ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(4)

2013-06-30 07:46:29 |  ・加古川市別府町新野辺

   「水楼」のあった場所

6b2395bb水楼のあった場所を確認したい。

『加古川市誌(第二巻)』に「旧仁寿山黌付属の水楼」の説明で、水楼の場所は別府町大字新野辺字蓮池通1353の1とある。

古い住宅地図で捜してみると、その場所は、旧浜国道に沿った赤く塗りつぶした場所である。

すぐ南隣に、元の多木幼稚園がある。

話は少しより道をしたい。多木学園・多木幼稚園の歴史である。

今の多木学園・多木幼稚園は、昭和623月に現在の場所に移転している。

多木幼稚園は、歴史が古く創立は明治43年に新野辺の薬師堂の東隣に産声をあげた。

大正元年(1911)に別府小学校の横へ移り、昭和14年に住宅地図にある場所に移転している。

ともかくも、多木幼稚園は県下でも有数の古い歴史を誇る幼稚園である。

水楼のあったあたりは、もともと多木家の土地であった。

近くに多木農工具株式会社もあった。

   水楼

『加古川市誌(第二巻)』に、水楼の構造についての細かい説明がある。資料のつもりで書いておきたい。

・・・最近になって内部構造の一部が改造されたが、建物の外観は、幸い今もなおよく旧態のままを伝えている。

この建物は木造・瓦葺・二階建で、正面六軒半、側面六軒、現在は北東に面してたっている。

内部の階下は、玄関の突きあたり六畳、その奥が十畳の座敷で、座敷には床(向かって左側)と聖廟(同右側)とが付属し、座敷に東接して八畳の部屋、八畳の部屋に隣接して六畳の部屋、またその南に四畳半の茶室があり、玄関には畳の間が見受けられ、その他に押入れ等があり、階上には十畳と八畳の二部屋が続き、それらのいずれもが京間である。

背面と茶室の外側とに縁があり縁から見上げる襜榱(たんすい)の構造には風雅な趣向が表されている。・・・

『加古川市誌(第二巻)』が発行されたのは昭和46102日であるから、その時点では、水楼は健在であった。

解体された時期を確認していないが、最近のことであり調べて後日報告したい。

それにしても、解体した時の瓦は、どこかに残っていないでしょうか・・・

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(3)

2013-06-29 06:46:45 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺にあった仁寿山黌の水楼(迎賓館)の顛末を説明したい。

水楼は、仁寿山黌に来校した儒者達を歓待するための、また宿泊のための施設である

水楼は、山黌の大池のほとりにあり、そこから瀬戸内海の眺めは、まさに絶景であった。

頼山陽等もしばしば、ここを訪れて風光を愛でたという。

この由緒を持った水楼は、明治維新まで、そのまま残っていた。

   水楼、別府村に移築

B94bc604維新後、河合家では、もと山黌の講師を勤め、後に別府村住吉神社の神職を勤めた利根川半睡(彦兵衛)に寄贈した。

半睡は、住吉神社横に移築し住宅とした。

しかし、半睡の子の誠が、明治32年に別府を去ることとなり、同年、多木久米次郎に譲渡した。

久米次郎は、水楼の由緒をかんがみて、これを保存するために、新野辺蓮池通り1353番地に移築した。

水楼は、度重なる移築にもかかわらず、仁寿山黌時代のたたずまいをよく残していた。

その後、水楼は老朽化し、取り壊された。

(取り壊した年は確認していません。分かればお知らせします)

  どこかに水楼の瓦は、残っていませんか?

