ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(144):播磨町を歩く(25) ジョセフ・ヒコ物語(21)、新聞の父⑦・海外新聞(3)

2014-05-31 07:03:18 | 播磨町

  「海外新聞」廃刊に
 幕府と長州藩との関係が険悪化し、国内情勢は混乱した。
 そんな情勢の中でも、海外新聞の発行は、ほそぼそと続けられていた。
 しかし、ヘボンが岸田吟香(きしだぎんこう)の協力のもとに推し進めていた和英辞書の原稿が完成し、それをシャンハイで印刷することになった。
 ヘボンは、吟香をともなってシャンハイにむかった。筆記者を失ったヒコは「海外新聞」の発行を中止しなければならなくなった。
 「海外新聞」は、日本での最初の新聞であった。<o:p></o:p>

  武器商人・グラバー
Photo
 しばらく、ヒコはぼんやりと日を過ごした。
 こんな時、長崎で商社を経営していた友人・フレーザーがアメリカへ帰るため商社を引き受けてほしいという手紙が来た。
 フレーザーの商社の経営は、順調ではなかった。
 しかし、ヒコは長崎に行くことを決めた。
 ヒコが長崎に着くとフレイザーは、ヒコに「長崎は、おなじ開港場の横浜・箱館と、いちじるしく異なっている・・・」と説明した。
 それは、輸入の筆頭が艦船、武器であるという点であり、それらの購入者は幕府と諸藩で、政治情勢が緊迫化するにつれて急増していた。
 ことに幕府との対立が激しくなった薩摩、長州両藩は、諸外国から艦船をしきりに買い入れ、また大量の銃砲の入手にもつとめていた。
 長崎がそのようなものを輸入する開港場になっているのは、江戸から遠く、幕府の監視が及ばないことにあったが、また、幕府は、外国の圧力に対抗する意味から諸藩に艦船、武器の購入をさかんにすすめたことにもあった。
 ただし、それは長崎に設けてある運上所への届け出を条件としていた。
 これらの購入のため諸藩の藩士たちが、多数長崎に入り込んでいて、外国人貿易商とさかんに接触してた。
 貿易商人の中心人物はイギリス人、トーマス・グラハーで、グラバーは特に薩摩藩とかたくむすびつき、他の商人は割り込むすきがなかった。
 ヒコは、グラバーというイギリス商人が長崎での貿易を牛耳っているのを知った。
 生麦事件(なまむぎじけん)で、薩摩藩士が横浜の外国人居留地にいたイギリス商人を殺傷し、そのためイギリス軍艦七隻が鹿児島湾に進航して、激烈な薩英戦争が起り、その講和会議で薩摩藩は賠償金を支払った。
 その後、敵視し合っていた薩摩藩も、攘夷は不可能であること知った。その後、イギリスと薩摩は、一転して親密な友好関係をもつようになった。
 *『アメリカ彦蔵(吉村昭)(読む売り新聞社)参照
 *写真:若き日のグラバーと長崎

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(143):播磨町を歩く(24) ジョセフ・ヒコ物語(20)、新聞の父⑥・海外新聞(2)

2014-05-30 06:54:06 | 播磨町

    「海外新聞」を発行
Kaigaisinbun
 吟香(ぎんこう)の協力を得て新聞づくりが始まった。
 新聞誌の発行は、人の口から口に伝わり、彦蔵の家に譲ってもらおうとして訪れてくる者が多くなった。
 商品相場が掲載されているのを知った商人たちは強い関心を寄せたが、世界情勢の記事ものっているので、役人たちや英語を学ぶため横浜に来ている各藩の藩士などもやってきた。
 その度に手書の新聞誌を渡したが、奇妙な習慣が生じた。アメリカで発行されていた新聞は定められた金額で人々に渡り、購読されていたが、日本では新聞誌を求めてやってくる者は、礼を述べるだけで帰ってゆく。
 かれらには、新聞誌が金銭の対象になるという意識はなく、ヒコの好意としか考えていないようだった。ヒコは、請われるままに無償で渡してやった。
 ヒコは、吟香らと相談して新聞誌を筆写ではなく木版刷りにすることをきめた。<o:p></o:p>

 記事は海外情勢を主としたものであったので、新聞誌を「海外新聞」と改題し、その第一号を元治元年(18645月に発行した。半紙数枚を二つ折りにしてとじたものにした。 肥後藩士のショウムラ(荘村省三)と柳川藩士のナカムラ(中村祐興)の二人だけが、定期購読科を払ってくれていた。
   
