には行ったことはありません」とのことで、この道は法華山道の役割を終えて久しいようです。

そうしていると、息子さんがトラックターで来られ、引っ張ってくださいました。

トラックターは、すごい力です。車は軽々と溝から引きあがりました。

「大沢のお爺さん・お婆さん、そして息子さん、ほんとうにありがとうございました」

お礼を言うと、お爺さん・おばあさんは「気をつけて・・・」と手ふって送ってくださいました。

メッチャ幸福な気持ちになりました。志方が、ますます好きになりました。ありがとうございました。

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志方町を歩く(288):ルピナス(西志方横大路)

2012-05-28 07:33:09 |  ・加古川市西志方

039ある人から、ニュージランド(南島)のテカポ湖ほとりに咲くルピナスの話を聞いていました。

「その風景は、まさにおとぎ話の風景のよう・・」だそうです。

ルピナスは、一度見たかった花でした。

515の神戸新聞の朝刊に志方町西志方横大路のルピナスのニュースが大きく報道されました。

昨年、このニュースを知ったのは6月中ごろで、若干おそく、しおれ始めていました。

今年は、孫とさっそく見学に出かけました。

孫は、ルピナスを見つけて、第一声「ワー・・・」。

その鮮やかな色どりに興奮したようでした。

「さっそく写真をパチリ」。いい写真が撮れました。

 若干、新聞記事の紹介が遅くなりましたが、ルピナスは長持ちする花です。

6月の初めまでは見事なルピナスが楽しめます。

お出かけください。

以下、神戸新聞の記事の一部です。

  ルピナスが満開

   6月上旬まで楽しめます

ルビナスはマメ科の植物で、花がフジに似ていることから「ノボリフジ」とも呼ばれる。

横大路地区では2008年秋から栽培しでいる。

昨年秋から、同協議会ルビナス部会の約30人が花の世話をした。

栽培面積をこれまで2倍に広げ、2カ所計約2千平方㍍に約5千株を育てた。

赤や桃、白、紫など'色とりどりの花が垂直に伸び、独特の光景が人々の目を楽しませている。(神戸新聞より)

   高御位山を背に

ここ横大路のルピナスは、テカポ湖にはかなわないかもしれません。

でも、高御位山を背に見事です。

もうすぐ、高御位山からは「ササユリ」のニュースが届く頃になりました。

*写真:ルピナス(520日撮影、中央の高い山が高御位山です)

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志方町を歩く(287):志方八幡社⑫・包丁式

2012-05-27 06:13:35 |  ・加古川市志方町

時々、書きにくい話題があります。

それは自分が見ていないし、詳細を知らない内容の時です。

きょうの「包丁式」がそうです。でも、「志方八幡社シリーズ」では、ぜひ取り上げておきたい話題です。

きょうは、「志方郷(第19号)」の間原敏夫氏の文章をお借りしました。(専門用語等を省き読みやすくしています)

   包丁式

F50e757「庖丁式」とは、何をする式かご存じでしょうか。

「使い古した庖丁を供養する儀式では?・・・」と考える人も、たくさんおられるのではないでしようか。

「庖丁式」は、神様の前で魚や鳥をさばいてお供えする儀式で、華遣・茶道と同じ

ように伝統の流儀が残っています。

昭和40年の台風で能舞台が倒壊し、その後再建されました。

志方八幡宮の春祭に、能舞台の再建を機に古式四條流の「庖丁式」が、毎年家元以下の奉仕により奉納されています。

儀式に続き氏子、崇敬者の豊饒並びに学業成就を祈り、その後能舞台において「庖丁式」が奉納される旨の祝詞があり、家元は衣冠をそれ以下は狩衣を身につけ能舞台に上がります。

