1950年代。
ブルックリンの波止場荷揚げ人足、エディ。
イタリア移民の彼はイタリア人街のアパートで
妻のビアトリス、姪キャサリンと3人で暮らしている。
あるとき、ビアトリスの親戚が
彼等を頼って密入国してくる。
兄のマルコは無口で、故郷に病気の妻と子供がいる。
弟のロドルフォは金髪で見るからに軽薄そう。
エディが掌中の珠のように溺愛してきたキャサリンと
ロドルフォが付き合うようになる。
姪には良い暮らしをさせたい、
良い男と結婚させたいエディには我慢ならない。
なにしろロドルフォは肉体労働が不得手なのに
料理を作ったり裁縫をしたりする。
まるでオカマじゃないか。
「男ではない」くせにキャサリンに近づくのは
結婚によってアメリカ市民権を得るためであると信じている。
エディの主張は強くなるばかりだが、
強くなればなるほど、彼から人は離れていく。
ついにエディは移民局に密告する。
本質的には正しく、愛情も豊かなのに
それが激しすぎて自分を自分で追い込んでしまう。
正論の中に、自分にとってそうでありたいことも
事実として盛り込んでしまい、
結果的に少しずつ人が離れていき、孤立する。
その過程に同意と反発を感じつつ
最後まで話に引きずり込まれました。
吉原さん演じるエディは、
わかるよその気持ち!の面と、
そこまで言っちゃダメだろうの面が混ぜ混ぜ。
彼の気持ちもわかる。
娘同然の姪には、よりよい未来を提供したい。
それ自体は正しいのに
なぜか上手く伝わらない。
理不尽、と受け取られてしまう。
あれが父なら娘はツラいよね。
イタリア人の家長主義が加わっているだろうから、
さらにね。
「行き過ぎ」にならず
「ほどほど」なら、皆平和なんだろうけど、
それは偽りでもあるのかも。
エディは正直すぎるんだろうなあ。
世界の境界線はあやふや。
国境はあるけど
密入国者が賃金を得ることができる。
「男がやるような仕事じゃない」ことを
鼻歌を歌いながらやる男もいる。
弁護士が唱える正義は
自分の正義と同じではない。
エディのキャサリンに対する気持ちは
「自分の女」という意識もあるだろうけど
「守らねばならない身内」の意識も混じっていると思う。
線引きは誰をも追い詰めることになる。
エディの気持ち自体はわかるけど
アメリカのマッチョ主義は私にはよくわからん。
ナルシスト指向に加え、
「神様が男を作ったのだから
男は男らしくあるのが神様の意志」
というキリスト教の思想が根底にあるとは思うけど、
それでもよくわからん。
現代の日本から見れば、
料理も裁縫もできる男は重宝されるよねー。
その辺も含め、エディは実にイヤな男でもあり、
あーもー、そこまで言うか、そこまでするか!
とイライラさせられる。
それなのに、見ずにはいられないんだなー。
それが芝居というものなんだなー。
吉原さんはいつも怒っている男が合っている。
体型的に一回り大きくなった気がするけれど
肉体労働者らしくて良いのかな。
末次さんは上手いけど
吉原さんと夫婦というのは・・・?
舞台との距離が近いだけに
その設定は少々辛かった。
他の版では「エディが姪を女としてみて
自分はそう見られない焦燥感から
姪の結婚を後押しする」ように描かれているみたいだけど
こちらはそこまででは無かったように思います。
そのぶん「家族」という面が強く出ていて
それはそれで良いのかな、と。
高橋さんは金髪ではなく茶髪だったけど
いかにもチャラい。
けど、犯罪に手を出すほどでもなく
いわゆる不良の範囲。
初めて「自分で使えるお金」を得て
有頂天になっているときに
近場に若い女がいれば
そりゃあ、寄りつくよねー。
中嶋さんはピシッと場面を締める。
弁護士さんの言い分の方が正しいのに
それでも、そんなこと言わないでー、
と思わせる「なにか」があった。
私は響人はそんなに見ていないけど、
作品の主題を客に行き渡らせる演出と、
簡素で大胆な舞台セットは好きだな。
今日の劇場の椅子は楽だった。
目黒は腰に来たよなあ。
「ボーリング行こう」がなにかを連想させると思ったら
角田部長の「暇か?」だった。
繰り返し出てくる誘いだけど
あの当時の娯楽だったんだろうな。
そういえば以前見たユダヤ人社会を描いた作品も
ブルックリンでの話だった。
ブルックリンって「移民の街」とか
「いろんな人が集まる」とか
そんなイメージの処なのかな。
その辺や移民社会のことを
もっと知っていれば
作品に対する理解も深くなるのかなあ。
【配役等】
エディ・カルポーネ:吉原光夫
ビアトリス:末次美沙緒
キャサリン:宮菜穂子
マルコ:斉藤直樹
ロドルフォ:高橋卓爾
アルフィエーリ:中嶋しゅう
清家とも子
香川大輔
洙福
羽吹諒
作:アーサー・ミラー
