ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

豊沢団平さんのこと(7) 仁兵衛と改名

2019-01-31 10:07:19 | 豊沢団平さんのこと

 

    仁兵衛と改名

 団平は叔父安次郎方へ養子に入っていましたが、加古川の生家はいずれも他家へ養子に行ったものや、若くして亡くなる者が続出しました。

 母は、嘉永二年(1849)、姉は嘉永四年に亡くなり、父も作州(岡山県)に帰ってしまいました。

 加古家の血統も絶えてしまうようになりました。

 そのため、自らは大阪に住みながら、養家を辞して加古家を立てることとし、加古家の代々が仁右衛門を襲名したことから、その一字をとって仁兵衛と改名しました。

 もっとも、同音であるため仁平とも書かれたこともあったようです。

 芸界では、もっぱら仁兵衛でした。(no4624)

 *写真:自宅のタカサゴ・ユリ(1/31撮影)

 ◇きのう(1/30)の散歩(12.848歩)

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豊沢団平さんのこと(6) 千賀女との再婚

2019-01-30 09:25:55 | 豊沢団平さんのこと

     千賀女との再婚

 千賀女(ちか)は、西陣の染物業沢田安兵衛の二女で備中松山の城主板倉周防守につかえ、一人の男子をもうけたが、周囲の妬みがきびしいので、暇を乞うて京都に帰り、茶屋家業を初めていたといわれています。

 しかし、千賀女の素性については異説もありはっきりしません。

 しっかりした真の強い人であったことは間違いなさそうです。

 

 当時、大坂義太夫弾の名人といわれる団平が妻を失い子供をかかえて困っている話を知って、団平の性行を承知の上で、自分の仰くべき人はこの人の他にはいないと自ら進んで団平の後妻に押しかけています。

 千賀女が家に入ってからは、二児の教育は元より、家事一切を引受けて世話をしました。

 そのため、団平は、安心して心のままに芸道に専念することができました。

 千賀女には、創作の才がありました。

 壷坂の台本は千賀女の手になるものです。

 その他にも彼女の作は多数あるらしく大和錦・猿ケ島・松前屋五郎兵衛・親鸞記などは団平との合作として知られています。

 

 千賀女の人柄の一端は、映画:浪花女にもえがかれて、想像はできます。

 むかし、文楽座関係の人を煩わし写真を見た人の言によれば「千賀女はよく肥った頗すこぶる大柄な女で気品もあり、十人並以上の美人」であったと伝えています。

 

 千賀女の死は、今で言う疫痢で、死に瀕しても便をとってもらうことを承知せず、自ら便所に通うような無理を重ねたそうです。

 また、性質は「極端な神経質で、非常に敏感な女性で、小心なところもあり、はにかみや」であったと伝えられています。(no4623)

 *写真:今朝(1/30)の我が家の梅

 ◇きのう(1/29)の散歩(11.749歩)

 〈お願い〉

 「ひろかずの日記」 http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b

  時々、上記の「ひろかずの日記」のURLもクリックください。

 

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豊沢団平さんのこと(5) 団平、妻・八重を亡くす

2019-01-29 08:17:24 | 豊沢団平さんのこと

 

     団平、妻・八重を亡くす

          そして、「ちか」と再婚

 若年ながら太夫の三味線弾きなったことで、女性からいろいろもてはやされました。

 しかし、なんとしても三味線いっさいの技能を極め、誰にもまけぬ境地に達したいと決心していたので女性のことで気をつかうようなことはあまりなかったようです。

 安政四年(1857)31才の時、高砂清水町に住んでいた佐藤市次郎の二女八重を娶りました。

 団平には、八重との間に平三郎と国吉の二人があったことに明かになっています。

 愛情は細やかで、常徳寺におさめられている位牌によれば、6人の子供をなしています。

 六人目に生れた女児の出産のために八重は31才で落命して母子ともなくなりました。

 八重がなくなった時、平三郎は5才、国吉は3才でした。

 団平は、芝居の出勤にも、弟子達の指導にも困って、その年は不明であるが贔屓の旦那衆より種々すすめもあったのですが、京都祇園の茶屋の女主人・沢田「ちか」を迎えて後妻としています。