リンカーンの暗殺を記事に
 ヒコは、貿易の仕事をするかたわら海外新聞を発行していたが、七月に入って間もなく、領事からアメリカで衝撃的な事件が発生したことを耳にした。
大統領のリンカーンが暗殺れたという。
 激戦を繰返していた南北戦争は、その年(1865)4月、南部軍のリ一将軍の降伏によって終結した。
 その日から5日後、ワシントンの劇場で観劇中のリンカーンが、南部出身の俳優ジョ・ウィルクス・ブースに狙撃され、翌朝、死去した。
 ヒコは、茫然とした。握手してくれたリンカーンの大きな掌の感触がよみがえった。
 *『アメリカ彦蔵(吉村昭)』(読売新聞社)参照
 *写真:海外新聞

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(142):播磨町を歩く(23) 余話、ジョセフ・ヒコ新聞発行から150年

2014-05-29 11:12:38 | 播磨町

 きょう(529日・木)の神戸新聞の朝刊(東播版)に、「ジョセフ・ヒコ新聞発行から150年‐出身地の播磨町、相次ぎ記念イベント‐」と題してヒコについて、大きく取り上げられています。
 いま「ひろかずのブログ」でも「ジョセフ・ヒコ物語」を掲載中のため、掲載させていただきます。(記事は、神戸新聞NEXTより)
  
ジョセフ・ヒコ 新聞発行から150(神戸新聞より)
Hiko
 「新聞の父」と称されるジョセフ・ヒコ(1837~97年)が、民間邦字新聞を発行して今年で150年を迎え、出身地の兵庫県播磨町では記念イベントが相次いで開かれる。64日には、ゆかりの史跡を巡るイベントがあり、琵琶奏者川村旭芳さん(神戸市)がヒコの物語を弾き語りで披露する。7日には、旭芳さんの母で物語の作者、素子さんがトークイベントに参加し、その人物像に迫る。
 ヒコは浜田村(同町本荘)の船頭の家で育った。13歳で乗り込んだ貨物船が遠州灘で暴風に遭い、2カ月間漂流。米国商船に救助され、そのまま米国に滞在した。9年後に帰国したが、外国人排斥運動の高まりを受けていったん離日し、通訳として再来日した。
 江戸末期の1864年、横浜の居留地で英字新聞を翻訳し、海外事情を伝える「新聞誌」を創刊、後に「海外新聞」と改題した。伊藤博文らの支援を受け、播磨町にも帰郷した。
 史跡巡りは山陽電鉄が主催。4日午前10時、弁当持参で山電播磨町駅近くの向ケ池公園に集合し、ヒコが両親らのために蓮花寺(同町北本荘)に建立した「横文字の墓」などを訪ねる約7キロのコースを歩く。その後、県立考古博物館(同町大中)で、ヒコが生きた当時の時代背景や米国生活、新聞発行の経緯を紹介する「ジョセフ・ヒコ物語」を、旭芳さんの弾き語りで聞くことができる。
 七日は午後1時半~3時、町役場隣の中央公民館で、素子さんが町郷土資料館の宮柳靖館長と対談し、ヒコの人物像や功績について語り合う。
 ともに参加無料で予約不要。山陽電鉄営業課TEL0789405132。町郷土資料館Tel 0794355000
(井上 駿)
 *写真(神戸新聞より):ジョセフ・ヒコが蓮花寺の境内に建立した父母らの墓(播磨町北本荘)<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(141):播磨町を歩く(22) ジョセフ・ヒコ物語(19)、新聞の父⑤・海外新聞(1)

2014-05-29 07:08:47 | 播磨町

  ヘボンとの出会い
Photo
 新間の記事は事実を正しく伝えることを第一とし、そこに事実による感動がうまれる。
 そうしたすぐれた文章家が、横浜村にいだろうか。
 ヒコは、横浜の外国人居留地に住むアメリカ人ヘボンの家に寄寓している岸田吟香(きしだぎんこう)のことを思いついた。
 ヒコが、アメリカ領事館の通訳官に雇われて間もない頃、ヘボンは、日本布教を目的にアメリカから夫人とともにやってきた宣教師兼医師であった。
 ヘボンは、本覚寺におかれたアメリカ領事館に領事のドールを訪れ、住居の斡旋を依頼した。
 ヒコは、ドールの指示で本覚寺に近い寺の僧と交渉し、ヘボン夫妻の住居として本堂を借りてやった。
 そのようなことから彦蔵は、ヘボン夫妻と親しくなり、日本での生活の相談相手にもなった。
 ヒコは、帰国する直前に起った生麦事件(なまむぎじけん)で、重傷を負った二人のイギリス商人の治療にヘボンがあたったこともきいていた。
 ヘボンは、名医として広く知られ、多くの外国人、日本人の患者が治療を受けに訪れていた。
 診療費は無料で、患者たちは鶏卵等を贈って感謝の意を表するのを習いとしていた。
   
