今日から4月。あたらしい年度が始まりました。
曽根について紹介したいことが残っていますが、しばらく地域をかえて、石の宝殿から阿弥陀町を散策します。
1982年『兵庫歴史散歩(兵庫歴史教育者協議会著)』(草土文化)が出版されました。
その内、高砂市・加西市の記述を担当しました。
そこで、「石の宝殿」をスケッチ風に紹介しましたので、再掲します。
石の宝殿は、あまりにも有名で、『日本史の謎・石の宝殿(間壁忠彦・間壁葭子共著)』(六甲出版)、その他多くのすぐれた書籍が出版されています。詳しくはそちらをご覧ください。
石の宝殿(『兵庫県の歴史散歩』・草土文化)より
JR宝殿駅で降りて、南西の方向へ徒歩で30分、やがて岩肌を見せている山に出る。
これらの山の山頂近くに生石神社(おうしこじんじゃ)がある。
この神社の神体は、高さ5.7㍍、幅5㍍、奥行きは突起の部分も入れて7㍍もる大きな石の塊(写真)である。
この岩塊は、「石の宝殿」と呼ばれており、宮城県塩竈神社(しおがまじんじゃ)の塩竈、宮崎県高千穂蜂の天の逆鉾(あめのさかほ)と並んで日本三奇の一つに数えられ、古代から、さまざまに想像されてきた。
『播磨風土記』には「・・・作り石あり、形屋のごとし、長さ二丈、広さ一丈五尺、たかさもかくのごとし、名を大石と言う。
伝えていえらく、聖徳の王の御世、弓削(ゆげ)の大連(おおむらじ)の造れる岩なり・・・」としている。
『風土記』のつくられた8世紀には、すでにこの大石はつくられていたことになる。
よほど人びとの興味をひいたらしく、広重は浮世絵に、シーボルトは銅版画に、司馬江漢はスケッチにこの大石を残している。
この大石は何か?
決定的な答はまだなく、神殿説・古墳説・石棺説などさまざまである。
松本清張氏は、小説『火の路』でこの大石をとりあげ、これはゾロアスター教の拝火壇であるとの説を主張している。
果たしてどんなものであろうか。(no2748)
*『兵庫歴史散歩』(兵庫歴史教育者協議会)参照
*写真:石の宝殿(『日本史の謎・石宝殿』より)