演出:小川絵梨子
ブルックリンの波止場荷揚げ人足、エディ。
イタリア移民の彼はイタリア人街のアパートで
妻のビアトリス、姪キャサリンと3人で暮らしている。
あるとき、ビアトリスの親戚が
彼等を頼って密入国してくる。
兄のマルコは無口で、故郷に病気の妻と子供がいる。
弟のロドルフォは金髪で見るからに軽薄そう。
エディが掌中の珠のように溺愛してきたキャサリンと
ロドルフォが付き合うようになる。
姪には良い暮らしをさせたい、
良い男と結婚させたいエディには我慢ならない。
なにしろロドルフォは肉体労働が不得手なのに
料理を作ったり裁縫をしたりする。
まるでオカマじゃないか。
「男ではない」くせにキャサリンに近づくのは
結婚によってアメリカ市民権を得るためであると信じている。
エディの主張は強くなるばかりだが、
強くなればなるほど、彼から人は離れていく。
ついにエディは移民局に密告する。
本質的には正しく、愛情も豊かなのに
それが激しすぎて自分を自分で追い込んでしまう。
正論の中に、自分にとってそうでありたいことも
事実として盛り込んでしまい、
結果的に少しずつ人が離れていき、孤立する。
その過程に同意と反発を感じつつ
最後まで話に引きずり込まれました。
吉原さん演じるエディは、
わかるよその気持ち!の面と、
そこまで言っちゃダメだろうの面が混ぜ混ぜ。
彼の気持ちもわかる。
娘同然の姪には、よりよい未来を提供したい。
それ自体は正しいのに
なぜか上手く伝わらない。
理不尽、と受け取られてしまう。
あれが父なら娘はツラいよね。
イタリア人の家長主義が加わっているだろうから、
さらにね。
「行き過ぎ」にならず
「ほどほど」なら、皆平和なんだろうけど、
それは偽りでもあるのかも。
エディは正直すぎるんだろうなあ。
世界の境界線はあやふや。
国境はあるけど
密入国者が賃金を得ることができる。
「男がやるような仕事じゃない」ことを
鼻歌を歌いながらやる男もいる。
弁護士が唱える正義は
自分の正義と同じではない。
エディのキャサリンに対する気持ちは
「自分の女」という意識もあるだろうけど
「守らねばならない身内」の意識も混じっていると思う。
線引きは誰をも追い詰めることになる。
エディの気持ち自体はわかるけど
アメリカのマッチョ主義は私にはよくわからん。
ナルシスト指向に加え、
「神様が男を作ったのだから
男は男らしくあるのが神様の意志」
というキリスト教の思想が根底にあるとは思うけど、
それでもよくわからん。
現代の日本から見れば、
料理も裁縫もできる男は重宝されるよねー。
その辺も含め、エディは実にイヤな男でもあり、
あーもー、そこまで言うか、そこまでするか!
とイライラさせられる。
それなのに、見ずにはいられないんだなー。
それが芝居というものなんだなー。
吉原さんはいつも怒っている男が合っている。
体型的に一回り大きくなった気がするけれど
肉体労働者らしくて良いのかな。
末次さんは上手いけど
吉原さんと夫婦というのは・・・?
舞台との距離が近いだけに
その設定は少々辛かった。
他の版では「エディが姪を女としてみて
自分はそう見られない焦燥感から
姪の結婚を後押しする」ように描かれているみたいだけど
こちらはそこまででは無かったように思います。
そのぶん「家族」という面が強く出ていて
それはそれで良いのかな、と。
高橋さんは金髪ではなく茶髪だったけど
いかにもチャラい。
けど、犯罪に手を出すほどでもなく
いわゆる不良の範囲。
初めて「自分で使えるお金」を得て
有頂天になっているときに
近場に若い女がいれば
そりゃあ、寄りつくよねー。
中嶋さんはピシッと場面を締める。
弁護士さんの言い分の方が正しいのに
それでも、そんなこと言わないでー、
と思わせる「なにか」があった。
私は響人はそんなに見ていないけど、
作品の主題を客に行き渡らせる演出と、
簡素で大胆な舞台セットは好きだな。
今日の劇場の椅子は楽だった。
目黒は腰に来たよなあ。
「ボーリング行こう」がなにかを連想させると思ったら
角田部長の「暇か?」だった。
繰り返し出てくる誘いだけど
あの当時の娯楽だったんだろうな。
そういえば以前見たユダヤ人社会を描いた作品も
ブルックリンでの話だった。
ブルックリンって「移民の街」とか
「いろんな人が集まる」とか
そんなイメージの処なのかな。
その辺や移民社会のことを
もっと知っていれば
作品に対する理解も深くなるのかなあ。
【配役等】
エディ・カルポーネ:吉原光夫
ビアトリス:末次美沙緒
キャサリン:宮菜穂子
マルコ:斉藤直樹
ロドルフォ:高橋卓爾
アルフィエーリ:中嶋しゅう
清家とも子
香川大輔
洙福
羽吹諒
作:アーサー・ミラー
演出:小川絵梨子