 次回は「ちか」の紹介です。(no4622)

 *写真:今朝のスイセン(今回も文章と関係がありません。我が家の近くに咲くスイセン)

 ◇きのう(1/28)の散歩(10.926歩)

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豊沢団平さんのこと(4) 18才で文楽座に出演、 そして豊沢団平を襲名 

2019-01-28 09:33:34 | 豊沢団平さんのこと

       弘化元年(1844)18才で文楽座に出演

                  そして、豊沢団平を襲名    

団平は、平蔵の末っ子として文政10年3月21日、寺家町の醤油屋に生まれました。

幼名は、丑之助とも力松といわれました。

芸界に入った初めの名が力松で、常徳寺の記録は全部、丑之助です。

竹本千賀太夫の養子となりましたが、千賀太夫のすすめで三代目豊沢広助に入門して三弦を始めました。

そして、天保9年12才の春に力松を名のりました。

一度三弦を習い始めると、人に倍して熱心であったので上達もいちじるしく、天保11年の春に天満の芝居に出、初めて三段目を弾く身になりました。

弘化元年18才で文楽座に出て、豊沢団平を襲名し、長門太夫の合三味綜であった清七の代役をつとめています。

清七が、遂に病に倒れたので長門太夫の所望とあって、多くの先輩をこえて名人長門太夫の合三味線となったのです。

長門太夫の死後は、五代目竹本春太夫、また名人染太夫も弾き、明治浄瑠璃会の偉人、摂津大掾をも仕込みました。

しかし、摂津の養女と団平の妻との不仲から団平は摂津をはなれ、彦六座に出て文楽座と対立して紋下大隅太夫を養成して文楽の全盛時代をつくりました。(no4621)

*写真:明治浄瑠璃会の偉人、摂津大掾

◇きのう(1/27)の散歩(10.316歩)

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豊沢団平さんのこと(3) 団平の兄弟関係

2019-01-27 08:15:21 | 豊沢団平さんのこと

          団平の兄弟関係

 団平の父平蔵は、当時の記録によると放埒で大酒を呑みでした。

 そして、遊興にふけって京の島原、大阪の新町あたりで名が知られた人物でした。

 その上に、義太夫浄瑠瑠を好み、多くの芸人を愛して、これがために家産は遂に散逸してしまったといいます。

 ですから、晩年尾崎村(岡山県)に帰って暮らしたのは、妻に先立たれ、我が身ひとりになったためばかりではなさそうです。

 団平の死亡当時の朝日新聞に書かれているのですが、団平の手記によると兄弟は二女であったと思へます。

 上の二人は女で、男は為次(為冶郎)と団平でした。

 

 為次郎は長男ではあったのですが、淡路の正井家に養子として行き、団平は叔父安次郎の養子となっています。

 嘉永四年四十八才で亡くなった二女の和佐のみが平蔵のもとにとどまっていたようです。(no4620)

 *今日は適当な挿絵・写真がない為、円照寺(東志方広尾)の現在のロウバイです。きれいですよ。お時間がある時にでもお出かけください。

 ◇きのう(1/26)の散歩(10.870歩)

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豊沢団平さんのこと(2) 団平は、寺家町で生まれる

2019-01-26 08:49:26 | 豊沢団平さんのこと

      団平は、寺家町で生まれる

 団平は家寺町に生まれました。

 家は代代醤油屋であったといわれています。

 今の寺家町330番地を含む一角です。

 昭和39年当時、玉岡昌二氏によると四代前の健蔵氏の代に寺家町に出て来て、初めはその家の一部を借りて住居を初めたのですが、間もなくその家を買取ったとのことです。

 この家の裏に近年(昭和39年)まで醤油蔵であったかと思われる建物が残っていたのですが、腐朽のため倒壊して、今それをしのぶものは残っていません。

 父平蔵は作州(岡山県)尾崎村の竹内氏の次男として生まれ、加古家に入り養子となって仁右衛門を襲名しました。

 平蔵は、晩年尾崎村に帰っています。

 父、平蔵が作州へ帰った理由は、次号で考えましょう。 

 団平の養父、加古安次郎の代になって、隣なる加古川町(寺家町)へ移転しました。

 その家は立派な大きな家でした。

 その家が、安次郎氏が加古川へ来て住んだ家、そして団平が生れた家です。

 最近(昭和39年当時)、団平の養父であった安次郎が嫁を貰った当時のものと思える紙片が見つかりました。

 それによれば、播州加古駅寺家町西ノ町とあり、嫁は寺家町東ノ町南浦とありました。(no4619)

