北山新村
高御位山の麓の阿弥陀町北山・長尾・地徳を歩いてみます。
この三ヵ村の新村は慶長期の開発よりやや遅く、高御位山の南麓に広がる原野を開墾して作られた新村で、用水は溜め池にたよっていました。
江戸時代の初めは、日本の大開拓時代
江戸時代も、元禄の頃までは、「日本の大開拓時代」といわれますが、その理由を大石慎三郎氏は、次のように説明されています。
「・・・天下分け目と言われた関ヶ原野戦いを中心として、その前後約60~70年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から四代綱吉の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類例がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代である。・・・
戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また優れた治水土木家でもあった。・・・」(『江戸時代』中公新書)
つまり、戦国時代の(軍事)技術が農業に転用されたというのです。
北山新村、正保二年(1645)に開村
北山新村も、この時代に開村されています。
北山新村の開発については東阿弥陀村の植原道誓という人物が荒れ地を開墾して三町歩の新田を開き、耕作の便宜のため正保二年(1645)に新田の傍らに家を建てて移住たところ、付き従う者が十数家あり、その集落が北山新村の始まりであるといいます。
また、植原氏は、後に「駒井」氏に改めたといわれています。(『増訂印甫郡誌』)。
*『高砂市史(第二巻)、通史編・近世』参照(no2778)
*写真:北山新村開基、植原道誓の墓
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