ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

宮本武蔵 in 高砂(9) 武蔵生誕の碑(1)・スケールは日本一

2019-06-30 08:22:47 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

 

      武蔵生誕の碑(1)

           スケールは日本一

 (以下の記事は神戸新聞よりの転載)

 「武蔵誕生の地」のシンボルにと、宮本武蔵誕生説を唱える高砂市の武蔵・伊織顕彰会(松下歳和会長)が造った「生誕の碑」の設置作業が完了。

 (平成2年)6月3日に除幕式が行われる。

 同顕彰会では記念テレフォンカードの作製にも取りかかったほか、記念誌の発行も予定している。

 碑の設置作業は同市米田町米田の武蔵の生家と言われる田原家の生家と言われる田原家の土地で進められた。

 碑は縦2.5㍍、幅7㍍、奥行き1.5㍍で、重さも100トンと石碑では「日本一」(同顕彰会)というスケールの大きさが特徴。

 市内の採石場で、宝殿石を用いて造られ4月下旬に設置場所へ運び込まれた。

 以来、重心の安定を図ったり、汚れを落として碑に磨きをかけたりと、懸命の作業が続けられた。

 武蔵は作州(岡山県)の生まれという説があるが、最近では、武蔵の「五輪書」や加古川・泊神社にある武蔵のおいの伊織の出生について書かれた棟札の記述、家系図などから高砂説の方が優勢。

 しかし、高砂市内には武蔵との結びつきをPRするものが乏しく、同顕彰会が「武蔵にふさわしい日本一の碑の建設を」と五年前から計画にかかっていた。

 設置場所は、田原家から申し出があった借地で、「宮本武蔵 伊織 生誕の碑」と刻まれた碑文も、武蔵が晩年仕えた熊本藩主の子孫・細川護貞さんが筆を執った。

 除幕式は(平成2年)6月3日の「第4回武蔵・伊織まつり」(神戸新聞社後援)のイベントの一つとして午前11時から行われる。

 場所は、JR宝殿駅から南0.8キロ。(no2895)(no4682) 

 *写真:武蔵生誕の碑

 

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宮本武蔵 in 高砂(8) 田原家(宮本武蔵生家)屋敷跡(2)

2019-06-29 09:05:23 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

               田原家屋敷跡(2)

 「田原家跡」の場所ですが、西谷酒造の看板のあるすぐ横の道(歩道)を北へ100㍍ほど行った所です。

 歩道に沿ってあるので、すぐわかります。

 先日、暑い日の昼ごろ、この場所へでかけました。

 「米田の庄屋・田原家の屋敷跡」のイメージを描いて出かけたのですが、みごとに裏切られました。

 車の多い、南北の広い道沿で、屋敷跡は狭い空き地に無機質な「田原屋敷跡の碑」があるだけでした。

     クスノキは残った

 田原家屋敷は、この碑の南北に向かって広がっていたといいます。

 この辺りを見渡すと酒造会社の一角に大きなクスノキ(写真)が聳えています。

 最近まで、もう一本のクスノキが残っていたのですが、道路拡張に伴い切られてしましました。

 このクスノキは、樹齢700年といいますから、武蔵が生まれた頃でも300年をへていたわけで、武蔵も、伊織もこのクスノキに登り遊んでいたことでしょう。

 なにも残っていない武蔵の生家(田原家)跡ですが、そんなことを想像してみると違った風景に見えてきます。(no4681)

 *写真上:樹齢700年のクスノキ

 

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宮本武蔵 in 高砂(7) 田原家(宮本武蔵生家)屋敷跡(1)

2019-06-28 07:57:46 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

        田原家(宮本武蔵生家)屋敷跡(1)

 宮本武蔵の生家を探しに出かけました。暑い日でした。

 庭の掃除をしておられたお婆さんに聞くと、生家跡の碑はすぐに見つかりました。

 この碑について、1999年(平成11年)の神戸新聞は、次のように紹介しています。お借りします。

      田原家跡(宮本武蔵の生家跡)の碑

 江戸時代の剣豪・宮本武蔵とその養子伊織の高砂生誕説をPRしている武蔵・伊織顕彰会(松下歳和会長)はこのほど、武蔵の生家される「田原家」の屋敷があった同市米田町に碑を建てた。

