ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(188) 魚 橋 山 狭

2015-04-17 08:21:40 |  ・高砂市阿弥陀町

  騒音の理由は?

 前号「高砂市を歩く(187)・地蔵山の阿弥陀三尊像」で、地蔵山について次のように紹介しました。

 ・・・この「騒がしい」のには少し閉口です。山頂の阿弥陀様も、ずいぶんお困りのようです。

 おそらくこの山頂の阿弥陀様は日本で一番ウルサイ場所にある仏様ではないかと想像します。都会の真ん中のお寺でもこんな具合ではないでしょう。・・・・

   魚 橋 山 狭

 地蔵山の山頂に立てば、その騒音の理由はすぐにわかります。

 魚橋地蔵山は南へ低い山並みが続いて海岸に至っています。

 この山塊は地蔵山の北でいったん切れ、約200メートルのほどの低地があり、再び魚橋集落にそった北の石の屏風のような魚橋山が立ちはだかります。

 この、200メートルほどの場所は「山狭」で、「魚橋山狭」と名付けておきます。

 古代から播磨平野の南部(中心部)を行くには、この魚橋山狭を通過しなければなりません。

 古代では、京都・奈良と九州の太宰府を繋ぐ山陽道がここを走りました。

 山陽道は、江戸時代に脇街道・西国街道となりましたが、日本の最も大切な道としての役割は続きます。

 明治時代に至り、魚橋山狭にJRが建設されました。

 さらに、新しく国道二号線が建設されました。

 さらに、さらに現在は、姫路バイパスがはしり、高砂西ランプが設けられています。

 騒音は当然です。

 地蔵山に出かけた日の午後は雨も上がりましたが、雨雲は低くたれこめていました。

 車や鉄道の音は雲に押さえつけられ、また魚橋山にぶつかった騒音は、33メートルの地蔵山の上からおしよせているみたいでした。

 低く雲が垂れこめた日に地蔵山に登ってみませんか。すごい、騒音を体験できますゾ!・・・(no2765)

 *写真:地蔵山山麓北側(魚橋地狭)の風景(手前の高架橋・姫路バイパス、その横・JR、歩道橋のある道・国道2号線、見えないが魚橋山の麓・旧山陽道)

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高砂市を歩く(187) 地蔵山の阿弥陀三尊像

2015-04-16 07:31:56 |  ・高砂市阿弥陀町

  地蔵山の阿弥陀三尊像(阿弥陀町魚橋)

 4月13日(火)、雨も昼過ぎにはあがりました。

 地蔵山(阿弥陀町魚橋)の山頂に来ています。

 堂々とした阿弥陀三尊像(写真)があります。

 伝承ですが、その昔(室町時代中後期頃)、1人の行脚僧が立ち寄り、山の上の平岩に阿弥陀三尊を刻まれ安置されたといわれています。
 その尊像の霊験はあらたかで、特に子供の夜泣き、疳の虫(かんのむし)にご利益があると遠方からも多くの人が参拝に訪れました。

 子供を助けてくれることから、尊像を刻まれた行脚僧を地蔵菩薩の化身と信じ、この山を「地蔵山」と呼ぶようになりました。
 尊像は、一石五輪塔(室町時代中後期)、承応二年(1653)と明暦二年(1656の銘がある高さ215㎝の五輪塔と共に今もなお山の上にあります。

 なお、三尊像の前の供養台は小型石棺が利用されています。
昭和3年、篤信者達がこの聖地に四国八十八カ所霊場写しを安置し、山麓にお堂を建て現在に至っています。
   仏様も、騒音にウンザリ!

