ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(180) 山形県酒田市に生石神社の分社が

2015-04-09 12:37:39 |  ・高砂市阿弥陀町

   山形県に生石神社の分社

  『印南郡史』に「秋田県なる生石(おうしこ)は、成務天皇の十一年、当社より分霊を勧請せしものなり」と分社の存在が書かれています。

 この『印南郡誌』の記述は、氏子の間では知られていましたが、「はたして、秋田県酒田に生石神社が実在するか、否か?」については、そのままになっていました。

 昭和55年、氏子の中で捜してみようという声がおこりました。

 ためしに『印南郡誌』に記載されている宛名へ手紙を出すことになりました。

 なんと、11月中旬に返事がきました。

 差出人は、「山形県酒田市生石大字十二の木1776、生石神社宮司、生石正喜」となっています。

 さっそく、氏子19人が酒田市に出向くことになりました。

   石の宝殿より神霊を勧請 なぜ?

 なんと、酒田生石神社の祭神は高砂の生石神社と同じで、神社には、石宝殿より神霊を勧請し、成務天年、生石村を開いたという伝えが残され、生石子の神という呼び名もあり、石の宝殿を本社とする分社であることがかめられました。

 何とも不思議な話です。

 今のところ、どういうルートで酒田市に石の宝殿の分社があるのか分かりません。

 ロマンのある話です。かくれた歴史の何かがありそうです。・・・

 理由をご存知の方は一報ください。

 このニュースは、昭和56年3月15日の神戸新聞に大きく取り上げられ話題を呼びました。(no2757)

 *写真:山形県にあった生石神社の分社の本殿(神戸新聞より)

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高砂市を歩く(179) 生石神社炎上

2015-04-09 07:32:12 |  ・高砂市阿弥陀町

   生石神社炎上

 三木合戦のおさらいです。

 三木の籠城戦は、1年10ヵ月つづきました。

 三木城へのほとんどの食糧補給のルートが止まってしまいました。

 秀吉は、三木城に降伏をせまりました。

 三木城から返事が来ました。

 「ご憐憫をもって城兵を助けおかるれば、某(それがし・三木城主別所長治のこと)腹をきるべく相定め訖(おわんぬ)」という文面でした。

 天正8年(1580)年1月17日、別所氏一族が自害し、三木合戦は終わりました。

    生石神社の宮司は、神吉頼定の弟

           秀吉に反抗し、生石神社焼失

 この戦いで、三木城に味方した近隣の多くの寺院は、ほとんど焼かれました。

 生石神社もその一つです。

 宮司は、神吉城主・神吉頼定の弟でした。

 神吉城を攻めたのは、信長の長男・信忠で、この時秀吉は竹田城で毛利の軍のこうさくをしていました。

 生石神社は秀吉に対して非協力的な態度を取っていました。

 神吉城攻撃の時、秀吉は、使者を送り生石神社の南の地を借りたいと申し出たが、宮司は当然のごとく断りました。

 秀吉は、大いに怒り、弟の秀長を大将として2000の兵で生石神社を攻めました。

 神社の四方から火をかけました。

 おりからの強風に、神社はたちまちのうちに灰と化し、領地も取り上げられました。

 生石神社は、その後、氏子たちにより神社は再建されましたが、昔の威容は失われました。

 以下は、余話です。

 焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いに西軍・石田三成の方の大谷吉継の陣鐘として使用されました。

 徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市)に寄進しています。

 鐘の表面には、応永26年乙亥(1419年)「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻まれています。(no2756)

 *写真上:生石神社の前殿と本殿

  〃 下:元生石神社の鐘(現:大垣市安楽寺)

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