このシリーズの瓦の件であるが、水楼の軒瓦等に鷹をデザインした瓦が使われていた。

『加古川市誌(第二巻)』では「この瓦は、河合家の紋(章)である」と書いているが、河合家の紋は別にあり、研究者は、「水楼・仁寿山黌の紋は河合家の紋の鷹からヒントを得て図案化したものであろう」としている。

新野辺の水楼が壊された時、鷹紋様のたくさんの瓦があったことを話し下さった方がおられた。「たぶん、処分したと思いますよ。そんな貴重なものとは知りませんでしたから・・・」とのことでした。

新野辺に、仁寿山黌の水楼(迎賓館)があった証明になります。どこかに、瓦が残っていないでしょうか・・・・

*写真:新野辺にあった仁寿山黌の水楼(『加古川市誌(第二巻)』より)

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(2)

2013-06-28 06:35:42 |  ・加古川市別府町新野辺

河合寸翁(かわいすんのう)

Kawai_sunnnou河合道臣の紹介であるが寸翁として話を進めたい。

河合道臣(みちおみ)は、姫路藩の家老で、後に河合寸翁(すんのう)といった。

 藩主・酒井忠道(ただひろ)の文化5(1808)、姫路藩には73万石の借財があった。

 寸翁は、播磨地方が木綿の産地であることに着目して、綿布を姫路藩の専売にし、藩の財政改革に取り組み、みごと借金ゼロを成し遂げた。

 寸翁は、綿を藩の専売品として、江戸への直送する方法をとったが、さまざまな妨害もあった。

しかし、綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、文政6年(1823)やっと江戸への木綿専売が幕府に認められた。

 これは、「藩主・酒井忠学(ただひろ)の妻・喜代姫(きよひめ)が将軍・家斉(いえなり)の娘であったためでもあった」ともいわれている。

 ともかく、姫路綿の江戸での販売は好調で、藩の借金は、短期間に返済し終えることができた。

 藩主は、この功績に対して寸翁の希望をかなえた。寸翁の願いは、有能な次代の人材を育てる学校を創設することであった。

(寸翁は、綿の専売の外にも多くの産業の振興を手掛けている)

    

   仁寿山黌(じんじゅざんこう)

姫路藩には好古堂という藩校ができた。好古堂では藩士の子弟に学問や武芸を教えた。

激動の時代である。河合寸翁は、好古堂学問所に協力するかたわら、有意な次代の人材を育成するため、仁寿山の麓に学校を設立した。
 文政6(1823)正月、教場、図書倉、教師館、食堂から塾舎、医学寮までが整然と整い、朱子学を基にした伸びやかな学校であった。

上記の「教師館」に注目してほしい。この教師館は、「水楼」と名付けられ、外部からの儒者(教師)などの迎賓館(宿泊所)である。頼山陽も、しばしば招かれている。

寸翁の仁寿山黌の開校によって、藩校・好古堂と寸翁の仁寿山黌が競合することになった。

自主性を重んずる仁寿山校に学んだ多くの青年たちは、寸翁が意図するところとは別のところで、勤王運動へ突き進んだ。

仁寿山黌は、藩としては好ましい存在ではなくなった。 
 仁寿山黌は、開校20年後の天保13(1842)、財政難を理由として藩校・好古堂に吸収された仁寿山校は潰された。
 天保12(1841)6月24日、寸翁が75歳で永眠した。その1年後のことであった。

好古堂は、明治3年まで続くが、その間水楼も考古堂の施設として使われている。

その後、なぜか水楼は別府(加古川市)へ移築された。

次回、その顛末をみたい。
 

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(1)

2013-06-27 06:02:12 |  ・加古川市別府町新野辺

別府町新野辺に河合寸翁の

学問所・水楼(迎賓館)があった

Kawai_272別府町新野辺町内会で、『新野辺の歴史(第一巻)』を製作している。

ほぼ、でき上がって、現在印刷所にまわっている。

来月の中旬には、町内会に配布できる。

きょうは、その話ではなく、製作作業の中で、「かつて、別府町新野辺に河合寸翁の学問所・仁寿山黌(じんじゅざんこう)の水楼(迎賓館)があった」という話がでた。

「ウッソー」と半信半疑で調べると、なんと『加古川市誌(第二巻)』その記事をみつけた。

     

   水楼の軒瓦

その顛末を書きたいが、先にもう少し余話をしておきたい。

新野辺のUさんは「仁寿山黌の水楼の軒瓦には鷹の模様の瓦(写真)が使われており、たしかに家に、新野辺にあった水楼の軒瓦が一枚あったはず・・・」といわれた。

この瓦について、捜してもらったが、みあたらなかった。が、話は続いた。

この紋様について河合寸翁の研究家の藤戸孝純氏は、「仁寿山の瓦の文様は河合家の家紋である鷹、それもクマタカを図案化したものである」とされている。

「でも、私(Uさん)の旦那寺にも同じものがあります・・・」とのことで、26日午前中、姫路市的形の尊光寺に出かけた。

お訪ねすると、瓦が本堂に並べられており、確かに仁寿山黌の鷹の紋様の軒瓦である。

     

   なぜ尊光寺に?