 それにしても、この山頂の「騒がしい」のには少し閉口です。

 阿弥陀様も、ずいぶんお困りのようです。

 調べて言うのではないのですが、おそらくこの山頂の阿弥陀様は日本で一ウルサイ場所にある仏様ではないかと想像します。

 都会の真ん中のお寺でもこんな具合ではないでしょう。

 これも、歴史的風景です。

 次回に、説明することにしましょう。(no2764)

 *写真:阿弥陀三尊像(室町時代中期・阿弥陀町魚橋・地蔵山山頂)

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高砂市を歩く(186) 土田家住宅(旧魚橋郵便局)

2015-04-15 08:57:01 |  ・高砂市阿弥陀町

    土田家住宅(旧魚橋郵便局)

 阿弥陀町魚橋の中ほどに、薄緑色の木造建築(写真)があります。

 高砂市阿弥陀町の土田家住宅旧魚僑郵便局舎です。

 同市編入前は、印南郡阿弥陀村で、明治維新後の1874年(1874)、役所や警察、法務局などとともに郵便局として郡の中心部に置かれました。

 当初は、土田邸を改装して業務を始め、1904(明治37)年に洋風建築で建て替えられました。

 寄せ棟の瓦屋根に下見板張りの外壁、正面1、2階には左右対称の鎧戸(よろいど)の付いた窓も設けられました。

 増改築は繰り返されましたが、1階の局舎部分は姿を変えることなく、90年近くの国道2号沿いに移転するまで地域の郵便局として親しまれていました。

 「ふるさとの懐かしい風景を残しておきたかった」と振り返るのは、県教委の依頼で市内の近代建築物を調査した一級建築士の吉田文男さん(高砂市曽根町)。

 「傷みがひどいので取り壊したい」という所有者を説得し、修復にこぎ着けました。

 そして、2004年、歴史的景観の重要性から国の登録文化財になり、「埋もれそうな地域の歴史に光を当てたい」という吉田さんの願いがかないました。

 郵便局は郵政民営化され、ずいぶん変わりました。

 この建物は日本の郵便制度の礎を伝えている貴重な建造物です。(no2763)

 *神戸新聞(2006年・11月29日)参照

 *写真:旧魚橋郵便局

 

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高砂市を歩く(185) 中世・魚橋窯跡

2015-04-14 08:15:39 |  ・高砂市阿弥陀町

   魚橋窯跡

 高砂市阿弥陀町魚橋の地蔵山の東斜面に続く台地から、すさまじいまでの量の古瓦の破片が出土しました。地元の人は、ここを「カワラッシャ」と呼んでいました。

 今は、そこは現在、東洋金属熱連工業所(高砂第二工場)が進出し、その面影を偲ぶことはできません。

  院政期:東播磨と中央政権のつながり

 これらの古瓦の研究から意外な歴史が浮かび上がってきました。

 瓦の様式からみて、ここで瓦が生産されたのは12世紀の初頭から13世紀のはじめにかけての、ほぼ100年間です。

 瓦の他に、須恵器(すえき)のほか強い火を受けた窯壁も出土しており、この台地に瓦窯があったことは確かなようです。

 つまり、古代から中世へと社会が大きく変動した100年間に限って盛んに瓦を生産したしたことは、なにを物語っているのでしょうか。

 京都・六勝寺(ろくしょうじ・りくしょうじ)は、京都東山の岡崎周辺に建てられた寺

です。

 *六勝寺については、下記の(注)をご覧ください。

 古代末期、時の専制者(天皇・上皇)の造寺等が思いのままであった時代の建造物です。

 六勝寺の研究は、昭和30年代に入って急速に進展しました。

 意外な事実が明らかとなりました。

 六勝寺の瓦には、魚橋窯跡から出土する瓦と全く模様の瓦が多数含まれていたのです。

 古瓦の研究者、今里幾次氏は魚橋窯で焼かれた瓦が六勝寺に供給されたのではないかと推測されています。

 魚橋瓦は、六勝寺だけではなく、さらに広く王城の地の大寺、宮殿に送られたようです。

 六勝寺自体が、古代末期の院政の象徴とも考えられる存在で、魚橋窯は院政とよほど深く関係していたようです。

 (注) 六勝寺:院政期、天皇や中宮の発願で鴨川東岸の白河(現左京区岡崎)の地に建立された6つの寺院。いずれも「勝」の字がつくので六勝寺(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)と総称されました。(no2762)

*神戸新聞(1981・11・26)参照

*写真:(株)東京金属熱連工業所・高砂第二工場(この場所が魚橋瓦窯跡)