    春のお祭りに、お出かけください

庖丁人が登場し、刃渡りが約40センチもある『庖丁』と長い『はし』を使って魚には手を触れないで、庖丁を高々と振り上げながら大魚を見事にさばいていきます。

普通は、鯉をさばく儀式が奉納されます。

次に、納めの儀では、姐の上でさばかれた魚を三方に盛り付け、そのまま御神前に進みお供えします。

次に玉串を捧げて一同拝礼し庖丁式を終ります。

境内には氏子有志の皆さんによる「薄茶席」も設けられ、優雅な雰囲気を味わうことができます。

志方八幡社の春祭には八幡宮の能舞台に足を運んではいかがでしょうか。

*写真:包丁式(神戸新聞提供)

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志方町を歩く(286):志方八幡社⑪・庶民の苗字

2012-05-26 07:44:11 |  ・加古川市志方町

002以前にも別のところで、この話題を取り上げあげたことがあります。重なります。

学校の社会科の授業で「江戸時代、身分は固定し、苗字帯刀は、武士以外は禁止されていた」と学んだのではないでしょうか。

実を言うと、私も中学校で社会科を担当していました。

そして、上記のように教えていました。

   江戸時代の庶民の苗字

『苗字の歴史(豊田武)』(中公新書)を読んでみましょう。(新書の記述、文体は若干変えています)

(1)農村において苗字を持つ者は武士だけだろうか。個々の小作人も、特定の土地に居住し、耕作地とする以上は地名を家の名とすることはありうる。

(2)各地から(庶民も)苗字を持っていたという各種の例が寄せられている。

(3)庶民も、従来からの苗字を有していた。・・・・苗字を公に名乗ることが許されなかっただけのことである。

(4)一般的に、神事に関する場合は、苗字を使用する例が多かったようである。

  江戸時代、多くの庶民は苗字を持っていた

 005写真下の寄贈者の名前は、表参道の隋神門の前の左右にある燈籠にある名前です。

読んでおきます。

右から尾崎兵太夫、同 宇兵衛、河田市右エ門、西山新村 伊左エ門、江戸 小嶋屋彦兵衛、同 宮嶋屋正蔵です。

彼らの苗字に注目ください。

最初の3人は尾崎・河田と苗字を使っています。

西山新村の伊左エ門は苗字がなかったのでしょう。後の彦兵エ衛と正蔵は屋号を苗字代わりに使っています。

尾崎さんと河田さんは武士であったとは考えられません。武士・農民・商人が一緒に献燈に名を刻む例はないようです。

江戸時代、大庄屋は苗字を名乗ることができましたが、尾崎さんと河田さんは大庄屋でもありません。

この二基の燈籠は天保十二年(1841)に寄贈されたものです。

上記の(3)・(4)を再度ご覧ください。

江戸時代、多くの庶民は苗字をもっていました。でも、正式な文書(もんじょ)や過去帳では使うことができなかっただけです。

神社(神事)では、例外的に庶民も苗字を使うことが許されていました。

きょうは志方八幡社に限った話題ではないのですが、八幡社の献燈から江戸時代の庶民の苗字について考えてみました。

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志方町を歩く(285):志方八幡社⑩・能楽堂

2012-05-25 06:23:51 |  ・加古川市志方町

  

 能が盛んであった地域

023志方町(しかたまち)は、能がずいぶん盛んな地域でした。

明治初年まで、毎年秋の祭礼には奉納行事として能楽が催されていました。

能が盛んであったのは、八幡社の能楽堂によっても想像できます。

しかし、盛んであった能も明治時代になってからさびれ始めました。

その後は、能よりも狂言の方が盛んに上演されるようになりました。

昭和376月、能楽堂は県文化財の指定を受けました。

そして、最後に能が上演されたのは、昭和379月、関西電力がスポンサーになって志方町の文化財、産業、慣行などがテレビの全国放送により紹介された時でした。

   能楽堂倒壊(昭和40年)