尊光寺の方の話では、仁寿山黌がつぶされた時、その瓦の一部が尊光寺に運ばれ、山門の瓦に使われたが、その理由は分からないそうである。

「その後、山門は傷み、新しくした。その時多くの瓦を処分した」とのことで、現在、鷹の紋様のある瓦は、保存のため姫路市が持ちかえられた23枚と、現在尊光寺に残された瓦だけで、貴重な文化財となっている。

 <お知らせ> 

新野辺の水楼・河合寸翁の話は、この号も含めて4回シリーズでその顛末を説明したい。

従って「官兵衛、こぼれ話」は、その間お休みとします。

 *写真:仁寿山黌に使われた鷹紋様の軒瓦

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官兵衛、こぼれ噺(13):鐘かけの松

2013-06-26 07:31:15 | 黒田官兵衛

Myousyoutjimatu志方町横大路の妙正寺には、かつて樹齢500年以上と推定されるそれは見事な松(写真上)があった。

その松は山門を入って左の塀の側にあった。今、そこに「集団疎開の碑」がある。

近隣の自慢の松であった。

幹の高さは五間程で、太さは大人四人が手をつないでやっととどき、技は四方に張り出し、あたかも唐傘を拡げた格好から「傘松」とも呼ばれていた。

村の子どもたちは、大きな枝に荒縄を懸け、ブラシコをしてよく遊んでいた。

秀吉公鐘かけの松

一説では、天正年間 (約400年前)羽柴秀吉が志方城(志方町観音寺の場所にあった)を攻めた時に、この地に陣をおき、陣太鼓をつるして軍を叱咤したと伝へられ、別名、鐘懸松または、釣鐘松と呼ばれている。

Kyousyouji 史実は、志方城攻めに秀吉・官兵衛は加わっておらず、この戦いの大将は信長の長男・信忠であった。

が、後の時代、庶民は志方攻めを秀吉として語り継いでいる。

妙正寺の松は、天下の名樹としてその名に恥じない風格の古松であったが、昭和228月、瀬戸内海一帯にまんえんした害虫(松喰虫)のため予防の効果なく遂に枯れてしまった。

     松でつくった火鉢

先日、別の取材で取材をさせていただいた。

その時、本堂の隅にみごとな火鉢を見つけたが、住職にお聞きすると、「松の大木(鐘懸松)で造った火鉢(写真下)です」と話してくださった。

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官兵衛、こぼれ噺(12):官兵衛の影

2013-06-25 06:24:34 | 黒田官兵衛

鶴林寺に残る「禁制」が語ること

Photo三木城の戦いでは、近在の多くの寺は三木側に味方し、秀吉・信長軍に焼かれた。

野口城の戦いを例にしたい。

先に、教信寺は野口城と共に闘い焼かれ、多くの寺宝が焼失したことを紹介した。

そのために、多くの寺は焼かれ、寺宝を失っている。

しかし、鶴林寺には多くの寺宝が残っている。なぜ・・・

鶴林寺は、「太子信仰」の盛んな寺で、たいへんな庶民の信仰を集めていた。

信長・秀吉はそんな庶民の信仰を集めている鶴林寺を敵にしたくなかったのであろう。次の触れを出している。

鶴林寺に残る禁制 

一枚の書状「禁制」(写真)が鶴林寺に残っている。読んでみたい。(意味のみ)

    鶴林寺のうちでは次のことを禁ずる

    軍勢が一般人に乱暴を働くこと

    陣を構えたり、放火したり、竹や木を伐採すること

    田畑を荒らすこと

    これらに違反するものは速やかに厳罰に処す

         天正六年三月二五日  筑前守(*秀吉のこと) 

秀吉は、鶴林寺の調略に成功し、鶴林寺に攻撃しないことを約束している。

この禁制の日にち(三月二五日)に注目したい。四月、三木攻は、野口城の戦闘から始まったが、鶴林寺は多くの宝物を焼失せず、今日に伝えている。

以下は、勝手な想像である。

    官兵衛の影? 