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高砂市を歩く(184) 天川橋は残った

2015-04-13 07:54:32 |  ・高砂市阿弥陀町

 高砂市を歩く(178)で、石工・仲右衛門(現:高砂市阿弥陀町生石の人)と天川橋を次のように紹介しました。(「高砂市を歩く・178」と合わせてご覧ください)

  仲右衛門(パート2)  天川橋は残った

 「・・・石工・仲右衛門は、江戸時代末に活躍した石工の一人で、巨大な石材の細工を得意としたといいます。天川橋(姫路市御着)も彼(石工・仲右衛門)の作品として知られています。

 6日(月)の午後、天川橋の写真を撮りに出かけました。でも、現在の天川橋には、仲右衛門の影がありません。

 新しいコンクリートの特徴のない橋に変わっていました。ここでも歴史が一つ消えています。・・・」と。

 翌日、二重丸さんから「天川橋は、御着城跡に保存され、HPにも詳しく紹介されている・・・」と、ご連絡を頂きました。

 11日(土)、さっそくカメラを持ち撮影に出かけました。以下は、その時の写真とHPの写真および、姫路市教育委員会の説明です。

 「・・・姫路藩が文政十一年(1828)に、この地(御着城跡)より南西200mの旧西国街道の天川に架橋した。総竜山石製の太鼓橋、全長26.6m、幅4.4m、高さ約5mで橋脚5本。

 印南郡石工、瀬肋・仲右衛門の作。姫路藩儒者近藤顧一郎撰の銘文が刻まれてある。
 橋の東北詰めには高札場があった。
 昭和47年(1972)9月9日の出水で中央部橋脚が崩れ橋桁が落下したため撤去し、昭和53年(1978)10月、現在地に移設保存した。

 高さは地形に合わせて低くしてある。地形中央部の低いところは御者城の濠跡。
 平成13年2月 姫路市教育委員会」(no2761)

 *写真上:建設者(仲右衛門)の銘のある欄干、中:ありし日の天川橋、下:保存されている天川橋

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高砂市を歩く(183) 一の華表

2015-04-12 09:17:35 |  ・高砂市阿弥陀町

 *「一の華表」は高砂市米田町神爪にある鳥居ですが、石の宝殿の続きとして、カテゴリーは高砂市阿弥陀町で紹介します。

  一の華表(一の鳥居)

 宝殿に近い西国街道筋・神爪(高砂市米田町)に、社殿もないのに大きな鳥居と灯籠があります。

 延宝年間(1673~81)この地の庄屋・神吉久太夫が姫路の殿様の怒りにふれ一家断絶になろうとした時、生石神社に祈願してその難を免れたといいます。

 そのお礼の意味で奉建したものですが、知らない人から見れば神社が火事か何かで消失し、その跡地に残る鳥居としか思われないような風景です。

 鳥居の延長線上に石の宝殿・生石神社が望まれる場所にあります。

 神社から遠く離れてはいるものの「一の鳥居」といわれ、石の宝殿「一の華表」とも呼ばれています。

 しかし、都市化の激しい地域でもあり、現在、鳥居の前方には、びっしり住宅が並び、生石神社は全く見ることはできません。

 宝殿山も見えません。

   手前の燈籠は、山片蟠桃寄贈の燈籠

 手前の灯ろうは、神爪(かづめ)出身の山片蟠桃の寄贈による燈籠です。

 山片蟠桃については、「山片蟠桃物語(高砂市を歩く・66~76)」で詳しく紹介をしていますので、ご覧ください。(no2760)

 *『高砂の史情(森村勇著)』参照

 *写真:一の華表(一の鳥居)

 

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高砂市を歩く(182) 竜山石

2015-04-11 08:33:51 |  ・高砂市阿弥陀町

   竜 山 石

 石の宝殿のある宝殿山の山頂に来ています。

 高砂から加古川の市街地が一望できます。ここを古代加古川は流れていました。

 古代の加古川の主流は、現代の加古川よりも西をながれていたと想像されます。

 本流の河口は、現在の竜山石の採石場(写真)のあたりだったのでしょう。

 万葉集で歌われている加古川の三角州「ナビツシマ」が、前方にひろがり、このあたりは、加古川の河口というよりも、海がせまり湾のような地形をつくっていたようです。

 そこに、竜山石の採石場がありました。

 真壁夫妻の研究によれば「5世紀ごろの畿内大王家の古墳のほとんどは竜山石であり、竜山が5世紀の畿内勢力と密接に関係し、畿内勢力下で、この石切り場が開発されたとも考えられる」と、述べておられます。