 *写真:「豊沢団平誕生之地」の碑

 ◇きのう(1/25)の散歩(10.530歩)

 

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豊沢団平さんのこと(1) 「三宅周太郎さんのこと」の続きです

2019-01-25 10:19:16 | 豊沢団平さんのこと

 *「三宅周太郎さんのこと(27)~(32)」の続きとしてお読みください。

     豊沢団平さんのこと(1)

 前回の「三宅周太郎さんのこと(32)・団平の死」で、このシリーズを終えました。

 そして、きのう(1/24)、次のブログの話題を計画していました。

 そんな作業中でした。

 「どこかで、豊沢団平さんのことを書いておられた方がおられた・・・・」と、ぼんやりと思い出しました。

 その時は、それ以上に記憶は戻ってくれませんでした。

 「75才のお爺さんじゃ仕方がない・・・」とあきらめていたのですが、昼すぎでした。

 突然、「ア!」「もしやして、永江幾久二さん(故人)の著書ではなかったか・・・」とひらめいたのです。

 というのは、永江さんは、生前、三宅周太郎さんと親交のあった方で、長らく加古川郷土文化協会を主宰されていた方でした。

 さっそく、永江さんの本を探しました。ふしぎなものです。離れの本箱の隅っこから、誇りをかぶった『考史遊記 (兵庫タイムス刊)』が顔をだしました。

 1964年4月21日発行の本です。

 ページをめくると、(2)名人と豊沢団平、(3)団平記念行事(4)団平と文学として団平さんが紹介されているではありませんか。

 少しだけ、「三宅周太郎さんのこと」の続きとして「豊沢団平のこと」と題して「団平さん」のことを付け加えましょう。

 なお「三宅周太郎さんのこと」の団平さんの紹介と若干内容が重なりますが、復習としてお読みいただければ幸いです。(no4618)

 *写真:二代目豊沢団平

 ◇きのう(1/24)の散歩(11.648歩)

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カバンや小物お土産に人気 :復刻版「松右衛門帆」の工場直売所

2019-01-24 11:47:53 | 工楽松右衛門

   今日(1/24)の神戸新聞東播版に「復刻版松右衛門帆、の工場直売場」の記事が掲載されています。

 工楽松右衛門の資料として掲載させていただきました。

   カバンや小物お土産に人気

       復刻版「松右衛門帆」の工場直売所

 江戸時代の古民家「工楽松右衛門旧宅」(兵庫県高砂市高砂町今津町)の一般公開を機に、松右衛門の帆布生地を再現したブランド「松右衛門帆」のかばんや小物の人気が高まっている。製造・販売会社「御影屋」は旧宅近くにあり、観光客の土産物として選ばれているという。

 「歴史のロマンを手元で感じて」とPRしている。(本田純一)

 松右衛門は発明家としても名を残し、北前船に使う丈夫な帆布を作り日本の海運発展に寄与した。太い糸を2本合わせて生地を織り、大きな織り目が柄にもなって立体感が出るのが特長という。

 「松右衛門帆」のかばんには、織り目を生かした細かい格子柄が入り、ポップな色からフォーマルに合うものまで多彩。価格は6千円台から3万円台まで幅広い。小物は2千円前後が中心。9千円程度の女性用バッグが売れ筋という。

 昨年6月の旧宅公開後、旧宅の見学に合わせて同社を訪れ、松右衛門ゆかりの品として買い求める観光客が増えた。月々の売り上げは1年前より倍増。同社1階の工場を見学することができ、団体客も来店する。

 同社社長の柿木貴智さん(47)は高砂青年会議所理事だった2010年、地域の活性化に役立つ商品を作ろうと、現存する松右衛門帆を研究して復刻し、商品開発を進めた。16年には工場兼直売店の御影屋を立ち上げた。