 岸田吟香との出会い
 岸田吟香(ぎんこう)は、眼病をわずらい、ヘボンのもとに訪れて診療を受けた。
 ヘボンは、診察して眼薬を点滴し、それがいちじるしい効果をあげた。
 吟香は、美作国(岡山県)の生れで、幼い頃には神童と言われ、後に、三河挙母藩(ころも)に召抱えられて儒官となったが、脱藩して江戸に行き、落ちぶれて湯屋の三助、左官の手伝いなどをした後、妓楼の主人にもなった。
 しかし、翌年、吉原が全焼して妓楼も灰になって流浪の身となり、眼病治療がきっかけでヘボンに接触したのである。
 その頃、ヘボンは、日本語研究につとめ、和英辞書の編集に取り組んでいた。
 治療を受けながら、吟香は、ヘボンに自分の経歴を問われるままに口にし、日本語の仮名づかい文字のことを語った。
 ヘボンは、吟香の学才が並々ならぬものであるのを知り、和英辞書の編集一協力してくれるよう頼んだ。
 吟香は、ヘボンの家に住み込んでヘボンの和訳した単語を正しい日本語にし、それを美しい文字で浄書するようになった。
 新聞作成を企てるヒコにとって、吟香は最も望ましい人物に思えた。
 *『アメリカ彦蔵(吉村昭著)』(読売新聞社)参照
 *写真:ヘボン氏(明治学院の創設者)<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(140):播磨町を歩く(21) ジョセフ・ヒコ物語(18) 新聞の父④・日本語が書けない

2014-05-28 07:19:15 | 播磨町

 新聞をつくる
Img
 ヒコは新聞をつくろうと思った。
 その新聞には定期的に横浜に入港する郵便船がもたらす外国新聞の記事から世界情勢を紹介する。
 さらに、横浜で外国人相手に発行されているイギリス、アメリカ系の新聞には、記者が取材した日本国内の記事ものせられているので、それも抜粋して掲載する。
 これによって、世界情勢と国内の動きを記事にすることができる。
  
私は、日本語が書けない
 ここまで考えたヒコは、大きな難問があるのに気づき、深く息をついた。
 それらの記事は、むろん日本文でつづり、しかも名文であらねばならないが、自分には到底不可能である。
 かれの日本文字に対する知識は、13歳まで寺子屋に通って得た範囲にとどまっていて、平仮名の読み書きはできるが、漢字は見当をつけて辛うじて読むことはできても、書くことはほとんどできない。
 かれは、文字というものに対して、きわめてかたよった人間であるのをあらためて感じた。
 英文は自在に読め、文章をつづることもできる。
 それなのに母国語である日本語に対する知識は、寺子屋に通っていた頃の域にとどまっている。
 かれは、28歳になった自分が日本人というよりアメリカ人に近い宙に浮いた存在であるのを感じた。
 しかし、「新聞は、漢字をよく知って者が記事を書かねばならないが、それを自分がしようと考えたことがあやまりなのだ」と思った。
 自分が和訳する新聞記事を日本の文章で巧みにつづれる者を探し、その者の協力を得れば新聞はつくれる。
 ヒコは、眼の前が急にひらけたような明るい気分になった。
 問題は、「どのような方法で協力者を探せばよいのか」と言うことである。
 外国の新聞記事は平易な文章でつづられていて、状況説明も情景描写も素直に読者に通じる。
 美辞麗句を多用する文章は、文字そのものに自ら酔っていて、人の心の琴線にふれることはできない。
 新聞の記事は、事実を正しく伝えることを第一とし、そこに事実による感動がうまれる。
 声をあげて読み、聴く者に十分に理解できる文章でなければならない。
 *『アメリカ彦蔵(吉村昭著)』(読売新聞社)参照
 *英字新聞(幕末の頃、ボストンで発行されていた新聞)<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(139):播磨町を歩く(20) ジョセフ・ヒコ物語(17)、新聞の父③・新聞をつくろう