近隣の、ほとんどの城・寺が三木城に味方する中で、鶴林寺でも判断を迫られた。中立は許されなかった。

結論的には、秀吉側につくことを選択したが、この判断の背中を押したのは誰(何)であったのだろう。

この辺りの城の中で加古川城だけは、秀吉側についたが、それに倣った行動だったのだろうか。

それにしても、秀吉側に味方するという加古川城の判断の裏には官兵衛の働きがチラつく。

鶴林寺も当時の状況からして官兵衛からの働きかけがあったとしか思えない。

官兵衛は、加古川城と一緒に調略したのかもしれない。

軍師の行動は、表に出ない。記録も、何も語らない。

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官兵衛、こぼれ噺(11):蛸草城

2013-06-24 07:10:32 | 黒田官兵衛

蛸草城の戦い     *稲美町天満中村

C1ce09d3天正5年(1577)、加古川評定は決裂におわった。 

結果、加古川近在のほとんどの諸城は、三木方つまり毛利方に味方して、信長・秀吉方と敵対した。

三木城に味方する諸城は、次々に陥落し、三木城は孤立した。

この時、中村(稲美町天満中村)に、三木方に味方をした蛸草城があった。

ここまでは、いろいろな書物にも紹介されているが、蛸草をめぐる戦いのようすはよくわからない。

蛸草城の城主は「小山氏」であったと思われる。

小山家(稲美町天満中村)の家譜に「小山氏の祖先は、もと小山田氏をいい、別所長治が三木城において秀吉に叛いたとき、志方城において戦ったが破れ、のちに大村合戦において奮戦した」とある。

    小山家の家譜は語る

小山家の家譜について続けたい。 

(三木合戦当時)小山源兵衛が、三木別所家につかえていた。

天正8117日、城主・別所長治らが自刃するが、源兵衛は長治の命を受けて、別所家の守り本尊の十一面観音と長治の末子(当時2才)を伴って三木城をひそかに脱出し、蛸草庄中村(現:稲美町中村)にのがれた。