 現在は同社のほか、山陽電鉄高砂駅前の「駅前観光案内所ちちり」や、埼玉、神奈川県の百貨店などでも販売している。同社は新しいデザインのかばんを試作しており、柿木さんは「通常の帆布とひと味違う、高砂ならではの逸品として広まってほしい」と話している。

 午前10時~午後5時。無休。見学は予約不要。御影屋TEL079・440・9031(no4617)

 *写真:人気が高まっている「松右衛門帆」のバッグを手にする柿本(左)さん。

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三宅周太郎さんのこと(32) 団平の死

2019-01-24 09:44:52 | 三宅周太郎さんのこと

 

     団平の死

 明治31年4月1日。場所は大阪の稲荷座。

 その日、義太夫三味線の名手、豊沢団平の音色は、ことのほかさえ、聞き入る人々を魅了していました。

 九分どおり済んだと思われた時である、団平は、ハタとバチを落とし、前のめりにガックリ肩衣のまま倒れました。

 意識不明のまま団平は、病院に運ばれる途中絶命しました。71歳でした。

 三味線界300年の歴史を通じて、その右に出るものなし、とまでいわれた団平の死は、いかにも、この人らしい終末を飾る劇的な風景でした。

 彼は、本名を加古仁兵衛(かこにへえ)といい、加古家は団平から数代前に粟津から寺家町に移転して、醤油醸造を家業としていました。

 粟津の常徳寺が加古家の菩提寺であり、団平はこの境内に眠っています。

 友達の理髪店に行きました。理髪店の裏が常徳寺です。(no4616)

 *写真:常徳寺の団平の墓

 ◇きのう(1/23)の散歩(10.539歩)

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三宅周太郎さんのこと(31) 豊沢団平さんのこと:余話二題

2019-01-23 08:09:29 | 三宅周太郎さんのこと

          団平さんのこと:余話二題

 この辺で「三宅周太郎さんのこと」を追えますが、最後に余話を二つばかり付け加えておきます。

   その1:「豊沢団平生誕之地」の碑は残っていた

 たしかに団平さんの碑があったことを覚えています。

 場所も覚えています。

 だれかが、「むかし団平さんという人いて、その人はここで生まれたんや・・・」と教えてくれたからです。

 いつ・だれに聞いたかすっかり忘れました。

 その碑は小さな碑でした。

 文楽の研究家の「三宅周太郎さんのこと」を連載しながら、気になっていました。

 21日(月)の午後、その場所に出かけることにしました。

 場所は、加古川中央公民館の玄関から寺家町商店街への道があますが、商店街の道の10㍍ぐらい手前の左(西側)です。

 「もう50年以上前に見た小さな石碑ですから、もうないだろう・・・」とダメ元で出かけたのです。

 が、なんとあったではありませんか。感激でした。

 今は駐車場になっており少しだけ移動しているようでした。フェンス沿いにありました。

 団平さんの影を見つけました。

 はっきりと「豊沢団平生誕之地」(写真)と読めます。

    その2:幻の「団平羊羹」のこと

 団平について思い出がもう一つあります。

 小学生の時でした。たしか「団平羊羹」がありました。

 味は忘れたが、「ダンペイ」という言葉の不思議な響きが残っています。

 もちろん、その当時は「ダンペイ」が人の名前だとは知りませんでした。

 今も団平羊羹は製造されているのでしょうか。

 あったら、団平羊羹を食べながら、『一の糸(有吉佐和子)』を、もう一度読み返したい・・・(no4615)

 *写真:「豊沢団平生誕之地」の碑

 ◇きのう(1/22)の散歩(11.162歩)

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入館好調、観光拠点に 工楽松右衛門旧宅

2019-01-22 10:00:25 | 工楽松右衛門

 今日の神戸新聞東播版に「工楽松右衛門旧宅」の記事が掲載されています。

 工楽松右衛門の資料として掲載させていただきました。

    入館好調、観光拠点に 工楽松右衛門旧宅

 昨年6月から一般公開されている兵庫県高砂市の工楽松右衛門旧宅が人気を集めている。入館者数は当初見込みの約4倍で、すでに3万人を突破。市外から訪れる客が多く、高砂観光の拠点になりつつあるという。関係者は「旧宅を核に、町をPRしたい」と意気込む。(本田純一)