2014-05-27 00:21:26 | 播磨町

  アメリカの新聞事情
Photo
 ヒコは、漂流してアメリカ船に救出されサンフランシスコで、初めて新聞というものを眼にした。
 その後、アメリカ在住中、ワシントン、ニューヨークのような大都市のみではなく地方の町にも新聞社があって、記者が取材にあたり、記事が印刷されて発行されているのも知った。
 新聞は、あらゆる階層の人々の間にひろく浸透していて、アメリカ人の生活になくてはならないものになっていた。
 サンフランシスコで発行されている新聞には、港に出入りする船の名、時刻、主要な船客名をはじめ、陸揚げされた物品の市場での動きや価格も記されていた。
 横浜の外人居留地には、アメリカ、イギリスの新聞社から派遣された記者たちが常駐し、本社から送られてくる新聞の記事を紹介するとともに、日本国内の動きも取材して、記事にしている。
   
新聞をつくろう!
 アメリカとは異なって、日本に新聞に類するものは皆無で、ヒコはあらためて不自然に思った。
 日本人が知る情報は、口から口に伝わるものに限られ、当然のことながら誤報も多い。
 そのため、幕府はもとより各藩は探索の者を四方八方に放ち、豪商も人を派して正確な情報を得ることにつとめている。
 もしも、新聞があって正確な記事をのせれば、世界、国内の情勢を人々に伝えることができる。
 その和訳文を文字に託し、それを新聞の記事として発行すれば、かれらはもとより多くの者を益するはずであった。
 ヒコは、語学力を活用して日本人を啓蒙することができれば、国家的な意義は大きい。<o:p></o:p>

 新聞をつくってみようか、と思った。
 
*『アメリカ彦蔵(吉村昭)』(読売新聞社)参照<o:p></o:p>

 *写真:新聞の父・浜田彦蔵の碑(播磨小学校敷地内)<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(138):播磨町を歩く(19) ジョセフ・ヒコ物語(16)・新聞の父②、新聞

2014-05-26 07:55:06 | 播磨町

   新 聞
Heco
 外国の新聞は、ヒコの商売に大いに役立った。
 
 そこには、世界各地の棉花をふくむ商品相場の変動が記載されており、ヒコはそれを参考にして商取引をおこなっていた。
 
 日本人の商人たちは、ヒコが外国人と同じように外国の新聞から得た知識を活用しているのを知った。
 
 かれらは、「外国新聞にどのような経済記事がのっているか教えて欲しい」と懇願するようになった。
 
 ヒコは快くそれに応じ、外国新聞をひろげて貿易についての記事を和訳してきかせた。
 
 商人たちは真剣な眼をして書きとめ、相応の謝礼を置いて帰っていった。
 
 郵便船が入港するたびに、かれらはヒコの家に集るのが習いになり、家は一種の社交場のようになった。
 
 世界の情勢を知るために
 商人の中には、経済記事以外に、どのような記事がのっているのかをたずねる者もいた。
 
 新聞には南北戦争、清国での内乱や各国の政治、社会の動静が記され、広告文ものっていて、ヒコはそれらについて説明した。
 
 彦蔵が外国新聞を和訳して読んできかせているという話が、思わぬ波紋となってひろがった。
 
 横浜村に出向いてきていた地方の藩の藩士たちが、それをきこうとして訪れてくるようになったのである。
 
 初め、ヒコは、太刀を腰におびたかれらが自分の命をねらう攘夷派の武士ではないかと、恐れを感じていた。
 
 しかし、かれらは、西欧の政治、法律、科学に関する知識を導入しなければならぬという開国論の信奉者であった。
 
 かれらは、ヒコが英字新聞を読んでいることを耳にして、どのようなことが記されているのかを教えてもらおうとしてやってきたのである。
 
 *『アメリカ彦蔵(吉村昭)』(読売新聞社)参照<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(137):播磨町を歩く(18) ジョセフ、ヒコ物語(15)、新聞の父①