長治の末子は、その後与兵衛と名のり小山家を継いだ。

それから数十年後、小山家の祖先は、十一面観音を本尊とし西教寺を建立した。

家譜の常として正確に歴史を記録したものとは言えないが、小山家の家譜は以上のように語っている。

信じられないような話である。

蛸草城での戦いの記述はない。

蛸草城は、三木合戦後、取り壊されたのであろう。

西教寺も、やがて無住になってしまった。

明治初年、神仏分離令により天満神社にあった圓光寺が西教寺のあとに本堂・庫裡などを移築し、今日にいたっている。

十一面観音は、圓光寺の本尊の阿弥陀三尊の横の厨子に納められ、秘仏とし開扉されていない。

整理しておきたい。蛸草城の城主は、小山氏であり、城のあった場所は西教寺、つまり現在の圓光寺のある場所であったといわれている。    

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官兵衛、こぼれ噺(10):蛇が池の伝承

2013-06-23 07:34:16 | 黒田官兵衛

2ab4dc6a 志方町の大藤山山麓の村々は、昔から打ち続く旱魃に苦しめられていた。

 そんな苦しい生活と、長楽寺のへの思いが結びついて、蛇が池(じゃがいけ)の伝承は誕生したのかもしれない。

蛇が池の伝承

大藤山の嶺を南から北へ超え、少し下ったところに「蛇が池」といって、昔は一町歩ばかりの広さの池があった。 

今では、山崩れのため埋まって小さくなってしまっているが、どんな旱天でも水が絶えず、水面に鉄の錆が浮いている。

この池には長楽寺の古い鐘が沈んでいるといわれ、池の主である大蛇がしっかりと抱いているから、見ることも、掘り出すこともできないという。

昔から日照りの時は「鐘掘り」といって、村の人たちが鍬をかついでこの池へ出かけた。

池を掘ってこの鐘の寵頭(りゅうず)があらわれときっと雨が降る・・・」というのである。

    大蛇の怒りが雨を呼ぶ

ここでも三木合戦の話が登場する。

この鐘は、天正の昔、秀吉勢が神吉城を攻めている時、秀吉勢めがけて一本の矢が北方から飛んできた。 

矢には「谷」と銘がはいっていた。

調べてみると四キロほど北の谷の長楽寺から射こまれたものであるということがわかったという。

「よほどの強弓の者が長楽寺にあり」と、長楽寺に兵をさしむけた。

強弓の者は長楽寺のお坊さんであることが分かった。

お坊さんは、「今はこれまで」と、本尊と鐘を背負って寺の焼けるのをあとに、大藤山を越えて北に逃げたが、逃げ切れないと思い、鐘だけは蛇が池に住む大蛇に「この池に鐘を隠すから、自分が取りに来るまで誰にも取られないように守ってくれ・・・」と頼み鐘を池に沈めた。

それからは、池の水位が下がると、大蛇が鐘をみせまいと雨を降らすといわれている。

村人は、日照りが続くと雨乞いの歌を歌い「蛇が池」に行き、備中鍬やスコップで大きな穴を掘った。

大蛇は鐘の龍頭(りゅうず)が見えそうになると、怒って雨を降らせたという。

 *『志方町誌』、「志方郷(第39号)」参照

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官兵衛、こぼれ噺(9):梶原冬庵

2013-06-22 07:19:00 | 黒田官兵衛

  中津権現社      *加古川町中津

063中津権現社に、説明板があるので読んでおきたい。

   中津構居跡

播磨鑑(宝暦二年)に

梶原冬庵古城跡 大野郷在中津村 今農家ノ居屋敷ト成

鎌倉権五郎景政ノ末葉 天正年中秀吉ノ為ニ神吉城ニ於テ討死ス

とあり、播州古城記には

 中津城 中津村 鎌倉権五郎景政ノ末葉 梶原十右衛門の居城也

 天正中神吉式部貞範に従いて討死す

 平成三年三月                     加古川市教育委員会

 援軍は来らず 

 三木側についた加古川地方の諸城は当然毛利軍の援軍を頭に描いていた。そして、三木城の援軍を思っていた。

 瀬戸内海を圧して進んでくる頼もしい毛利の援軍の光景があった。

 しかし、最後まで強烈な毛利からの援軍はなかった。

 三木城の攻防の内、神吉城の戦い(天正6年・1567)は、最大の戦いであったが、この戦いでも三木城方からの支援はほとんどなかった。

    梶原冬庵

以下の梶原冬庵(かじはらとうあん)の話を付け加えておきたい。広く知られているが、たぶんに伝承の域を出ない。

神吉城の戦いでは、

梶原冬庵(かじはらとうあん)等数名の援軍があっただけである。 

冬庵は、身の丈六尺余り(182cm)の大男で、13才の時に親の仇討ちで大力の者を組み討ちして以来武勇が知れわたったという。
 冬庵の館は、加古川市大野の中津居構跡がそれだと言われ、現在は権現神社が建っている。

 冬庵の勇ましい活躍のようすは、『別所記』に詳しい。

 冬庵の墓碑は、常楽寺のすぐ西の真宗寺の境内にある。

 天保三年(1832)、井戸を掘ったとき、頭蓋骨・鎧の一部・鉄玉が出てきた。

 これは冬庵の首であるとして五輪塔がつくられ、祀ったという。

  *写真:絵馬「神吉城の戦い」(常楽寺・東神吉町)

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官兵衛、こぼれ噺(8):石守構居

2013-06-21 08:27:06 | 黒田官兵衛

石守構居   *神野町石守

Photo鎌倉時代から戦国時代にかけて、加古川地域には、野口城・高砂城・神吉城・志方城、そして加古川城などの城があった。

その外にも、比較的小規模な多くの城があった。

城について、『加古川市史(第二巻)』の説明を借りたい。

「・・・城とは、中世(鎌倉・室町時代)の土豪の居館のことで、その比較的大きなものを城、そして規模の小さなものを構居とよび・・・・構居の内、主の名の伝えられているものも少なくないが、多くは伝承の域をでない。」