 30日(1999年5月〉に開く「第13回武蔵・伊織まつり」で除幕式を行う。

 武蔵の生誕地は、吉川英治の小説などにより岡山県大原町とされてきた。

 しかし、最近の研究では、播磨で生まれ、幼いときに大原に養子に出されとする説が有力視されている。

 顕彰会の説明によると、北九州の宮本家に伝わる系図では、武蔵は田原家の二男となっている。

 田原家は、戦国時代まで播磨地方で勢力を誇っていた豪族・赤松氏の子孫で、播磨国印南郡米田村(現在の米田町)に屋敷があった。

 武蔵が出たのち、商家として何代か続いたという。

 碑は、同家の子孫の梅本武さん(広島県佐伯郡大野町)の了解を得て、米田町内にわずかに残る梅本さんの土地に建てた。

 赤御影で高さ1.5㍍、幅1.23㍍で、薄い三角形にした。(以下略)(no4680)

 *写真:田原家跡(宮本武蔵の生家跡)の碑

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宮本武蔵 in 高砂(6) 赤松、田原、そして宮本へ    

2019-06-27 06:53:54 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

     赤松、田原、そして宮本へ

 田原と宮本の関係をのべておきましょう。

 話は、武蔵生誕から250年ほど昔にさかのぼります。

 そのころ、播磨全域に、強大な勢力を幾っていたのは豪族・赤松則村(円心)でした。

 円心には、四人の男子があり、その二男、赤松貞範が、田原家の祖とされています。

 赤松本家は、三男の則祐(そくゆう)が跡を継ぎ、貞範は、京都で別流をたてました。

 その貞範の孫に持貞という子がおり、室町幕府四代将軍足利義持の寵愛を受けるようになりました。

 義持は、播磨を、持貞に与えようとさえするほど持貞を溺愛しました。

 ところが、その持貞が、あろうことか、将車義持の側室に手を出してしまい、ことが発覚してしまいました。

 義持は激怒し、持貞に切腹を命じて、嫡男の家貞ら一族を京から追放してしまいます。

 応永4年(1427)のことでした。

 その追放先が、米田でした。

 米田に移った家貞一族は、姓を赤松から田原に変え、いわゆる地侍として、この地に住み、勢力を伸ばします。

 この家貞から数えて田原家五代目に、同じ名前の甚右衛門家貞という人物がいました。

 家貞には、二人の男子がいました。兄が久光、弟を玄信といいました。

 久光は田原家を継いだが、玄信は、美作の平尾無二之助の養子となりました。

 平尾家は、田原の縁戚に当たり、そのころは美作・竹山城主の新免宗貫の家臣でしたが、敏群の動きで城主から新免姓を名乗ることを許されたのです。

 後に、その居住地である宮本村からとって、宮本姓を名乗るようになりました。

 宮本家に入った玄信も、当然、宮本姓を名乗り、ここに、赤松-田原の血を受け、宮本武蔵が誕生ました。

 武蔵のルーツは、高砂の米田なのです。(no4679)

 *写真:田原・宮本父祖の地碑(高砂市米田町米田)、碑文は宮本家13代信男氏により書かれています。

 *『宮本武蔵(中元孝迪編著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

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宮本武蔵 in 高砂(5) 武蔵の生国は播磨 『五輪書』にはっきりと

2019-06-26 08:44:07 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

        武蔵の生国は播磨 『五輪書』にはっきりと

 武蔵が美濃紙に書いた直筆の五輪書は焼失し、今伝わるのは、弟子たちが写したものです。

 この序文は、武蔵が直接書いたものではなく、武蔵が生前口にしていたことを後に、写本する際に再整理したという見方もあります。

 しかし、そうであったとして、まちがった内容を纏めているとは思われません。

 彼の生国は、播磨なのです。作州ではありません。

 ガンで死を目の前にして、生国についてウソを後世に伝える理由はありません。

 つまり、播磨生まれで、これを書き始めた寛永二十年 (1643)に60歳だったといいます。

 ガンに冒されながらも、知力、気力を振り絞っての執筆でした。

 武蔵は、肉体と思考力の限界に挑んでいました。

 足掛け二年。およそ三万二千字に及ぶ武蔵の五輪書は、完成しました。

 

 この五輪書については後にも再度紹介するとしますが、この冒頭の部分を繰り返します。

 「生国播磨」「年つもりて六十」

 つまり武蔵は、はっきりと播磨の生まれであると書いています。(no4678)

 *写真:五輪書

 *『宮本武蔵(中元孝迪編著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

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宮本武蔵 in 高砂(4) 歴史と小説

2019-06-25 09:45:23 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

     宮本武蔵、作州大原誕生説

 米田について少しだけ紹介しました。

 でも、「ここ米田に(現在の高砂市)に天正12年(1584)年武蔵は生まれた」と紹介しても、武蔵高砂生誕説を主張する地元(高砂)はともかく、全国的には、すんなりと認めてもらえません。