2014-05-24 07:51:36 | 播磨町

 ヒコ貿易商に
Heco_2
 ヒコは、横浜村できわめて特異な存在であった。
 
 貿易に従事する外国人と日本人の最大の障害は、言葉が通じぬことであった。
 
 外国人は日本語を、日本人は英語を少しは口にできたが、ほとんど手ぶり身ぶりで意思を伝えようとしていた。
 
 当然誤解が生じ、それによって商取引が混乱することも多かった。
 
 英語の通訳者が必要であったが、英会話の可能な者は奉行所に配属されている通詞だけで、かれらは幕府と各国外交公館との交渉での通訳にあたっている。
 
 むろんかれらは、商人たちの通訳などするゆとりはなく、それはかたく禁じられていた。
 
 商業(情報)の時代
 
 商人たちの眼は、自然にヒコに向けられた。アメリカ領事館付通訳官を辞したかれは、すでに民間人で、なんの拘束も受けていない。
 
 アメリカに長く在住し、学校教育も受けた彦蔵は、奉行所の英語通詞などとは比較にならぬほど流暢な英語を口にし、読み書きも自在であった。
 
 それに、サンフランシスコで商社に勤務していたこともあって、商行為にも通じていて、外国商人と日本商人との通訳として得がたい人物であった。
 
 そのため、ヒコは、しばしば商取引の場に立ち会わされた。
 
 会話はもとより契約書の翻訳、作成もし、複雑な取引も少しの支障なく成立させたりし、謝礼を得た。
 
 そのような仕事で、かれは多忙をきわめていたが、その間に自らも貿易業に手を染めるようになっていた。
 
 棉花の世界相場に、大きな変動がおきていた。アメリカは棉花の主要生産国であったが、南北戦争で棉花畠のひろがる地が戦場になったり輸送路が寸断されたりして、生産量は激減し、輸出がとだえて、世界各国の棉花の価格が高騰していた。
 
 それに眼をつけた日本人商人たちは、日本の各地で栽培されている棉花を買い集め、外国の貿易商に売って多くの利潤を得ていた。
 
 ヒコも、その潮に乗じて棉花の取引に手をつけた。
 
 一漁村にすぎなかった横浜村は、洋館をふくむ家々が建ち並び、港町らしいにぎわいをみせていた。
 
 イギリスの郵便船が定期的に入港し、そこには新聞ものせられていて、居留地の外国人たちはれを手にするのを楽しみにし、ヒコも読んだ。
 
*『アメリカ彦蔵(吉村昭著)』(読売新聞社)参照

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(136):播磨町を歩く(17) ジョセフ・ヒコ物語(14)・ヒコ、命をねらわれる

2014-05-23 07:25:25 | 播磨町

  ヒコ、命をねらわれる
Photo
 文久三年(1863)、イギリス艦隊が鹿児島にむけて発航してから4日後、領事館に奉行所の役人二人がヒコを訪れてきた。
 
 かれらの顔には険しい表情が浮んでいた。
 
 上席らしい役人が、2日前に東海道筋の茶店の廁の中に血に染まった男の首が投げ込まれていたことを口にした。
 
 壁に貼り紙があって、そこには、「この首は横浜から下関海峡にむかったアメリカ軍艦に水先案内人として雇われた者の首である」と書かれていた。
 
 さらに、「他に不埒な者が二人乗艦していたが、その者たちも追って同様の仕置きを受けるであろう」と書き添えられていたという。
 
 「その二人とは、あなたともう一人の水先案内人と考えられます」役人は、ヒコを見つめ、さらに長州藩士が神奈川宿に多く入り込んでいることも告げた。
 
 ヒコは、追いつめられたような気持になった。
 
 ヒコ、通訳官を辞任
 
 日本人でありながらアメリカの領事に通訳官として仕えていることは広く知られていて、このまま領事館にとどまっていれば、いつかは必ず殺され、首をさらされる。
 
 長州藩側に大打撃をあたえたアメリカ軍艦に自分が乗っていったことも長州藩士たちは知っていて、かれらは自分の命をつけねらっているはずであった。
 
 ヒコは「領事館からはなれよう」と思った。
 
 通訳官という職を辞すれば、援夷派の者たちから命をねらわれることもないだろう。
 
 それに、ヒコは、人間関係に嫌気がさしていた。
 
 前任のハリス公使もドール領事もアメリカの国益を守ろうという純粋な使命感が感じられたが、現公使と領事にはそれが欠落していて金銭についての執着が強い。
 
 ヒコは、アメリカと日本との外交関係に潤滑油の役目をしようと思って領事館員になったが、その望みは失われていた。かれは、熟慮した末、辞表を書き、領事に渡した。
 
 ・・・<o:p></o:p>

 その後、ヒコは、横浜のイギリス系新聞社が増新聞(号外のこと)を出し、それが鹿児島にむかった7隻のイギリス軍艦の動きを報ずるものであるのを知った。
 
 *『アメリカ彦蔵(吉村昭著)』(読売新聞社)参照
 
 *写真:ヒコ<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(135):播磨町を歩く(16) ジョセフ・ヒコ物語(13)・下関戦争、薩英戦争

2014-05-22 07:27:19 | 播磨町

 下関戦争
310pxshimonoseki
 今回のブログに、ヒコは登場しません。下関戦争と薩摩戦争について、おさらいをしておきます。
 元治元年(1863)6月1日にアメリカの軍艦ワイオミングが、今度は戦闘準備を整えて下関綿にやってきて、いきなり、長州藩の軍艦(といっても大砲を積んでいる普通の船ですが)二隻を撃沈させた。
 続いて5日、フランス軍艦二隻がこれまた下関に入ってきて、長州藩の砲台を遠くから撃破した。
 さらに、陸戦隊約250人が上陸して砲台を占領し長州藩兵を追っ払った。
 長州は、自分たちの持っている武器では陸戦隊を追っ払えなかった。
   