 竜山石は、もちろん大和地方へだけではなく、はるばる九州地方にまで運ばれました。

 竜山石は、ここから出発し、水上により目的地まで運ばれ、当時の運搬用具である「修羅」に移しかえられ設置場所まで運ばれたのでしょう。

 道路の整わない当時の陸上を運ぶより、水上を運んだ方がはるかに容易に早く運べました。

 竜山石は、加工しやすい柔らかい石材(凝灰岩)でしたが、何よりも運搬に便利な川(湾)に面した絶好の場所にありました。

 竜山石・石の宝殿の詳細については『石宝殿・古代史の謎を解く(真壁忠彦・葭子著)』(神戸新聞総合出版センター)をお読みください。(no2759)

 *写真:竜山石の現在の採石場

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高砂市を歩く(181) 肥料主

2015-04-10 09:18:03 |  ・高砂市阿弥陀町

     肥 料 主

 全国には、「**王」といわれる人は、たくさんおられます。

 謙虚さを尊ぶわが国では、これらの人々は、他人がそう呼んだのであり、自ら「**王」と名乗ったのではありません。

 例外が加古川市にありました。多木久米次郎です。

 山陽電車の別府駅(加古川市別府町)の西の道を南にまっすぐに下り、別府川を渡って500mほど行けば港に出ます。

 その手前に多木浜洋館(あかがね御殿)があります。

 あかがね御殿の横に「肥料主」と刻んだ石碑があります。

 戦前は、この石碑に堂々とした多木久米次郎の像がのっていました。

 もともとは、久米次郎は自分の像に「肥料王」と刻んでいました。

 時代は戦前です。

 天皇の時代に、いくらなんでも「マズカロウ」との声が上がりました。

 そこで、久米次郎は「王」の上に「チョン」を付けてごまかしたのです。

 姑息なことを思いついたものです。

 以前、加古川市別府町の探訪で、この話を紹介しました。

 「加古川検定」にも出題された話題です。

   玉垣に刻まれた「肥料主」 

 生石神社を訪ねた時、玉垣に「肥料主」(写真)の文字をみつけました。

 浮き石への入り口を左に行き、浮き石を巡る最初の玉垣です。

 彼は、よほど「肥料王(主)」にこだわっていたようで、他のある場所の玉垣に「肥料王」の文字が残っていました。(no2758)

 *写真:玉垣に残る「肥料主」の文字(生石神社)

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高砂市を歩く(180) 山形県酒田市に生石神社の分社が

2015-04-09 12:37:39 |  ・高砂市阿弥陀町

   山形県に生石神社の分社

  『印南郡史』に「秋田県なる生石(おうしこ)は、成務天皇の十一年、当社より分霊を勧請せしものなり」と分社の存在が書かれています。

 この『印南郡誌』の記述は、氏子の間では知られていましたが、「はたして、秋田県酒田に生石神社が実在するか、否か?」については、そのままになっていました。

 昭和55年、氏子の中で捜してみようという声がおこりました。

 ためしに『印南郡誌』に記載されている宛名へ手紙を出すことになりました。

 なんと、11月中旬に返事がきました。

 差出人は、「山形県酒田市生石大字十二の木1776、生石神社宮司、生石正喜」となっています。

 さっそく、氏子19人が酒田市に出向くことになりました。

   石の宝殿より神霊を勧請 なぜ?

