ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川の戦争(15)・三菱製紙工場の煙突

2006-10-31 08:10:34 |  ・加古川の戦争

_245_1  対岸(高砂市)に三菱製紙高砂工場の煙突が二本見える。

  一本は、赤と白の高い煙突で、他の一本(写真)は、少し低いくすんだ色の煙突である。

  不思議な形をしている。この煙突は、戦時中にその形を変えた。

  加古川南高等学校歴史同好会が、この煙突についてまとめているので、転載させてもらった。

  「・・・三菱製紙の高砂工場に、途中で少しくびれた形のコンクリートの煙突があります。

  この煙突は、元は60メートルあったそうですが、加古川飛行場が建設された時に風向きの関係で、この煙突が離陸時に邪魔になったため、軍の要請でほぼ半分に伐ってしまったようです。

  戦後、飛行場がなくなったので煙突を延長することになり、現在のような姿になったという。・・・」(「加印地区の戦争遺跡」より)

  有無を言わせない軍の命令であったのであろう。

  加古川飛行場については、9月5日のブログ(加古川飛行場)を参照されたい。

  *10月は尾上町の歴史を探訪したが、私の住所が今福(加古川市尾上町今福)のため、いきおい今福の話題が多くなって申し訳なかった。後日、尾上探訪は続けるとして、11月は平岡町めぐりを予定している。

  その前に、数回「加古川の戦争(14)・特攻」の(9月14日)の続きを書きたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川市尾上町誕生

2006-10-30 08:47:18 |  ・加古川市尾上町

458e880f   昭和25年6月1日、尾上村は、加古川町・神野村・野口村・平岡村と合併し、加古川市尾上町となった。

* 尾上村誕生(明治22年4月1日)については10月7日のブログを参照ください。

  合併のようすを「加古川市議会史(記述編)」にみたい。

  尾上村では、執拗な一部の合併反対者を説得できず、住民投票によってその是非を決めることになった。

  投票は、25年4月5日に実施された。

  結果は投票総数、2.169票のうち賛成派1.290、反対は861票、無効票は18票で、賛成票は意外に伸びず、反対票はかなりの数字にのぼった。

  尾上村の役職者たちは、投票当日「反対論者が、棄権者は賛成者とみなすから、合併賛成者は投票するな・・・」と宣伝したから住民の多数が、この宣伝を率直に聞きいれて棄権した」とみなした。

  実際の合併賛成は、より多数にのぼると判断し、加古川市との合併に踏み切ったという。

  反対の理由を知りたいが、「加古川市議会史」は、その理由を記述していない。後日調べてみたい。

*写真は、尾上村役場(現在の加古川市役所尾上支所)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上構居・安田構居

2006-10-29 16:35:29 |  ・加古川市尾上町

_209   鎌倉時代から戦国時代にかけて、加古川地域には、野口城・高砂城・神吉城・志方城、そして加古川城などの城があった。

  その外にも、比較的小さな規模の城が多くあった。

  ここでは、「加古川市史(二巻)」から、それらを紹介したい。

  「加古川市史」では、「・・・城とは、中世(鎌倉・室町時代)の土豪の居館のことで、その比較的大きなものを城、そして規模の小さなものを構居と呼び、・・・・構居の内、主の名の伝えられているものも少なくないが、多くは伝承の域を出ない」と述べている。

  尾上地区には、長田(加古川市尾上町長田)と安田に構居があった。

  「加古郡史」では、それぞれ尾上城・安田城としているが規模はあまり大きくなく、構居と思われる。

  市域のその他の構居については、「加古川市史(二巻)」を参照されたい。

  これら土豪たちは、戦国時代最後の三木合戦では、別所氏につくか、あるいは秀吉側に味方するかの決断をせまられ中立はなかった。

  加古川地方の多くの土豪(武士)は、三木(別所)方に味方した。そして、敗北し歴史から姿を消した。

  長田構居の主(加古氏)も、三木方に味方し、そして敗北した。おそらく、安田構居の魚住氏も同じ運命をたどったのだろう。ともに、詳細は分からない。

*写真は、安田構居跡(安田の十五社がその場所である。10月19日のブログを参照されたい。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上の人口(明治14年調べ)

2006-10-27 11:03:37 |  ・加古川市尾上町

Afd464fc  先日、「今福庄」を取り上げ、「1171年に今福村(現:加古川市尾上町今福)の記録がある」とか書いたが、コメントに「当時の今福の人口は、どのくらい?」と云う質問があった。答えは「分からない」である。

