ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(123):城山物語(26)・手代(てしろ)のお大師さん

2011-10-10 08:20:02 |  ・加古川市東志方

東志方高畑集落の東の端に小字・手代(てしろ)があります。

手代の道から少し離れたところに大師堂があり、ここに一体の弘法大師像(写真)が祀られています。

『志方郷(30)』で原豊子さんが、「手代のお大師さん」として紹介されているので、最初の部分をお借りします。

ここでも、三木合戦と結びついた物語です。

   手代のお大師さん

003・・・(中道子山城は)三木城の次に落城した。

その時、15才のお姫様をかくまってほしいと頼まれたのが手城(現代の手代)・高畑の小字の小さい城であった。

お姫様には付け人が一人ついてこられた。

お姫様は身代わりとして弘法大師の像を一体持ってこられた。

赤松城(中道子山城)には、二体の弘法大師の像があり、小さい方を手城に持参された。

このお姫様は大変信仰心厚く、毎日弘法大師を拝んでは、自分の心を慰めておられた。

世の中が落ち着いて、お姫様が帰られる時、弘法大師像をお礼として、手城に置かれて帰えられた。

それから手城も大師堂に代わって現在にいたっている。

 <蛇足>

 思いついたことを書いておきます。

 手代はもともと「手城」であったとされています。

ひょっとして、この場所に中道子山城に仕える家来がいて、構(構居)があったのかもしれません。

構居のうち少し規模の大きいのを城と呼びましたから、比較的有力な武士の館であったとも考えられます。

 もうひとつ想像してみました。先日、大師堂を訪ねました。失礼な言い方ですが「立派なお堂」ではありません。

 赤松氏は、足利方つまり南朝方ではありません。そのため「戦前の天皇制(南朝を正統とする)の中で、質素に祀り続けられたのではないだろうか」とも想像しました。

 勝手な想像です。

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