これらの土豪たちは、戦国時代の三木合戦では、三木の別所につくか、それとも信長・秀吉に味方するかの決断をせまられた。

結果として、加古川地方のほとんどの城主や豪族は三木、つまり毛利方に味方した。

野口・神吉・志方等の比較的規模の大きな城方は、三木城に籠城せずに信長・秀吉軍と戦ったが、小規模の構居にとっては信長・秀吉軍が攻め寄せてくれば、ひとたまりもない。

多くは、一族の者とともに、三木城に籠城し、信長・秀吉軍に抵抗をしたのであろう。そして破れた。

石守構居は燃えるような、彼岸花の向こうの大きな木の下の神社(政神大神社)にあった。場所は、石守であるが西之山に近く、曇川のすぐ南である。写真の大きな木を目印にすればすぐ見つかる。

構居の主は、中村影利であるという。構居跡にある説明(加古川市教育委員会)の一部を読んでおきたい。

・・・・領主は、中村景利といい、もとは(三木の)別所長治の幕下であった。

長治が天正八年、織田信長に滅ぼされていからは秀吉につき、因州(鳥取県)の戦に武功をたてたが、討ち死にしたという。

また、一説には三木の乱に討ち死にしたとも言われているが、よくわからない。

真っ赤な彼岸花は、中村景利の血潮だろうか。

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官兵衛、こぼれ噺(7):原兵庫頭

2013-06-20 07:52:59 | 黒田官兵衛

原兵庫頭        *東志方広尾

Photo東志方広尾と言いながらほとんど小畑西(平荘町)に近い、広尾字二塚に、「原兵庫頭(はらひょうごのかみ)」の塚(写真)がある。

古老によれば、「塚の位置は、昔と変わらないが、もっと広く、頂上は平らで小さな丘であった」という。

現在は、東西5m、南北4m、高さ1mの方形区画として残っている。

塚の頂上に「原兵庫頭」の墓標があり、表面に、「原兵庫頭之墓」、裏面に「吉廣村 家系一族建立」と記され、側面には「天正六戌寅歳」、「七月二十日卒」とある。

「原兵庫頭は、天正六年(1578)七月二十日に亡くなり、吉廣村(現在の広尾西)の一族がこの墓標を立てた」とおもわれる。

原兵庫頭は、どのような人物だったのだろう。

亡くなった天正六年(1578)に注目してほしい。

   兵庫頭、三木合戦に死す

天正六年の志方地方の状況をみておきたい。

この頃、志方城は、毛利に味方した三木の別所氏に味方し、信長軍(志方城の戦いは信長側の大将は、信長の長男・信忠)と激突した。

 加古川地方の城主は、ほとんど毛利に味方した三木方につき、信長・秀吉と戦った。

まず、野口の城(加古川市野口町)が落城し、ついで、神吉城が7月に信長方の大軍におしつぶされた。

その後、信長軍は志方城へ攻めよせたのである。

志方城には1.000余騎が立て籠もり、勇敢に戦い、小城にもかかわらず20日も抵抗したと言う説があるが、この時の戦いの詳細は、はっきりとしない。

志方城に先立つ神吉城の戦いでは、神吉方2.000の軍勢は、織田方の30.000の軍勢に押しつぶされ、そして城主(神吉頼定)も討たれた。

この時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はなかった。

志方城の戦いでも援軍はなかったようである。

天正六年八月、ついに志方城は落城した。

「原兵庫頭」は、三木合戦で信長の軍勢と激しく戦い、亡くなった人物のであろう。

   原兵庫頭は円照寺の中興に関わる人物

また、花の寺でよく知られている東志方広尾の円照寺記に「原兵庫頭は、嘉吉の乱で焼失した寺の再興を志し、現寺院の西に庵を建て、この時浄土真宗の寺とし、また、織田信長との戦いに参加し、一族郎党ことごとく浄土真宗を死守のために殉じた」とある。