D9229e9eその能楽堂も昭和40910日の台風23号により倒壊してしまいました。

その時、寛文4年(1664)8月建立の銘文が見つかりました。

これは、わが国最古の西本願寺能楽堂(国宝)に次いで古い貴重な建造物であることが判明しました。

八幡社の能楽堂は、江戸時代の初めに建てられています。

ということは、この時代にすでに能がずいぶん盛んであったということです。

理由としては、かつて志方は志方町であり武士の文化の伝統があったこと。

そして、志方は「志方町(しかたまち)」と呼ばれ町場の性格を持ち、経済的・文化的な一大拠点として賑わいのあった地域であったことなどが考えられます。

その後、能楽堂は倒壊から26年を経て氏子の協力により再建され、現代に至っています。

現在、10月の秋祭りには新しい型の舞楽、胡蝶の舞(正式には「和光楽」)が奉納されています。

*志方郷(第10号)、『志方町誌』参照

*写真上:能舞台(先日撮影に出かけたのですが、戸が閉められ内部の撮影ができませんでした。後日撮影して差し替えます)

 写真下:地元の少女らの舞「和光楽」奉納

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志方町を歩く(284):志方八幡社⑨・明星山能満寺

2012-05-24 09:12:56 |  ・加古川市志方町

八幡社の表参道を登ると隋神門があります。

隋神門の手前を右に折れると、きょうの話題の社務所主屋(写真)があります。

この建物は、もとから八幡社の社務所主屋として造られたのではありません。

もとは真言宗の明星山能満寺の本堂でした。

少し説明が必要のようです。

   明星山能満寺

024「志方八幡社④」をご覧ください。

櫛橋左京亮(くしはしさきょうのすけ)が志方城を築いたのは、明応元年(1492)のことです。

志方城は、今の観音寺・志方小学校の場所にあり、志方城の鬼門の方向に小高い丘(宮山)がありました。

その丘に石清八幡宮から勧請して志方八幡社を建て、鬼門を鎮め、志方城の守り神としました。

時代は神仏習合の時代です。

八幡社と同時に、八幡社を守るお寺、つまり別当寺が造られました。

明星山能満寺です。

「別当寺」とは、神仏習合が認められていた時代に神社に付属して設けられた寺のことです。

神社の祭礼を仏式で行う者を「別当」と呼びました。

現代の感覚では少し妙に聞こえますが、神社に属する僧侶が八幡神社を奉斎し、維持管理をしていたのです。

神仏分離

明治初年に神仏分離令が施行されました。

明星山能満寺は、その役目をおえ、以後は八幡社の社務所の機能を果すと共に神官居住所となりました。

むかしは、瓦ぶきの堂々とした造りでした。

現在は、茅葺屋根は傷が甚だしく、トタン波板で蓋われていて昔の面影はありません。

 *なお、八幡社の主屋(写真)・門・蔵は国指定の文化財に登録されています。

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志方町を歩く(283):志方八幡社⑧・常夜燈(明治28年)

2012-05-23 07:31:06 |  ・加古川市志方町

特別貴重な文化財でもありません。

近くの神社へ参られた時、これら石造物の年代・周旋人などからいろいろ想像ください。

   播磨灘からの目印・常夜燈

随神門から参道の、石段を登りつめた左側(高御位遥拝所と手水舎と間)に、この常夜燈はそびえ立っています。

正面に「常夜燈」の文字、側面に施主、飾東郡小川村、庄次郎と達筆の文字が刻まれています。

台石上段の正面の文字を読んでおきます。

周旋人

志方町       竹   

飾東郡小川村    戸部孫三郎

  志方町       

   明治二十八年・日清戦争の勝利の年

013さらに、右側面には、「明治二十八年十月」と建立の年月日が彫りこまれています。

「明治二十八年」は、日清戦争の勝利に日本中が湧きかえった年です。

おそらく、八幡神社例祭を期して、日本の勝利のお祝の意味が込められていたのでしょう。

これは考えすぎで、単に明治二十八年に造られただけなのかもしれません。

でも、明治二十八年について少し調べておきましょう。

明治二十七年に日清戦争が始まりました。

戦争は近代的な軍隊を整えた日本は勝利し、明治二十八年下関で講和会議が行われました。

講和会議で結ばれた下関条約では清は朝鮮の独立を認めること(日本の朝鮮植民地化に、清は介入しない)、リアオトン半島・台湾などを日本に譲り渡すこと、日本に巨額の賠償金を払うことなどが決められ、日本中は歓喜に包まれました。

この勝利は、その後の日本の進路を決定づけることになりました。

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志方町を歩く(282):志方八幡社⑦・高御位遥拝所

2012-05-22 08:22:28 |  ・加古川市志方町

 「志方町を歩く(21)」で、高御位山について次のように書いています。

  高御位山は、たかが304メートル!