 なんと、酒田生石神社の祭神は高砂の生石神社と同じで、神社には、石宝殿より神霊を勧請し、成務天年、生石村を開いたという伝えが残され、生石子の神という呼び名もあり、石の宝殿を本社とする分社であることがかめられました。

 何とも不思議な話です。

 今のところ、どういうルートで酒田市に石の宝殿の分社があるのか分かりません。

 ロマンのある話です。かくれた歴史の何かがありそうです。・・・

 理由をご存知の方は一報ください。

 このニュースは、昭和56年3月15日の神戸新聞に大きく取り上げられ話題を呼びました。(no2757)

 *写真:山形県にあった生石神社の分社の本殿(神戸新聞より)

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高砂市を歩く(179) 生石神社炎上

2015-04-09 07:32:12 |  ・高砂市阿弥陀町

   生石神社炎上

 三木合戦のおさらいです。

 三木の籠城戦は、1年10ヵ月つづきました。

 三木城へのほとんどの食糧補給のルートが止まってしまいました。

 秀吉は、三木城に降伏をせまりました。

 三木城から返事が来ました。

 「ご憐憫をもって城兵を助けおかるれば、某(それがし・三木城主別所長治のこと)腹をきるべく相定め訖(おわんぬ)」という文面でした。

 天正8年(1580)年1月17日、別所氏一族が自害し、三木合戦は終わりました。

    生石神社の宮司は、神吉頼定の弟

           秀吉に反抗し、生石神社焼失

 この戦いで、三木城に味方した近隣の多くの寺院は、ほとんど焼かれました。

 生石神社もその一つです。

 宮司は、神吉城主・神吉頼定の弟でした。

 神吉城を攻めたのは、信長の長男・信忠で、この時秀吉は竹田城で毛利の軍のこうさくをしていました。

 生石神社は秀吉に対して非協力的な態度を取っていました。

 神吉城攻撃の時、秀吉は、使者を送り生石神社の南の地を借りたいと申し出たが、宮司は当然のごとく断りました。

 秀吉は、大いに怒り、弟の秀長を大将として2000の兵で生石神社を攻めました。

 神社の四方から火をかけました。

 おりからの強風に、神社はたちまちのうちに灰と化し、領地も取り上げられました。

 生石神社は、その後、氏子たちにより神社は再建されましたが、昔の威容は失われました。

 以下は、余話です。

 焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いに西軍・石田三成の方の大谷吉継の陣鐘として使用されました。

 徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市)に寄進しています。

 鐘の表面には、応永26年乙亥(1419年)「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻まれています。(no2756)

 *写真上:生石神社の前殿と本殿

  〃 下:元生石神社の鐘(現:大垣市安楽寺)

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高砂市を歩く(178) 石工・仲右衛門

2015-04-08 08:37:48 |  ・高砂市阿弥陀町

   石工・仲右衛門

 『はりま(埴岡真弓著)』で、石工・仲右衛門を紹介しています。

 その一部をお借りします。

 「・・・現在、観涛処へは加茂神社(伊保町)から登りますが、かつてはもっぱら生石神社の写真の場所から観涛処へ登りました。(*危険ですから、必ず加茂神社横の道から登るようにしてください)

 その大型の石碑に、観涛処を製作したと思われる石工の名前が「生石村雲根室仲右衛門」と刻まれています。

 彼は、江戸時代末に活躍した石工の一人で、巨大な石材の細工を得意としたといいます。

 これ以外にも、天川橋(姫路市御着)が彼の作品として知られています。

 天川橋の架橋は文政11年(1828)です。

 仲右衛門は山から石を切り出す「山取」の技術に秀でていたといいます。

 6日(月)の午後、天川橋の写真を撮りに出かけました。

 「天川橋」というのですから、天川の中心地に架かる橋のようです。

 御着城の西に天川が流れており、そのあたりで、西国街道と交差しています。

 たぶん、そこが天川橋だろうと見当をつけ車を止めると、バッチリでした。

でも、仲右衛門の影がありません。

新しいコンクリートの特徴のない橋に変わっていました。ここでも歴史が一つ消えています。

   数多くの名工たち

 仲右衛門の他に名の知れた石工として、嶋村(高砂市米田町)の西邨(にしむら)一族がいます。

 生石神社拝殿前にある、宝暦8(1758)年の石灯籠もその作品の一つです。

 嶋村の石工の作品は、姫路にも散見されます。

 播磨国総社、射楯兵主神社にある宝暦12年の石灯籠も「石工嶋村平次郎」の作です。

 その他、近辺の神社等で、生石村の清兵衛、藤兵衛、塩市村の久七、米田村の捨吉の名を見ることができます。

 これら名前が伝わっている石工以外にも、生石神社周辺には無数の名工が存在したに違いありません。(no2755)

