きんちゃんの観劇記(ネタバレだよ)

思いつくまま、適当に。

「ジーザス・クライスト=スーパースター ジャポネスクバージョン 2013」(3回目)

2013年12月13日 | 劇団四季


2013年版のJCSは本日で終了。
キヨミチは声自体は一昨日の方が出ていたけど、
芝居は今日の方が壊れていて良かった。
本人も納得のできなのか、
最後のカーテンコールで上げていた手で拳を作り振り上げた。
前半に理性が残っていたため、
「スーパースター」の爆発がもの凄かった!

ユダが冒頭で上手から群衆ダンスを見ているときに
右襟をクイっと正すのは今季から?
「このような女に、」と歌っているのにマリアを全く見ない。
ジーザスただ一点だけを見ている。
「スーパースター」で、リフトされたジーザスを連れて行け!的なところ、
打ち鳴らした手の音が響いていた。

「今宵安らかに」で去るジーザスをひたすら見て、
自分を見てくれるよう全身全霊で訴えているのに、
ジーザスはユダを全く見ることなく去って行くんだなー。
切ないな-。


神永さんは神に脱皮した気がする。
(進化ではなく、脱皮)
自分なりのジーザスを確立できたんじゃないかな。
板に乗る前に作れ、という意見もわかるけど、
演じているうちに見えてくること・わかることもあると思う。
それが生の舞台の醍醐味。

「ゆけ、すぐに去れ」は、
  ・辛い思いをさせてごめん 
  ・どーせ行くんだろう
  ・行くのはわかっている(達観)、
の、どれでもなかった。
本当は行って欲しくないんじゃないの?
ユダには側にいて欲しいんじゃないの?
と、初めて思った。こんなジーザスは初めて。

もしかして、自分が人間らしくあるためにはユダが必要で、
神の意志に沿い、十字架にかけられるために、
敢えて振り切っているのかな。
ユダは安寧の象徴なのかもなー。
あるいは楽な道を示す誘惑?
ユダがジーザスを思うより強く、
ジーザスはユダを欲しているのかも。
なんだ、私も壊れているか?

そんなジーザスの気持ちを知らずに、
ユダは自分を必要とされていないと思う。
お互いを理性の部分で切り捨てる。
それぞれの感情は重なっているのに、それを知らずにすれ違う。
お互い永遠に手の届かない場所に行く。
神様は人間を都合よく利用されたんだなあ。

私が書くと三文恋愛小説みたいになっちゃうなあ。
もっと高尚ですよー。
純愛、とか書いちゃうと、それもまた違うんだけどー。
上手く書けないね。

地に足がついているマリアは気持ちの揺れはない。
だから生き残り伝えていくのかな。

シモンとペテロが地味に仲が良い。

カヤパ様、今日は「銀貨」に聞こえた。
コメント
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