兵庫頭についての詳細は不明であるが、年代的に志方城の戦いに関係した、広尾の武人と思われる。

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官兵衛、こぼれ噺(6):荒神谷の胴切れ地蔵

2013-06-19 07:02:02 | 黒田官兵衛

荒神谷の胴切れ地蔵       *志方町山中

Photo_2姫路から荒神谷、山中、原、志方町と通り投松(ねじまつ)へ抜ける道は「旧湯ノ山街道」である。

荒神谷から中山に向かう途中に一里塚の跡があり、「胴切れ地蔵」(写真)がある。

この地蔵には、二つの話が伝えられている。

     三木城の落ち武者絶命!

ひとつは、三木城が落城したとき(天正8年・1580)、一人の落ち武者がここまで逃げてきた。

しかし、二十二ヶ月にもおよぶ籠城戦の末のこと、武者は、飢えと疲労で気を失って倒れてしまった。

この話を聞いた村人は、ようすを見に出かけた。

武士は、切腹して息絶えていた。

    三木落城を知り落胆・切腹!

もう一つは、三木城の応援のために西国から駆けつけた武士が、ここまで来て三木城の落城を知り、落胆のあまり切腹してしまった。

ともに、戦国時代の三木合戦にまつわる伝承である。

村人は、その後に「地蔵」をつくり武士の菩提を弔ったという。

このお地蔵様の胴は、しばらくして二つに割れて、腹を切ったようになった。

この「胴切れ地蔵」は、どんな願でも一つだけ叶えてくれるといわれている。

三木合戦では、湯ノ山街道を多くの武士が駆け抜けた。

そのため、ここに三木合戦にまつわる話が伝えられているのかもしれない。

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官兵衛、こぼれ噺(5):くそたれ坂

2013-06-18 08:23:05 | 黒田官兵衛

 くそたれ坂     *稲美町草谷荒内

稲美町を散策していた時にこの坂の話を聞いた。

「くそたれ坂」、何とも不思議な名前の坂である。

   三木城への食料運搬ルート ・魚住の港から

Photo 木城に味方する野口城、神吉城、志方城が落城した。

三木城は丸裸になった。三木城に籠城した人は、7500人と言う。三木城は、秀吉軍により取り囲まれていた。 

丹生山(たんじょうざん)・淡河城(おうごじょう)も落城し、三木城へのほとんどの食糧補給のルートがとだえた。 

城内では、日に日に食糧事情は厳しくなった。 

高砂城が落城した後は、魚住城(明石市)のルートが細々と残されるばかりとなった。 

毛利勢は、魚住城を食糧基地とした。 

このことを知った秀吉は、魚住から三木への監視を徹底させた。 

『播州太平記』は、次のような補給コースを記している。 

魚住城から少し西の魚住町中尾(住吉神社のあるところ)付近から、現在の国道379号線沿いに北上し、神戸市岩岡に出て、さらに北上して稲美町蛸草(たこくさ)へ出る。 

そして、草谷から三木市別所町西這田(ほうだ)に入る。

三木城への15キロのコースである。 

    くそたれ坂 」

「くそたれ坂」の話は、いまでは、地元でもあまり聞かれない。

草谷の地蔵堂(写真)の右の道が「くそたれ坂」である。

それにしても、ユーモラスな名前の坂である。

これは「魚住から三木城へ食糧を運んでいる時、草谷付近で突然の秀吉側の攻撃にあい、運搬の兵たちが慌てふためいて、恐怖のあまり脱糞してしまった」という伝承からつけられた名前という。

そんなことが実際にあったのかもしれない。 

地蔵堂のところの道は急な坂になっている。

草谷川とその先の小高い丘を越えれば三木城はすぐである。

*写真:くそたれ坂(地蔵堂の横の坂:稲美町草谷荒内)

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官兵衛、こぼれ噺(4):生石神社

2013-06-17 07:25:33 | 黒田官兵衛

生石神社(おうしこじんじゃ)