薩英戦争
 生麦事件(なまむぎじけん)は、幕府が11万ポンドの賠償金をイギリス側に支払うことで一段落していたが、薩摩藩は、妥協をこばみ、談判も決裂した。
 そのため、直接鹿児島へ行って決着をつけようとしたイギリスは、文久三年(18637隻で横浜をはなれ、鹿児島へむかった。
 横浜村の外国人たちは、「艦隊の威容に恐れおののいた薩摩藩が、ただちに屈して要求を全面的にうけいれるだろう」と思いましたが、薩摩は大きな犠牲を出しながらもよく戦った。
 イギリス艦隊は、たった2日間砲撃した後、サッと引き揚げてしまった。
 ふつう外国の艦隊は、ペリーが浦賀沖に来た時もそうだったように、こちらが要求をのむまで居座るのが普通だった。
 そのため、薩摩は、薩摩の応戦に恐れをなして引き揚げたのだと見た人も多かった。
 でも、そうでもなさそうで、イギリスはの事情は、石炭と弾薬と食糧が乏しくなったために戦闘を打ち切った。
 事実、その後、11月月1日に改めて交渉し、イギリス側の要求を薩摩が受け入れて25千ポンド、約7万両を支払うことで講和に至った。
 この時の戦いと講和会議によって、双方が非常に引き寄せられた。
 イギリスは薩摩をかなり信用し、薩摩もイギリスはなかなか紳士的ないい国であると知ったため、後にイギリスが薩摩側につくという構図が出来上がった。
 *『アメリカ彦蔵(吉村昭著)』(読売新聞社)、『幕末史(半藤一利著)』参照
 *写真:
フランス海軍陸戦隊によって占拠された長州の前田砲台

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(134):播磨町を歩く(15) ジョセフ・ヒコ物語(12)・下関戦争へ

2014-05-21 08:13:34 | 播磨町

  長州藩、アメリカ船を攻撃
Photo_2
 516日午後、プリュイン公使から領事館に急報がもたらされた。
 
 「横浜を出港したアメリカ蒸気船、ペムブローク号が、関門海峡の入り口で碇泊中、長州藩の軍艦に砲撃を浴びせかけられ、豊後水道にのがれた」という。
 
 軍艦は、激しく追尾してきたが、「ペムプローク号」は、それをかわして航行をつづけ、上海に入港したという。
 
 上海の領事は、プリュイン公使にその不法行為を報告してきたのである。
 
 神奈川奉行に厳重抗議することになり、使いを出して領事館に奉行を招いた。
 横浜村沖に碇泊中のアメリカ軍艦「ワイオミング号」の艦長マクドゥガル中佐も同席した。
 通訳は、ヒコがあたった。
  
 ヒコ、下関戦争に通訳として参戦へ
 プリュインが、奉行にその事件をたずねると、奉行は「耳にしている」と答え、「砲撃したのは長州藩の軍艦だと推定される」と言った。
 「将軍ノ政府(幕府)ガ、砲撃サセタノデアロウ」とプリュインの語気は荒かった。
その言葉をヒコが通訳すると、「長州藩独自の砲撃であって、幕府はなんら関係ない。下手人を、逮捕処罰するよう尽力する。ただし、どのような手段をとるか、しばらく御猶予を……」と、奉行は答えた。
 プリユインは、「長州人ガ自ラノ考エデ我ガアメリカ船ヲ砲撃シ、将軍ノ政府ハ関係ナイト言ワレルノカ。ソレナソレナラバ、私ハ軍艦ヲ長州ニサシムケ、報復スル。ソレニツイテ、ムロン将軍ノ政府ハ異存ハナイデショウナ」と、奉行を見つめた。
ヒコが通訳すると、奉行は顔をこわばらせ、「それはなりませぬ。すみやかに事件を調査し、不法行為であることがあきらかになった折には、日本の国法にもとづいて相応の処罰をいたします。軍艦などさしむけず、江戸よりの御沙汰があるまでお待ちいただきたい」と、強い口調で言った。
 それで会談は終り、奉行は領事館を出て行った。
 ヒコは、公使と艦長が話し合うのをきいていた。
 公使は、艦長が賛成してくれれば、軍艦「ワイオミング号」を下関海峡にさしむけて「ペムブローク号」を砲撃した長州藩の軍艦を拿捕し、横浜に連行したい、と言った。公使自身も同行するという。
 艦長に異存はなく、明後日の528日朝に「ワイオミング号」の出航が決定した。
 公使は、彦蔵に、「君モ私ニツイテ来テクレ」といって、公使館にもどった。
 ヒコは、アメリカ人(側)として下関戦争に参戦することになった。
*『アメリカ彦蔵(吉村昭』(読売新聞社)参照
*写真:横浜が開港すると、アメリカは神奈川、横浜沿岸が一望できる本覚寺(ほんがくじ)に領事館を置いた。写真は、現在の本覚寺、<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(133):播磨町を歩く(14) ジョセフ・ヒコ物語(11)・攘夷の嵐

