「水楼」のあった場所
水楼のあった場所を確認したい。
『加古川市誌(第二巻)』に「旧仁寿山黌付属の水楼」の説明で、水楼の場所は別府町大字新野辺字蓮池通1353番地の1とある。
古い住宅地図で捜してみると、その場所は、旧浜国道に沿った赤く塗りつぶした場所である。
すぐ南隣に、元の多木幼稚園がある。
話は少しより道をしたい。多木学園・多木幼稚園の歴史である。
今の多木学園・多木幼稚園は、昭和62年3月に現在の場所に移転している。
多木幼稚園は、歴史が古く創立は明治43年に新野辺の薬師堂の東隣に産声をあげた。
大正元年(1911)に別府小学校の横へ移り、昭和14年に住宅地図にある場所に移転している。
ともかくも、多木幼稚園は県下でも有数の古い歴史を誇る幼稚園である。
水楼のあったあたりは、もともと多木家の土地であった。
近くに多木農工具株式会社もあった。
水楼
『加古川市誌(第二巻)』に、水楼の構造についての細かい説明がある。資料のつもりで書いておきたい。
・・・最近になって内部構造の一部が改造されたが、建物の外観は、幸い今もなおよく旧態のままを伝えている。
この建物は木造・瓦葺・二階建で、正面六軒半、側面六軒、現在は北東に面してたっている。
内部の階下は、玄関の突きあたり六畳、その奥が十畳の座敷で、座敷には床(向かって左側)と聖廟(同右側)とが付属し、座敷に東接して八畳の部屋、八畳の部屋に隣接して六畳の部屋、またその南に四畳半の茶室があり、玄関には畳の間が見受けられ、その他に押入れ等があり、階上には十畳と八畳の二部屋が続き、それらのいずれもが京間である。
背面と茶室の外側とに縁があり縁から見上げる襜榱(たんすい)の構造には風雅な趣向が表されている。・・・
『加古川市誌(第二巻)』が発行されたのは昭和46年10月2日であるから、その時点では、水楼は健在であった。
解体された時期を確認していないが、最近のことであり調べて後日報告したい。
それにしても、解体した時の瓦は、どこかに残っていないでしょうか・・・