六年、三年の男子は印南郡西志方村へ、五年、四年は志方村へ、女子生徒はそれより姫路よりの曽根、御着に出かけた。 ,
出発の当日は我々学童はそれほど悲しいとも思わなかった。
丁度戦争激化のため中止になった「伊勢まいり」の一泊修学旅行のかわり位にしか考えていなかった。
それに何しろ悪友、良友大勢で担任の先生に引率されて行くのが何より心強かった。
お国のためとはいえ、九才から十二才までの我が子を手離し、終期の明確でない別離の生活を強いられた父兄の気持がどんなに悲しいものか、当時の私には推測することもできなかった。
野兎狩り
疎開先の西志方では、六年、三年の男子がそれぞれ二班に分かれ、公会堂・妙正寺に分宿することになり、そこから西志方村の国民学校(現:加古川市立西志方小学校)へと通学した。
食事は公会堂で全が揃って頂き、入浴は妙正寺の生徒は山門を入った右側の風呂に入り、私たち公会堂の班は、二人一組となり近隣の民家へ隔日に貰い風呂をした。民宿ならぬ民浴であった。
両親と離別しての生活も、一日、二日は興奮気味で楽しかったが、日増しに淋しく、空腹も手伝って、神戸の方を向いて両親や兄弟を思い出して泣く日も多くなった。
・・・・・両校生徒融和を図るため角力大会、運動会、それに合同授業も一、二回実施された。
共同行事の一つに野兎狩りがあった。
何時の頃か忘れたが寒い頃であった。山の斜面に頂上から山裾まで網を張り、私達が勢手になって一列縦隊で網の方へ追いつめて行く。
頂上の方で誰かの「あっ、兎だ。」との叫び声が聞えるとほとんど同時に、一匹の兎が物凄い速さで我々の前を通過した。ところが、そこが混成チームの弱さで、神戸の生徒と西志方の生徒との間隔が少し離れ過ぎていた。
兎もさる者でその間を、あっという間に走り抜けた。当日の兎狩りは、野兎を見ただけで収獲はゼロ。
兎を逃がしたことで神戸の我々は「動作が鈍い、憶病だ」とさんざん失態をなじられた。
神戸の学童頼むに足らずと考えたのか、現地の生徒だけで第二回目の兎狩りが行われ、この時は、我々はお呼びでなかった。
ところが相憎く第二回目も収獲はゼロ。それを聞いた我々は「それ見た事か、第一回目の失敗も我々神戸の学童だけ罪ではないぞ」と話し合い、冤罪が晴れた思いだった。
当時の西志方村の先生方は本当に情け深い方々で、疎開児童に、「どうしても兎汁を馳走してやりたい」の一念から、学校の飼い兎をして我々に供して下さった。
兎汁の味は本当に複雑で、今だに忘れられない。
*写真:集団疎開中の神戸校(現:神戸市立神戸小学校)の学童(妙正寺山門前で)
前2列は、当時の3年生、後ろ列は、当時の6年生
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