自慢話です。

2030代はけっこう体力に自信がありました。特に、20代前半は陸上競技大会にも時々出場しました。

確か、昭和44年でした。けっこう大きな駅伝大会に、ある町の代表選手として出場しました。

たまたま、私たちのチームに長距離界では全国的に名が知られたYさんがメンバーとしておられ、彼の快走により優勝したんです。

先日、書類を整理していたら、その優勝を報じる新聞の切り抜きがでてきました。

以上は、「昔は、体力があった」ということを言いたかった初老の独り言です・・・・

   登山道は完成したが・・・

018「・・・成井登山口より登る正面道は、昭和60年に加古川市により婦人・子ども、老齢者のために行き届いた配慮が払われた登山道が完成し、楽々と登ることができるようになった・・・」とある文章にあります。

久しぶりです。高御位山登山に軽い気持ちで挑戦しました。

「楽々と登れるようになった・・・」という文にごまかされたようです。

「四丁目」の丁目石のところまでは、順調だったのですが、その後、急に心臓が高鳴り始めました。

七丁目辺りで、完全にダウン。

それでも、山頂まで10回ぐらい、休憩をとり、やっとのこと「征服」することができました。私にとっては、まさに征服がぴったりとする登山となりました。

これを最後の、高御位山登山にします。

以上が「志方町を歩く(21)」よりの再掲載です。

   高御位山遥拝所

 高御位山登山は、お年寄りにとっては、体力に自信のある人を除いて、無理な話です。

 でも、志方町の人にとっては、いつまでも高御位山は故郷の山です。

 安心ください。

志方八幡社の隋神門から参道を登りつめた所に常夜燈があります。

その左に、あまり知られていないのですが高御位の遥拝所(写真)があります。

これは高御位山に登れない人のための高御位山の遥拝所です。

ここからの高御位山は正面に堂々と聳えています。

その前に故郷の志方盆地が広がっています。

*写真:高御位山遥拝所

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志方町を歩く(281):志方八幡社⑥・絵馬、奉天会戦

2012-05-21 08:24:31 |  ・加古川市志方町

 八幡社の拝殿にはたくさんの絵馬がありますが、その中に異色の奉天会戦を描いた絵馬(写真)があるので紹介しておきましょう。

絵馬・奉天会戦

008奉天会戦(明治38年・1905)は、日露戦争の最後の会戦でした。

奉天は、現在のショエンヤン(瀋陽)です。

ロシア陸軍は、40万にものぼる軍隊を奉天近くに結集し、世界に誇るバルチック艦隊も無傷で、ロシア側は徹底抗戦のかまえを崩していませんでした。

ロシア軍と日本軍は、満州を舞台に60万の将兵が18日間にもわたり激闘を繰り広げたのです。

状況は、日本側に圧倒的に不利でした。

この会戦では、両軍あわせて10万をこえる死傷者を出しました。

しかし、日本軍は奇跡としかいいようのない条件の下で、かろうじて勝利を勝ちとったのです。

ロシア軍は退却しました。

しかし、日本軍は、さらに追いつめる余力は残っていませんでした。

国内の事情は違っていました。

国内では、日本軍の「はなばなしい大勝利」が宣伝されていました。

国民は、狂喜の坩堝の中にありました。

志方町の当時の状況も想像ができます。

八幡社の拝殿の左隅に「奉天大会戦」の絵馬がかっています。

投松村(ねじまつむら)の青年が日露戦争後の明治42年に奉納しています。

投松(現:志方町投松)の青年たちの「熱気」が伝わってくるようです。

 *奉天会戦の絵馬

 この記事は、以前にこのブログで紹介した内容です。文体を変えています。

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志方町を歩く(280):志方八幡社⑤・八幡社拝殿

2012-05-20 07:30:13 |  ・加古川市志方町

