神吉城の戦い
信長の命令で、上月城から秀吉軍は軍を引いた。
そしてその軍が東播磨に押し寄せたのである。
『播磨灘物語』は、それぞれの戦争を詳細に書いているが、神吉城の戦い・志方の戦いについては詳細に語っていない。
最初から、結果が分か過ぎていた戦いであったであるのかもしれない。
なにせ、神吉城に押し寄せた信長の軍勢は三万であり、神吉軍は二千であった。戦力において十五分の一である。
勝てる方法がみつからない。
司馬氏が語る神吉城の戦いのようすを読んでみたい。
『播磨灘物語』が語る神吉城の戦い
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三木城に籠る播州兵たちも、「こういう馬鹿な戦(いくさ)あるか」と、おもったにちがいない。
かれらは戦といえばたがいに武技と勇気と戦術を競いあう場であると思っていたであろうが、織田方のやり方はちがっていた。
三木城を包囲したままで、手出しをしないのである。
一方では三木城を囲み、一方では神吉城と志方城を攻めるのだが、その攻め方も、まず神吉城の攻撃に重点を置き、志方城については押えの人数を置き、二つの城のあいだの交通を遮断してしまう。
たとえば志方城(城兵約一千)のおさえだけのために、織田信雄の兵三千、明智光秀の兵三千を使用するという費沢さだった。さらに、織田方は海上を警戒した。
海上については、毛利氏が瀬戸内海水軍を一手ににぎっているために、制海権を得ていた。
織田方としては、毛利方が軍船をつらねて播州に兵を送りこんだり、兵糧を搬入したりすることを防ぐため、織田信澄(信長の甥)の部隊を海浜警戒にのみ使用し、兵庫から明石、高砂にかけて、びっしりと兵を配置した。
神吉城攻めについても、力で平押しに押すということをせず、城壁に接して、たかだかと櫓や望楼を築き、その上から城内を見おろして鉄砲を打ちかけ、あるいは火箭(かせん)をうちこみ、ついに城楼を焼くなどして抵抗力を殺(そ)ぎに殺いだ。
神吉城主・神吉頼定は、防戦五日目であまりに勝手のちがう敵の攻撃ぶりに気が萎え、降伏を申し出たが、織田方は許さなかった。信長から、敵将を殺せ、という命令が出ていたからである。
このため、神吉城は小城ながら二十日ほど防戦し、城主頼定の叔父藤太夫が内応して、落城した。
頼定はその場で斬られた。(天正六年・1567)七月十六日である。
以上が、神吉城の戦いである。次号では、以上の記述を検討してみたい。