 旧宅は江戸時代後期に建てられ、町の中心地だった南堀川の船着き場に面している。吹き抜けの土間や五つのかまどなどが残る。また外壁に古い舟板を再利用した「舟板塀」が見られるなど、海運で栄えた往時の高砂をしのばせる。

 昨年、旧宅や高砂神社常夜灯など4件が日本遺産「北前船寄港地・船主集落」に追加認定され、古民家が多く残る旧宅一帯は、県の歴史的景観形成地区にも指定されている。

 旧宅の大崎敦紀館長によると、開館前は年間1万5千人ほどの来館を予想していたが、オープンから約7カ月後の今月9日には3万人に達した。昨年9月の万灯祭の日だけで入館者数の半数を占めるとはいえ、現在も平日に50人、休日は150人ほどが訪れる。

 内訳は市内が3割で、姫路や明石、神戸市など近郊からの観光客が4割。県外や海外から訪れる人もおり、旅行のツアーにも組み込まれているという。「有名な史跡で飽き足らない歴史ファンたちが、新しい魅力を求めて訪れている」と大崎さん。また入館無料で、駐車場も整備されているため、旧宅を拠点に近くの高砂神社などに足を伸ばす人も多いという。

 旧宅へのツアーを企画する「あなぶきトラベル」(高松市)の担当者は「目新しい施設で、日本遺産ということでも目を引き、客に喜ばれる」と話す。

 親子で訪れた明石市の歯科医男性(38)は「古い建物がよく残っていて驚いた。もう一度ゆっくり訪れ、北前船の歴史を感じてみたい」と話していた。(no4614)

 

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三宅周太郎さんのこと(30) 豊沢団平(3)・団平は、文楽義太夫節三味線、日本一の名人

2019-01-22 09:11:33 | 三宅周太郎さんのこと

    豊沢団平(3)

     団平は、文楽義太夫節三味線、日本一の名人

 周太郎の「団平」調査は続きました。

 団平を預けられた千賀太夫は、幼少の力松を旅芸人の三味線弾きにする程度の考えで、当時の三味線の名人三代目豊沢広助の門に入れました。

 つまり、親は資産をなくし、なまじ浄瑠璃の為に一生を犠牲にした結果、子を三味線弾きにしたものの、その至難さを身に沁みて知る故に、せめて「旅稼ぎ」でも出来ればと思う程度でした。

 この消極的に、三代目広助の門へ入れられた力松が、親が全く期待もしないのに、後年の名人団平に成長したのです。

 しかも、広助の眼は高いものがありました。

 幼少の力松をただ者でないと見て取り、「旅稼ぎ」などは、もっての外とばかりに、直ちに力松を本場の文楽へ入れて修業せしめたのです。力松12・13の頃と思われます。

 18才にして才能を現し、早くも数人の門人さえ持ち、28才の若さで当時の最高権威竹本長門太夫の三味線を弾くまでに進歩したのでした。

     三宅周太郎のこと

 三宅周太郎は、戦後ずっと京都市内桂野に定住し、劇評一筋の道に精進しましたが、すでにこの界の権威としての不動の地位を確立しました。

 そして、かつての母校・同志社普通部の旧知の人達からの懇請によって、ある日母校での講演会に出席しました。

 それは多感な青春の日を想い浮かべ、ひとしお感興にひたりつつ、その演題は「文楽について」として、文楽の前途を憂いつ、多年にわたる独自の研鑚を傾けたもので、列席の人達に多くの感銘を与えました。

 また、昭和35年7月、加古川市市制十周年記念祝典には、かつて父祖の所有地であった寺家町の旧公民館で、郷土の人達を前にしての特別記念講演にも「豊沢団平について」と題しての文楽ものでした。

 加古川市が生んだ不世出の名人芸の真髄を披れきしたものだったのです。(no4613)

 *写真:三宅周太朗(京都南座を背に・昭和39年2月26日撮影)

 ◇きのう(1/21)の散歩 (10.256歩)

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三宅周太郎さんのこと(29) 豊沢団平(2)・団平のルーツ

