ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

集団疎開(10):お父さんが来た

2013-03-20 07:24:16 |  ・加古川の戦争

  神戸小学校の志方への集団疎開は、妙正寺(志方町横大路)ともう一ヵ寺、観音寺(志方町志方町・しかたちょう、しかたまち)の二ヶ寺でした。

 観音寺での集団疎開児童の体験を文集『学童疎開追想』にみることにします。

お父さんが来た           2年 上田 登

Ed2691a0・・・・七月の暑い盛りの日、授業中に浜田先生が「上田!お父さんが来られたよ。授業はよいから逢ってきなさい」と・・・

予想もせぬ父の来訪に言葉もでないほどうれしかった。

父は内地召集で戦闘帽・ゲートル姿だったと覚えています。

公会堂より少し離れた畑の中の大きな石に、腰をかけて二時間ほど二人きりで嬉しい時間を過ごしました。

 父が持参したものは、今でもよく記憶しています。

パン、乾パン、麦の煎ったもの、それと色鉛筆。父が帰る時には不思議に涙は出ませんでしたが、私の学童疎開中、最も嬉しい一日で今でも克明におぼえております。

 疎開中の生活で思い出す事は、いつも空腹だった事。少し寂しかった事。

 お寺の本堂の石段に並んで座り、シラミを潰した事。公会堂の庭で上級生が、バリカンで、頭をかってくれた事。志方村の北部に少年通信兵の訓練校があった事。畑で芋を堀り生で食べて叱られた事、等々・・・。

    終戦、そして集団疎開が終わった

八月十五日の終戦後、親がむかえに来る様になり、残留者がどんどん滅ってまいりました。

しかし、いつか神戸に帰れる安心感で、それ以後は気持も落着きました。                               秋に入り中町公会堂の仲間も十人位になり、家へ帰れる日を一日千秋の思いで待っておりました。

・・・・                                             

(十一月下旬)引率され帰神、(空襲で家は焼けたので)諏訪山小学校の音楽室に一時落ち着きました。

数日後、父が迎えに来てくれました。

再度山の仮り住いに両親、祖母、兄弟妹と家族が揃いました。とても不思議で、テレクサイ感じでした。         

志方から出した私の手紙は母がすべて記念に保存して居りますが、母が長期入院で、保管場所が判りません。

疎開前に母が、葉書の表書き(住所:当時は神戸市神戸区・宛名)をして、私に持たせました。

私が書いた文章はいつも同じで「お父さん、お母さん、お元気ですか、僕も元気です・・・」「帰りたい、逢いに来て欲しい」は書けませんでした。

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