2014-05-20 08:48:54 | 播磨町

 ヒコは、苦労したが船を捜し、清経由で日本へ帰ることができた。
   
日本は、攘夷の嵐
Img_0001
 上陸して横浜村に入ると、生麦村(なまむぎむら・写真)でおこった外国人殺傷事件で騒然としていた。
 横浜村に住むイギリス人商人三名と婦人一名が東海道を馬に乗って川崎方面にむかう途中、生麦村で薩摩藩主の父・島津久光の行列に接触、商人の一名が殺害され、二名が重傷を負わされた。
 イギリス代理公使は、幕府と薩摩藩に強硬な抗議を繰返した。
 ヒコは、日本では相変らず開国にともなう外国人に対する血なまぐさい事件が起っているのを知った。
 翌々日、かれは、神奈川の本覚寺におかれたアメリカ領事館に行った。
 むろん、国務長官の通訳官任命書を手にしていた。
 公使のハリスは日本から去り、プリュインが赴任していた。
 ヒコは、正式の領事館付通訳官となった。
 かれは、本覚寺の一室をあたえられた。生麦事件によって外国人たちは、神経過敏になり、神奈川奉行所の動きもあわただしかった。
 さらに事件はつづき、1212日夜には品川御殿山に建築中のイギリス公使館が焼打ちされ、ヒコは夜空が赤々と染まっているのを眼にした。
 攘夷派による放火で、幕府は、外国公館が同じような災厄に見舞われるのを恐れて警備の兵を増員し、ヒコの勤務するアメリカ領事館の本覚寺にも兵が常駐して昼夜をわかたず警戒した。
 年があらたまり、文久三年(1863)に入ると天誅と称する暗殺が急増した。
 対象になったのは開国派の者や公卿の家臣、外国貿易で利潤をあげている商人たちであった。
 生麦事件の余波は尾を引いた。
 59日に幕府がイギリスに賠償金を支払ったものの、イギリスは薩摩藩からも賠償を求めた。薩摩藩は、要求をはねつけてイギリス側との対立は深刻なものになっていた。
 *『アメリカ彦蔵(吉村昭著)』(読売新聞社)参照
 *写真:当時の生麦村

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(132):播磨町を歩く(13) ジョセフヒコ物語(10)・サンタースさんとの別れ

2014-05-19 08:29:44 | 播磨町

  サンダースさんとの別れ
Img
 ヒコは、リンカーンにあった(1862312日)後、ワシントンに二日間滞在後、ヒコはボルチモァのサンダースの邸にもどった。
 大統領のリンカーンに会った話をすると、サンダースは何度もうなずいていた。
 サンダースの眼には、わずかではあるが涙がにじみ出ている。
 その涙に、ヒコはサンダースの老いを感じた。
 かれは、サンダース夫妻と静かに日を過しながら、帰国のため邸を出てゆけば、それがサンダースとの最後の別れになるのを感じていた。
   
サヨウナラ
 ヒコは、その眼を見るのが辛く、一日のばしに出発をのばしていたが、(1862年)326日の夜、ひそかに寝室で鞄に旅具をおさめた。
 翌朝、食事を終えた後、ヒコは、二階の寝室に行って外套と鞄を手に階段をおりた。
 居間のドアを開けると、椅子に坐っていたサンダースが、口を少しあけてヒコに視線をすえた。
 ヒコは、床に置いた鞄の上に外套をのせ、サンダースに近づくと、手をさし出した。胸に熱いものが突き上げた。
 「日本へ戻リマス。オ世話ニナッタコトヲ感謝シマス」彦蔵は、途切れがちの声で辛うじて言った。
 サンダースの眼から涙があふれ、サンダースの口から鳴咽がもれた。
 ヒコもサンダースの体を抱き、涙を流した。
 夫人が近づき、「行クノデスカ、ヒコ」と言って、ヒコの腕をつかんだ。涙が流れていた。
 「イツマデモ健康デアルコトヲ祈リマス。日本へ行ッテモ、私ハ常ニアナタノ息子デス。また、アメリリカニ来ルコトモアルデショウ。ソノ時ハ、アナタノ家二泊メサセテ下サイ」と、言った。
 サンダースは、無言で何度もうなずいた。
 「サヨウナラ」・・・
 *小説『アメリカ彦蔵(吉村昭著)』(読売新聞社)参照
 *写真:サンダース氏