  明細帳があれば江戸時代の状況も知ることが出来るが、それも分からない。

  時代は一挙にくだるが、明治時代初期の尾上の人口が「播磨国地種便覧」あるので、それを見ておきたい。

尾上の人口(明治14年4月調べ)

  人口:  2.756人  

    戸数:  606戸  (一戸平均 4.5人) 

  *参考(明治14年の尾上各村の人口) 

   長田 320人   口里 429人  池田 772人  安田 344人  今福 288人   

   養田 612人  (合計 2.756人) 

    ちなみに、現在(平成18年4月調べ)、人口は、28.008人 ・ 戸数、10.733戸、一戸平均、2.6人である。

  人口は、明治の初めに比べて約10倍になっている。風景は、すっかりかわった。

  再び、永田耕衣(10月16日のブログ参照)に登場願う。明治の終わりごろであるが、彼の「田荷軒皮袋」に、それに近い風景がある。現在と比べて欲しい。

   ・・・・山は遠く、だたダダっ広い田圃と畦道が遊び場だった。その他は各農家の田を互いに区切りあった畦ばかり、そのアゼに、春はレンゲやタンポポが無数に咲いた。

  まったく「春の野」といえる夢の世界であった。村童たちもユメのように、村をはなれて、ソコらじゅうを自由に駆けまわった。・・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五輪塔・松本の地蔵(石棺仏)

2006-10-26 10:08:53 |  ・加古川市尾上町

_230

五輪等

  写真は、今福(加古川市尾上町今福)泉福寺の五輪塔である。

  五輪塔は、鎌倉時代や南北朝時代までは、死者の冥福を祈るための供養塔であり、それも個人のためのものではなかった。

  これが個人のものになるのは、次の室町時代である。

  貧しかった当時の庶民は、数人または村全体で、祖先を供養するために造った。

  時代が新しくなるにつれ、個人用のものが造られ、小さく簡素なものが多くなった。

  仏教では、世界は五つの物質からなっており、その五つとは、空気・風・火・水・土であるという。五輪塔は、上からそれらの物質をあらわしている。

  文和二年(1352)の銘がある。この五輪塔は元、延命寺(今の今福公会堂)にあった。

松本の地蔵

_227

   養田(加古川市尾上町養田)にある松本の地蔵(写真)は石棺仏(石棺に彫った仏像)である。石棺仏については、7月26日のブログ(石棺仏)をご覧ください。

  この石棺は、「松本の地蔵」とよばれている。近くに「松本」という字もない。古老の話によると、昔この地蔵の側に大きな松が生えていたという。さだかではない。

  無銘のため創立年代も、はっきりしないが室町時代初期のものと思われる。

   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今福庄 (A Medieval Manor in Imafuku Village)

2006-10-25 07:43:42 |  ・加古川市尾上町

_004   *今月は尾上町の話題を書いている。先日オールトリア(ブリズベン)在住のY氏からコメントがあった。今日は、オーストリアを意識して、あまりにもローカルな,今福(加古川市尾上町)の話題を再度発信したい。

  6月29日のブログ(今福村)と内容は重なる。

  Imafuku-Sho (A Medieval Manor in Imafuku Village)

  In the Heian period, aristocrats, temles and shirines  in Kyoto expanded their private lands.

  In the Heian period, private lands belonging to the Todaiji-tenmle in Nara were located in the Kakogawa district. We want to talk the private land in Imafuku Village.

    Imafuku Hachimanngu Shrine is located to the east of the Onoeno-Matsu Station and enshirines the same deities as those in Iwasimizu Hachimangu shrine in Kyoto.

    There was an old document about Imafuku Village in the Iwashimizu Hachimangu shrine, written  in 1171 which has the following descrioption: "The government officials manging the  Imafuku-Sho ara failing to collect taxes ".

    It expresses the situation of the time well. That is, the power of he central court, temples and shirines were becoming weak and that of lacal clans' was  increasing.