 *『はりま(埴岡真弓著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真上:「観涛処」入り口の石碑、下:現在の天川橋

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高砂市を歩く(177) 神々のイサカイ

2015-04-07 08:52:33 |  ・高砂市阿弥陀町

     生石神社の伝承

 『峰相記(みねあいき)』という本があります。

 著書は「峰相山鶏足寺(けいそくじ)」の某僧となっていて名前はわかりませんが、鎌倉時代末期から南北朝のころまでの播磨のようすを知る貴重な本です。

 さまざまな、話が取り上げられていますが、その中に高御位・生石神社の神様の話が登場します。

 湊神社(姫路市的形)の宮司、神栄宣郷氏が『郷土志(15号)』で、鎌倉時代の民衆の信仰としてこの話を取り上げられておられます。

 本稿では、さらに平易な文にさせていただきました。

 ちょっと、ユーモラスは神様たちの物語です。

   神々のイサカイ

 石の宝殿(生石神社)の神様は、むかしから、「生石子(おおしこ)神」と呼ばれていました。

 峰相記に「陰陽二神としてあらわれたまう・・・」とあって、生石子神は女神で、高御位の神様は男神で、この二人の神様は夫婦でした。

 ところが、ここに日向大明神という、それは美しい女神が美しい侍女をたくさん伴って、加古の浜辺へご上陸になりました。

 高御位の神様は、日向大明神やお供の侍女たちの美しさにびっくりして、とうとうご自分の所へ招待されました。

 このありさまを知った生石子神は、カンカンになり承知なさるはずがありません。

 “怒り”がおさまりません。

 美しい日向大明神を、川向うの山(日岡山)へ追いやると同時に、侍女たちを別にして泊神社(現:加古川町木村)へ押し込んでしましました。

  この高御位の神と生石子の物語は、どこか俗っぽい話で、およそ神様らしくない話です。

  こんな話からも神と共に笑い、共に泣いたむかしの人々の気持ち、考え方が伝わってきそうです。(no2754)

 *『郷土志(15号)』(神栄宣郷)参照

 (注)

 昔、日岡神社(加古川市)は、「日向神社」と呼ばれていました。現在の「日岡神社」に名前を変えたのは明治3年(1870)のことです。

 

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高砂市を歩く(176) 竜山1号墳

2015-04-06 08:47:41 |  ・高砂市阿弥陀町

 4日(土)、竜山1号墳の撮影に出かけました。

 昼すぎでした。雨は上がり、桜が覆いかぶさるような「竜山1号墳」でした。

  竜山1号墳

   被葬者は、石の宝殿の製作所事情を知っている?

 高砂市教育委員会の調査によれば、山腹斜面にずり落ちるばかりに置かれていた石棺身部分のすぐ上部に小形の石室が確認されました。

 石棺の大きさは、蓋の大きさで、幅0.6メートル、長さ1.18メートル、蓋と身の高さをあわせると0.62メートルです。

 この古墳は生石神社の境内でもあり、石宝殿と無縁とは思えない位置にあります。

 この古墳の時期について、棺形から7世紀中頃までとされていますが、長さが1メートル少々の小形棺で、場合によっては火葬骨が納められていても不思議のない大きさです。

 火葬でなくとも骨化した遺体でないと納まりません。

 この種の棺で、子供を納めた事例は知られていません。大人を納めた石棺です。

 場合によると8世紀に入っている可能性もある古墳とも言われています。

 とすると、すでに奈良においては都の作られていた時代です。

 この棺に納められ、この地にわざわざ葬られた人物は、とのような生涯を送ったのでしょう。

 小さくとも竜山の伝統的な石棺に納められ、竜山の地に葬られている以上、この人物は、この地方では中心的な人物の一族であろうと想像されます。

 この古墳が作られた時には、すでに「石宝殿」が放棄されて幾年か経っていますが、この人物は石宝殿製作時を記憶している人かもしれません。

 この人物の親か祖父があの石宝殿製作工人の中心的人物であった可能性は強と想像できるのです。

楽しい話です。(no2753)

