きんちゃんの観劇記(ネタバレだよ)

思いつくまま、適当に。

「アイヒマン・ショー」

2016年05月01日 | 映画
アイヒマン裁判をTV番組として中継しようとする米国人達の物語。
TV番組の裏側的な部分とか(なぜ企画したのかとか)、
もう少し深く切り込むかと思っていたけど、
真実の映像が重すぎて負けてしまった印象。
フルヴィッツがアイヒマン(のアップ画像)を追う執念は良かったが、
そこに至る経緯が足りない。
ドキュメンタリー映画の監督として、
資料から「こういう人物だろう 」と仮定し、
筋を組み立て、撮影に臨む、
職人の部分がもう少し欲しかったな。
「彼は怪物ではない」という現代の結論ありきになっていたように思う。

「顔のないヒトラーたち」でもあったけど、
当時は強制収容所のことも、そこでなにがあったか知らない人が多く、
真実を語ってもあまりにも想像外で信じてもらえず、
生き延びてしまった罪悪感と、
死ななかったのは協力者だからだろうという非難で沈黙した人もいた。
それがこの裁判の中継で明らかになった。

その辺の衝撃をもっと描くのかと思ったんだけどな。
中継という同一性のマスメディアの力を視覚化するのかと思ったけど、
かなり中途半端な再現もので終わっちゃった印象。
「サウルの息子」と「アンナ・ハーレント」とセットにしてようやく成り立つような。


確か司馬遼太郎だったと思うけど、
人と同じように国も幼少期、青年期などがあり、
国力の充実する時期、最高潮時期は国によって違う。
スペインの最盛期は大航海時代、
英国はビクトリア朝というように。
という文章を見たことがある。
そういう意味では、ドイツの国力の最盛期はナチス時代で、
その叡智の結晶はナチスに捧げられたのでは、と思うときがある。
ユダヤ人虐殺は肯定できることではないけど、
あそこまで合理的に、システマチックに、漏れなく、は、
普通の組織の知恵では成し得ないと思う。

その組織力、運営力には、ただただ驚愕する。
負けるまでは滞りなく運営されていた面も含めて。
重ねて言うけど、肯定じゃないよ。驚愕ね。
エニグマの発明といい、
その力が違う時代に出現してたらどうなっていたんだろう、
と時々考える。

ナチスの会議の再現映画的なものを授業で見たことがあるんだけど、
ガスを使ったのが、大量に、しかしローコスト、という合理的な理由だった。
日本の現在の役所仕事を見ても、
それを国家として隙なく運営できるなんて、尋常じゃないよね。
賛成の意思は肘掛を拳で叩く、というのをいまだに覚えてる。

最近のナチス関係の映画を見て漠然と思っていたことを書いてみたけど、
いまいちいい言葉が見つからないな。
ま、いいや。ちょっとすっきりした。
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