きんちゃんの観劇記(ネタバレだよ)

思いつくまま、適当に。

「ブラック・スワン」

2011年05月14日 | 映画
あのオチは
無いだろー

と思ったのは私だけ?


「白鳥の湖」の主役に抜擢されたニナは
プレッシャーから、自傷癖が復活。
幻影も見るようになる。


「オデット」ではなく
「SWAN QUEEN」なんだな。
新しい演出、ってことになっているけど
たんに、素人が踊っても様になる振付が
時々出てくるだけにすぎない、
ように思う。

ニナが自分を追いつめていく過程は
言い方は悪いけど、面白い。
ピリピリした繊細さと
それによる美しさを
ナタリーは良く表現している。
オスカー受賞もわかる。

んー、でも。というところもある。
演出家は、ダンサーに手を出すのが当然だというのが
前提になっているような。
それは違う、と思うけど
100%は否定できないか。

あの演出を見る限り
普通の「白鳥」より
「黒鳥」が官能的である必要は無さそう。
オディールって、基本的には
ロットバルトが見せる幻だよね。
それをあそこまで求めるもんかね。

映画全般に渡る「官能」って、
あんなに必要でない気もする。

演出家(芸監?振付?主宰?)のヴァンサン・カッセルは
普通の人だと思ったけど、
セクハラ・エロ親父だった。
やっぱりなー。

母親はステージママのよう。
娘を捉え、娘の目標も将来も定める。
ロットバルト的でもあるし、
「王妃」でもあるのかな。
親の束縛は保護でもあり、
それから抜けだした子供には
死が待っていると。


ナタリーは、背中の肉の付き方は
ダンサーっぽい。
でも、首や腕の長さは、やっぱり足りないし、
甲のラインも綺麗じゃないね。
腕のしなりも足りない。
すごく頑張っているのはわかる。
なるべく足元(ポアントで踊っているかどうか)は映さないので、
8割はナタリーが踊った、という話は納得。
吹き替えのダンサーさんは腕が長め。
(バレエ・ダンサーとしては普通)
見分けたい人は、その辺をポイントにするとよろしいかと。


完璧に踊りたい、
それは「振りに正確に」ってことであれば、
面白味がない踊りになるのは良くわかるなー。
逆もあるよね。
ダメダメでも魅力的、とか。

まあ、あれだ。
彼女が思う「完璧な世界」には
金を払っている「観客」の存在は無かったな。
そういった意味で、彼女はプロでは無かったな。


なんちゅーか。
アメリカでは、数年に一度「バレエもの」が作られて
その時の出演者は本物のダンサーで
だからこそ、踊りの場面はよいけど
それ意外の「(映画用の)演技」の部分はグダグダになる。
今回はその反対ね。
プロの役者がバレエに挑戦。
こういう作り方もあるってことで。
ヒロインの心の脆さを精密に描いために
バレエ関係の設定は、あえてあやふやにしたのかなー。


そういった意味では「愛と喝采の日々」は
映画としても、バレエ場面も良かったんだなー。


実にどうでもいいことだけど、
ニナが夢に見た「白鳥」は
ボリショイ版よりブルメイステル版の方が近いと思う。
最近のABT版にも。
そもそも「ボリショイ版」というのが???
グリゴローヴィッチ版とかワシリエフ版とか、って言い方だよね。
それだと、バレエを知らない人にはわからないか。
あ、ヌレエフ版もオープニングがあったよ。確か。
それで、1幕に入る前にジローが怪我して
ルフェーブル女史が出てきたんだったなあ・・・


5/15追記
いろいろ書いたけど、
コレって、結局は
自傷癖の話、と簡単に見るのがいいのかな。
痛みにより、自分が存在していることを実感する。
それがエスカレートしていき
ついに命が途絶える。
自分の死を実感する=生を実感する、
自分の人生を自分で完結させる、
それこそが「完璧な世界」。
そう見るべきなのだろうなあ、と
1日たって気付いた。

バレエを観るものとして
どこかで「白鳥の湖」と関連づけたいとか
バレエを絡める意味とかを見出したいから
オチに不満が出るんであって、
最初からそれが、話の飾り付けだと思えば
あのオチでOKかも。
メル・ギブソンが「パッション」で描きたかったのは
キリストの受難ではなく拷問だったように、
この映画も、エスカレートする自傷こそが
本当のテーマなんだろうなあ。
(「盲獣」のオチを思い出した)
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