2019-01-21 09:51:23 | 三宅周太郎さんのこと

     豊沢団平(2) 団平のルーツ

 *以下、周太郎の文章は、文体を変えています。

 周太郎は、あるところで次のように語っています。

 

 「・・・浪花女(なにわおんな)の団平は、近世では、芸を命とした第一人者であったことは論を待ちません。それは、人形浄瑠璃の方では既定の事実です。

 しかし、これを知っている人は、インテリと文楽ファンのみといえる程少数でしょう。

 その現在に、何十万何百万の一般人に見せる映画として、近世における「芸を命」の代表者・豊沢団平をあいまいながらも映画として紹介したことは、我々人形浄瑠璃に関心を持つ者には大きな嬉です。

 ・・・・

 (また、ルーツについては)「団平の本名は加古仁兵衛、文政11年(1828)3月生まれで、団平の先祖は武士でした。

 それが、後に織田の配下の秀吉の中国征代に蚕食せられ、三木城の別所小三郎の部下として寵城すること数ヶ月、討ち死と決心して乳母に蓄えの金と男の児とを託し、附近の筒井家へ送り、そこで乳母が遺児を養育し、その子が町人となり生長して加古川のすぐ隣の粟津村(現:加古川町粟津)へ移住して老年に及び、当時廃寺となっていた同村の常徳寺を起し、自ら出家して復興しました。

 現在の常徳寺は、改築せられたものですが、この寺は名人団平の先祖が復興した寺に当るわけです。

 この後、引続いて粟津村に四代ほど居住し、五代目に当る加古安次郎の代になって、隣なる加古川町内へ移転しています。

 そして、その安次郎の子が後年の豊沢団平のようです。

 この安次郎の生家は、大きな松の木のある寺がある常住寺でした。(*常住寺は、現在加古川中央消防署の近くへ移動している)

 その常住寺から西ヘ一丁程の所に、数年前まで「玉岡」といった資産家の呉服店がありました。

 その家は立派な大きな家で、古くから加古川町の資産家では五本の指に入る家でした。

 その家が実は安次郎氏が初めて加古川へ来て住んだ家、そして団平が生れた家です。

 団平は幼名力松、この安次郎が芸好きであって、いわゆる旦那芸として浄瑠璃を習い、それがこうじて、元来武家出身の名門加古家のこととて裕福であったのですが、ついに家計が傾き、資産を蕩尽するまでに浄瑠璃に打込む結果になりました。

 結局、一家は離散し力松は大阪の叔父に引きとられました。そして、力松は間もなく大阪の竹本千賀太夫の手許に身を寄せたのでし」と書いています。(no4612)

  *写真:常徳寺の山門横にある「碑」(豊沢団平菩提所)

 ◇きのう(1/20)の散歩(11.135歩)

 

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三宅周太郎さんのこと(28) 豊沢団平(1)・映画「浪花女」

2019-01-20 09:30:38 | 三宅周太郎さんのこと

 今回の主人公、豊沢団平・三宅周太郎はともに加古川寺家町生まれであることを念頭にお読みください。

     豊沢団平(1) 映画「浪花女」

 昭和15年9月10日の午後でした。

 その日、朝遅くから伊豆半島を横切った豆台風は、東京の街にも豪雨を伴って走り去ろうとしていました。

 (三宅)周太郎は市電を乗りすて、パラソルの柄を両手でしっかり握りしめて、市の中心部のある文化ホールへ急いでいました。

 そこでは、松竹映画「浪花女」の封切上映に先立って製作関係者、芸能雑誌記者、映画・劇評家等数十名を招待した試写会が催される事になっていたからです。

 周太郎はこの「浪花女」に、期待と幻滅とを相半ばした予想を立てて会場へ着きました。

 試写が始まりました。これは映画界の中でも芸術性を追求して「凝り屋」との異名のある溝口健二の監督によるもので、主演は当時売出しの阪東好太郎・田中絹代で、大阪の文楽の再興に大きく寄与した、三味線弾きの名人、二代目豊沢団平とその妻女千賀との夫婦の純愛を扱ったもので、もちろん団平には好太郎、千賀には田中絹代、他に人形遣いの文吉には高田浩吉、浄瑠璃の越路太夫には浅香新八郎という豪華キャストでした。