八幡社拝殿について『加古川市史(第七巻)』は、次にように書いています。

専門用語が多いのですが、そのままお読みください。

   志方八幡社拝殿

019拝殿は、規模の大きい割拝殿である。

構造形式は五間三間、一重、入母屋造、本瓦葺で、正面屋根中央に千鳥破風と軒唐破風をつける。

それゆえ、いわゆる権現造の拝殿と同形で、しかも桁行がながいから、まことに立派である。

柱はすべて方柱、柱頭組物なくに直ちに桁を受ける。

柱間は解放(吹放し)である。

内部は、このあたりによく見る化粧屋根裏で、豪壮な民家の台所に見るものと同じく、大きい梁が縦横に組まれて日本風構造(和小屋)の美をほしいままにしている。

この下まわりには多くの絵馬が掲げられ、この拝殿は絵馬殿をも兼ねているのが知られる。

造営年代は様式上、江戸末期くらいかと推定される。

・・・・

(以上『加古川市史(第七巻)』より)

八幡神社社記によると、天保四年(1833)焼失にあい、14年を経て弘化四年(1847)旧に復す、とあります。

江戸末期も最末期です。

いろいろの絵馬

八幡神社は武神の社です。

絵の具がはげてよくはわからないのですが、戦国時代合戦図らしいのがあります。

また「熊谷直実が無官の大夫平敦盛を呼び返す絵馬、八幡太郎義家が雁の乱れをみて伏兵のあるのを知る絵馬、楠公父子別れの図、そして奉天大合戦図」など、さすがに戦の絵馬が多く掲げられています。

*「志方郷(第25号)」(松本光男)参照。

*写真:志方町八幡社拝殿

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志方町を歩く(279):志方八幡社④・鬼門

2012-05-19 07:57:20 |  ・加古川市志方町

昔は、十二支で時間・方位などを表しました。

方位では、「子」を北とし、「午」を南としました。ですから北と南を結ぶ経線を子午線といいます。

東北の方向は「丑寅」です。

  

ウシトラの方向は鬼門   

Photo昔から、「丑寅(「艮・うしとら)」の方向は、「鬼門(きもん)」として人々に恐れられていました。

中国古代の地理書『山海経(せんがいきょう)』によると、度朔山(どさくさん)という山の東北の方にたくさんの鬼が住んでいて、夜になると門から出て来て人びとを悩ましたといいます。

そこで、鬼の出入りする東北の方向を鬼門というようになりました。

鬼門(東北)は、災のおきる方向でした。

   

   鬼は魂(隠)の音韻変化

「鬼」とは、生命の通った魂が身体から離れた霊となったものをいい、死者の魂(隠・おん=見えないもの)で、隠(おん)が変化して鬼となりました。

日本では古くから死者を「穢れ」と「恐れ」との両面からみる発想がありましたが、いつの間にか「恐れ」が優先して人間に害を加える巨大な怪物となったのです。それが鬼です。

鬼は丑寅の方向に住むということから、鬼は牛の角をはやし、虎の牙をもった形をつくり上げたのです。

こうして東北の方向は、鬼門として忌み嫌われるようになりました。

現在でも鬼門に当たる方角に台所や便所があると家庭内に紛争が絶えないなど、あらぬことを信じる人がいます。

思えば、東北方向は、冬寒風の吹きすさぶ方角でした。

   

   宮山は志方城の鬼門

そのため、東北方向を鬼門として、そこに神仏を祭り、鬼の災いをさける風習が生まれました。

比叡山延暦寺は、京都の鬼門に当たるために建てられた寺で、京都を災いから守ろうとしたのは、よく知られています。

さて、志方ですが櫛橋左京亮(くしはしさきょうのすけ)が志方城を築いたのは、明応元年(1492)のことです。

志方城は、今の観音寺・志方小学校の場所にありました。

志方城の鬼門の方向に小高い丘(宮山)がありました。

その丘に石清八幡宮から勧請して志方八幡社を建て、鬼門を鎮め、志方城の守り神としたのです。

 *写真:観音寺(志方町・志方城跡)