 「宮本武蔵の生誕地は、作州(岡山県)大原村のはずである。寝ぼけたことを言うな・・・」とお叱り声が全国から聞こえてきそうです。

 その原因は、吉川英治の小説『宮本武蔵』です。

     歴史と小説

 吉川英治の小説、『宮本武蔵』は、昭和10年から朝日新聞に連載され始めました。この作品は全国の読者を魅了し、超ベストセラーとなりました。

 剣豪・宮本武蔵が、一点の謎もないかのように、描かれ物語そのものが史実であるかのような錯覚を読者に与えてしまったのです。

 吉川英治は、ストーリーの面白さに加え、剣豪の苦悩と成長を描きました。

 史実よりも、自由に人間性を膨らませた小説でした。

 一般的に、私たちの歴史観(像)は、歴史書より小説から影響される場合の方が大きいようです。

 私の大好きな小説家・司馬遼太郎も武蔵作州説で作品を書いて言います。

 そうなると、吉川英治の小説『宮本武蔵』で定着している武蔵像を壊すのは至難の業です。

 しかし、史実(事実)として、武蔵高砂生誕説を声高に叫び、全国に広めたいのです。(no4677)

 *写真:吉川英治

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宮本武蔵 in 高砂(3) 加古川大氾濫(応永32年・1425)

2019-06-24 06:30:26 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

      加古川大氾濫(応永32年・1425)
 中世(鎌倉~室町時代)の地方史は、一般的にはっきりとしません。
 というのは、ほとんど史料が残っていないからです。
 そんな中で、米田にあった定願寺(じょうがんじ)の僧・鎮増(ちんぞう)が残した『鎮増私聞書』は、室町時代を知る貴重な記録であり、それに加古川の大洪水のことが登場します。
 『鎮増私聞書』は、『室町お坊さん物語(講談社現代新書)』に登場していますので、その一部を以下に引用します。

・・・その年(応永32年・1425)の7月25日の夜半から雨がひどくなり、ついに加古川が氾濫しました。
 ・・・・
 加古川は、播州平野を流れる大河でございます。・・・・いったん川が暴れだすと手がつけられません。
 今回のような、大洪水は、近隣の人々が流されて亡くなるという大惨事に至ったのでございました。
 私(鎮増)も、いちおう避難しましたが、目の前を流れてゆく人々をみましても、どうすることができません、もどかしさがございました。
 人を救うのが僧侶のつとめであるはずですのに・・・
 しかしながら、この流死者を仏がお救いにならなかったのは、この者たちが悪行をつくって悪道におちるべき者だったからなのでしょうか。
 ざっと見ただけで、千人以上の人が亡くなったのでしょう。
 上記の「しかしながら、この流死者を仏がお救いにならなかったのは、この者たちが悪行をつくって悪道におちるべき者だったからなのでしょうか」の鎮増の考えは、当時の考え方からぬけだしてはいません。
 *(『室町お坊さん物語(田中貴子)』(講談社現代新書)より
 

 なお、この頃、加古川の本流は、鎮増の住む米田から伊保崎(高砂市西部)の方向流れていました。今の加古川本流は支流と言わないまでも、ほんりゅうではありませんでした。

 応永32年の洪水は、武蔵の生きた時代ではりませんが、米田は加古川の近くで、洪水の危険を常にはらんだ集落だったのでしょう。(no4676)

 *図:武蔵の頃の水主の流れ(奈幸子・なこうしは、東神吉の古名)

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宮本武蔵 in 高砂(2) 米墮(よねだ)の伝承

2019-06-23 07:45:56 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

 宮本武蔵の話をしましょう。

 武蔵は、現在の高砂市米田町(よねだちょう)に生まれました。

 そこで、宮本武蔵の話の前に、米田につて調べてみます。今日は、米田の伝承です。

     米墮(よねだ)の伝承

 大化元年(645)、船師の藤井という人が、年貢の米を船に積んで航海していました。

 その時、法華山一乗寺(いちじょうじ・今の加西市)にいた法道仙人(ほうどうせんにん)が、鉢を飛ばして米を欲しいと申し入れました。

 藤井は、「自分だけの了見で米を渡すことができない」と断わったところ、鉢はふたたび空中に舞いあがり、それに続いて、積み荷の米も法華山へとつらなって飛んでいってしまいました。

