デジタルリマスター版を劇場で見てきました。推理モノ、と捉えるならば、田村正和主演のTVドラマの方が面白かった。なにより動機がクリアだった。加藤剛は、若くてカッコイイんだけど(ときめいちゃったよ!)、いかんせん善人オーラが強すぎて、恩人を殺してまで、現在の生活を守りたいようには見えないんだよなあ。将来の妻・義父には、こっそり隠れて会えばいいじゃない。今西刑事だって「三木巡査が和賀の過去を公言するとは思えない」って言っているんだし。それでも宿命を断ち切りたかった、とは見えない加藤・和賀でした。正和には「過去を捨て去りたい」という「野望」が感じられたので、余計にね。それとも父と自分を引き離した三木が、今になって父に会えって言うことに対する怒りが動機?自分が大切にしていた「宿命」を断ち切った者への怒り?こちらにしても加藤剛からは見えないけど。
いま見ると、おや?と思うのは、病気の父の元から母が去ること。平成の世なら、母が子供を連れて去るんだろうなあ。でも昭和初期だから、長男を父の元に残すのが普通なんだろうなあ。そして、差別による村八分。これも、昔は普通だったんだろうなあ。
映画の前半は、ちょっと弛めな推理モノ、後半は一変して重い社会派ドラマ。一貫性がないかのように思えます。それでも、この映画が傑作だと言われるのは、役者陣の演技ではないでしょうか。特に加藤嘉(余談だが黒髪姿は初めて観た)。放浪しているときの、台詞無しの演技も泣かされますが、死ぬまでにもう一度息子に会いたい、と、20年間そればかり考えてきた彼が、成長した息子の写真を見て「こんな男は知らない」と叫ぶ。その叫びは息子に捨てられた恨みではなく、写真を持ってきた男が刑事だから、自分とは無関係でいる方が息子のためになると判断したから、他人だと言う。本当は写真に縋りつきたい、息子がどこでなにをしているか知りたい、それをすべて押さえて「知らない」と叫ぶ。その姿に涙ボロボロでした。父なりの、贖罪なのかも。あと緒方拳(老けメイクはちょっとヘン)ですね。子供が消えたときの「秀夫ーーーっ」の呼び声。悲痛で、どれだけ子供を愛し心配しているかがわかります。そして加藤剛。「犯人」としての造型が弱いけれど、「音楽家」としての表情は良かった。偽りの人生の中で、音楽の中にだけ「本当の自分」がいたんだろな。
映像には昭和の風景がたくさん。緑多い田舎町、舗装されていない道路、無人駅。東京も高いビルは少ない。ちょっと前、と思うけど、30年前なんだよなあ。役者も若いよ。島田陽子の胸は脱ぐほどではなく。渥美清や野村昭子が出ると客席にざわめきが・・・。気持ちはわかるけどTVを見ているんじゃないんだからさ。いちいち騒ぐなよ。あと「じゅんぷうまんぽ」は無いだろう。ここだけ録り直しとかできないかなあ。演出の「間」は、あんまり好きじゃない。でも、加藤嘉の演技だけでも見る価値は十分にありました。
追記
映画的には、和賀が過去を、「宿命」を断ち切るために、三木巡査を殺したと思うのですが、観賞後一日たったところで、逆に三木巡査が自分と父の「宿命」を断ち切ろうとしたために殺したのかな、とも思えてきました。和賀は、「秀夫」として以外、父に会いたくなかった。「和賀英良」として、他人になった自分が会ったら、父と自分の絆・宿命が断ち切られてしまう。だから、「過去」に「宿命」を断ち切った三木巡査ではなく、「これから」を断ち切ろうとする三木元巡査を殺したのかなあ、なんて思ったり。そうじゃなきゃ、殺さなくてもいいよね。演奏会が終わったら行く、とか、言い繕えるもんね。
愛人に自分の子供を堕胎させようとしたのは、父と自分の「宿命」に、他人を入れたくなかったのかなあ、とか。田所さん達は打算だから別にいい、ってか、自分の中ではあくまでも「他人」。と、自分の好みの方向に話を解釈するワタシ。でも、「ピアノ協奏曲『宿命』」から受け取れるのは、忘れたい「過去」じゃないよね。「永遠に途絶えることのない流れ」のように私はかんじました。辛くても恨めしくても、愛おしい、逃れることのない流れの中に、和賀は自身を置いているように見えました。そこには、父と自分しか存在していないんだろうなあ、と。それが「音楽を通して父と会っている」ということなんだろうなあ。