聖徳太子について
英雄とか、天才とか、偉人とか呼ばれて、多くの人々の心をひきつけてやまない人物というものが、歴史上にはしばしなその名を刻んでいます。
もちろん、その人物が実際その人が魅力あった人物であったかという実像の問題も重要ですが、それ以上に多くの人々から魅力ある人物像の出現が希求された結果として、後からつくられた「像」がままあります。
このことにも目をむけなければなりません。
聖徳太子もまた例外ではありません。
今日まで、つづくその評価をおおく支えてきたものは、太子の没後大勢の人々から偉人の存在が求められて続けれられて歴史の集積であり、そうした人々の要求を承けて、新たな人物像が歴史の集積ではなかったでしょうか。
聖徳太子は「救世観音」であるというのも平安時代の人々により作り出された像の一つです。
この時代は、律令制の崩壊の時期でした。社会構造が大きく変化した時代です。
太子を霊験化することにより新たな存立基盤を迫られた僧侶の作り出した物と推測されます。
鶴林寺の建築と太子信仰
復習しておきます。
鶴林寺は、四天王寺は、もっぱら学問であった方隆寺と異なり、鎮護国家としての役割の外に、悩める人々の救済を展開(実践)することに力を注いだ寺院でした。
四天王寺は、もちろん聖徳太子の建立になる寺で、その救済事業は聖徳太子への信仰と重なります。
特に、鎌倉時代~室町時代は、あい次ぐ疫病と転変地異による混迷の時代でした。人々は、まさに、末法の世の到来のようでした。人々は救済を神・仏に求めました。
このような状況下で四天王寺の救済のはたした役割は大きく、人々を救う聖徳太子と観音菩薩を重ねたとしても不思議ではありません。
四天王寺と救済事業が重なる時、観音菩薩の化身として太子が救済者として歴史に登場しました。
太子は、まさに救世観音(ぐぜかんのん)と偶像化されたのです。
寺の中心として、当然のごとく「太子堂」が建立されました。
時代は、鎌倉・室町時代へと続きます。中世(鎌倉・室町時代)は飢饉・戦乱・天変地異等の時代でした。
人々は、ますます太子に救済を願いました。鶴林寺は、この地方の「太子信仰」の中心の寺となりました。
当然、太子信仰に支えられた人々は、その浄財を鶴林寺に寄贈しました。
鶴林寺には、すばらしい室町建築がたくさんありますが、これらは、太子信仰に支えられた浄財により建立されたのでしょう。(no5665)
*国宝:鶴林寺本堂
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