上部用水と「あさがら池」(その1)
『播磨風土記』の「池の原」の記述を口語訳で読むことにします。
「・・・山の西に原があります。名は池の原と言います。池の原の名のいわれは、原の中に池があります。故に(ゆえに)、池の原と言います。・・・
この池のあった場所は、現在の阿弥陀町中筋から南池・北池のあたりのようで、記録によると、中世では伊保荘の用水池として残っていたようです。
北池村・南池村は、「あさがら池」を埋め立てた新田
時代を下ります。慶長10年(1605)は、池田輝政が高砂築城を開始した時期です。
輝政は、姫路藩の治水・灌慨のための土木工事を行って、農業生産力の増大を図っています。
加古川右岸(西側)の灌漑用水として、加古川から水を引く上部用水(うえべようすい)を整備しました。
升田村(現:加古川市東神吉)上流の上部(加古川市平荘町)で加古川から取水し、神吉村(かんきむら)を通って神爪村(かづめむら)、魚橋村、南池村を経て曽根村、魚崎村に至る本流と、神吉村から分流して米田村、塩市村から流れる支流があり、印南郡村々へ農業用水を供給しました。
北池村・南池村の開発は、この上部井堰(うえべいせき)の開発と同時に行われたのでしょう。
不安定な溜池に依存していた地域は、上部井用水で安定して灌漑ができるようになりました。
「あさから池」の名は、池は浅く、日照りですぐ枯れる池の意でした。
この地域は、「あさがら池」からの灌漑を上部井用水による灌漑に切り替えるとともに阿弥陀村や魚橋村の人々が入植し、あさがら池を埋めたて北池、南池の二村をつくりました。(no2766)
*『高砂市史(第二巻・通史近世編)』、『上部井土地改良区誌』(上部土地改良区誌編さん委員会)参照
*上部用水(魚橋・姫路バイパス出口付近)