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志方町を歩く(278):志方八幡社③・祭神

2012-05-18 05:10:00 |  ・加古川市志方町

『兵庫県神社誌』によると、志方八幡社の祭神は、応神天皇・玉依比賣命・神功皇后です。

難しそうな名前の神様です。最近は神様の名前が分からなくなっているようなので少し説明しておきましょう。

Dscn1301a111   志方八幡社の祭神

  神功皇后(じんぐうこうごう)

神功皇后は、14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の奥さんです。

戦前、戦中に歴史教育を受けた方にとっては「神功皇后は天皇(仲哀天皇)に代わって男装して新羅(しらぎ)を撃った勇ましい皇后として、忘れられない古代史の英雄の一人で社会科(歴史)の時間に史実として教わりました。

もちろんこれら英雄談は神話での話で、事実ではありません。

  応仁天皇(おうじんてんのう)

応神天皇(おうじんてんのう・第15代天皇)は、仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた天皇で、中国の歴史書『宋書(そうしょ)』には「讃(さん)」と記されている実在の天皇です。

  玉依比賣命(たまよりびめのみこと)

 玉依比賣命は海の神さま、オオワタツミの神の娘で、姉の豊玉姫(とよたまひめ)と共にワタツミの宮に住んでいました。

海の守護神です。

   志方八幡社は、京都石清水八幡宮から勧請

志方八幡社の祭神について簡単に見ましたが、京都(八幡市)の石清水八幡宮から勧請しました。

石清水八幡宮は京都府八幡市にあり、元・男山八幡宮と呼ばれていました。

そのため、志方八幡社の祭神は石清水八幡宮の祭神とよく似ています。

石清水八幡宮の祭神は、応神天皇・神功皇后・姫大神(海の神)です。

そっくりですね。

*写真:石清水八幡宮(京都府八幡市)

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志方町を歩く(277):志方八幡社②・よみがえる風景

2012-05-17 07:53:54 |  ・加古川市志方町

写真は、宮山の下からの八幡社の風景です。

数年前までは、下から八幡社は見えませんでした。

このことに関して「志方郷(第26号」)で池本寅男さんの書かれた文章がありますので参考にさせていただきました。

話は、こういうことです。

   

   よみがえる八幡社の風景

036八幡神社周辺の雑木伐採により景色は大きく変わりました。

戦争中は軍隊に送る炭の原料に、戦後は家庭用燃料になり、宮山は岩ばかりの山になってしまいました。

その後、砂防工事等で松を植林しましたが、近畿一円の松くい虫の被害で全滅してしまいました。

倒れた枯れ木を肥料として、どんぐり等の樹木が急成長し、これらの木が十年もすると直径30センチ以上にもなり、すっかり神社を覆い隠してしまったのです。

そのため、外部から八幡社は見えなくなりました。

遠くからの参拝の方で、「昔の記憶では、確かにお宮が見えていたのに、見過ごしてしまい、法華山口まで行き引き返したが、見つからず一時間以上も捜しました」という声も聞こえたとか・・・・

そのため、先代の宮司さんは、播磨灘を一望できる神社の夢をいだいておられ、業者に見積もりをして貰いました。

が、たいそうな金額で頼めず、安いシルバーさんに枝のみ切ってもらいました。

すると、翌年には切り込み以上に枝が伸びてしまい、よけい八幡社が見えなくなってしまいました。

以後、宮司さんは夢が実現しないままに亡くなられてしまいました。

その後、氏子さんの協力により、平成10229日より三日間で百数十本の木を伐採しました。

するとどうでしょう。八幡社は、宮山にどっかとお城のように見え、風景は一変しました。

伐採以後、通りがかりの方々もこんなところに神社があったのかと参拝されるようになったといいます。

*写真:現在の八幡社の風景(516日撮影)

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