水争い
寛政六年(1794)に七つ池の水をめぐって争論がおきました。
一橋徳川氏領地である細工所・高畑・岡三ヵ所の立ち会いのこの池の水の配分は、細工所四歩、高畑四歩、岡二歩とされていました。
この時の干ばつに高畑村が細工所村を相手取って、用水の引き方が不相当だとして訴えでました。
その結果は次のようでした。
① 旱魃の時は村々役人が相談すること。
② 用水が平等に行き渡るように取り計らうこと。
③ 他のことは何事につけ三ヵ村が相談し、評議して定めること。
と、ひとまずは和解が成立しました。
しかし、寛政八年(1796)・細工所村と高畑村との間で、用水の配分について解釈に食い違いがあり再び論争となりました。
「高畑村は、細工所村がたくさんの水をとっている」というのです。
吉広村の宗左衛門らが仲介を勤め、「・・・従来の慣行を守り、双方の村役人、水役の者が立ち会って平等に用水が行き渡るようにとりはからうこと」が決められました。
水争いの解決は「内済」で
水争いで、新しい水利秩序ができあがると、その運営に幕府・藩は原則的には介入しませんでした。
基本的には「自らの用水は、自らの力で守り、問題は解決しなさい」という方針をとりました。
幕府・藩が新しい水利秩序をその後も指導をするとなると膨大な事務になるし、また間違った判断をした場合、農民の不満を藩・幕府が背負うことになります。
それに何よりも、当事者の納得の解決が一番良い解決方法であることを藩・幕府はよく知っていました。
とはいうものの、用水の争いはしばしば発生しました。
その全てを、問題のおきた集落間で解決できたわけではありませんが、水慣行の争論は、原則として集落間で解決することが求められました。
*『加古川市史(第二巻)』参照
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