 藤井は、驚いてあやまりに行きました。 

 法道仙人が笑って許すと、米はもとのように連なって船へ飛んで帰りました。

 その米俵のうち一俵がこの地に落ちたことから米墮(よねだ・米田)と呼ばれるようになりました。

 (墮には「落とす・落ちる」と言う意味があります)

 米俵がこの地は、法道仙人が信仰している薬師如来がまつってあったので、供物としてあった、といわれています。

 その後、米のとれだかもどんどん増え、村は栄えていきました。(no4675)

  *『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照。

 *写真:米塚(高砂市米田町米田)

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宮本武蔵 in 高砂市(1)「宮本武蔵 in 高砂市」をはじめます

2019-06-22 15:40:55 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

     お詫び

   予定を変更し、「宮本武蔵 in 高砂市」をはじめます

 現在「ひろかずのブログ」は、加古川市・高砂市・播磨町・稲美町ざっと探訪し、4674号になりました。

 はじめてから10年以上たったので2回目の探訪を播磨町から再度始めることにして、前号では、「播磨町をゆく・二子編」を予定しました。

 そこで、すでに紹介した播磨編を調べてみました。

 まだまだ紹介していないことはあるのですが、けっこう書いています。

 そこで、お詫びです。

 急遽予定を変更して「宮本武蔵 in 高砂市(米田町)」に変更することにします。

 計画性のないことで申し訳ありませんが、ご了解ください。(no4674)

 *写真:宮本武蔵と伊織(高砂市米田町西光寺)

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播磨町をゆく(8) 播磨町二子(1)・マップ

2019-06-21 12:34:06 | 播磨町をゆく

        播磨町をゆく(8)  播磨町二子(1)・マップ

 「ひろかずのブログ」では、いろんなことを無秩序に紹介してきました。

 お読みいただいている方にとって、「少し、しんどなってきたな・・・」と思われていることでしょう。

 たいした内容は書いていませんので、お疲れの時は飛ばしてお読みください。

 それにもう一つお詫び(白状)しておかなければならないことがあります。

 加古川市・高砂市・稲美町・播磨町の地域の歴史・地理といいながら、高砂市の西部および播磨町については非常に内容が薄くなっています。

 これは、私があまり知らないからです。これから、できるだけ播磨町(特に東部)・高砂市西部地域の歴史・地理を調べることにします。

 先日、東播磨地域の古民家の保存・研究をされている団体(兵庫ヘリテージ東播磨)の方から、小冊子「播磨町町歩きマップ」をいただきました。

 それを参考にしてしばらく、播磨町二子地区を歩いてみます。

 (『播磨町マップ』の途中から始めますのでマップは13~26になっています。ご了解ください)(no4673)

 *マップ:『播磨町町歩き、小宮・二子編(1)』(兵庫ヘリテージ東播磨)

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別府町をゆく(33) 別府町の写真集(一部)を終了

2019-06-20 16:36:18 | 別府町をゆく

   別府町の写真集(一部)を終了

 別府町にお住いの呉田(ごでん)利明さんから懐かしい、貴重な写真の提供をいただきました。

 今では、想像さえできない別府町の写真がいっぱいです。

 「ひろかずのブログ」では、その一部を紹介させていただきました。

 ありがとうございました。

 まだ多くの紹介したい写真がありますが、今まで紹介した写真を一部として、後日第2部を掲載することにします。

    貴重な写真を保存しましょう

 他の地区でも、このような写真が多く眠っていると思います。そして、その多くが処分されているようです。

 まとまった数でなくとも、加古川市・高砂市・稲美町・播磨町で、残っているそんな写真をお知らせください。残していきたいです。

 貴重な歴史の証言です。(no4672)

 *きょうの写真はいずれも昭和42年の写真です。

 写真:冬、海水浴場の休憩所で遊ぶ子供たち。

  

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別府町をゆく(32) 別府町大改造(2)、区画整備計画(一部)

2019-06-19 07:06:10 | 別府町をゆく

 

       別府町大改造(2)

 加古川市南部地区をニューモデルタウンとする県営の加古川南部区画整理工事は急ピッチで進められています。

 この区画整理は37年度から4か年計画、総工費7億5千万円で着工されました。

 神戸製鋼所の進出が予想される市別府、尾上両町を中心に臨海部を今のうちに計画開発するのが都市改造というものでした。

 

 以上は前号で紹介した別府町の改造計画の一部です。

 きょうのブログの図は、別府町の一部の改造計画です。道路整備が中心に計画が進められています。(no4671)

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別府町をゆく(31)  別府町大改造(1)

2019-06-18 09:10:47 | 別府町をゆく

 