 そのストーリーは大阪の小さな商家の娘として育った千賀は、子まであった団平の後妻になろうとして周囲の反対に出会いました。

 それを千賀が押切って年の多く違う団平の後妻になった理由は、ふとした事から団平の病気看護をしている中に、徐々に団平に感化されて義太夫の真価を覚えるようになり、ついに彼女は周囲の反対を押切って団平の女房になりました。

 このようにして女性ながらも千賀は団平の影響で義太夫の真価が判った上、義太夫を愛したのです。

 また、千賀は当時の女としては珍しく「ものを書く才分」をもっていました。

 千賀は、有名な義太夫の「壷坂」を創作したことでした。

 それを読んで団平は彼女の才分に驚き、その作の妙に打たれると共に、その場で節づけの「作曲」をしたのです。

 ・・・明治31年4月、稲荷座の舞台の床の上で三味線をひいている中に倒れ、かすかに「お千賀を呼んで・・・」といって息切れるのです。

 団平は、一代の名人でいながらまさに赤貧洗うが如き無欲な人で、この映画でも千賀が団平の家へ嫁に来た時は、あばら屋でぼろぼろの障子や畳だけといっていい程、家財類は皆目なかったといいます。

 この様に団平は「人形浄瑠璃」の最もさかんな時代に生き、さらにそれを盛大にして「文楽」の大御所的存在になりながらも、金銭に執着心がなく、文字通りその日暮しでした。

 「浪花女」は、最初の情痴本位の日本映画との予想は全くひっくり返り、それは最も関心をいだいていた完全な「文楽映画」でした。

 さらに溝口監督だけに「文楽」なり人形浄瑠璃の考証や考察が充分に行届いているのに、周太郎はいたく感激しました。(no4611)

 *写真:映画「浪花女」の溝口健二監督

 ◇きのう(1/19)の散歩(11.239歩)

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三宅周太郎さんのこと(27) 文楽の復活

2019-01-19 08:16:32 | 三宅周太郎さんのこと

            文楽の復活

 三宅周太郎の功績は、演劇評論家として、歌舞伎の興隆、文楽の再興に貢献したことでした。

 中でも、この文楽の研究こそ、前人未踏に近い処女地で、三宅周太郎は最初の人でした。

 「中央公論」に発表された「文楽物語」は関係方面に静かなるブームを呼びました。

 間もなく「時事新報」の学芸欄で、作家の広津和郎がこれを激賞する文を書います。

 続いて文芸評論家の正宗白鳥が、そして文芸評論家の谷川徴三・佐藤春夫も高く評価しました。

 周太郎は、将来への目標も希望も見失って、混迷の道にさ迷い、絶望と苦悩の中から脱出すべく、全力を尽して賭けた仕事が多くの人達から温い厚意をもって評価されたことは、今後の仕事の自信を深めることができたのでした。

 「中央公論社」は、続連載を懇請してきました。

 周太郎は、引き続きその研究を深め、文楽ものを書き続けました。

 そして、昭和3年の3月、大阪の文楽一座は東京の明治座へ、大挙上京して大公演をうちました。

 公演は圧倒的な大入の連続で大成功をおさめました。

 文楽の人気を盛り上げたのは「中央公論社」 「東京日日新聞社」 「新潮社」そして、周太郎の所属する文士集団「三田派」及び劇作家の里見滓の一派、さらに義太夫の大のファンでした。

 それに、財界一方の旗頭である渋沢家の人達が、一体となって協力しました。

 もちろん、これらすべての引き金となったのは、三宅周太郎の「文楽物語」であることは、衆目の一致するところでした。

 そして、この東京公演は文楽一座にとっては、まさに起死回生の快挙となり、周太郎は、一座の人達から救世主のように感謝されたのでした。

 

 そして、淡路こそ、人形浄瑠璃の発祥の地である事を突きとめた周太郎は、多忙な中、淡路島を訪れています。昭和4年5月19日のことでした。(no4610)

 *写真:『文楽の研究(三宅周太郎著)』(岩波文庫)、「文楽物語」はこの本に詳しい

 ◇きのう(1/18)の散歩(10.406歩) 

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