*写真は、今福八幡宮

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

屎尿処理施設(尾上町養田)

2006-10-24 07:04:55 |  ・加古川市尾上町

_223  かつて屎尿は肥料として使用していた。しかし、そんな時代は終わった。

  昭和30年頃から、衛生問題と化学肥料の普及により、屎尿問題はいっきに行政の課題となった。

  それに、加古川市の場合、猛烈な人口増が問題をさらに深刻にした。その経過を「加古川市議会史(記述編)」にみたい。

  加古川市は、まさに「糞づまり」で、まったなしの対策が迫られた。市会で用地買収費が予算化された。

  しかし、候補地としてあげられた養田(加古川市尾上町)地区との話し合いは、「迷惑施設」を拒否する地区住民により、合意にいたらなかった。(昭和38年1月)

  いろいろと場所の選定がおこなわれたが、適当な場所はなかった。

  再び、養田地区との話し合いが持たれた。再度の交渉も妥結せず、昭和30年度から屎尿の一部は海洋投棄にふみ切らざるを得なかった。

  ようやく、昭和40年10月に旧陸軍飛行場跡地の一部買収ができた。その後も、漁業組合・開拓組合・土地所有者の利害が錯綜し、交渉は難航したが決着し、昭和40年12月24日市議会で承認された。

  場所は加古川市養田字養田開拓。地価は、坪5000円だった。

  その後も、急増する人口に屎尿処理能力は追いつかず、昭和45年5月27日、西本町地区では屎尿があふれ出す騒ぎがおこるほどであった。

  昭和52年には一部海洋投棄を再開した。以後施設は徐々にととのっていった。

*写真は屎尿処理場(養田)、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石幢(せきとう)

2006-10-23 08:33:54 |  ・加古川市尾上町

_192_1   仏様で、もっとも親しみを感じるのは地蔵菩薩ではないだろうか。

  この仏は、大地の恵を表している。

  世の中が乱れはじめた末法(まっぽう)の時代に入ったとされた平安時代の末頃から広く庶民の間に広がった。

  また、墓地で六体の地蔵をよく見かける。六地蔵である。

  仏教では、人間は死後「生前のおこない」により、六つの世界に生まれかわるとされている。

  その六つの世界とは、地獄・餓鬼(がき)・畜生・修羅(しゅら)・人間・天上であるという。

  そして死後、「地蔵菩薩がそれぞれの世界に現れ、悔い改めた人には救いの手を差し伸べてくださる」というのである。

  この六地蔵の考えは、鎌倉時代から広がった。六地蔵は、普通六体の石仏の姿で墓地にある。

  写真のように六角形の石柱の、それぞれの面に刻まれた六地蔵が、池田の観音寺の境内にある。六地蔵が彫られた六角の石柱は、石幢(せきとう)と呼ばれ、珍しいものである。

  今福、泉福寺の墓地にもある。

  観音寺の石幢は、花崗岩製で製作年を示す銘文はないが、室町時代の初期のものといわれている。今福の泉福寺の石幢は江戸時代初期のものである。

*写真は、池田(加古川市尾上町池田)の境内にある石幢。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飾磨県

2006-10-22 09:12:13 |  ・加古川市尾上町

Cb929504   現在、中学生が使用している歴史教科書(大阪書籍)の一部を読んでみたい。

  ・・・政府は、1871年に藩を廃止し、・・・。そして、地方に府県を置き、政府から府知事・県令(のちの県知事)を派遣し、統治にあたらせました。これを廃藩置県といいます。・・・

  廃藩置県をこのように説明している。では、この時(1871年)加古川地方は、兵庫県になったのだろうか。

  尾上には「学制」により、小学校が泉福寺(今福村)・観音寺(池田村)・法音寺(養田村)を校舎として開校した。そして、明治9年、これらの三小学校は合併して、現在の場所に尾上小学校が設立された。

  写真は、尾上小学校の三木理一郎さんの卒業証書である。

  「飾磨県平民 三木理一郎」に注目して欲しい。尾上の各村々は、当時は兵庫県でなく飾磨県に属していた。説明が必要のようです。

  1871年(明治4)7月14日、廃藩置県により藩は廃止され県が置かれたが、旧姫路藩には、姫路県・明石県・龍野県など11の多くの県が置かれた。この時、各尾上村は、姫路県に属した。

  その年(1871)の11月2日に、10県(福本県は鳥取に併合)は姫路県に併合され、新しい姫路県が誕生した。そして、わずか7日後の11月9日に、姫路県は飾磨県と名前を変えた。

