私の主張・ひとりの日本人として

新聞やテレビの報道で特に偏向マスコミや反日日本人などに憤慨することが多くなり、暇な時に思いつくまま書き綴ったブログです。

日米政府で異なる基地に対する認識の差

2005年09月25日 15時57分45秒 | 偏向マスコミ
   神奈川県相模原市にある米軍相模総合補給廠に、陸上自衛隊の「緊急即応連隊」を配置する方向で日米両政府が調整に入ったことが報道されている。ご存じのように同連隊はテロ対策などのために新設するもので、当初は宇都宮駐屯地に配置する予定であったが、「部隊を常駐出来る適地があるのなら、テロの危険性が高い首都圏に置くべきだ」との声が政府内にあったことから、同補給廠へ配置する方向になったようである。

 日本側は同補給廠を使用頻度の少ない遊休施設として米側に返還を求め、その一部は返還され、神奈川県ではヘリポートを設置することを検討していると言うが、相模原市では「事実上の空き地で都市整備の妨げ」として早期返還を求めているとのことである。

 しかし、神奈川県内には陸自の普通科部隊が横須賀に配置されているだけで、災害時に即対応出来る部隊の増強を求める声も多かったことと、「緊急即応連隊」が配置されれば、防災拠点にもなることから、「遊休施設だから返還せよ」との声が少なくなるとの思惑が日米両政府で一致したのであろう。

 同補給廠はJR横浜線の相模原駅のすぐ北側にある広大な敷地を持つ基地で、ベトナム戦争当時には戦車や装甲車などの修理や補給などの拠点となったことから、修理を終えて、横浜のノースピアから艦船でベトナムに送られる戦車などの搬送を阻止するために、大きな抗議運動が行われたことを記憶している。

 確か連合赤軍による「あさま山荘事件」が起きた同じ昭和47年であったと思うが、横浜のノースピアの入り口の国道上で、当時の社会党が主導して、トレーラーに積まれた戦車などの搬送を阻止するための座り込みを行われたことがきっかけとなり、その後、数か月に及ぶ抗議運動が同補給廠付近で展開された。ゲートの前には搬送を監視するため反対派のテントが林立していたが、現在も当時も、あちこちの米軍や自衛隊の基地の前でテントを張って「監視」する連中がいるようで、テント村を作りたむろするやり方は、今でも何ら変わっていない。

 しかし、日本側が使用頻度が低いとして遊休施設と認め返還を要求するのは正しいやり方などであろうか。米政府は「平時では使用頻度は低いが、有事では前線に送る物資を備蓄しておく貴重な兵站拠点」と主張し、広範囲な返還に慎重な姿勢を示したとのことであるが、軍隊とは常に有事を想定している存在であり、基地の中にゴルフ場や野球場があったとしても、平時ではそれを楽しんでいても有事の際には、そこにテントやコンテナなどが立ち並び、様々な物資の集積場となったりするのではないか。

 かっては広大な面積があった自衛隊の演習場が「こんなに広くいらないだろう」と次第に狭められたり、演習場の中を高速道路が通ってしまい、車のライトで、夜間訓練が出来なくなったりしているそうであり、「最近は使用している様子がないようだから返還せよ」と要求する日本側と、常に有事を想定していう米側とは、だいぶ意識が違うようである。

 有事が絶対起きないとの確証があればともかく、有事になってから広大な敷地を確保して物資の備蓄などが可能であろうか。基地は一旦縮小したり、廃止すれば、再び必要になった時に元に戻すのは不可能であろう。相模総合補給廠が最近は遊休地化していることは良いことではないか。この補給廠が兵站の拠点となって活発化している状態ではないことは、日本の周辺が今のところ「平和」である証拠であろう。
(2005/09/25) 

この記事は「今日のコラム」
「日米政府で異なる基地に対する認識の差」
としてHPに掲載されていたものです。