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(131):播磨町を歩く(12) ジョゼフ・ヒコ物語(9)・リンカーン大統領に会う(2)

2014-05-18 07:35:06 | 播磨町

  リンカーン大統領に会う(2)
Photo
 ヒコは、大きな机を前にして肘掛け椅子に坐っている黒いフロックコートを着た男を眼にした。
 シワードは、彦蔵に椅子に坐るようすすめた。
 男は、驚くほどの長身だった。
 ヒコは、シワードとともに立ち上った。大統領は、シワードに親しげに声をかけて近寄り、握手した。
 シワードは、大統領に、「私ノ友人ノヒコ君デス。日本人デス」と言って、紹介した。
 大統領は、大きい掌を出し、「日本ノヨウナ遠イ地カラ良ク来テクレマシタネ」と言って、ヒコの手をにぎった。優しい眼であった。
 大統領が坐り、ヒコもシワードについで椅子に腰をおろした。<o:p></o:p>

 リンカーンはやさしい人
 シワードが、ヒコの漂流のこと、アメリカに帰化したことなどを手短かに話した。
 大統領は、驚いたようにヒコの顔に何度も眼をむけた。
 シワードが、この度、ヒコが神奈川領事館の通訳官に任命され、日本へ近々のうちにもどることを口にした。
 「君ノヨウナ人ガ領事館二勤務シテクレルトハ、頼モシイ。アメリカノミナラズ、日本ノタメニモ尽力シテ下サイ」
 リンカーンは、大統領というより優しい農夫のような感じであった。
 財政長官に続づいて海軍長官が大統領との打合わせのために入って来たので、ヒコは、大統領に任官の札を述べ、シワードとともに執務室を出た。
 短い会見であったが、ほのぼのした思いが残った。
 ワシントンに一日間滞在後、ヒコはボルチモアのサンダースの邸にもどった。
 *『アメリカ彦蔵(吉村昭著)』(読売新聞社)参照。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さんぽ(130):播磨町を歩く(11) ジョセフ・ヒコ物語(8)・リンカーン大統領に会う(1)

2014-05-17 07:32:09 | 播磨町

  リンカーン大統領に会う(1)<o:p></o:p>

  アメリカは南北戦争のさなかにあり、事はすべて思うように進まなかった。
 ただ、国務長官のシワードは、日本においての正式の神奈川領事館の通訳官に任命してくれた。
 ヒコは、帰国して、日本で働くことにした。
 お礼を兼ねて帰国の挨拶をするためシワードを訪ねた。
 あらかじめ手紙で面会の申込みをしていたので、ヒコは国務省に行くとすぐに長官室に通された。
   
大統領は雲の上の人では?
Photo
 ヒコが帰国の挨拶をすると、シワードは、「ソウカ、日本へ帰ルカ」と言って、しばらく思案するように黙っていたが、顔をヒコにむけると、「帰国前二、我ガアメリカ合衆国ノタイクン(大君)二会ワセテヤロウ」と、言った。
 アメリカ人が、徳川将軍を大君と呼んでいるのをヒコは知っていていた。
 シワードは、「少シ待ッテイテクレ」と言って、長官室を出ていった。
 日本では、大名に拝謁できるのは、各藩の上級武士にかぎられ、それら大名の上に立つ将軍は、庶民にとってはるか雲の上の存在だった。
 彼は、身のふるえるような緊張感をおぼえた。
 大統領は、リンカーンと言い、共和党の上院議員として大統領選に当選し、人情家と人々の評判は高く、信頼と敬意を集めていた。
 ヒコは、落着かず椅子に坐っていた。
 15分ほどして、シワードが長官室にもどってくると、「ヒコ君、行コウ。大統領二会ウ約束ヲトリツケタ」と言い、長官室から裏庭に出た。
 シワードは、「今日、私ハ閣議二出席シナケレバナラナイガ、君ヲ我等ノ偉大ナ指導者二会ワセズ帰国サセルワケニハユカナイ」と、にこやかな表情で言った。
 シワードは、大統領執務室の扉をノックした。
 *小説『アメリカ彦蔵(吉村昭著)』(読売新聞社)参照
 *写真:リンカーン大統領

<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする