*以下の文章は『学童疎開追想』ではなく、妙正寺(志方町横大路)に疎開された小川正さんが『神戸校九十年』(神戸小学校同窓会発行:1974)に投稿された文章です。
集団疎開で志方村へ
小川 正(昭和八年三月二十日生)
疎開するよういわれ、僕は末っ子で集団疎開に廻され、西志方村(横大路)の妙正寺へ行った。
腹がへった
食糧も段々と不足して、お粥が常食であった。
疎開先きの田舎の子は銀飯で、まちの子はおかゆ腹! と田舎の子からよく泣かされた。
お寺だったので朝夕のお勤めのお経を唱えてからでないとご飯は食べられなかった。
育ちざかりの頃なので食べたい一心で、学校の帰りみち、畦に大豆ができているのをそっと持ちかえり、夜皆が寝てから火鉢の上で、一粒ひとつぶ焼いて食べた。
ミカンの皮までも焼いて食べ、口の中に入れて毒でないものはみな食べた。
あさましい気持だが、今の子供に話しても信用してくれないだろう。
「お寝しょう」で、ふとんがにおったこともありました
夜中に眼をさまして泣く子、寝小便する子、はずかしいから、そのままふとんをたたんでかくすので、後からものすごくにおう。
すぐに干せばいいんだが、格構が悪い気持はよくわかる。
戦争が激しくなり、僕等はいつ神戸へ帰れるのと、毎日、毎日心淋しい日が続いた。
面会に来てくれる両親も物資不足で僕らの好きな甘いものも手にはいらなかった。
両親に逢えば余計帰りたくなり淋しさが一層つのる。・・・・
(以下略)
*写真:妙正寺(志方町横大路)