      *高砂市阿弥陀町生石

 Photo「官兵衛、こぼれ噺」は、時代は前後する。整理してお読み願いたい。

三木の籠城戦は、1年10ヵ月つづいた。

ほとんどの食糧補給のルートが止まった。

秀吉は、三木城に降伏をせまった。

三木城から返事が来た。

「ご憐憫をもって城兵を助けおかるれば、某(それがし・三木城主別所長治のこと)腹をきるべく相定め訖(おわんぬ)」という文面であった。

天正8年(1580)年117日、別所氏一族が自害した。

三木合戦は終わった。

  生石神社の宮司は、神吉頼定の弟

      秀吉に反抗し、生石神社焼失

この戦いで、近隣の多くの寺院は、ほとんど焼かれた。何らかの理由で難を逃れた寺社もあった。

その一つに高砂の生石神社があった。生石神社の御神体は「石の宝殿」である。

宮司は、神吉城主・神吉頼定の弟であった。

神吉城を攻めたのは、信長の長男・信忠で、この時秀吉は竹田城で毛利の軍のこうさくをしていた。

Photo_2 このこともあり、生石は秀吉に対して非協力的な態度を取ってきた。

神吉城攻撃の時、秀吉は、使者を送り生石神社の南の地を借りたいと申し出たが、宮司は当然のごとく断った。

三木城が落ち、三木合戦が終わった後も、生石神社は秀吉側に味方する態度をとらなかった。

時の流れに逆らったのである。

天正8年(158129日のことであった。

秀吉は、大いに怒り、弟の秀長を大将として2000の兵で生石神社を攻めた。

神社の四方から火をかけた。

おりからの強風に、神社はたちまちのうちに灰と化した。領地も取り上げた。

生石神社は、その後、氏子たちにより神社は再建されたが、昔の威容は失われた。

以下は、余話である。

焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いに西軍・石田三成の方の大谷吉継の陣鐘として使用された。

徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市)に寄進している。

鐘の表面には、応永26年乙亥(1419) 「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻まれている。

*写真上:生石神社の前殿と本殿

 〃 下:元生石神社の鐘(現:大垣市安楽寺)

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官兵衛、こぼれ噺(3):太閤岩

2013-06-16 07:27:53 | 黒田官兵衛

  太閤岩(たいこういわ)

Photo西神吉町辻の集落の北は壁のように山が連なっている。

麓から眺めると山頂に、大きな「こぷ」のような岩が(写真)はっきりと見える。太閣岩である。

太閤岩には、こんな話がある。

天正6年(1578)、羽柴秀吉は志方城を攻めたとき、ここに本陣をおき、この岩に腰をおろして采配をとったというのである。

志方城は、志方町の観音寺や志方小学校が建っているあたりにあった。

 ここからは、志方城辺りも手に取るように眺められる。

太閤岩へ行ったような書き方をしているが、まで行けていない。

Iさんの感想をお借りした。

「・・・尾根伝いに山を一つ越し、更に小さな峰を越すと、太閤岩は西の山の頂き近くに大きな岩こぶのように突き出ている。

こぶのような岩の下は足場がよい。ここに家臣が控えていたのだろうか・・・

ここからは、志方城は近くに見える。

横大路、助永、原、成井そして、遠くは中道子山、東は神吉、加古川の市街が手にとるように見渡せる。

絶景である。太閤岩からの眺めは、いかにも戦況を判断し、指揮をとるのに都合のよい場所のようである・・・・」 

   ここに太閤(秀吉)はいなかった

しかし・・・、秀吉は、神吉城の戦い、それに続く志方城の戦いには参戦していない。

この戦いの時、毛利軍(北)の抑えのため、秀吉は官兵衛とともに但馬の竹田城へ行っている。

そのため、志方城攻めに、秀吉はこの場所にいないのである。

指揮をとったのは、信長の長男・信忠である。

太閤岩の伝承は、一挙にしぼんでしまう。

が、このような「秀吉の語られ方」がおもしろい。

加古川・三木地方は、信長・秀吉に占領されたのである。秀吉・信長は占領軍であるが、秀吉の人気は抜群である。

外の占領軍の大将であれば、こんなにも好意的な伝承になっていないであろう。

彼の三木戦後の政策、そして性格の明るさが、そうさせたのであろう。

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