  これは、「姫路」は、最後まで新政府に反対した藩なので、姫路という県名が避けられたのである。

  さらに、明治9年8月21日、姫路県は豊岡県、兵庫県(この時代の初代兵庫県知事が伊藤博文)、名東県(淡路)が合併して、現在の兵庫県が誕生した。

  写真の三木理一郎さんは、明治9年8月9日の卒業である。兵庫県誕生のわずか11日前であった。

  今日の話題は、尾上に限らない。加古川市の他の地域も同じである。

*写真は、尾上小学校「創立百周年記念誌」より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五か井用水

2006-10-21 09:37:03 |  ・加古川市尾上町

_003_2  聖徳太子の時代、鶴林寺の田を潤すために作られたのが「五か井用水」だという。

  しかし、加古川の本流に堰を築き、取水するには、それだけの土木技術が必要になる。

  聖徳太子の時代では無理がある。「五か井用水」は、戦国以降に完成したとみてよい。

  それ以前の五か井用水は、基本的には加古川の旧河川跡を利用したといえる。

  「五か井」の名称は、昔の「北条郷(大野・平野・中津・河原・寺家町・篠原・溝の口)、岸南庄(加古川・木村・友沢)・長田庄(長田・安田・新野辺・口里・北在家)、加古庄(粟津・備後・植田)それに今福庄の五つの地域に水路が引かれているところから付けられた名称である。

  これらの地域は「五か井郷」と呼ばれ、昔から豊かな稔りがあった。

  写真は、今福(加古川市尾上町今福)の新幹線の北付近の「五か井用水」である。

  この辺りでは、この用水を「ふけの川」と呼んで、昔は、子供の水泳の場所でもあった。初夏の頃は蛍もいっぱいとんだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山陽電車

2006-10-20 21:02:24 |  ・加古川市尾上町

F83faf19  大正12年(1923)山陽電車は、尾上、浜ノ宮の松林の北端を走った。

  "浜の宮駅"、"尾上の松駅"は、大正12年8月19日、神戸姫路電気鉄道会社の駅として開業した。

  神戸姫路電気鉄道会社は、姫路~明石間の鉄道を、明石から兵庫駅前は、兵庫電気軌道会社が経営にあたった。

  その後、両鉄道会社は、昭和2年(1927)に宇治川電鉄に合併された。

  明石駅前で、東西線は結ばれ、さらに昭和8年(1933)、山陽電鉄に経営が移った。

  尾上町(加古川市尾上町)には"浜ノ宮駅"と"尾上の松"の二つの駅がおかれた。"浜の宮駅"は現在の場所と変わっていない。

  写真を見て欲しい。尾上町に昔から住む年配の方にとっては、郷愁を誘う"尾上の松駅"の写真である。

  国鉄(現:JR)高砂線の尾上駅から見た山電"尾上の松駅"で、写真の右端の建物がそれである。

  今の"尾上の松駅"の東、約300メートルの少し高くなった所に駅舎はあった。国鉄高砂線と乗りかえができた。

  駅舎が現在の場所に移動したのは、昭和40年(1965)7月23日である。

  遠い風景になってしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もとは十五社(浜ノ宮天神社)

2006-10-19 09:45:26 |  ・加古川市尾上町

_211   菅原道真は、藤原氏との権力闘争に敗れ、大宰府に追いやられた。

  大宰府へは罪人として護送された。各地に残る道真の逸話は、史実としてはありえないが、浜ノ宮天神社に伝わる所伝を読んでみたい。

  浜ノ宮天神社(加古川市尾上町口里)は。「・・・貞観10年(868)、十五社(加古川市尾上町安田)の神々を勧請(霊を迎えてまつること)した。

  そして、道真が延喜元年(901)、途中この神社に寄った縁で道真を奉伺した・・・」という。

  また、別の説では「大宰府への途中、播磨灘で嵐にあい、安田の十五社、尾上神社に海上の静穏を祈った。その縁で道真の死後、傍らに道真を祭り、文元元年(1444)口里に新しい神社を建て奉移した。その後、神社の名も浜ノ宮天神社とした」というのである。