 

   別府町大改造(1)

 加古川市南部地区をニューモデルタウンとする県営の加古川南部区画整理工事は急ピッチで進められています。

 この区画整理は37年度から4か年計画、総工費7億5千万円で着工されました。

 神戸製鋼所の進出が予想される市別府、尾上両町を中心に臨海部を今のうちに計画開発するのが都市改造というものでした。

 北側は、山陽電鉄路線沿いに600㍍、南側は西へ別府港から約1キロに囲まれた、総面積は96万平方キロメートルの広大な改造計画です。

 計画では同地区の西部を住宅地区、中心部を商業地区、南部を工場地帯に、それぞれ大別されました。

 工場進出に伴う道路網は、「東西に池田~別府港線(幅20㍍)を新設、浜国道を幅6.5メートルから10メートルに広げる。

 また、南北には新しい幅16メートルを新設し、現神野別府港線を幅6メートルから16メートルに拡張、以上の幹線を軸に幅8メートルから4メートルの街路50余本を走らせる」という、まさに大改造計画でした。

 工事は、37年度はじまり別府町は大きくその姿を変えたのです。

 写真は、別府町改造中の写真です。(no4670)

 *写真上:現イトーヨーカ堂西の道(呉田利明氏提供)

    下:中央橋 

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別府町をゆく(30) そこのけ、そこのけ別府鉄道が通る

2019-06-17 07:57:39 | 別府町をゆく

     そこのけ、そこのけ別府鉄道が通る

 別府鉄道の前身・別府軽便鉄道が開業したのは大正10年の9月でした。
 現在の加古川市役所のすぐ東に高砂線の野口駅がありましたが、そこから分岐して別府港駅に向かう野口線と、別府港駅から国鉄山陽本線の土山駅へ向かう土山線がありました。
 別府鉄道の主な役割は、別府にある多木製肥所(現多木化学)で生産される肥料の運搬でしたが、その後、沿線住民の加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤、通学手段として、別府鉄道はなくてはならないものになりました。
 最も賑わったのは昭和30年代の初め頃で、別府の浜での潮干狩り、また海水浴へと多くの客を運びました。
 しかし、こうした風景も、同42年頃から加古川市臨海部の工場用地の造成が始まり、海水浴場も閉鎖になると、以後急速に様変わりしました。
 モータリゼーションの波で乗客は激減し、さらに同59年2月、土山駅での貨物取り扱いの停止が決定的な打撃になり、高砂線と同じ昭和59年に、63年の歴史を閉じました。

 写真は、山電車別府駅の西の道を少し北へ行った街中を走る別府鉄道。

 今となっては不思議(貴重)な思い出の景色になりました。(no4669)

 *写真:県道八幡-別線を横切って野口へ向かう別府鉄道別府鉄道、下地図:別府鉄道

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円照寺の花たち(204) 円照寺のアジサイ  

2019-06-16 19:19:56 | 円照寺の花たち

 しばらく『加古川さんぽ』の注文・発送の事務で忙しく、「ひろかずのブログ」をおやすみにしていましたが、少し落ち着きました。

  明日から、ブログを続けますが、きょうの神戸新聞に円照寺のアジサイが紹介されていましたので、「円照寺の花たち」の続きとして掲載させていただきます。(以下、今日の神戸新聞朝刊より)

     アジサイ色とりどり〝花の寺〟で見ごろ 加古川

  花の寺として知られる円照寺(兵庫県加古川市志方町広尾)で、アジサイ約300株が見頃を迎えた。約1千平方メートルの境内を青やピンク、純白に彩っており、7月上旬まで楽しめるという。

 上月義宗住職(72)が20年ほど前から育て、少しずつ株を増やしてきた。

 今年は例年より5日ほど早く咲き始めた。真っ白な「アナベル」や、八重咲きで手まりのような「万華鏡」、星の形をした「きらきら星」、華やかなガクアジサイの「ダンスパーティー」など約70品種が境内を埋め尽くす。

 境内にはノウゼンカズラやキキョウも植わり、7月にはアジサイとの共演を楽しめそう。上月住職は「新しい品種もあり、時間を掛けてゆっくり見てほしい」と話す。

 参拝者たちはカメラを手にしながら、色とりどりのアジサイに見入った。同県姫路市の主婦(46)は「こんなに種類が多いとは思わなかった。どれもきれい。梅雨の時期にぴったりですね」と目を細めていた。

 無料。午前6時~午後6時。円照寺TEL079・452・2067

(本田純一)(no4668)

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