 *『高砂史(第一巻通史編)』参照

 *写真:竜山一号墳の石棺と蓋

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高砂市を歩く(175) 算額(生石神社)

2015-04-05 09:17:13 |  ・高砂市阿弥陀町

 生石神社には何回も来ています。

 もちろん、絵馬堂の算額のことも知っていました。

 昔、近所の人が、「数学の問題が解けたのは、神の加護のお陰であると算額にして神社に奉納したのだろう」とぐらいに想像していました。

 あらためて調べてみました。

    算額

 この算額は、明治9年(1876)に奉納された算額で、高砂市の指定文化財となっています。

 絵馬堂の算額は、その複製です。

 算額とは、主に江戸時代に日本で発達した数学和算の愛好家が社寺に奉納した絵馬のことです。

 長く納屋に埋もれていたのですが、昭和52年文献をたよりに調査に来られた日本数学学会員の手で発見され、日の目を見ることになりました。

 絵馬に描かれるのは、今でいう幾何学の図形問題とその回答です。

 生石神社の算額(写真)に赤・白・黒の三色で描かれた図形は、モダンなデザインのようで、その色彩と形の美しさに思わず見入ってしまいます。

 この算額は、備中井原の佐藤善一郎貞次という高名な和算家が、播磨等の弟子5人に一問ずつ解かせたものです。

 例えば、「一辺が15寸の正六角形。交差する対角線が作る正三角形中に内接円を描く。その円心直径は・・・」とあります。

 こんな問題を見る時、数学に弱い私などは目がクラクラしてしまいます。

 全国に各地の残る算額の中でも水準の高さがきわだつそうです。

 加古郡国安に小山淳次というが、生石神社への算額奉納の仲介者となっています。

 算額は他にも、国安天満宮や尾上神社に一門の算額が掲げられています。(no2752)

 *『はりま(埴岡真弓著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真:算額(生石神社)

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高砂市を歩く(174) 家紋石

2015-04-04 07:27:57 |  ・高砂市阿弥陀町

   家紋石

  生石神社にお参りする時、山麓の急な石段からお上りください。

 すると、山ろくの石の鳥居の両脇に矢羽模様の家紋を刻んだ大きな石塊を発見します。

 「家紋石(紋所石とも)」と呼ばれているものです。

 一方は「違い矢」、もう一方は「三本矢」です。

 この家紋石は、初めからここに置かれていたのではなく、元は観涛処(かんとうしょ)の北側の尾根上にありました。

 採石作業で崩れ落ちたため、昭和50年、ここに移されました。

 製作年代も制作者もはっきりしていません。何の目的で作られたのか定説はないそうです。

 ただ興味深いのは、姫路藩の竜山石専売制とかかわるものではないかと一いう説です。

 姫路藩の専売制といえば木綿が有名ですが、竜山石についても採掘に際して村々に石を上納させ、石切の許可を与える制度を敷いていました。

 寛延3年(1750)年と嘉永4(1851)年の石切鑑札が現存しています。

 「専売制になった象徴として作られたのでは」という説は説得力がありそうです。

     竜山石は藩の専売品

           勝手に砕石するべからず

 ここからは、全くの推量です。

 「ここの石は、姫路藩の許可をえている。勝手にとってはいけない。・・」と主張しているように思えるのです。

 姫路藩の専売制度というと「河合寸翁(姫路藩の家老)」が、思い浮かびます。

 河合家の家紋は鷹の羽です。

 つまり、「ここは姫路藩のご家老の許可を得ての砕石場である。勝手に砕石してはならない・・・」と主張しているようにも思えるのです。

 みなさんは、どう想像されますか。(no2751)

 *『はりま(埴岡真弓著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真:家紋石(参道正面に向かって左の三本矢)

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