「海外新聞」廃刊に
幕府と長州藩との関係が険悪化し、国内情勢は混乱した。
そんな情勢の中でも、海外新聞の発行は、ほそぼそと続けられていた。
しかし、ヘボンが岸田吟香(きしだぎんこう)の協力のもとに推し進めていた和英辞書の原稿が完成し、それをシャンハイで印刷することになった。
ヘボンは、吟香をともなってシャンハイにむかった。筆記者を失ったヒコは「海外新聞」の発行を中止しなければならなくなった。
「海外新聞」は、日本での最初の新聞であった。<o:p></o:p>
武器商人・グラバー
しばらく、ヒコはぼんやりと日を過ごした。
こんな時、長崎で商社を経営していた友人・フレーザーがアメリカへ帰るため商社を引き受けてほしいという手紙が来た。
フレーザーの商社の経営は、順調ではなかった。
しかし、ヒコは長崎に行くことを決めた。
ヒコが長崎に着くとフレイザーは、ヒコに「長崎は、おなじ開港場の横浜・箱館と、いちじるしく異なっている・・・」と説明した。
それは、輸入の筆頭が艦船、武器であるという点であり、それらの購入者は幕府と諸藩で、政治情勢が緊迫化するにつれて急増していた。
ことに幕府との対立が激しくなった薩摩、長州両藩は、諸外国から艦船をしきりに買い入れ、また大量の銃砲の入手にもつとめていた。
長崎がそのようなものを輸入する開港場になっているのは、江戸から遠く、幕府の監視が及ばないことにあったが、また、幕府は、外国の圧力に対抗する意味から諸藩に艦船、武器の購入をさかんにすすめたことにもあった。
ただし、それは長崎に設けてある運上所への届け出を条件としていた。
これらの購入のため諸藩の藩士たちが、多数長崎に入り込んでいて、外国人貿易商とさかんに接触してた。
貿易商人の中心人物はイギリス人、トーマス・グラハーで、グラバーは特に薩摩藩とかたくむすびつき、他の商人は割り込むすきがなかった。
ヒコは、グラバーというイギリス商人が長崎での貿易を牛耳っているのを知った。
生麦事件(なまむぎじけん)で、薩摩藩士が横浜の外国人居留地にいたイギリス商人を殺傷し、そのためイギリス軍艦七隻が鹿児島湾に進航して、激烈な薩英戦争が起り、その講和会議で薩摩藩は賠償金を支払った。
その後、敵視し合っていた薩摩藩も、攘夷は不可能であること知った。その後、イギリスと薩摩は、一転して親密な友好関係をもつようになった。
*『アメリカ彦蔵(吉村昭)』(読む売り新聞社)参照
*写真:若き日のグラバーと長崎
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