(前号の東中弘吉氏の思い出の続きです)
待ち遠しかった炊事当番 6年 東中弘吉
つらかった疎開の生活の中にも楽しい日が平等に順番に廻ってくるしかけになっていた。
炊事当番の日である。
その日は、該当の生徒は朝から顔が生き生きしていた。
当時給食の食器はすり鉢型の素焼きの丼鉢で、もちろんご飯は盛り切り飯であった。
ところが何故かこのすり鉢型の丼が総学童数より八つ程不足しており、その不足分だけ学童が持って来た丸みのある、見るからに丼鉢が使用された。
これらは、すり鉢型のものより約三割多く入り、中でも紺色で松の絵が焼付けられたジャンボ丼は五割近くも多く入ったと思う。
食事の為に公会堂へ入るとその日の炊事当番が誰であるか一目瞭然であった。
炊事当番の席にはちゃんと大きな丼があり、それに山盛りに御飯が盛られていた。
丼鉢についてまた珍現象があった。
大型の丼鉢は、確か炊事当番の人数より二、三個余分にあり、それが又誰の席に置かれているかが、当時の私達の小さな社会関係の一面を現わしていた。
その日の炊事当番と仲の良い友人の席、ボス的存在の生徒の席、勉強の良く出来る指導者の席等、恩を売ったり返したり、管理したり管理されたり、丼の位置一つで、当時の年若い我々のインフォーマルな管理体形の一面をうかがい知ることができた。
田中様ありがとうございました
食物の点で私にとってもっと有難い裏話がある。
さきに触れた民浴(みんよく)である。二人一組で民家に貰い風呂に行ったが、私は三年生の五十嵐君とペアになった。
隔日に公会堂の裏手の田中真之様宅へ出かけた。
このご家庭は遺家族で、おばあさんと、戦争未亡人、二年生の真之君の三人家族であった。
私が五十嵐君と二人で入浴している間に必ず食事か軽食の準備をして下さり、入浴後ご馳走になった。
食べ残りがあれば、餅、芋、豆などは紙袋に入れてお土産として持たせて下さった。
あまりに我々を歓待し、優遇して下さるので、お孫さんの真之君が却って羨む位であった。
同じように民浴に行った友人の中には、疎開の子と白眼視され、入浴も遠慮勝ちであった者も少くなかった。
それを思うと、私と五十嵐君とは実に恵まれていて、よい家庭に配属されたものだ。(以下略)