  ここでは、「ともに、現在の浜ノ宮天神社は、安田の十五社が元の場所であり、十五社を上ノ宮と呼んでいる」ことに注目したい。

  十五社は、明姫幹線と別府川の交差点からすぐ北の葬儀場のすぐ西の森がその場所である。

  現在でも、十五社は浜ノ宮天神社の境外神社である。

  浜ノ宮天神社は、安田から口里へ移動したことは確かなようだ。十五社辺りは、加古川の旧河川跡にあり、低地である。

  別府川がある。移転の理由は水害であったのかもしれない。わからない。

*写真は安田の「十五神社大神」の神額

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜ノ宮の松林

2006-10-18 07:41:34 |  ・加古川市尾上町

_203

  田山花袋の「播磨名所」に、次のような記述がある。一部を紹介したい。

  ・・・高砂尾上とは丸で別々になって了ったが、昔は確かに一村落であったに相違ない。 そして今の尾上に、やゝその面影を残しているやうな松林がこの海岸一面に連なりわたって居て、松の影は松の影と相重なり、波の音は波の音と相雑(あいまじ)って、他に見ることの出来ないやうな荒涼寂莫たる趣を呈してゐたに違いない・・・・

  浜ノ宮中学校から浜の宮神社(加古川市尾上町口里)にかけての松林は、神社の境内地として保護され、明治維新以後は、官有林に編入され同神社や氏子によって維持されてきた。

  満州事変以来、この松林には陸軍病院、航空整備隊、さらに陸軍航空通信学校尾上教育隊が開設されるなど、多くの松は切り倒された。さらにその後、多くの松が松くい虫にやられた。

  松林の風景は大きく変わった。

  しかし、この松林は、播磨風土記に見える「賀古の松原」の面影を今に伝えているようである。

*写真は、浜ノ宮神社付近の松林

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町は海の底

2006-10-17 06:41:00 |  ・加古川市尾上町

D78db4fe   地図の太線は、海抜10メートルの等高線である。

  そのあたりは、急な傾斜意なっている。

  海抜10メートルより低い地形の尾上町や加古川町あたりは、古くは「加古の入江」と呼ばれた海の底だった。

  万葉集に、次の柿本人麻呂の歌がある。

  "稲日野(いなびの)も ゆきす過ぎがてに 思えれば 心恋しき 可古(かこ)の島見ゆ"

  (広々とした稲日野の近くの海を航行していると、船の速度がはかばかしくない。いろいろ思いにふけっていると、やがて恋しい加古の島が見えだした)

  この歌の「加古の島」は、加古川の三角州であろう言われている。

  地図の黒い点は、弥生遺跡で、河口部分(尾上町・加古川町)から弥生遺跡に先立つ、縄文時代の遺跡は見つかっていない。

  このことは、尾上町や加古川町あたりに人が住めるほどの陸化が進むのは弥生時代以後であり、縄文時代も含めて、それ以前の尾上町あたりは海の底だったことを物語っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永田耕衣(ながたこうい)

2006-10-16 07:52:46 |  ・加古川市の歴史人物

Df288a35  みごとに人生を終えた一人の俳人がいる。その人は永田耕衣(ながたこうい)で、明治33年2月21日、今福(加古川市尾上町今福)で生まれた。

  耕衣(写真)の業績と生き方に感銘した城山三郎は、彼をモデルに小説「部長の大晩年(朝日新聞社)」を書いた。

  明治の終わりの頃の今福村を次のように紹介している。

   ・・・加古川の豊かな水を引きこんだ水路には、フナ・ドジョウ・ナマズなどが多く、林蔵(父)がナマズを好むので耕衣はナマズを狙った。・・・・・初夏には蛍が特に多く、無数のホタルが群れて、いくつもの光の玉、光の雲のようになり、輪を描きながら夜空を舞う・・・

  また、耕衣、81歳の文章(火の記憶)で、次のようにも書いている。

   ・・・山は遠く、ただダダっ広い田圃と畦道が遊び場であった。・・・村童たちも夢のように、そこらじゅうを自由に駆けめぐった・・・一切の「世苦」などは身に覚えぬ別天地であった。・・・

  耕衣は38年勤めた三菱製紙高砂工場を55歳で定年を迎えた。退職後は俳句の世界に没頭した。

  耕衣の生活・業績について紹介できなかったが、「部長の大晩年(城山三郎)」(朝日新聞社)をお読みください。

*昨日のブログで、今福神社の「天の岩船」を紹介したところ、今福出身でオーストラリア(ブリズベン市)在住のY氏から、さっそくコメントをいただいた。ビックリした。

  今日も今福の話題を取り上げた。もしオーストラリアでアクセスされたら、コメントに子供の頃の今福の思い出を聞かせて欲しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする