きょうも『志方町誌』からの転載です。
中道子山城の伝承(4)
十 戸 の 村
城主のお姫様が大切な用事があって遠方へ出られることがあった。
帰ってから気がつくと、大切な銀のかんざしが紛失している。
さあたいへん、それは亡き母上のかたみの品で、いつも頭につけていたたいせつな品であった。
びっくりしたお姫様は、もう夕暮れになっていたけれども、ひとりでそのかんざしを探しに、いま自分の通ってきた道をとってかえした。
だんだん暗くなってくる。
その上、羽柴の軍勢が攻めこんできている時であり、おそろしくなったお姫様はある村まで来た時、村の人々に「どうかこの村で、しばらくかくまってください」と頼んだ。
村の人たちは同情をしたけれども、なんといっても後難がおそろしい。
とうとうこの申し出をことわってしまった。
「なんという情けない人たちであろう。こんな無情な人たちの村は、これからさき決してさかえるものではない」とお姫様は、まっ暗な道を大切なかんざしもさがしあてずに、お城へ引きかえしました。
その後、まもなく城も落ち、お姫様も井戸に身を投げて死んでしまった。
不思議なことに、当時十戸であったその村は、それからというものは、一戸ふえると一戸へり、二戸ふえると二戸が他へ移るという風で、何十年たっても家数が増えない村になってしまった。(『志方町誌』p159より)
十戸の村の集落は東志方の「岡村」か?
この物語についてある研究者(K氏)は、「十戸の村」のモデルは岡(村)ではないだろうかと推測しておられます。
もちろん、岡(村)の方が不人情であったことをいっているのではありません。
岡村は寛永(江戸時代初期)の頃にできた村です。
ですから、「十戸の村」の物語の天正時代とは関係がありません。
ただ、岡(村)は中道子山の麓の村で、後に三木合戦の物語と次のような事情が結びついてできた伝承かもしれないとされています。
その事情とは「開村当時、岡村は十戸で土地が飽和状態で、人口が増えれば生活が苦しくなり、家は分家・別居、そして他の地域に移住しなければならなかったのかもしれない」というものです。
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