私の主張・ひとりの日本人として

新聞やテレビの報道で特に偏向マスコミや反日日本人などに憤慨することが多くなり、暇な時に思いつくまま書き綴ったブログです。

好みで蔵書廃棄した司書と採択妨害する朝日新聞

2005年07月16日 21時36分36秒 | 偏向マスコミ
   平成13年8月に、千葉県船橋市立西図書館で、司書(図書館職員)が個人的な好みで、廃棄基準に達しない蔵書を多数焼却した問題があったが、その蔵書とは「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーらもので、司書は「つくる会」への反感から行ったようである。  

 この問題が明るみになると著書を廃棄された評論家、西尾幹二氏や岡崎久彦氏、作家の井沢元彦氏らが「不当な廃棄だ」として訴訟を起こし、同市に慰謝料などを求めていたが、一審の東京地裁と二審の東京高裁は著者側の請求を退けていたので、最高裁の判決を注目していたところ「著者の利益を侵害した」とする初めての判断を示し、二審判決を破棄、東京高裁に審理を差し戻したとのことである。

 言論表現の自由が絡む問題であるだけに、今回の判決を注目していたが、妥当な判断と言えるであろう。最高裁は「廃棄は司書(図書館職員)が『つくる会』や賛同者への反感から行ったもので、違法である」としており、公正であるべき公立図書館において、司書の個人的な好みで、購入する書籍を決めたり、廃棄されてしまったのではたまらない。

 図書館には様々の分野や見方の蔵書があるのが正しい姿なのであり、司書の個人的な好みで蔵書が置かれている状態では、そこを訪れる地域の人々の知識を修養する機会を奪いかねない、

 わが家から車で10分位の所に市立図書館があるが、廃棄基準に達した蔵書については、年に何回か無料で市民に譲り渡す日があり、無料であるために当日は非常に混雑をしている。この船橋市立西図書館の司書も個人的な好みではなく、上司の監督のもと廃棄基準に達した蔵書を選別し、廃棄せず、市民に無料で譲り渡せば何ら問題にはならなかったであろう。

 公立図書館とは、例えば「南京大虐殺はあった」という本の横に、大虐殺を否定する本が置いてある状態が正常なのであり、訪れる地域の人々が、その異なる見方の本をいずれも読めるようにしておくのが役割と言える。

 朝日新聞は、今回の最高裁判決を受けて「蔵書廃棄 自由の番人でいる重さ」との社説を掲げているが、この司書の行ったことは言論表現の自由に抵触する重大な暴挙であるにも関わらず、何ら批判を加えておらず、わざわざ朝日新聞に言われなくても、普通の国民なら既に理解している当たり前のようなことを書いているのである。

 「多様な本を誰もがたやすく手に取って読むことができる社会。お互いに言葉や文字で堂々と批判しあえる社会。そんな社会を守りたいと思う。」「つくる会の関係者らの著作が図書館から消えていいとは思わない。」「本を守り、一人ひとりの内面の自由を守ることが、図書館の自由を守ることにもつながっていく。」と誰にでも言える一般論を書いているが、では朝日新聞が「つくる会」の教科書の採択を「近現代史を日本に都合よく見ようとする歴史観で貫かれ、教室で使うにはふさわしくない」との朝日が唱える主張で、支那や韓国にご注進までして妨害していることと、今回に社説は矛盾するではないか。その証拠に採択を妨害するプロ市民の暴力的行動を好意的に捉えて報道しているかである。

 朝日には、この司書を本当は擁護したいのが本心ではないだろうか。「新しい歴史教科書をつくる会の人達は偏向しており、その教科書を教室で使用するのは相応しくいない」と考えているであろうから、であるから、その著書を廃棄したと知って喜んだかも知れない。朝日が言う「相応しくいない教科書」とは、朝日の好みに沿わないからで、だから採択を妨害している訳であり、この司書とやっていることは同じようなものである。
(2005/07/16)

この記事は「今日のコラム」
「好みで蔵書廃棄した司書と採択妨害する朝日新聞」
としてHPに掲載されていたものです。


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